千代里
2026-06-15 17:58:48
17408文字
Public 君ふれ短編
 

君ふれ・クガネ編・28話


 ――私を置いていったくせに。
 ――どうして、お前だけ幸せになってるの。
 茫漠とした暗闇の中、ユキハネは幾度もこの声を聞いていた。切々とした声と共に、澄んだ金属の音が響く。
 シャキン、と糸を断ち切るのと全く同じように響く音は、鋏が何かを断とうとしている音だ。
(この感じ……私はまた夢を見ているんですね……
 自分が夢だと自覚している夢もあれば、そうでない夢もあると聞いたことがある。そして、夢であると自覚したならすぐに目が覚める、とも。
 だが、ユキハネが放り出されているこの無辺の闇は、夢だと自覚してもなお、彼女を捉え続けている。
「私を置いていったくせに」
 暗闇の中、ユキハネの声が響く。自分の喉が勝手に動き、怨嗟の声が幾重にも広がっていく。
 言おうとして口にした言葉ではない。自分の中に、自分のものとは似ているがほんの少しだけ違う怒りがあり、それがユキハネの口を借りて憤怒の言葉を吐き出しているのだ。
 それに気がつけたのは、自分の意識が夢の中にあるからこそだろうと、ユキハネは推測していた。
 この怒りは自分のものではない。あるはずがない。己に言い聞かせるようにして、ユキハネは尋ねる。
「こんなにも怒っているあなたは、一体誰なのですか?」
『知らないふりをするつもり? 私はあなたなのに』
 返ってきた言葉に、ユキハネは言葉に詰まる。自分ではないと思いつつ、心の端で、この怒りも自分の一部ではないかという迷いはずっとあった。
 夢に落ちるたび、ユキハネは同じことを尋ねてしまう。
 次は違う答えが返ってくるはずだと、あるかも分からない期待に縋りたくて。
 こんなものが、自分の本当の気持ちであるはずがない、と否定がしたくて。
 けれども、答えはいつも一緒だった。
『私を置いていったあの人を、私は許さない。絶対に、絶対に!!』
 刃物で切りつけるような鋭い声。自分と似ているようで違うようにも聞こえて、それでもやっぱり自分の声ではないかと疑いたくなるほどに似通う声。
 それに気圧されて、ユキハネは数歩後ろに後ずさる。この無限に続く暗闇の中、数歩下がる程度のことに意味があるのかは別として。
 ユキハネが後ろに下がった分を補うかのように、目の前には自分そっくりの真白の髪を持つアウラ族の少女がいた。
 ひょっとしたら鏡写しの自分ではないかと危ぶむも、彼女の顔はどこか自分と違うようにも思えた。
 際立っているのは、こちらを睨みつける瞳だ。そこには、ユキハネが持て余している激しい感情がしっかりと渦を巻いていた。
「わ、私は……。お師様を許さない、なんて思ってません。あの人とは、ちゃんと話をしたい。私がどんな気持ちなのか、ちゃんと伝えたら……お師様だって」
『話をして、それで何になるというの』
 以前も囁かれた言葉を叩きつけられ、ユキハネは言葉に詰まる。実際、彼は別れてから一度もユキハネと会おうとしない。そして、ユキハネも会いに行くほどの勇気を出せないままだった。
『あの人は、私のことなんてどうでも良かったのよ。恋人だなんだと夢見ていたのは、私だけ。愛されていると信じていたのも、私だけだった!』
……っ」
 言葉に詰まってしまったのは、少女の意見を否定できるほどの理屈を持っていなかったからだ。
 何より、彼女の慟哭はユキハネがずっと感じていた胸の痛みと全く同じ種類のものだ。だから、彼女の叫びを聞いていると、胸の奥にしまい込もうと思っていた痛みがうずき出してしまう。
(お師様の特別になれたと思っていたのも、私だけだったのですか……?)
