吾妻
2026-06-16 02:29:49
3095文字
Public アークナイツ
 

夜を越すのにふさわしい

テキ博♀ 。テキーラくんが抱き枕にされるだけ

 扉が開く音で目が覚めた。
 足音で入ってきたのが誰なのか、すぐに分かった。
 この軽妙で、独特としか表現できない足音を、聞き間違えるはずがない。
(ドクターが戻ってきたってことは、もう夜中か……
 少しだけ仮眠をとるつもりが、どうやら寝過ぎてしまったようだ。午後休を申請していたから、最悪朝まで寝ていたって構わないのだが、できればドクターが戻ってくる前に目を覚ましておきたかった。
 そうすれば、慢性的な残業で疲れ果てている恋人に、さっと温かい飲み物を提供できただろうし、なにより寝乱れた髪や耳を整える時間があったはずだ。
 好きな人の前ではいつだって、〝毛並み〟を整えておきたい。たとえ、既に情けない一面や一糸纏わぬ姿を見せ合っていたとしても、それがせめてものプライドというものだ。

 扉の閉まる音。
 マスクを外し、コートを脱ぐ音。
 聞き慣れたそれらの生活音に耳を澄ましながら、テキーラは狸寝入りを続行した。
 起きるタイミングを完全に逃してしまったうえに、彼の中のちゃっかりした悪魔がこう囁きかけてきたからだ。

 〝このまま狸寝入りしていたら、ドクターに構ってもらえるかもしれない〟――と。

 根拠のない希望的観測ではない。前例があるのだ。
 以前もドクターの部屋で仮眠をとっていた際、疲労からか部屋の主人が戻ってくるまで眠りこけていたことがあった。
 間近まで近づかれた段階で流石に目は覚めたものの、目を開くよりも先に、何か柔らかいものが瞼の上に触れてきたのだった。
 それがドクターの唇であると気づくまで、少しだけ時間がかかった。あまりに自分に都合が良すぎて、まだ夢の中にいるのかと思ったからだ。
 降って湧いた幸福に、しばらく身動きもできずにいると、今度は優しい指先が頭頂部の耳に触れてくる。
 そのまま、ゆっくりと慈しむように耳と髪の毛を撫でられて、テキーラの喜びはいよいよ最高潮に達した。
 結局、どれほど必死に堪えても、主人にはとりわけ正直な尻尾が揺れるのを堪えられず、やむなくたった今目を覚ましたふりをして起き上がり、ドクターを迎えたのだった。
 ……それが、半月ほど前のこと。

 あの幸福を再び味わえるかもしれない。
 そう思うと、ここで起き上がってしまうのは、どう考えても勿体無い。
 起き上がるのはせめて、もう少しドクターの動向を観察してから――
 初心な少年のように胸を高鳴らせ、安らかな寝息を立てているフリをしていたら、望み通りにドクターの足音が近づいてきた。
 気配はすぐそばに感じる。
 視線が注がれているのもわかる。
 だがドクターは、特にアクションを起こすことなく、しばらくじっと黙って佇んで、やがて――

「ちょうどいいところに」

 抑揚の感じられない独白を、ぽつりとこぼした。
 〝ちょうどいいところに〟?
 当惑するテキーラをよそに、ドクターはベッドに横向きに寝そべっている恋人の腕を、「よいしょ」の掛け声と共に持ち上げる。
……?)
 完全に想定外の事態に発展し、今度こそテキーラは起きるに起きられなくなった。
 唯一確かなのは、〝ドクターがすでに理性を使い果たしている〟ということだけ。そうでもなければ、こんな突拍子もない行動に出たりはしない。

