どうよ、と出された古びた湯呑みは、過去の住人が置いていったものだろうか。茶渋の汚れをセスキ水だなんだいういまどきの叡智での洗剤ではなく、物理的な力でもって削ぎ落して真っ白い瀬戸物の生地が見えているがまだらの残るそこには、緑色に澄んだ新茶がふわりと香った。
手揉み茶だよ、いや本当のコーキューなやつじゃなくてよ、俺がそこの葉っぱをむしってきて、せいろに乗っけた後で手で揉んだやつ。
アスファルトに転がる茶の実を拾って帰っただけのがいつの間にやら小さな木になったのだという。また、いまどき電子レンジもない古寺の庫裏にあるのは使い込まれた中華鍋とせいろだけだが、その二つがあれば、焼く煮る蒸す揚げる全部できるのだと。そんなことを竜馬は言った、そしてにかりと笑った。
嘗ては隼人が前触れ無く訪ねてみれば、ひるひなかからの連日の酒で、道場を清めることはおろか自身が風呂に入るのさえ疎かになり、爪の中まで黒く汚れた垢達磨が板張りの本堂に転がっていた。酒の匂いが籠るとこいつらが天井に出やすくてよ、など目を合わさず呟く戦友の傍らの床にはそうやって酒気を嗅いで天井まで這って来ては彼の上にぽとり落ちて、頭や胴を叩き潰された百足の死体がしろいはらわたをはみ出させ干からびて張り付いてもいた。
*
武蔵が自分のせいで消えたからもうそこにはいられないなどと誰も受け入れがたいことを彼が言って逃げ去った先の数年は、そんな風に無為に溶けるように費やされたと見えた。
一人残された隼人が別の仕事から半死半生で帰還しパイロット生命の終わりを告げられた後には―――それが竜馬の耳にも届いた頃には担当者も一時期彼の姿を見失い、ICUのベッドの上でうつらうつら半目を開けて混濁した意識のままの隼人が「戻って」くるのとどちらが先が、はたまたどちらもこのまま戻って来ないのではないかと人々の気を揉ませもした。
*
見舞いは一度もなかったが、隼人久しぶりの廃寺訪問には胴着姿の知らぬ顔がいくたりか山門前で雑事をこなしていて、この裏山に自殺しに入って来るのを叩き出していたら何人か居付いちまってよ、行くとこねえって。などと彼に答える、相変わらずのみすぼらしい胴着には変わりがないが、こざっぱりとした竜馬がいた。
そんな連中と出くわすなんて、まさかお前自身が、と問いただそうかと思った隼人はしかしやめた。
代わりに本堂前の敷地の一隅で水神を奉る小さな池に掛けられていた丸太の橋が壊れているのを、先日ようやく手放した杖なしで見に行く。そこには、古びた鐘楼から下ろされて本堂隅の虫の死体が散らばる床の上にあったはずの鐘が、水の底に沈んでいるのが見えた。
と、体重移動に未だ残る拙さが彼にだけは見て取れていたのか、隼人の体がどこかぐらついたら支えようと構えていたらしい背後の「すぐに両腕を延ばせる」力強い気配がしゅるしゅると消え、気まずそうな小僧じみたものになった
「ああ、あのな、申し分けねえんだが」
この町は県内で一番貧乏でよ、古い鐘の引き上げなんぞに業者は呼べねえって言われちまって、俺等の人力でもどうにもならねえ、お前の方から手配してもらえねえか
「なんでこうなった」
「お前が死にかけて、目を覚ましても意識トロトロになってるって聞いた時に俺が放り込んだ」
「なんのために」
「なんにもならねえのがわかってやってたら止まらなくなってよ」
外傷経由来の脳へのダメージもあるとのことで正常な判断力が戻っていないと、ベッドに縛り付けられたままの戦友の画像は求めて見せてもらったのか、彼担当者が何かしら個人的憤懣から竜馬に突きつけて見せたのだったか