 孤高に生きる彼の傍らに寄り添い、共に行動することを許された特別な一人になれたと思っていた。
 けれども、考えてみれば、フェリキシーという男は、誰かと一緒にいることを喜びとするような性格ではなかった。
 彼は自分が側に居るのを許していたが、果たして一人の冒険者として受け入れていたのだろうか。
『あの人にとって、私は想いを寄せる相手でもなんでもなかった』
…………そう、ですね。それだけは確かなことです」
 仮に、ユキハネの思い込みが全て事実で、フェリキシーが一人の冒険者としてユキハネを認めていたとしても。
 ユキハネが気づいた小さな恋の火に、彼が気付いていないことだけは確かだ。何せ、ユキハネ自身も自覚したのは彼と別れた後だったのだから。
 そして、どれだけこの熾火のような想いを告げたところで、フェリキシーが受け入れないだろうことを、もう分かっている。
『私は、あの人の全てを知っているつもりだった。私の笑顔は、あの人の喜びになってると思った。私の不安は、あの人の不安と同じものだと信じていた』
……でも、そうではなかったかもしれません。お師様にとっての私が何なのか、私には……分からない」
 気がつけば、ユキハネは少女の叫びの後を追っていた。
 瞬きをするたびに、自分に背を向けた別れ際の師の姿が幾度もよぎる。
 その肌の色も、見上げるほどの身長差も、触れると少しチクチクする彼の髪の質感も、たくさんのことを覚えていたはずなのに。
(私は、お師様の顔がもう思い出せない)
 どんな気持ちで、彼は別れの言葉を口にしたのだろう。
 その疑問はやがて際限なく膨れ上がり、数多の記憶に焼き付いていたフェリキシーの顔すら塗りつぶしていく。
 ユキハネの休暇に付き合って、パフェを食べてる自分を眺めていた彼の顔を。
 暴漢に絡まれて困っているとき、助けにきてくれた彼の顔を。
 ふと目に止まったネックレスを、買ってくれたときの顔を。
 ――『てめえは、何がしたいんだ』と、尋ねてくれたときの顔を。
 どれも大事な宝物だったはずなのに、抱えていた記憶はポロポロと溢れて無くなっていく。
『だから私は、あの人を許さない。あの人が私を忘れたことを、私を捨てたことを、一人で幸せになることを、絶対に許さない』
 消えていく記憶の代わりに、ユキハネの中で炎が広がる。
 自分の悲しみも苦しみも全て薪に変えて、一心不乱に燃え上がる炎は、無限に続く闇をゆっくりと照らしあげる。
 そこに、もはや悲嘆に泣きくれた少女の姿はない。
 自分すらも焼き尽くすほどの熱量は、だが同時に不思議と心地良くもあった。
 このまま、この炎に身を委ねていればいい。そうすれば、胸を引き裂くような痛みも、思い出せない悲しみも、置いていかれた切なさも全て忘れられる。
「でも、私は……
 視界を赤が埋め尽くす。けれども、全てが赤に染まる前に、もう一度。
 一度だけでも、彼がどんな顔をしていたのか思い出したい。
『思い出す必要もないわ。だって、何もかもを終わりにしてしまうのだから、思い出したところで全部燃えて無くなるだけだもの』
 必死に思い出たちへと瞳を凝らすユキハネ。だが、その目を、自分と同じ痛みを持つ少女がそっと手で覆う。
『あなたは、私と同じ悲しみを背負っている』
……そうかもしれない)
『あなたも、置いていかれた苦しみを味わった』
(それは間違いない。でも)
『だから――あの人を消して、ぜんぶ終わりにしましょう』
 その言葉は、夢の中とはいえ、ユキハネの角から体の奥まで深く深く染み込んでいく。
『そして、私たちはようやく解放される。解放された心で織りあげたものは、きっとこれまで作ったどんな織物よりも美しいでしょうね』
 体から力が抜けていく。夢そのものに少女が溶け込み、自分の中に流れ込んでいくようだ。
 途方もない悲しみや切なさ。それを呼び水としてどっと押し寄せる、真っ黒な怒りが、ユキハネの心にしっかりと炎を植え付ける。
……これが、私の本当の望み、なの?)
 彼を消してしまえば、ずっと感じていた胸の痛みから解放される。
 ユキハネの中で燃え上がり続ける炎に、彼女自身が頷くことはなかった。
 だが、同時に。
 首を横に振ることもなかった。
 
 ***
 
 静まり返ったクガネの夜のしじまを破る、重たい足音が板張りの床に響く。
 このような音を立てるのは、今この家にいる住人の中では自分の息子しかいない。つい先日も似たようなことがあったなと、ムヒョウはふ、と息を吐き出す。
 乾物屋としての仕事を終えて、一息をついたところだったが、この時間しか息子と落ち着いて向き合える時間はない。
 着物を整えて、一呼吸ついたのを見計ったかのように、小さく柱を叩く音がした。
「親父。……入ってもいいか」
 許しを出すと、ゆっくりと襖が開く。予想通り、神妙な顔つきのヒョウセツが襖の向こうに立っていた。
