ななき
2026-06-17 20:04:43
8385文字
Public 吸死
 

初恋は月に捧ぐ

(ドラロナ) 
初恋はロナルド君であること100%保証の話。
.
子供時代をやり直すことになったドラルクが、もう一度同じ結論にいたるまで。

 彼がくる夜は予感がする。決まって月が綺麗な夜だから。
 いつでも空を見られるように、ドラルクは子供部屋から一番近い廊下の窓をずっと開け放しにしている。といっても子供の手では開けるのが難しくて、父にお願いして開けて貰ったのだけれど。踏み台にのって空を見上げる。今夜の月も大層美しいので、ドラルク期待でいっぱいだった。
 
 そわそわしながら使い魔とすごしていれば、ギィッと玄関の扉が開く音がした。
「あー、こんばんは。ドラルクくん、いる?」
 いまだにどこかぎこちない、待ち人の低いがよく通る声が響いてドラルクは読みかけの本を――気もそぞろでさっぱり読めてなどいなかったが――閉じて、ジョンを抱き上げ部屋を飛び出した。
 たどり着いた玄関ホール。ドアの間からは月光がさしていて、そしてその中にその人が立っている。
「ロナルドさん!!」
 キラキラと光を振りまく銀の髪がかすかに揺れ、大好きな青色がドラルクを映して破顔する。
 勢いのまま飛びつきそうになって、おっといけない、と数歩前で急ブレーキ。マントの裾を持って、ジョンと一緒に父から習った丁寧な礼をひとつ。
「我が城に迷い込みし愚かな秘薬の運び手よ……ええっと……いらっしゃい」
「うん、無理すんな」
「してませんー」
 きれいな人に、あの、と両手を伸ばす。はいはい、と少し呆れたような返事だったが、赤い上着の腕に望み通り抱き上げられた。間近で瞳を覗くことのできるこの距離がドラルクは大好きだ。
 プラチナの睫で縁取られた目を細めてロナルドが笑う。
「また大きくなったな」
「ロナルドさんの薬のおかげですね」
 くふん、と鼻を鳴らす。そうかそりゃ良かったときれいな人がまた笑うので、ドラルクも一緒に笑った。
 

 ドラルクにとって世界とは、城と本、祖父と両親とジョン。それだけだった。
 そこに飛び込んできたのが、彼。ロナルドだ。初めて彼が城に現れたのは、ドラルクがいつも通り独りきりで留守番していた夜だった。
……こんばんは」
 扉のきしみと一緒に聞こえた躊躇いがちな声には聞き覚えが無かった。
 月光を背に、赤い上着と大きな帽子。
 見知らぬ人間に驚いて死んだドラルクに慌てながら、そっと塵を集めて、早く戻れよ、と呟いた。その寂しい音に、何とかしなければ、と急いで身体を戻した。史上最速で。
 次にしたのは質問責めだ。目をしろくろさせながら、見知らぬ人はひとつひとつ答えてくれた。
 ロナルドという名前。父の知り合いだということ。そしてなんとドラルクのための薬を持ってきたのだという。
「薬屋さん、ですか?」
「本業は別だけどな。今はそう思っていいぜ」
 微笑んだロナルドは、窓から入る月光の雫を振りまき、ふたつ嵌まった青い瞳は山奥の神秘的な湖のようだった。こんなにきれいな人間がいるんだ、とぼうっとしてしまったのを覚えている。
 まもなく帰宅した父と、難しい顔をして話していたロナルドは、それからしばしば城を訪れるようになった。
 もう、ずっと前のような気がする、忘れようもない思い出だ。
 
