狛江が自宅に戻ったのは二十三時過ぎだった。最近にしては早い方だ。電気をつけるのが面倒で、真っ暗な廊下をそのまま進む。ドアを開けると散らかった部屋が目に入る。忙しいことを言い訳にしたくはないが、改めて見渡すと思わずため息が出てしまう。
適当に買って来たもので腹を満たし、手近なところだけでもと思いゴミをまとめた。明日も早くから情報共有のための会議が入っている。今日は早めに寝てしまった方がいいかもしれない。そう考えているとスマートフォンからコール音が響いた。
テーブルの上で充電器を挿しっぱなしにしていたもので、今持ち歩いている端末ではない。
画面を見れば「非通知」と表示されている。時刻は二十三時三十二分。
北の任務で使用したスマートフォンだった。
普段は電源を入れておらず、昨夜たまたま充電器に挿したのだ。それが今、鳴っていた。この番号を知っているものは限られている。
コール音はしばらく鳴り続け、やがて止んだ。
知らずに詰めていた息を吐く。何故出なかったのだろうかと自問自答する。
こんな時間の非通知なんてただの悪戯電話だ。だから出なかった。果たしてそうだろうか。
なぜ北の任務が終わったあと、すぐに端末を初期化し返却しなかったのか。念のために、あるいは自分でも意識しないうちに微かな繋がりを残しておきたかったのだろうか。
目をつぶると、脳裏にあの真っ白な姿が浮かんだ気がした。
次の日は十九時前に帰ることができた。業務は滞りなくこなしたはずだが、上司の神酒島に早く帰れと言われたためだ。
夕方頃、眉根を寄せて狛江を呼び止めた。
「なんかあんた今日変だよ。具合でも悪いわけ? だったらさっさと帰りな」
と、神酒島はにべもなく言った。
何か反論しようと開けた口に対して、ふんと鼻を鳴らされる。
「いいから。万全の状態じゃないあんたにいられても困る」
「俺はそんなにいつもと違うだろうか」
「そうだね、結構」
「……」
押し黙った狛江を、神酒島はそれ以上追求しなかった。自分としては普段通りに過ごしたはずなのに、何が違ったのだろうか。狛江は心の中で首をひねりつつ、荷物をまとめ出口へと向かう。すると後ろから神酒島の声がかかった。
「あ、ひとつだけ。前に情緒育てなよって言ったこと覚えてる?」
「? ああ。あったな」
「あのあとなんか考えた?」
振り返ると、神酒島はコーヒーを啜っていた。しばし考えて狛江は返答する。
「映画館に行って、ランキングが上のものから順に見てみた」
「……。うん、まぁ、敢えて突っ込まないでおくわ。で、なんか分かった?」
「難しいな、と。何を考えているのか、どうして欲しいのか、はっきり分からない」
その言葉に、神酒島は大きくため息をついた。コーヒーの湯気が合わせて揺れる。
「難易度高すぎるのかなー」
「『寂しかった?』という女の問いかけに対して、男が『君こそ寂しかっただろう』と言う。それを聞いて女は笑うんだ。なぜだ?」
狛江は真剣な顔で問いかけた。その表情が難問に困っている子どものようで、神酒島はやれやれとまた一つため息をついた。
「あんたはあれだね、小学生の国語ドリルからやった方がいいかもね」
「それは……どういう意味だ?」
「『このとき主人公はどう感じたでしょうか』っていう問題やった方がいいってハナシ」
「ふむ……帰りに本屋にでも寄るとしよう」
「うーん」
神酒島はしばし頭を抱えたあと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ま、でも。分かろうとしようって気持ちができただけでも成長じゃないか」
「そうか」
「ほら、帰った帰った。本屋は寄らなくていいから、そのまま帰りな」
夕食を終え、シャワーを済ませて部屋を見渡す。充電器に挿しっぱなしにしてあるスマートフォンに目がいった。
予感があったのかもしれない。
コール音が鳴った。
時刻は二十三時三十二分。非通知の着信は昨日と全く同じだった。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。三回目のコールを聞いたのち、「通話」にスライドさせた。
「誰だ」
一拍おいて聞こえてきたのは妙に楽しげな声。
「……あ、今日は出てくれるんだねぇ。俺のこと、もう忘れちゃったのかい?」
「翻」
「ん。よかった、忘れられてたらちょっと悲しいなぁと思っていたんだよねえ」
「なんの用だ」
「つれないなぁ。もう少し、お喋りしてくれてもいいんじゃない?」
声色は楽しそうに聞こえるが、彼が今どんな表情なのかを想像するのは難しかった。あの一件後連絡を取ったことはなく、どこで何をしているのかも分からなかった。西のトップである神籬葵が長い間留守にしているというのは把握していたが、翻明暗も同行しているのかどうかは判明していなかったのだ。葵はどうやら国外に出ており、未だ帰国していない。もし同行しているのであれば、彼は今どこからかけて来ているのだろうか。
狛江が返答に迷い無言でいると、向こうも特に言葉を続けなかった。沈黙ののち、電話越しに微かに波の音が聞こえてくる。
「お前、今どこにいるんだ」
「んー? さあ、どこでしょうか」
ざくざくと砂を踏みしめるような音のあと、波の音が強くなる。
「時差が一時間らしいから、君の方が俺より先の未来にいるんだろうね」
ざあ、と大きく波音が届く。
現在追っている武装集団のリーダーが、先日秘密裏に国外へ出た。もともと海外を拠点としている犯罪グループで、西との繋がりが濃厚と見られている。もし、神籬葵との接触が目的であるならば。
「あのライオン、近くで見ると思った以上に大きくてびっくりしたよ」
翻の言葉を聞きながら、何故この情報を自分に伝えてき来ているのか、という疑問が湧く。問い詰めたいところだが、相手が目の前にいない以上取れる行動が少なすぎる。翻はいつでも電話を切ることができるのだから。
「楽しんでいるようでよかったな」
「全然心こもってない言い方じゃん~」
再度の沈黙が訪れ、波の音だけが響く。
「寂しかったかい?」
翻の突然の言葉に、狛江は思わず目を瞬いた。
「それはどういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
先程までの声色と、何かが変化する。けれどその何かがよく分からなかった。怒鳴っている訳でもきつい言い方でもないのだから、怒りではないだろう。機嫌を損ねているのとも違うように感じる。では、何なのだろう。
逡巡した後、狛江は口を開く。
「……お前こそ、寂しかったのではないのか」
しばらくの沈黙。
「え、ちょっとびっくりするなぁ。君ってそんなこと言うタイプだった?」
「いや……なんとなくだ」
翻の声色が更に変わったのが分かる。けれど、次になんと言ったらいいのかは分からなかった。
「あ、もう帰ってきちゃうから、またね」
その言葉のあと電話は切れた。狛江はそのまま「通話終了」と表示されている画面をぼんやりと見つめる。
何故だか、翻が今どんな顔をしていたのか、知りたい気がした。
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