(そういえば、このように許しを得てから部屋に入るようになったのも、最近のことだったか)
 正確には、フェリキシーたちを家に泊めるようになってからだ。これも、あの冒険者たちがヒョウセツにもたらした影響の一つなのだろう。
「夜遅くに悪い。ちょっと、話したいことがあって」
「長くなりそうなら、まずはそこに座りなさい。……その荷物は?」
 部屋に足を踏み入れたヒョウセツは、片手に大きな袋を持っていた。見覚えのないそれは、まるで冒険者が持ち運ぶ荷物袋のようだ。
「これも、今から話したいことと関係があるんだ」
 ムヒョウが置いておいた座布団に正座し、ヒョウセツは背筋を伸ばす。
 老いて少し背が縮んだムヒョウとは逆に、ヒョウセツはいつの間にか父親の背を追い越していた。今更ながら、そんなことに気づかされる。
 父親に向き合ったヒョウセツは、しばらく視線を泳がせたり何かを言おうとしてはやめるといった逡巡を繰り返していた。だが、やがて意を決したのか、ゆっくりと口を開いた。
「親父。オレ、明日の船でエウレカに行く」
 ヒョウセツが口にした言葉の内容は、父親であるムヒョウにとっては半ば予想したものであり、半ば裏切るものでもあった。
 ムヒョウの表情に険しさが増したのを感じたのか、たじろぎこそしなかったものの、ヒョウセツの顔にも緊張が走る。
……私は、お前が『冒険者になりたい』と言い出す日が来るのではないかとは思っていた。……だが、なぜ、エウレカなのだ」
 冒険者を志すのならば、止めるつもりはなかった。
 ユキハネやフェリキシーの姿を息子の姿を目にして、その憧れを『心配だから』という理由だけでへし折っていいものではないと、何度もムヒョウは己に言い聞かせていた。
 だが、ただ冒険者になりたいと願うのと、エウレカに行きたいと言いだすのでは、危険度は天と地ほどの差がある。
「あそこがどのような場所なのか、お前もフェリキシー殿から聞いているだろう。あの地は、生半な冒険者が腕試しで行くような場所ではない」
「腕試しに行きたいんじゃない。親父が言うように、オレはいつか冒険者になってみたいって思ってる。でも、今すぐじゃなくてもいい」
「ならば、お前の言葉には矛盾がある。冒険者としてエウレカに行くのではなければ、なぜそのような場所に行こうと考えたのだ」
 納得のいく説明がなければ許さないと、ムヒョウの目は語っていた。
 ヒョウセツも、この回答は予想していたのだろう。最初のたじろぎは、もうその目にはなかった。
……ユキハネが、呼んでるんだよ。フェリキシーのことを」
 ヒョウセツは、強く唇を噛む。今から告げる言葉が、まるで自分を切り裂くナイフとなるとでも思っているかのように。
「親父も知ってるだろ。ユキハネ、少し前から酷い熱を出して寝込んでてさ。オレが見舞いに行っても、誰がそこにいるかも分かってないみたいだった」
 ヒョウセツは思い出す。
 今日も、ユキハネの枕元に彼は訪れていた。ケイを伴う日もあったが、最近何かと忙しそうな彼に代わって、今日は一人で彼女を見舞っていたのだ。
「ユキハネ、ずっとうわ言で呼んでいたんだ。お師様、お師様……って」
 誰かを求めるように手を動かし、繰り返し彼を呼び続ける彼女を目にした瞬間、ヒョウセツはひどく打ちのめされたような気分になった。
 病床の彼女を見舞うことで、自分は彼女の役に立てているつもりでいたらしい。
 フェリキシーがいない今、自分だけが彼女を真に思い、支えているような気分になって、内心では浮かれていたのかもしれない。
 だが、ユキハネが呼んだのは、今はここにいない男だった。
「それを聞いて、分かったんだ。……オレじゃ、だめなんだって」
 もし、このままユキハネの具合がもっと悪くなってしまったら。あるいは、具合が悪くなった原因もフェリキシーの不在と関係があるのなら。
 ユキハネが、二度と目を覚まさなくなってしまったら。
 そんな恐怖が、いつの間にかヒョウセツを突き動かしていた。
「だから、オレはエウレカに行って、フェリキシーに言うつもりだ。『ユキハネがあんたを呼んでる』って」
 フェリキシーが最後に見たユキハネは、落ち込んではいたが寝込むほどではなかった。それを見て、フェリキシーも『ユキハネは大丈夫』と思ってしまったのかもしれない。
 だから、今のユキハネの状態を彼に伝えねばならない。彼女が寝込みながらも、ずっとフェリキシーを呼んでいると。
「そのために、エウレカに向かいたいと言い出したのか」
「ああ。一応、ユキハネがしてくれたアドバイスをもとに、出発縫お準備もした。無闇に魔物に突っかかるような真似はしないって約束する」
「だが、フェリキシー殿はおそらく魔物たちの棲家の只中にいるだろう。彼を探すのならば、魔物の巣窟に足を踏み入れることになるのではないか」