 
 今日のロナルドは、せっかくきたのに薬をジョンに渡すとすぐ帰ってしまった。時間があればお茶の席についてくれるのに今日は忙しいらしい。つまらない、と顔に出ていたのか、またな、と大きな手で頭をなでてくれたので、今のドラルクはそれでも結構ご機嫌だ。トクトクと胸がうるさい。
「初恋ってやつでしょう? これ」
 窓からロナルドの帰っていった方角を飽きもせずながめ、彼の触れた自分の髪に触れながら、最愛にして唯一の使い魔にいつものように同意を求める。生まれた時から・・・・・・・一緒のジョンは、ドラルクよりもうんと年上のはずで、そして外を旅したことがあるから色んなことを知っている。
「ヌゥン……
 そのジョンは、何故かドラルクの小さな恋に同意してくれない。反対するわけでもないけれど、曖昧にはぐらかす。どうかなぁ、と。
「もう。いいけどね、別に。私が子供なのは分かってるし」
 月に手をかざす。丸みのあるシルエット。大きくて分厚くて固い線で縁取られたロナルドの手とはまるで違っていて、ドラルクは口を尖らせた。
「早く大人になりたいなぁ」
 父や祖父ほど背が高くなった自分を想像する。……想像の中ですら、ロナルドほど分厚い身体の自分は描けないのが悔しいが。
 大きくなって、彼の隣に並んで、それで一緒にまた楽しく街を……また、街、を?
 あれ、と思考を止めたところに、ジョンが水のグラスと粉薬の包みを差し出した。大人になるならお薬飲むのが近道だよ、と言われてちょっとだけ顔をしかめる。
 この薬がドラルクはちょっと苦手だ。そもそも液体以外を口にするのが得意でないし、かすかだがクロゼットを開けた時のような香りがして飲み込みにくい。でも。
「これ、ロナルドさんの薬だもんね」
 そうだよ、とジョンが頷く。ドラルク様のためにロナルドくんが集めてくれてるの、と。
「じゃあ……飲む」
 ごくん、と流し込めばほんの少し身体が重くなってほんの少し暖かくなった気がした。

 ロナルドの訪問は不定期で、しかし頻度は高い。しょっちゅうといってもいい。毎回、また大きくなったな、と嬉しそうに言うので、もっと喜ばせたくてせっせと薬を飲み運動を試し(死んだ)毎食血を飲んで(これも死んだ)部屋の柱で身長を計った。
 その合間に始めた料理はドラルクの一番の楽しみになった。ジョンは色々なレシピを知っていて、それらはまるで元々ドラルクも知っていたように手に馴染むものばかり。そうして何か作るとジョンが喜んでくれる。父も母も(いつものことだけれど)褒めてくれる。何より、ロナルドが。日本風のフライドチキンを作った時など、うまいよ、とちょっと涙ぐんでまで喜んだものだから、大げさな、と笑ったりもした。

 ◇
 
 棺桶を変えた頃。ドラルクの背はロナルドの肩に届いた。そんなことは細かくしつこく計っているくせに、最近ドラルクはロナルドを避けている。恥ずかしくて、浮かれてしまって、おかしな凶暴な感情もあって、自分が何をするかわからないからだ。
 
 抱き上げてくれとはもういえない。手が触れるだけできっと心臓どころか身体ごと爆発する。
 瞳を覗き込むこともできない。今そんなことをしたら頭が真っ白になって、何も考えられないまま噛んでしまうかもしれない。
 名を呼ぶことすら難しい。宵にみた、淫靡で浅ましい夢を思い出してしまう。薬屋さん、と呼ぶのが精一杯だった。
 つまりは、恋だ。ふわふわと笑っていられた頃とは違う。身勝手で、欲と願望と懇願にまみれた、恋だ。

 挨拶だけして引っ込んだドラルクに不思議そうにしたロナルドが、「ジョン、ちょっとだけいいか?」と呼び止めていた。扉の陰で、私のジョンなのに、とむくれ、その一方で、名を呼ばれていいなぁ、なんてジョンにすら焼き餅を焼いた。……重傷の自覚はあった。
「あいつどうしたの。具合わりい?」
「ヌヌンヌ」
「思春期ぃ……? 」
 あいつ、なんて親しい相手のような呼称で浮かれて焼き餅はどうでも良くなってしまった。

 ロナルドは、今も青年のままだ。人間であるのに。もうそんな違和感ですらどうでもいい。
 彼が月で、彼は薔薇で、彼こそドラルクの世界の鍵だった。


「うあっ」
 起きあがろうとしたドラルクはゴンっと棺桶の蓋に頭をぶつけて死んだ。
 暗がりの中で、慎重に身体を戻す。頭の上と足元に、あまりスペースがない気配がした。これは変な位置で身体を作ると死に直しになりかねない。
 戻った身体は、ほとんど棺桶ぴったりになった。今度こそ、蓋を開ける。
「棺桶の作り直しだな。お父様に言わないと」
 最近、ドラルクはさらに背が伸びた。
 母はとうに越したが父には届かず、ロナルドにも僅か足りない。しかしもうとっくに大人の身長であるし、なんとなくこのあたりで身長は止まる気が自身でもしていた。
「やあジョン、おはよう」
「ヌヌヌヌ」
 身支度で腕を通すシャツもトラウザーズも、なぜか、このサイズが必要になるとわかっていたかのように枚数が揃っていた。

