家に帰るまでが修学旅行です。一時間前に聞いた担任の言葉が耳に蘇る。家に帰るまで構文。帰るまで気を抜くな、と言う当たり前の注意が、いつの間にこのような変遷を遂げたのだろうか。中学生なんて、どうせどんな言い回しをしたって聞くはずがないのに。
子供染みた、ありふれた反抗期に逃げたくなる程度には、踊は途方に暮れていた。家に帰るまでが修学旅行です、と大人は言うけれど、帰る家がなくなっていた時のことは誰も教えてくれなかった。かつて霧城セルの本拠地だった場所は更地になっていて、誰もいなくて、レネゲイドの痕跡だけが在る。踊は、まだ修学旅行から帰れない。
くしゃみが出た。気付いたらコオロギの涼しい鳴き声が響いていて、月が上っていた。思わず腕をさする。体が冷え切っていた。
どうやらしばらくここで立ち尽くしていたようだった。この、何も残っていない土地で。
何をしたら良いのか分からなかったのだ。レネゲイドの使い方ならわかる、ジュッテもピルエットもできる、セルで行われていた研究のことは最近少しだけ分かってきた。だが、保護者やセルメンバーに見守られて育ってきた踊は、多くの子どもがそうであるように、生き延びる術を知らなかった。
親戚、という二文字が頭に浮かぶ。しかし、FHセルに属していた両親に、果たして頼れるような親戚などいるのだろうか? 警察に保護してもらうことも考えたが、FHは公権力との相性が悪い。セルの研究に深く関わっていたわけではないが、補導される可能性もなくはない。あるいは、警察内部にあるというレネゲイド担当部署に回されて、最終的にUGNに辿り着く可能性が高かった。UGNではレネゲイドの力の行使に制限がかかりそうだし、何より理念が気に入らない。もっと軽やかに生きていきたい踊にとって、UGNは出来る限り避けたい選択だった。とはいえ、今はそんなことを言っている場合ではないのかもしれない。
次の選択によって、人生が大きく変わる。判断を助けてくれる大人はいない。
オーヴァードであれば、こういう境遇の子供はたくさんいるのだろう。なんなら、踊よりも小さな子供がもっと大変な目に遭っているという話も聞いたことがある。だが、いくら新鮮味がなく、ありふれたぬるい話であっても、今の踊にとっては文字通り一大事だった。
困ったな、と他人事のように考える。あまりに突然のことで、そして初めてのことで、どうにも現実感がない。理屈では重大な選択だと分かっているものの、思考が追いつかず、夕飯を選ぶような気軽さでしか考えが進まないのだ。もっと慎重にならなければ。でも、どこまで考慮したら慎重に考えたことになる?
そうして、考えがまとまらないまま、また少し時が過ぎる。人生の選択の前に、差し迫った問題として今夜どこで過ごすかを考えた方がいいのかもしれない、と思い至った頃、場違いなほど軽やかな会話が辺りに響き渡る。夜の静けさが、蜘蛛の子を散らすように消えていく。
「え、ボス、本当にここで合ってます? またガセ掴まされたんじゃないですか?」
「いやいや、ここだって! まあ、確かに何もないけど……」
「……夜の散歩、楽しかったですねえ」
「煉哉くん、バカにしてる?」
「してないですよ〜」
「……」
一人は黒いサングラスで目が隠れており、もう一人は重たい前髪で目が隠れている。明るく、そして不審な二人組だった。
それよりも気になるのは会話の内容だった。この場所に用があるような、何かを探しているかのような口ぶり。彼らの目的地が本当に合っているのであれば、彼らが探しているのは、もしかして。
「あの、霧城セルに……何か用ですか」
咄嗟に口に出してから、なんて迂闊なことを言ってしまったのかと驚きすらした。もしこの人たちがUGNだったら、敵対するセルだったら、あるいは霧城セルを潰した張本人だったら。彼らの素性が分からない以上、こちらから情報を渡すのは危険だ。最悪の場合、戦闘すら起こりうる。
それでも、踊は声をかけてしまった。思い出話なんかできないかもしれない、だけど、その存在を知っているかもしれない人たちを逃したくなかった。逃すくらいなら、とまで考えて、その先は棄却する。