……その時は、十分に注意する。絶対に上手くできるとは、流石に言えないけどさ。でも、このままずっとここで待っているぐらいなら、オレは彼女のために何かしたいんだよ」
 ヒョウセツの計画には、確かにいくつも粗がある。
 魔物を仕留めたことすら、まだ数回しか経験のない若者が、エウレカのような危険地帯に赴いて無事で帰ってこられる保障はない。
 フェリキシーと首尾良く合流できるかもわからない。彼と行き違いになる可能性だってある。
 だが、同時にムヒョウは気がついていた。
 こちらを見据えるヒョウセツの瞳に宿る想いの強さ。それがある限り、どんな忠告も遠からず押しのけて、彼は突き進んでいくだろう。
……ユキハネ殿を喜ばせたいがために、危地に赴き、己の障害となりうると分かっていて、フェリキシー殿を連れ戻すことを選んだのか)
 ムヒョウはすでに、ヒョウセツがユキハネへの想いを語るときに混じる淡い恋情を、直感で悟っていた。
 だが、ユキハネの視線は、彼女と出会った時から、ずっとフェリキシーへと向けられていた。彼女にとってヒョウセツは、あくまで顔見知りであり、友達の域から出るものではない。
 彼女の想いは、ヒョウセツも気がついているだろう。それでもなお、彼はフェリキシーの帰還を優先させたのだ。
(己の感情ばかりを優先させる、まだまだ未熟な子供だと思っていたが……男子三日会わざれば刮目せよ、とはよく言ったものだな)
 ムヒョウの口から、大きな吐息が溢れる。それを否定の予兆と捉えて、ヒョウセツは前のめりになった。
 だが、逸る若者の前に、父親の掌が「待て」とばかりに突きつけられる。
「お前の考えは分かった。向こう見ずな蛮勇ではなく、ユキハネ殿の身を案じて、彼女にとっての最良の特効薬を持って行こうとしている。その考えは否定しない」
 だが、とムヒョウは続ける。
「エウレカに着いてからのお前の目算は、甘いと言わざるを得ない。単独で魔物に出会えば、お前はたちまち殺されてしまうだろう。あるいは、フェリキシー殿の足を引っ張り、彼らを危険に晒すかもしれない」
 それでは本末転倒だと分かっているのだろう。ヒョウセツも厳しい顔で、父親の言葉の続きを待っている。
「だから、これだけは必ず約束しなさい。エウレカに着く前でも、着いた後でもいい。事情を話して、お前の同行を許してくれる冒険者を雇うこと。それが、私がエウレカ行きを許すための第一の条件だ」
「オレが冒険者を、雇う?」
「お前はまだ冒険者ではない。なりたいと思ってはいるが、そのものではない。ならば、冒険者を雇うことは何もおかしいことではない」
 きっぱりとムヒョウに断言されて、ヒョウセツも口元に手を当て、考え込む。
 彼はエウレカ行きと、その先でのフェリキシー捜索までは考えていたものの、単身で全てを解決するつもりだったらしい。
「でも、武器は持っているのに、冒険者を雇うなんて」
「武器を持っていても、お前はエウレカで活動する冒険者に比べれば遥かに弱い。冒険者同士ならば、協力して行動を共にするとも言えるが、お前は他の冒険者と肩を並べられるほどの実績も経験もない」
 はっきり言われると、ヒョウセツとしても黙るしかなかった。
「ならば、武器を持っていても素人同然であることを表明した上で、堂々と冒険者を雇えばいい。聞いた話ではあるが、エウレカ島には調査員も派遣されているそうだ。彼らも冒険者を雇って行動しているのだろうから、冒険者たちもそのような需要があることは理解しているだろう」
……分かった。なら、オレが人探しをしていることを伝えて、一緒についていってくれる人を探すよ。それで、他に、親父からオレに言っておきたいことはあるか」
「なら、その荷物を見せなさい。足りないものは必ず買い足しておくこと。それが、私が出立を許すための二つ目の条件だ」
 そう言うと、ムヒョウは荷物袋を開かせて、足りないものを片端から口にしていった。
 あまりの多さに、ヒョウセツは屑籠に突っ込まれていた反故紙をわざわざ引っ張り出して、父親から筆を借りて書きとらねばならなかったほどだ。
 父親の言葉を一つ一つ綴っていく息子を見下ろしながら、ムヒョウは思う。
 かつては、父親の発言に反抗的な姿勢ばかり見せていたヒョウセツは、いつしか真摯に最も身近な存在の言葉に角を傾けるようになった。
 その変化を嬉しく思うと同時に、あの利かん坊だった頃の彼の振る舞いをどこか懐かしくも思う。
「なあ、親父。他には何が必要なんだ?」
 父親の武勇伝に目を輝かせていた少年は、もうここにはいない。
 父親が用心棒を引退し、しがない乾物屋の主人におさまったことに不服を漏らす若者も、二度と会うことはないのだろう。
 そのことに一抹の寂しさを覚えながら、ムヒョウは息子への指南を再開した。
……無事にエウレカから戻ってきたのなら、この子も一人前になったのだと、認めてやるべきなのかもしれんな。いつまでも手を引いているのが、親の役目ではないのだから)