「さて」
 子供の頃から変わらぬ習慣。南の窓を開ける。この窓を、自分で開け閉めできるようになったのはいつだったか。
 天気は快晴。月の光が美しい。今日は、きっと彼が来る。
「フルコースでも作るか。いや」
 ふわふわと卵ののったオムライスにしよう。フルコースなんてあの男の柄ではないし、黄色と赤の層を大きくすくって口に運ぶロナルドはきっと可愛らしい。デザートにバナナフリッターをつけたら機嫌もよくなるかも知れない。……いや不安になってきた。唐揚げもつけよう。
「あの頑固者め。頷かせてみせるからな」
「ヌー!」
 オー!と応援してくれる使い魔をひと撫でして、ドラルクはキッチンへと向かう。 
 
 先日。ドラルクは盛大に失恋した。
 
 積もった想いをどうしようもなくなって、一輪、薔薇を差し出して世界で一番美しい青に愛を乞うた。どうか、恋人になってほしいと。
 ロマンチストの気がある彼が少しでも傾いてくれたらいいと、満月と満開の薔薇園を臨むバルコニーを選んだ。本当はヒマワリが良かったが季節を待てそうになかったのだ。
 ドラルクの子供の頃からのたったひとりの〝特別〟は、初めて会ったときと同じく月光の雫を振りまきながらドラルクの言葉を聞いていた。
 驚いて目を丸くし、笑いとばそうとして失敗し、頬を染めてそっぽを向く様は大変にときめかされるものだった。大好きです、と幾度となく伝えては受け流されていた子供の頃とは違う反応に、これは悪くない手応え、と勝利を確信した。しかし。
「ごめん」
 返ってきたのは拒絶だった。普段なら死んでいただろうが、ここで死んだら格好つかなさすぎると、いつ使ったかもわからないなけなしの根性で耐えた。
「理由を、きいても?」
 彼は困惑したように口を開閉し、小さく溜め息をついてから教えてくれた。
「好きな人がいる」
 今度は死んだ。死ぬしかなかった。
 塵山になったドラルクにむかってロナルドは言い訳のように言葉を落とす。
「そいつは、今はその。いないというか、遠くにいるというか、なんだけど、いつかは、もうすぐには会えるはずで、だから俺は」
 柔らかそうな頬にも、月光が作る影の落ちた目許にも、匂い立つような赤が透けていた。その中でドラルクが愛している青色が、戸惑いの翳りと不安で複雑に揺らぐ。

 その頼りなさにドラルクは悟った。とうとうロナルドより年上になったと悟ってしまった。この人間は、若く、経験も浅く、不安定さを抱えた若者でしかない。
 ドラルクの、吸血鬼生かけてのは、まだ危なっかしい若木であったらしい。

 無理やり、意地だけで復活する。
 子供のころからずっと遠い所にあって見上げるのが当然だった青が、すぐそこにあることが愉快だった。
「私にしろ」
「え」
 手首を掴み、覗き込んだ瞳に嫌悪の色はない。振り払われず手の中にある温度に浮かれそうになりながら、宣戦布告。
「そんな遠くにいて約束のひとつもくれないようなやつより、私を選べ、若造」
「おまえ、若造って」
「まあいい、時間はあるんだ。選ばせてみせるからな」
 その言葉に、なぜかロナルドが動揺した。
 ドラルクを殺さない器用さで腕を振り払われる。
「時間なんかねえよ! お前は! もうすぐ治るんだから!」
 それがなんだというのだろう。ドラルクがずっと望んでいたことでもある。なにも問題ない。
「治る? 治るなら尚更いいじゃないか。君の街へ行ける。ずっと行ってみたかった」
……
 下を向いてしまったロナルドの上には、相変わらず月光が銀の輪を作っていた。でも、伏せた視線も、無言も、気にくわない。
 どうしてそんな困ったような顔をする。なぜ隠す。
「薬は次が最後だ。そしたらきっと全部わかる。お前も、さっきのを忘れろっていうぜ、絶対」
 らしくもない、小さな声。
 半分くらいは意味が分からなかったが、くしゃっと潰れた声が哀れで思わず抱きしめようと再度腕を掴んで……死んだ。というか殺された。不慮の事故以外でロナルドに殺されたのはこれが初めてだった。
 
