遠くから名前を呼ばれて反射的に顔を上げると、いつも着ている普段着とは異なり白シャツを着ている彼が少し小走りでこちらに向かってくるのが見えた。休日の朝、ルミナスクエアのカフェのテラス席は人もまばらで、自分の名前に反応してこちらに視線を向けた客はほとんどいない。
相手は自分の側に来ると向かいの席に自然と腰掛け、はぁ、と一息吐いてから悠真に笑いかけてきた。
「すまない、待たせたね」
「ぜーんぜん、ついさっき来たとこ」
実際は一時間も前に来ていたのだが、おくびにも出さずに笑う。だが悠真の目の前にあるカップから滑り落ちた水滴の多さや、溶け切った氷からその嘘を見抜いたのだろう、アキラは困ったように苦笑すると「何か奢ろうか」と提案してきた。
少し遅めのモーニングに舌鼓を打ち、何気ない会話をしながら悠真はアキラの装いを注意深く観察する。襟の部分だけ紺色の、清潔そうな白シャツ。デニムのジーンズは彼の足に吸い付くようにフィットして、なお余裕がある。こうして二人で出掛けることが増えて初めて知った事実だが、彼は意外と服にこだわりがあるらしい。あまり彼が選びそうにない服は妹のセンスだろうが、それでもどれもうまく着こなしている、という印象だ。
「ええと、聞いているかい? そうじろじろと見られると、落ち着かないのだけれど。その……もしかして仕事で疲れているのかな」
「え……あっ」
つい彼の話を上の空で聞いてしまった。怪訝そうな彼に慌てて頭を振る。
「いやいや。その、くだらないことなんだけどさ……あんたって結構、お洒落だよなぁって」
「ああ、なんだ。服を見ていたのか。変かな?」
「いや、よく似合ってるからこそ、の言葉だよ」
「なら良かった。君と出掛ける時は、少し気合いを入れているんだ。六課の浅羽悠真の隣に並ぶのが冴えない男だと、締まらないだろう?」
「そこはあんま気にしなくていいと思うけど……」
自分のことを『冴えない』と卑下する彼には異議を突きつけたいところだが、それよりも。つまり彼は、自分とのデートではあれこれ悩んで服を選んでいるということだ。いわゆるデート服。そう思うと今の彼の装いが特別なものに思えてきて、口元が情けなく緩みそうになる。
「そういう君は、似たような服をよく着ているね」
「好きなブランドはあるんだけどね。つい着回ししやすい服を選んじゃうのかも。ほら、デート満喫中でも呼び出しがあったら行かなきゃだし、あんまりお出掛け用とか意識して買ったことないんだよね」
肩を竦めると、仕事熱心なことだ、と揶揄われてしまった。自分のサボり癖を知っているからこその言葉だ。口を尖らせて頬杖を突き、思わず「あんたが服を選んでくれたら喜んで着るのになぁ」と試すようにぼやく。
「いいのかい?」
その弾んだ声を聞いて、すぐに悟る。これはきっと、予想以上に変なスイッチを押してしまったのだと。
「じゃあ今日は、君の服を見に行こうか」
「本気?」
「本気だとも。今までも君に対して本気じゃなかったことはないだろう」
「……でも、人の服を選ぶのって結構労力使うでしょ」
「他の人ならともかく、君だからね。任せてくれ、絶対に君に一番似合う服を探すから」
意気揚々と立ち上がった彼の目は爛々と輝いていて、退路がないことを知る。しかし、彼と出かけるのはどんな場所でも楽しいことは事実。彼の予想以上のやる気に悪い予感を覚えながら、悠真も諦めの息を吐いてゆっくりと腰を上げた。
上から下までバッチリコーディネートしてくれた服を着て、鏡の前で自分の姿を確認する。サイズはぴったりだし、肌触りも悪くはない。だが似合っているかと言われたらどうだろう。自分の容姿をそこまで客観的に見たことがないため、いまいち自信がないまま試着室のカーテンを開ける。
「はい。これはどう?」
「うーん……」
左手を顎に当て、反対側の手でスマホを構えて。カシャ、と狭い店内にシャッター音が響く。
「うん、似合うね」
「じゃあこれで決まり?」
「いや、似合うと『一番似合う』は違うから」
「まだ着るの? これでもう五着目なんだけど」
先ほどから店員の視線が刺さっている気がする。迷惑客に向けるものとはどことなく温度が違うそれを直視できず、悠真はそっと目を逸らす。だがアキラはその空気に気付いているのかいないのか、スマホとこちらを何度も見比べて首を傾げている。
「もう少しラフなジャケットの方がいいかな……そのシャツを活かすなら……えぇと、色は」
「お客様」