 何気なく閉じた瞼の裏側では、青さを残しながらも真っ直ぐに駆け出す若者の背中が見えた気がした。
 
 ***
 
 ヒョウセツがエウレカ出立のために奔走している、同じ日の晩。
 彼をライバル視している青年――オロシは、自身の屋敷にある書庫にそっと足を踏み入れていた。
 ここには、オロシの父親が古今東西から集めてきた書物がひしめき合っている。大店の主人として店を切り盛りする一方で、父親は販路拡大のために常に新しい何かを求めていた。
 この書庫に詰まっている書物は、いわば父親の中に眠る発想の源だ。単なる物語もあれば、偉人の伝記、市場に出回らない私家本、学者の調査記録などが所狭しとひしめき合っている。
 商談の際に、話の種になるから読んでおくようにと、小さい頃にオロシも何度か言われた覚えがあった。
 だが、オロシの知る限り、父親がこの書庫に籠るのは、精々半年に一度ほどだ。それも、気晴らしのために数時間籠っている程度である。
 周囲に書庫の存在を自慢することこそあれど、彼自身はすでに頭の中に書の中身を収めているのか、そこまで熱心に書を読み耽る時間はとっていなかった。
「だが、ここ数日、父上は頻繁に書庫に出入りしているようだった……
 燭台に炎のクリスタルを添えて灯の代わりとする。そっと行燈の覆いをかぶせると、周囲に柔らかな光が広がった。
 書物を扱う以上、火気は厳禁だと幼少の頃から言われていたため、オロシは今回の探索も律儀に昔の約束を守っていた。
「父上が俺に話してくださった、紅白の絹を作った女の話……。どうして、父上はあの話をわざわざ俺にしたんだ?」
 オロシがわざわざ夜中に書庫に来た理由。それは、どうにもここ最近頭に引っかかっていることを調べるためだった。
 その発端が、今口にしたように、オロシの父が語ったとある昔話だ。
 元を辿れば、オロシがギンチョウの母親に「うちの織物を買い取ってくれないか」と頼まれたのが、全ての始まりだった。
 恋人の家の借金については、オロシも何とかしたいと思っていた。そこで、彼は駄目元で父親にそのことを話してみた。
 案の定、父親は名が売れているわけでもない機織り職人の織物など買いとれないと一蹴した。
 そのときに父親が話したのが、紅白の織物と恋に破れた機織り女の話だ。その部分に、オロシはまず違和感を覚えていた。
「父上にとっては、ただ比較対象として出しただけかもしれない。だが、もしかしたら……父上も、比較的最近、あの物語に触れたんじゃないか。だから、つい口にしてしまったんじゃないか」
 ならば、なぜ今更になって父親はこのお伽噺に触れようとしたのか。これがまず一つ目の疑問だ。
 そして、気になっているのは、そのことだけではない。
(ギンチョウが言うには、彼女の従姉妹……ユキハネといったか。あの娘は、ここ数日寝込んでいるらしい)
 それは気の毒だと思うが、オロシの疑問はここにもあった。
 お伽噺に登場する、白い髪のアウラ族の娘。恋に破れて姿を消した機織り女。
 そして、ギンチョウの前に現れ、彼女の家族に借金を負わせた詐欺師。
 父が語った、伝承に語られる機織り女の容姿は、ギンチョウやユキハネにも一致するものだ。
 そして、彼女が作った極上の織物。殿様すらも飛びついたというそれは、借金など帳消しにできるほどの値がつくだろう。
 全てがばらばらの出来事のはずなのに、何かが結びつきそうでもある。そのもどかしさに突き動かされるようにして、オロシは事の始まりである父が管理する書庫へとやってきていた。
 部屋をぐるりと見渡す。採光用の小さな窓から、細い月明かりが差し込んでいた。
 普段ならば入った瞬間に書庫が持つ独特の紙の匂いに圧倒されるほどだというのに、今日はその匂いが薄いように感じられる。
「やはり、最近父上がここに入ったのだろうか」
 ならば、何か痕跡があるはずだ。行燈を掲げて足下を照らすと、薄らと埃の積もった板張りの床に大きな足跡が残っている。
 半年に一度の虫干しの日以外は、書庫は締め切っている。父は窃盗を危惧して、使用人に書庫の鍵を渡していない。ここに入れるのは、父と息子であるオロシだけだ。足跡の大きさからも、まず間違いないだろう。
 足跡を辿ると、書庫の一角にたどり着く。棚をじっくりと照らしあげると、引き出しの一つが少しばかり開いたままになっている箇所があった。まるで、つい最近ここから何かを取り出し、調べ物をしたかのようだ。
 中を覗くと、几帳面な父にしては珍しく、積み重ねられた本の上に、更に巻物が一つ置かれていた。
 以前父から聞いた話によると、引き出しの中身は書の内容ごとに纏められているはずだ。
 ならば、この巻物もおさめられた書に関係があるのだろう。
 オロシの手が、巻物へと伸びる。紙をまとめるための紐が緩んでいたせいで、呆気なく巻物は広がり、その全容を曝け出した。
(これは……裁判の記録、か?)