竜馬が少年期に叩き込まれたのは空手だけではなかったから、柔道の一人打ち込みのチューブが千切れ、手製のダミー人形が真っ二つになっても竜馬は止まれなかった。風呂の薪用の丸太を抱え上げては投げ飛ばし地面に叩きつけ、いつしか血走った目と唸り声でそれより重い丸太につかみかかることを繰り返し。最後に怒りに満ちた咆哮と形相で本堂の鐘を境内まで引摺りだし、頭上に持ち上げ水神の祠がある方へ投げたのだか、丸太を組んだ橋が十数年前の金属条を飛び散らせて砕けたのは想定外だったのか、ともあれ自分もろとも池に叩き込んだ格好になったから、竜馬自身、深い泥の層の中にしばらく足を上にして突き刺さってそのままにいた。
泥まみれの彼が裏山に分け入ったのはその後になる。
馬鹿だなと隼人が呟くと、気安い門下生(便宜上この場ではそう分類する)が寄ってきて言う
最近になってテレビ漫画で流さ……師匠そっくりなことやってましたね、『未来少年コナン』だったかな、爺ちゃんが殺されて一人ぼっちになった怪力の子供が、泣くことを思い付けないみたいに凄い形相でそこいらにある重い物を
「黙れよ」
竜馬の声にしては笑みが佩いてなさすぎると隼人は感じた。
*
そうやって、互いに息だけは吹き返したのを見交わしたところでまた忙しくなった。
號を見付け、恐竜帝国とのさすがに今度こそはという決戦か、少なくとも「武蔵」以降なかった規模の大一番の後、それで新たなきな臭さはまだ感じないので、飛行計画変更を申請させ、ヘリを寄せてみたのが今日の山寺である。存在しない不明者捜索などをでっち上げて。そうすれば
おう、なんで感付いた、山菜採りにいかせたら酒とクスリ飲んで首切ったやつ見付けて帰ってきちまったえれえとこなんだよ、これ運んでくれ
俺んとこに戻って来られるのもそろそろ限界だから、県庁のいい病院にでも放り込んでやってくれよ。っそ、死体が早めに見付けてもらえるようにって、山のそんなに奥まで行かねえで切ったり吊ったり寝ようとする奴が増えちまってよ、それって自殺の名所と同じになって来たんだと冗談じゃねえ
呆れてヘリを見上げ見送れば、迎えが来るまで茶でも飲んでいけと、竜馬は戦友の肩を叩いたのが先程である。
*
あの時
もう自分の事を見たくもねえ見られたくもねえと思っても身体はまだぜんぜん生きたがっていやがる状況だったんで、こいつを黙らせる方法を「ちょいと」探しに行った気「は」するんだ。
そうしたらべそべそうるせえやつが、そいつもまだ死にたくねえ死にたくねえっていってるでかい図体をこんな山ん中まで引き摺ってきててよ、その後もしばらく頭が煮えてきて山に入れば結構な確率でそういうのにでくわして、頭に来たから死なない程度にぶん殴っては連れて帰ってた。
*
放っておけば死体になって、町が行う定期的な山の点検までうすら異臭を放つことになる荷物を背負い引きずり、枯れたまま群れ立つクマザサの中を突っ切って近道で帰ろうとすれば全身土浴びした犬のように茶色く塗れ、飛び降りた馬鹿がいないかと崖下を見に行けば山蛭がまとわりついた脹脛から赤いものがたらたらと流れ
それは「じわじわと薄汚くなっていく」、戻れなく遠ざかっていく、だがいっそそのままにするがいいと思っていた数年来の汚れとは違い、さっさと洗い落とそうとできるものだった。