 意識を取り戻した時にはロナルドは居なくて、ジョンが寄り添ってくれていた。何がどうなったか、ジョンは当然知っているのだろう。その優しい丸さをなぞりながら呟く。
「諦めが悪いのが私だ。そうだろう、ジョン」
「ヌン」
「諦めてなど、やるものか」
 
 ドラルクはイヤなことがあれば、即忘れて楽しいことだけ考えてきた。それなのに、ロナルドに拒絶された、という事実からどうしても思考を逸らせない。ジクジクと胸の底が痛んだ。ごめん、の声が茨の棘よりも心を刺し続けて抜けてくれない。
 吸血鬼の執着を、ドラルクは初めてにして苦しいほど感じていた。

  
 そして、今日。
 赤いジャケットの薬屋は、いつものように月光と夜の風と共にやってきた。
……来たぜ」
「やあ、いらっしゃい」
 音をさせずにマントをさばいて、親しい友人へのごく軽い礼をひとつ。子供の頃よりはよほど様になっているはずだ。格好つけてみせたいのはずっと変わらないのだけれど。
「今日はご馳走なんだけどね、その前にお茶を……
 そこまで口にして、ロナルドが気まずげに立ち尽くしていることに気づいた。
「喜ぶくらいしたまえ。袖にされたからって変なものを入れたりはしないぞ」
「それは疑ってねえよ」
 即答だ。顔には出さずに内心でだけにんまりする。このチョロ甘さが自分にだけ向けられているものだったらいいのに。
「応接間へどうぞ、薬屋君。ロビーは寒いのでね」
 しかし、やはり青年は動かない。何か言おうとしている気配だけはするので、ドラルクは待ってみることにした。恋しい人のためならスースーする玄関にいるのだって耐えられる。ちょっとぐらいなら。
「今日は、薬だけ置きにきた」
 まあ、そうだろうな。予想の範囲だったので、驚きもせず肩をすくめる。
「そういわず友人としてお茶くらい付き合いたまえ。気まずい原因の私が言うのもなんだがね」
 ドラルクの言葉に、ロナルドは渋い顔をした。
「友人」
「それくらいはいいだろう? なにしろ子供の頃からの付き合いだ」
「お前、本当にまだなんにも思い出せてねえのか」
 その不安げな瞳にギョッとして、努めて冷静を装った。頑なになられるのも、ここでさらに拒絶されるのも御免だった。
「思い出す、って何をだ」
「全部」
 瞠目する。全部、ときた。

 ヌー、と愛らしい声がして、ドラルクが下をむけばジョンがそっと足元に寄り添っていた。
「ジョンは、私が何を忘れているか知ってるんだね?」
 頷いた小さな頭を撫でる。ならば。
「薬を。最後だと言っていただろう」
 ドラルクが差し出した白手袋に包まれた手のひらに、黒い手袋が、小瓶を置く。今、指が触れないように放しやがったな、こいつ。
……。いつもより多くないか」
「うるせー! 計ってみたら増えちゃったんだよ!!いいからもう全部飲め!」
 目をつり上げて怒鳴る様に、思わず笑う。気まずげにそらされる視線より、その方がずっとずっとよかった。

 好きだな、と胸の中の痛みが呟く。
 隣に居られたらいいのに。この表情も、まだ見たことのない表情も、全部見ていられたならどんなに幸せだろう。

「さすがにこの量は水がいるな。キッチンにおいで、薬屋君」
 やっぱりどこか不安げな青年に、ドラルクは笑いかけた。
「それから。――忘れろなんて言わないと誓おう」
 は、と間抜けな声を出して固まったロナルドの首から顔へジワジワと赤みが上って行く。正しく伝わったことを確認できたドラルクは満足した。なんだ、やっぱり私のこと好きなんじゃないか。悪いね、誰だか知らないし知りたくもない元・想い人さん。
 キッチンへと足を進める。後ろからは慌ててついてくる気配がした。
 
「さて」
 奇妙な緊張感の漂うキッチン。恋しい人と使い魔に見守られて、薬を流し込む。あの香りが喉を通過し胃の中へ落ちた。いつものように緩やかに熱がドラルクの身体を廻りはじめる。もう199回飲んだ薬だ、慣れたもの。の、はずだった。