 ざっと目を通すと、これが大昔にとある地方で起きた犯罪の記録をまとめたものだと分かった。
 父が語ったお伽噺と犯罪と裁きの記録。一見繋がりがないように思え、自分は何か見当違いなことをしているのではないかと思ったときだった。
 オロシの目に、これまで何度か聞き取った覚えのある字句が飛び込んできたのは。
「商人の花嫁行列に紛れ込んだ乱入者が、花婿を――
 まさか、と震えた唇が意味のない音を漏らす。巻物を持つ手指が震える。得たばかりの新たな情報に驚きながらも、不思議と今までばらばらに散らばっていたものに、何か一本筋の通ったものが走った気がした。
 だが、新たに見えてきた道筋に思考を没頭させようとした矢先。
 とんとん、と軽い足音。それに重なるように、重たい足音が響く。
……誰だ?」
 足音の一つは、間違いなく父親だろう。だが、もう一つの聞き覚えのない足音は、反射的にオロシの警戒心を煽った。
 この場所にいて、オロシが非難される理由はない。それでも、何か悪いことをしているような気がして、咄嗟に巻物を仕舞う。
 同時に、施錠していはずの書庫の扉を開ける音が決して広くはない書庫に響いた。
 ここの鍵を持っているものは、二人しかいない。
 一人は屋敷の主人の息子であるオロシ。そして、もう一人は。
……父上」
 ぎい、と重たい音をたてて両開きの書庫の扉が開かれる。オロシ同様、クリスタルを仕込んだ行燈を片手に入ってきたのは、父であるアラシであった。
「こんな時間に、このようなところで一体何をしている、オロシ」
 父の視線は、間違いなく息子ではなく、その後ろの引き出しを見つめていた。咄嗟に元の状態に戻したつもりだったが、オロシの立ち位置から何をしていたかは容易に推察できるだろう。
「何か言いたげだな、オロシ。お前は、その中にあるものを読んだのか」
 わざわざ話題に出すということは、父は何も見なかったふりはしてくれないということだ。オロシも覚悟を決め、父と相対する。
「父上の推察通りです。その上で、質問をさせてください」
 父親の無言を是と受け取り、オロシは続ける。
「父上が俺に話してくださった、紅白の絹を織った織女の伝承と、この裁判の記録に登場する、商家の若旦那を殺害した後に行方不明となった村娘。彼女らは、同一人物ですね」
 アラシの片眉が持ち上がる。その表情だけで、彼が肯定したうえで続きを促しているのだと見てとれた。
「なぜ父上は、ギンチョウの家の話を俺がしたとき、わざわざあの話を教えてくれたんですか」
「ごく最近、私にその話の詳細を知りたいと頼んだ者がいたからだ。伝承とは語り継がれるうちに変化する。その変化を全て取り除いた原点を知りたい、と頼んできた者がいたのだ」
……その依頼主とは、まさか」
 先ほどオロシが掴み取ったばかりの、一本筋が通った一つの推測。できるならば、想定違いであってほしいという願いとは裏腹に、オロシの予感は最悪の形で現実となる。
「そう。うちのことや」
 アラシの後ろから顔を見せた男に、オロシは視線で人を射殺さんばかりの勢いで睨みつける。
 糸のように細い目に、独特の訛りを用いて話す男。ハチベエが、扇子を優雅に広げてオロシの前に姿を現した。
「オロシはんと会うのは初めてやったかな。アラシはんとは、以前にもちょーっとだけ仲良うさせてもろたことがあんねん。そん時に、アラシはんが色んなお話の本持ってるって言うてたなって思い出してな。どうせならって、アラシはんに調べてもろたんよ」
 どうせなら、とハチベエは言った。その口ぶりが事実ならば、彼が調査を依頼する相手は、何もアラシに限る必要はなかったようだ。
 だが、あの日。オロシがギンチョウの様子を見るために彼女の家に訪れ、彼女の家を庇うためにオロシがでまかせを口にしたとき。
 ハチベエは思ったのだろう。『どうせなら』、オロシも自分の奸計に巻き込んでしまおうと。
 そして、彼はオロシの父の性分を知っていた。商売のためならば、多少の後ろ暗い部分にも目を瞑れる。オロシも知っている父の側面を、この男も把握していたのだろう。
……やはり、ギンチョウの家は、この話に出てくる織女と関係があるのか」
「関係なんて遠い話やないやろ。多分、直系のご先祖さんやろうね。髪の色といい、地元の人の話といい、裏もちゃんと取ってあるさかいな」
「だが、ギンチョウの家には、この話に伝わるような絹の作り方など伝わっていないはずだ。それを狙って父上に擦り寄ったのなら、とんだ見込み違いだったな」
 ギンチョウの家に借金を負わせた詐欺師が、父親にまで取り入っている。そんな悪夢じみた光景を少しでも早く終わらせたくて、オロシはわざと挑発するような物言いをしてみせた。
 だが、何がおかしいのか、ハチベエは扇子をひらひらと仰ぐばかりだ。その隙間からは、真意の読み取れない笑みが見え隠れしている。
「別に、あの頭がお花畑の家の連中が、織り方を受け継いでるなんて、はなから思てへんよ。あの家に受け継がれてるのは、技やなくて道具の方やろうって」
「オロシ、お前は気づかなかったのか。あの物語で織り手に奇跡を齎したのは、恋心を断ち切ったと言われる鋏だ。そして、それはただ織物のためだけに使われたのではない」