二人がこちらを向く。どこを見ているのか分からない風貌が恐ろしい。この人たちが悪い人たちだったらどうしよう、という年相応の恐れが踊の頭を過ぎる。これは、正真正銘、人生の賭けだ。
夜風の冷たさで、頰が熱を帯びていることに気付く。頭上で星が一つ、瞬いた。
そして、年の近そうな前髪の彼が口を開く。
「え、君、セルの子?」
「そ……んな感じ、です」
果たしてセルの一員だと認めてもらえていたのだろうか。内心の煩悶が滲んだ回答。それを汲んでか汲まずか、彼はサングラスの仲間に「やっぱ合ってたじゃ〜ん!」と明るい調子で返す。そして質問が重ねられていく。
「セルリーダーにちょっと話があるんだけどさ、案内してもらえる?」
「……あ、えっと」
言葉が詰まる。案内なんて、私の方こそして欲しい、と踊は思う。もしまだ、どこかにいるのなら。
「もう、多分いないです」
「……というと?」
「ここ、に霧城セルがあったんですけど、修学旅行だったんです、さっき帰ってきたところで、そしたら何にもなくなってて、多分、みんな……」
その先の言葉は喉につかえてしまったし、多分言う必要もなかった。前髪とサングラスの奇妙な二人は、要領を得ない踊の言葉をそのままに受け止めて、顔を見合わせている。
そして、彼らはこちらに向き直る。依然として瞳は隠れているのに、踊は二人分の視線に絡め取られたような気分だった。
「じゃ、君一人ってこと?」
先ほどより少し落ち着いたトーンだった。踊は頷く。すると、前髪の彼はサングラスの仲間の方へ視線を移した。
「煉哉くんさ」
「空き部屋ありますよ、片付けないといけないけど」
「話が早くて助かるなあ!」
二人の会話はテンポ良くすぐに終わり、再び彼は踊に言葉をかける。
「今夜過ごす場所ある?」
「どうしようかなって……」
「うちにおいでよ、部屋は煉哉くんが片付けてくれるって!」
「ボス?」
踊が返事をする前に、二人は言い合いを始めてしまった。テンポが良く、軽やかな口喧嘩が繰り広げられている。
どういうつもりで手を差し伸べてきたのかは分からない。もしかしたら本当は悪い人たちで、踊をこれから被験体にでもするのかもしれない。それでも、一晩の宿を当たり前のように提供しようとしてくれた人たちを、疑いたくはなかった。だって、踊はまだ中学生なのだ。
結果として、踊は賭けに勝ったと言える。親戚でも警察でもUGNでもない、初めて出会った怪しい二人組という選択肢。リスクを取らなければ、最上のリターンは得られないのが世の常だ。
あの日の夜、初めて食べたトマト鍋の味には本当に感動したのだが、それもすっかり日常になってしまった。そんなことを回想しながら、踊は自分の取り分を鍋から掬う。
「ちょっと、久多良木、モッツァレラかかってるとこ取りすぎじゃない? 僕の分ちゃんと残してよね、聞いてる?」
「チーズは溶けちゃうから、元から無いのと一緒」
「そんなわけないだろ」
リーダーからの苦情を受け、おたまの行先をすこし変更する。踊はチーズが好きで、かつてトマト鍋にモッツァレラを入れるよう提案したのも踊だった。今ではすっかり定番と化し、また争いの火種ともなって久しい。
キッチンにいる我がセルのシェフから、取り分け中の学生たちへ声がかかった。
「お二人さん、今日の締めはどうします?」
「パスタ!」
「リゾット」
美しく意見が割れる。
「あ〜、じゃんけんでもしてもらって……」
「煉哉さんはどっちがいいの?」
「俺はラーメンがいいです」
そしてじゃんけんの参加者も増える。今夜の踊はかなりリゾットが食べたい。全然麺の気分じゃない、絶対に勝つ、と気を引き締める。
ミラージュセルで過ごした日々も随分と長くなった。踊は胸を張ってミラージュセルの一員だと言えるし、料理に注文だって付けられるようになった。
それでも二人はまだ踊のことをどこかで子供扱いしている節がある。それが気に食わない。いつの日か絶対に、対等な土俵でやり合ってやる、という野望を踊は密かに胸に抱いていた。だって、踊はもう高校生なのだ。
差し当たっては、目の前の鍋の締めじゃんけんに勝たねばならなかった。今夜のリゾットと、そしていつかの対等な勝負のために、いざ。
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