 ガツンと殴られたような衝撃がきた。
 記憶と記憶の間が接続される。ピースが嵌まる。せき止められていた情報が流れ出す。凍っていた記憶が解けていく。

 全部、全部戻ってきた。
 ジョンとの契約も爆破された城も新横浜の街も、赤い退治人のことも。
 
 最後に戻ってきたのは、〝こう〟なった原因。
 来るなと言われていたのに行かない訳がなかったビルの屋上。大型下等吸血鬼の不意打ち。運悪く吹いた春一番。……上半身の塵の大半が風に散ったこと。

 薬? 違う。ドラルク自身の塵だ。残った塵が体の容積を満たせなくなった。ドラルクの意識の保護のため、母の能力で小さい身体に固定し、城に留め置いた。自然治癒を待ちながら同時に散った塵を集めて薬として飲ませ疑似的に成長を――そこまで考えて、世界が回った。

「ドラ公!」「ヌヌヌヌヌヌ!」
 その呼び方、随分久しぶりだ、と嬉しくなりながらドラルクは死んだ。

◇ 

 ロナルドは、ざわざわと身を揉むような動きをする砂をジョンと並んで見守っていた。やっぱり最後の塵を渡すのは、ドラウスがいるときにすれば良かっただろうか。
 
 一年、この城にロナルドは塵を運び続けていた。あのとんでも真祖が事務所のロッカーからつなげたこの城に。ずっと夜で、時の止まったかのような「昔作った別荘」とやらが地球上にある空間なのかは怖くて聞けていない。
 早回しのように成長していく相棒を見続けた一年でもあった。無邪気に懐かれて照れくさいやら、腹立つやら、慣れた憎まれ口が無いことが寂しくて寂しいことに動揺するやら、ロナルドの内面だけでも大変な一年であった。

 少年吸血鬼の恋心にだって、気づかないわけがなかった。でも、自分にもドラルクにも恋なんて甘ったるい感情はなかったはずだと目をそらし続けたのはロナルドだ。
 
 友人とも家族ともどれとも違っていて、ただ、お互いの名前だけがついた関係。それだけ。
 それだけ、なんて言い切れなくなっていた関係につける名前が〝恋〟でも良かったということに気がついたのは、かつてとほぼ変わらない、けれど目元がほんの少し若い青年吸血鬼に薔薇を差し出されたあの時であったけれど。

 ロナルドは、あの赤い薔薇をはっきり覚えている。月に照らされた瑞々しい花弁の色も、鮮やかな香りも。未練といっていいような鋭さで、覚えている。
 
 受け取ってしまおうか、とよっぽど揺れたことも。
 記憶が戻ったらきっ手酷く振られる。だとしても、すぐ振られるのは経験済みだ。だったらほんの一時、きれいな名前をもらってもいいんじゃないか。はあんな小さい頃から、真っ直ぐに大好きだと言ってくれていたのだし。
 
 しかし、薔薇を手に緊張した面持ちの吸血鬼の棺桶は、この城の奥まった部屋にある。幾度となく繰り返した喧嘩も覚えていない。事務所にドラム式洗濯機が来た顛末を知らない。ロナルドが数えるのも馬鹿らしいほど自分を殺していることすら、知らないのだ。

 あの薔薇を拒絶するのが、どんなに辛かったかは、きっとドラルク本人にだって言えないままだろう。

 砂山は、まだ蠢くばかりで吸血鬼が現れる気配はない。
「戻れねえのか?」
 何か不都合があったかと不安になる。両親か祖父か、とにかく連絡しようとスマホをとりだしたが、この城では電波が届かないことを思い出した。慌てて事務所側へ戻ろうと背を向けた時、ずぁ、と聞き慣れた音がして腕を掴まれた。ぎり、と痛いほど。
「忘れろなんて誰がいうか。誓ってなくたって言うわけがないわバカ造が」
 
 天窓を通して月光が降る。その光の下、バルコニーの再現のような必死さで、相棒であり家族であり、それ以上だった男が言う。
「全っ部思い出したからな。これで、君の『好きな人』とやらは戻ってきたはずだ。だから」
 一度言葉を切ったのは、どんな感情からだろう。 
「恋人になってよ、ロナルド君」
 
「薔薇、くれたら考えてやるよ」
 その表情は、退治人と吸血鬼とアルマジロだけが知っている。