「まさか、恋人を殺した凶器も……鋏だったのか」
 自分の推理を口にした瞬間、オロシはハッと息を呑む。
 目の前のいけすかない借金取りと出会してしまった、数日前の外出の日。
 ギンチョウの従姉妹であると紹介された娘――ユキハネは、その手に持っていた裁縫鋏で手に怪我を負ってしまっていた。
 運悪く一人でいるときにハチベエと遭遇した彼女は、ハチベエに並々ならぬ敵意を見せ、彼に鋏を突きつけた。そう突きつけられた当の本人が語っていた。
 冒険者とは聞いていたが、ユキハネはギンチョウよりも遙かに大人しそうな気質の娘だった。
 一方でヒョウセツと手合わせをしている時は、オロシですら息を飲むほどの集中力を見せ、これが冒険者というものの力かと圧倒されたほどだ。
 慎ましやかに見えて、凛とした風格を漂わせた少女。それが、オロシが彼女から受けていた印象だった。
 そんな理知的な娘が、突如ハチベエに凶器まで突きつけた理由。らしくない振る舞いだと思っていたそれが、不意に一つの繋がりを得る。
「ギンチョウの従姉妹が持っていた鋏がそうだというのか」
 ならば、彼女の不審な行動にも納得がいく。
 ギンチョウか聞いた話では、ユキハネは望んで実家に滞在しているわけでは無いらしい。師匠と呼ぶ男に半ば置き去りにされ、彼女はひどく打ちのめされていると聞いている。
 憔悴する少女と、彼女の手に握られた血塗られた逸話を持つ鋏。その取り合わせは、奇妙なまでに伝承の織女と一致している。
 たとえば、もし鋏に怨念のようなものが取り憑いていて、気落ちしている少女によからぬことを吹き込んだのならば。
 それなら、ユキハネの不自然に攻撃的な行動にも納得ができる。
「それが事実ならば、既に彼女には異変が生じている。お前も、ユキハネに刺されそうになったと言っていただろう」
 オロシに話を向けられても、ハチベエは飄々とした態度を崩さない。まるで危機感のない態度に舌打ちをして、オロシは続ける。
「鋏に唆されて、彼女は本当に誰かを傷つけてしまうかもしれない。その前に彼女を止めなくては」
 杞憂ならばそれでいい。だが、呪いじみた逸話と様子のおかしいギンチョウの従姉妹の情報は、彼女らに伝えるべきだろう。
 一刻も早く事実を伝え、ユキハネの手にある曰くありげな鋏を処分する。それが今の己のするべきことだと、オロシは踏み出そうとして、足を止める。
 書庫の入り口に向かいかけた彼の前に、ハチベエが通せんぼうをするように両手を広げて立ち塞がったからだ。
「まあまあまあ、ちょっと落ち着いたらどうや。どうして、わざわざこの後に続くことを止めようとするん?」
「当然だろう。あの娘が、誰かを傷つけるのを黙って見ていろと言うのか! 次に傷つけられるのは、ギンチョウかもしれないんだぞ!」
「その心配はいらんやろ。あの話が事実なら、無差別に誰かを襲うような真似はせえへんやろうから。ああいう器物にくっついとるもんって、こっちがびっくりするぐらい、融通が利かんねん。愚直なまでに、最初の物語をなぞろうとするんや」
 ハチベエ曰く、鋏が最初に傷つけたのは持ち主を裏切った恋人だった。その逸話と同じ立ち位置に属する者だけを狙うだろうと彼は説明する。
「つまり、あれはあの子が一番慕う相手を狙うっちゅうことや。ちょっとは安心した?」
「それを聞いて、何を安心しろと言うんだ。その娘の周りにいる誰かが殺されるかもしれないということに変わりはないだろう」
 傷つくのが赤の他人だろうが、見知った誰かだろうが、呪われた品に唆されて凶行に踏み切ろうとする知り合いを止めない理由にはならない。
 幼い頃から弱きを助け強きを挫く、という教えを説かれて育ってきたオロシは、当然、呪いに憑かれた知り合いも、彼女が犯そうとしている凶行も見逃すわけにはいかないと思っていた。
 だが、オロシと同じ結論を抱くものは、ここにはいないらしい。アラシは冷めた目で息子を見つめるばかりで、ハチベエも相変わらず扇子を訳もなくゆるゆると振るばかりである。
「アラシはん。この坊ちゃんの説得、うちがしてええの?」
「お前に任せると言っただろう。私の言葉では、素直に聞こうとするまい」
「汚れ役とは押し付けたいって、素直に言うてもええんやで」
「分かっているのなら、わざわざ言わずともよいだろう。仲介人」
 父親と憎き借金とりの間で交わされる言葉。意味は理解できるのに、本質を理解できないその不気味なやり取りに、オロシは一瞬たじろぐ。
 苦々しげに顔を歪めるオロシに対して、ハチベエはパシンと扇子を閉じ、まるで幼子に言い含めるようにゆっくりと語り始めた。
「あんなぁ、オロシはん。あの鋏は、好いた相手を殺した後にこそ真価を発揮するんや。男を殺した後に機織り娘が作った絹は、お殿様すら絶賛する出来やったって、そういう話やったやろ。あの村娘が捕まっとらんのは、殿様がそんだけ彼女が作ったもんに魅了されたからやろうね」
 ハチベエの説明は簡潔であるが故に、オロシにもその意図をはっきりと伝えてくれた。だが、彼が描く未来図は到底オロシには容認できないものであった。
「お前は、ギンチョウの従姉妹に、彼女が慕っている師匠とやらを殺させる気か。その後に作らせた物を、自分のものにするために……!」