焚き直すのも億劫な夏のぬるい風呂に浸かっていれば、寺の下の方から遠い花火の音がした。どん、と遠い空を震わせた音と衝撃の何分の一尺かが湯の中の自分の鳩尾のあたりでも感じ取れるのに気付いてじっとしていれば、澄ました耳にはスターマインのぱらぱらと爆ぜて散る火花の音さえ拾えて来る。湯船のなか胃の腑のあたり、内臓が近いところが水の中で、遠く爆ぜてきらめいて消える火花を遠い星のように、触れられないはずなのにありありとした触覚とともに懐かしく愛しく感じ、しくりと痛みでも飢えでもない詮無さを訴えた。ここではない、いまでもないもっと遠い花火の記憶までもが溢れた。あのときも山の上から麓の町の花火大会を見下ろし、白くけぶった夜闇に広がる音ときらめきを見上げはしなかったか―――誰かと。
せめて月の面でも見えはしないかと首を巡らせれば、厚さが不均等で、世界を少しく歪めてみせる昭和のガラスの嵌った風呂の窓には、夜の散歩のヤモリが真っ白い四肢をこちらに見せて遊ぶばかりだった。
竜馬はこの生き物の昼ひなかのありていな姿を見た事が無い、夜に小さな蛾をとらえに楽し気に窓に這う、先端がほの赤い、白い手足の他には。
死に損なった男たちが寺の庫裏の土間でわあわあひいひい騒ぐこの辺りの小さな生き物たちの中にはおそらくこのヤモリもいて、ひっくり返せばその姿にそこそこ恐ろし気か毒でも持っていそうなのだろうこいつの昼の顔は、と竜馬は思う。こんないっそ可憐なような夜の姿も見せに来る奴なのに、俺なんかはちゃんと知ってるわかってやってるのに、と。
夜の散歩のそれは一人ぼっちであるくせにやたらすずやかであるのが楽し気で、
寂しくなどないよとでもいうように
つらくないよとでも、
自分は平気だとでも
まっ白で。
また「誰か」を思い出しそうになるので、竜馬はばしゃりと顔を拭った。
*
山門下の道の先にあった村がダムに沈んで高所の山寺だけ残るももう限界集落化した結果廃寺となり、本尊も引き揚げられて久しいその周囲が適度な自殺の名所と化し、定期的に行われていた山中の捜索、搬出、供養の費用は減ったと区長と村長とやがて国会議員が彼を訪ねるに至った。
「わざわざお越しいただいちまいまして」
で、本当は俺がここに住んでるのだって、区長さんともしっかり話を通してなかった、この近隣の爺さんたちのお目こぼしに過ぎなかったところについてはちょいと後回しで頼みます。
おれが過去数年この国を襲った化け物相手に戦ってたというのは本当です、仲間の一人がおれのせいで生きたまま目の前で溶けて蒸発させられたのを全部放り出して逃げて来たのをPTSDだ傷病兵扱いだにしてもらってんのかな、あいつに
ここで道場を開こうとは思いませんでした、根を下ろす気もまだありません、違う道を行くと互いに選んだとはいえ、今は戻って助けてやるべきだと思う相手だっています、たとえおれでは録な力にならんとしても。
「ええ、戻ったところでほとんど何もしちゃあやれねえんですよ、分野と頭のできが違いすぎて。できるとすりゃあ心の支え……?ハハッ、冗談じゃねえよなあ」
「だからって、いくべきところにいけねえ奴やいきたくねえやつらが寄っかかって来てくれても、そいつはちっともあったかくなるもんじゃねえただの似たもの同士だ、マイナス足すマイナスの算数よ
盲人の盲人を導かば―――確かあいつん家の書棚のホンにも書いてあったさ」
言いつつ彼が差し入れられた酒瓶の方ではなく、ペットボトルの段ボールから出してきたままのぬるい茶は、いつ最後の渋抜き掃除をしたとも知れない古びた湯呑み茶碗で客人に出された
そんな禄に話の進まない来客が何度かあった。そのあとのうっかりまた何か胸と肩から力が抜けすぎてしまうのではというぼんやりとしたぬるい不安を彼が訴え始めたあやうい数か月と、それに続いた同「師範」の突然の下山、外出と数百キロ向こうで起きたという、戦争というには局地的すぎ、ただの殺し合いというには因縁の積み重なりすぎたそれの爆発と炎上。燃え上がってなおきれいな灰には還らず瓦礫の山がのこったという。だが或いは今度のこれこそは「終わった」のでは、そう思い願う者達もいた、戦闘停止期間がここ数か月。