ついに店員の男性がアキラに呼びかけたのを見て、悠真の背筋に冷たいものが走った。ほぼ試着室を占領している状況だ、それは確かに迷惑だろうと身構える悠真の前で、店員はアキラにジャケットを一着そっと差し出した。
「そのコーデなら、こちらのジャケットはいかがですか?」
「なるほど、あえて黒で落ち着かせるのか。名案だ」
――店員もグルだった。にっこにこで頷いて、そそ、と後退していく。その後はどこか誇らしげな顔で静かにガッツポーズをしていた。なんでだ。
「アキラくーん……この調子だと日が暮れちゃうよー……」
「せっかく君という顔もスタイルもいいモデルがいるんだ。試せるだけ試さないと損だろう」
そう言ってジャケットを押し付けてきたアキラに、着てみて、と視線で促される。ここにきてようやく自分が着せ替え人形にされていることを理解したが、とても楽しそうな彼を見ていると咎める気持ちも薄れてしまう。
「ったく……これで最後だからね」
そう言いながら渋々、悠真は再びカーテンをシャッと閉めたのだった。
結論から言おう。結局その日は服は買わなかった。
もう最後にしてくれという悠真の願いは聞き入れられず、その後も店を転々としたあと、彼は真顔でスマホの写真をスクロールしながら「一度持ち帰って、じっくり検討するよ」と言い放ったのだ。
どっと疲労感だけが増した悠真は、翌日オフィスのデスクに堂々と突っ伏していた。処理しなければならない案件が山積みなのは分かっているが、どうにもやる気が起きない。昨日の暴走気味のアキラに精神力をすべて吸い取られてしまったに違いない。
「あー! ハルマサ、またサボってる!」
微動だにしない悠真に気付いて、勉強に真面目に取り組んでいた蒼角が自席から立ち上がり、無邪気に近寄ってきた。顔だけをそちらに向けて、違うよー、と力無く返す。
「蒼角ちゃん、僕みたいな普通の人にはね、体だけじゃなくて心を休める時間が必要なんだ」
「心? ハルマサ、また具合悪いの?」
「体は元気だけどやる気が出ないんです〜」
「それを人はサボりと言うのですよ」
ぺし、と新しい書類が悠真の頭を軽く叩く。仕方なく体を起こすと、そこにすかさず書類のおかわりが滑り込んできた。げ、と顔を顰め、口元に引きつった笑みを浮かべる。
「副課長は相変わらず、手厳しいですねぇ」
「いえ普通の対応ですが」
平坦に返ってきた声に、はは、と乾いた笑いが零れた。すると今度は窓際の方から、もう一人の上司の声が響いてきた。
「お前が上の空なのは誰の目にも明らかだ。柳は上司として部下の集中力のなさを指摘したに過ぎない。……だが、お前は我々の仲間だ。悩みがあるなら遠慮なく話せ」
雅の気遣いが身に沁みる。それなら、と口を開こうとした時、ポコン、とデスクの上に置きっぱなしの悠真のスマホにノックノックの通知が浮かんだ。すぐに手に取り、その連絡内容を見る――昨日の夜から何度も交わされている会話の続きを。
『この二つなら、君の好みはどっちだい?』
それは昨日散々撮られた写真のうちの二つだった。カジュアルとシックでまったく雰囲気が正反対のそれらをしっかりと確認したあとで、はぁ、と深く息を吐いて返信もしないまま画面を閉じる。
「……アキラくんが、僕の私服を選んでくれるらしく」
「ほう、アキラが服を」
何故か身を乗り出してきた雅を無視して、悠真は脳内にぐるぐると渦巻いていた言葉たちを一気に吐き出した。
「ほんっっっとに昨日から、ずーーーっとその話しかしないんです……! ちょっと今僕、ファッションという言葉に対してノイローゼ気味なんですよ!」
ぜぇぜぇと呼吸を荒げながら言い切った愚痴に対し、周囲の反応は淡白なものだった。
「ノロケですね」
「ナギねえ、ノロケって何? 呪い?」
「……なるほど。ある意味近しいかもしれません」
「うむ。仲良きことは美しきかな」
各々適当なことを言う同僚を見て再びデスクに突っ伏してしまった悠真を、今度は誰も咎めることはなかった。
そして、遠く離れた六分街のビデオ屋でも。
「私、お兄ちゃんが彼氏だったら絶対ウザって思うなぁ……」
悠真の服選びという大役を担った、と勘違いしている兄が徹夜で作り上げた「悠真に似合う私服とは」という内容のプレゼンを延々と聞かされていたリンが、兄に聞こえないように静かに呟く。
それを聞いた周りのボンプたちは、同意するように、あるいは同情するように「ンナンナ……」と何度も頷いていた。
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