[合理主義者の鞭は名づける]
「人生、もっと、
合理的でなければね。君のような生き方は、僕にとって、
退屈そのものだよ」
それは、呂岳が愉快のために注力した研究の経過報告書を、ほめられたかったでもなく、どこか自惚れ、嬉々と見せに行ったときのことだった。そんなことは、初めてしたのだけれど。このかたみたいになりたいのだと、気負って、力を入れた実験だったものだから、つい。けれど主君は、棄てる動作どころか、受け取るわずかなカロリーさえ無駄に思い、報告書を受け取りもせず、そうぴしゃりと打ち据えたのだ。
あの日放たれた
雷を、呂岳は、今でも覚えている。名に聞きし雷公鞭を、ああ、この主君はいつの間にか有していたろうか? あるいは、いつものあの鞭に、なにかオプションをつけたろうか。一見、いや一聞すると、解しにくい、おこがましく言えば理不尽の疑問を抱かせ得る稲光だ。高みからの距離ぶん幾らか遅れて、雷鳴が凍み渡る。灼けるほどの急冷が、衝撃波で時を止めたようだ。世界が、色と音をとめた。再び動き出すそこに、ああ、初めていきるのだと、馬鹿げて真実、
生を識った。胎動というものは、どうも、悲観主義者にも平等に一丁前の躍動を与えるものらしい。
主にとって、美と悦とが、生の動機のすべてである。その定まった土に通った根幹は、枝葉も大気も、一律の秩序を担うのだ。そこに在るなによりの合理は、宇宙に秩序の名を与える神だ。それは、合理性を動機に、合理性のために生きるのとは全くの別物だ。きっと、この
主は、こう言いたいのだ。
『
――全く、きみには、合理性のかけらもないね』
そしてそれは、これを意味するのだ。
『合理を理由に
動くなんて、ナンセンスにも程があるよ』
即ち、“合理的で在ること”と、“合理的で在ろうと、生きること”とは、永劫乳化の出来ぬ水と油だ。
あの日から、呂岳の
動機は、“
この主の召使いで在ること”を全てと解した。その動機のために生きるを、きっと、この
主は、ナンセンスと、せせらってもああ、絶対者として、いつくしむのだろう。
fin.
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