建材の値段が落ち着いてきたから、道場ともなる本堂の普請をするなら今だとの報せも麓の責任者たちが持ってまた坂道を上がって来たのだという。
*
「やるのか、道場」
「看板無しの自殺未遂一時預かり所ってのはまずすぎるからよ、いくらなんでも」
ちょいと腕っぷしが強いだけの「お仲間」が勝手に住んでる塒に「ちょいと俺も軒先だけ貸してもらってる」つもりだと甘ったれさせないようにテイサイだけでも一回作っとく事にした。
「早く出てけ、帰れって俺があいつらに言える程度に見える為に掃除した感じかな」
こないだの騒ぎん時に俺の人命救助動画撮ってた奴らのおかげでアブク銭なら集まったしよ
「なんだVtuberは本格的にやらないのか」
「しねえよ」
腐ってたとこ張り替えて、障子をサッシに代えたらざまあねえこと、意志の弱え門下生が早速余った金で勝手に酒買って来やがるから、あった分の焼酎全部マムシ酒にしてやったとこだぜ
「おいお前それは」
「俺だって悪い酒癖付いちまってんだからよ
ついでにムカデも捕ってムカデ油も仕込んだから、今後ひとん家でふざけたケガしやがったら全部アレ付けるやつだな」
ムカデ油が虫の刺し傷に限らない万能薬扱いされた戦後昭和は遠くなりにけりであったが、竜馬が「切れるもんなら切ってみやがれ」と口の端を上げるのは既にリストカット常習者でも抱えているのかもしれなかった
「後はまあ貧乏暮しだけなら、ガキの頃からの日常茶飯事よ」
この連中ともどもクズになる方には行かないとこからさと彼は笑い、中華鍋で炒っていた柔らかすぎるポップコーンのようななにがしかをバター炒めにした小皿を勧める。それを白い指でつまみ上げて口にした隼人は
「こいつは美味いがうん……こいつを弟子たちに取りに行かせる修行はやめてやれよ」
「えっ、時代が悪いだのエンセーカンなんていうギマンをぶっ飛ばすにはいいやつだと思ってよ、今も退治に行かせてん…」
「だいたい蜂の子は虫嫌いならビジュアルだけで泣くと俺は思うぞ―――」
師匠ぉー、だの、刺されましたー、だの、助けてくださいーからの以下文字化が煩わしくなるような男声の悲鳴、けたたましさとこけつまろびつする気配とばたばたした靴音、それに不穏な羽音が二つ三つ先駆けて来るから彼等の会話を打ち切らせる
それでも、鳥竜館、
彼と彼がまだここにいる世界
*
ときどき、夢から覚めた時、
何かもっとろくでもない理由でここに来たような記憶があるんだ
愛する者がいる限り戦う意味があると俺はそう言われたそう信じた
だが戦いが終わって気が付けば、生き残ったのは俺と一緒に戦っていた仲間が一人きりだった
俺が守れるのはそれっぱかしだということか
トルストイの童話のパホームみたいに
口から血を吐き散らして死ぬまで走っても
俺一人に見合うのはたった一人分のいのちだったというのかそれとも
おれの愛せた者とは
あのひとりだけではなかったのかと
なあ 「 」
*
「体育会系のやるカウンセラーにしても、ひどい指導だよ」
いつか、どこかで、竜馬に向けた台詞にもどこか似た事を言いつつ
彼の する者は、渋い顔でスズメバチを叩き落した。
*How Much Land Does a Man Require?*
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