 ここ数日別行動だったので、テキーラはドクターがどんな働き方をしていたのかを把握していない。が、十中八九無茶をしたに決まっている。
 まったく、目を離すとすぐこれだ。明日きちんと注意しなければ。いやいや、そんなことを考えている場合ではない。一体これはどんな状況だ?
 テキーラの片腕を持ち上げたドクターは、自身もベッドに乗り上げて、さも当然のように男の腕の中に滑り込んできた。
 さらに、持ち上げていたテキーラの片腕を、しっかりと自分の背中に回したのち、「よし」と、小さいが満足げな呟きを漏らした。
 新手の悪戯か何かと身構えていたテキーラだったが、次に聞こえてきたのが穏やかな寝息だったので、さすがにぱちりと瞼を開く。
 視界に飛び込んできたのは、腕の中で心地良さそうに眠っているドクターの姿だった。
 もう寝た? 今の一瞬で?
 疲労がピークに達していたのかもしれないが、それにしたって早すぎる。
……ドクター?」
 恐る恐る呼びかけてみても、反応はない。
 静まり返った室内には、ドクターの寝息だけが響いている。
 ドクターの手によって、わざわざその細い背に回された自分の腕。離そうと思えば離せるはずなのに、そうする気にはなれなかった。
 なぜならドクターは、この体勢が落ち着くから、腕の中に潜り込んできたはずなのだ。
 こうして彼女を腕に抱いて寝るのは初めてではない。二度目でもない。もはや両手の指でも足りないくらい何度も、共に夜を過ごしてきた。
 いつも腕の中に招くのは自分の方なので、ドクターはただ付き合ってくれているだけなのかと思っていた。でも、もしかしたら彼女も、こうやって過ごす時間を心地よく感じてくれているのかもしれない。
 そうでもなければ、自分から腕の中に潜り込んでくるだろうか? しかも、こんなに満足そうな顔をして……
(本当は、ちゃんと着替えさせたほうがいいんだろうけど……
 防護服のジャケットとボトムスを脱いだところで力尽きたらしく、ドクターは薄手の白衣一枚だ。決して睡眠に特化した服ではないので、寝心地はあまり良くないだろう。
 心身を休めるためにも、きちんとした部屋着に着替えさせたほうがいいのだろうが、眠りの浅い彼女がすっかり熟睡しているようなので、声をかけるのも躊躇われた。
「ん……
 さらに、躊躇っているテキーラの胸元に、ドクターが子猫のように頭を擦り寄せてきたから、「起こして着替えさせる」というプランは一瞬で霧散した。
 こんなによく眠っているのに、起こせるわけがない。
 幸い、平均よりも体温は高いほうだ。朝までこのまま抱き締めて、温めてあげればいいだろう。
「おやすみ、ドクター。いい夢見てね」
 起こさないようにそっと、恋人の前髪をかきあげて、やわらかな曲線を描く額にキスをする。安心しきった深呼吸が、返事のかわりに聞こえてきた。


            *


「あれ……?」
 腕の中から間の抜けた声が上がって、テキーラは再び目を覚ました。
 しっかりと下がったブラインドの隙間を貫通して、早朝特有の眩い日差しが差し込んでいる。どうやら夜が明けたらしい。
 困惑の声を上げたのは、他でもない、腕に抱いた恋人だった。見下ろせば、ドクターはまだ眠そうな目で何度かまばたきをしながら、怪訝そうな顔をしている。
 テキーラは持ち前の察しの良さを発揮して、彼女の心境を把握した。
 おそらくは、なぜ自分が恋人の腕の中で寝ていたのかがわからないのだろう。そもそも、部屋に戻ってきた記憶があるのかも怪しい。疲れがピークに達したドクターには、そういうところがある。
 いつもはあんなに頭がいい人なのに、先程からずっと思考停止して、頭の上に目一杯「?」を浮かべている。そんなドクターがたまらなく可愛くて、同時に少しだけいたずら心も湧いてきて、テキーラは昨晩と同じように、もう一度ドクターの額に優しくキスをした。
「おはようドクター、昨日はすごく大胆だったね?」
……!?」
「とっても可愛かったよ」
 腕の中のドクターが盛大に身構えるのを感じながら、テキーラは愛しい恋人の頬に自分のそれを擦り寄せた。


【おわり】