「そうそう。話が早い子は助かるわ。人殺しすら容認してしまいたくなる出来なんて、相当のもんやろうね」
 ハチベエの語る話が眉唾物と思えないのは、オロシも似たような話をいくつか聞いたことがあるからだ。
 刀に宿った亡霊により、一人で何十もの相手を斬り伏せた侍。持ち主に幸運をもたらすものの、ある日一転して禍を招いた人形。
 この手の逸話は、クガネに限らずひんがしの国では幾つも語り継がれている。
 人智の及ばぬ何かは、時に人の領域を越えた価値ある品を作り出したり、常ならば果たせない偉業を成し遂げさせることもある。
 もっとも、まさかこんな身近な所で、当事者のすぐそばに自分がいるような状況になるとは想像もしていなかったが。
「そうは言うても、その大事な恋人はんはエウレカに行って、今は不在みたいやけど。でも、不在っちゅうことは、そのうち帰ってくるつもりってことやろ。港を見張っておけば、あんな背ぇ高い目立つ肌の色した男、見落とす方が難しいやろ」
 オロシがギンチョウから聞いた話によると、ユキハネの師匠は彼女を家に置いていったあと、クガネに滞在している間も彼女に会おうとはしなかったらしい。
 おそらく、クガネに戻ってきた後も、彼はユキハネに会うつもりはないのではないか。そこにどんな事情があるかは分からないが、オロシはその師とやらの頑なな意思がそこにあるように思えた。
 だが、目の前の詐欺師は、ユキハネと彼を無理矢理にでも引き合わせようとしている。怨念に取り憑かれたユキハネに、その男を殺させるために。
「ひんがしの国には、妖物と言われるものがあるっちゅんは、オロシはんも聞いたことあるやろ。そういう曰くつきのもんが本領を発揮するためには、生贄が必要っていうのもお決まりの話や」
 オロシの仮説を裏付けるように、ハチベエは言う。
「いやはや、あのお嬢はんも、恋人っちゅう冒険者も、クガネのもんやなくてよかったわぁ。ただの民間人やったら、ちょーっと面倒なことになるなあって心配やったんやけどね」
……その話を知って、俺が黙って見逃すと思うのか」
 オロシは一歩前に出て、ハチベエへと凄む。今日は、彼の周りに護衛らしきものはいない。
 だてにオロシは道場で威張り散らしていたわけではない。自分より一回り以上小さな男を押しのけるぐらいなら、容易くできる。
 そう思い、力尽くでも押し通ってやると身構えたときだった。
「別に、うちの邪魔するんも、お父はんの商いを邪魔するんも、オロシはんの勝手やけどね。ユキハネちゃんやっけ。あの子から鋏を取り上げて、西に返すっちゅうなら、好きにしたらええよ」
 ぱしぱしと、ハチベエが閉じた扇子で掌を打つ音が響く。その音が一際高く響き、次いで静寂が訪れたその直後。
「その代わり、ギンチョウはんのことも、うちの好きにさせてもらうけど」
……お前っ! あいつに何をするつもりだ!!」
 今度こそ前に踏み込んだオロシの鼻先に、扇子が突きつけられる。まるで刀を突きつけられたように、ハチベエが漂わせる気迫に一瞬オロシは怯んでしまった。
「あの家、まだうちに借金残してるの、忘れてはおらんやろ? ユキハネちゃんが綺麗な織物を作って、うちらに譲ってくれるんなら借金もチャラにしよかなと思たんやけど」
 彼はあっけらかんとした調子で続ける。
「それがだめなら、ギンチョウはんにおすすめの仕事、やってもらわなあかんね。あの子、綺麗な顔しとるやろ。花街の店なら、どこでも歓迎してくれると思うで。跳ねっ返りなとこも、一ヶ月も仕込まれたらすぐに従順になるやろうしな」
――貴様っ!!」
 殴り掛かろうとしたオロシの腕を止めたのは、傍らで様子を見ていたアラシであった。
 すでにオロシよりも体格では劣りつつあるというのに、アラシに掴まれた腕を、オロシはぴくりとも動かせずにいた。
「ここでうちを殴ってもええけど、そうなったらちょっとお奉行さんにに垂れ込んで、あんたとあんたの店の評判を地に落とすぐらい、うちにはわけないんやで」
……仲介屋。それは、さすがに聞き捨てならないぞ」
「まあまあ、アラシはんもそないな怖い顔せえへんでええよ。息子はんには、きちんと世間の厳しさっちゅうもんを教えなあかんと思ただけや」
 ハチベエはゆっくりと扇子を下ろし、今度は先ほどとは打って変わって、ゆったりとした口調で続ける。
「なあ、考えてみ? ユキハネちゃんは、別にオロシはんの友達でも何でもないんやろ。つい最近出会っただけの、ほとんど赤の他人みたいなもんや。刺される恋人はんやってそうやろ。大事な大事なギンチョウちゃんを守るために、何が一番得か。実際のところ、あんたが一番分かってるんとちゃう?」
 ハチベエの言葉は、さながら毒のようにじわりとオロシに染み入る。もし、彼の言葉に真っ向から反対できるほどの信念があれば、オロシは彼や父親を振り解けたかもしれない。
 だが、彼はちらとでも考えてしまった。自分にとって、一番利益となる行動は何であるかを。自分が守りたいと思う人を、確実に守るためにとるべき最良の手段とは何かを。
「うちは何も難しいことは頼んでないよ。ちょっとばかし、目を瞑って、じっとしててもらえんかって頼んでるだけや。な、簡単やろ?」
 その言葉に頷いてはいけない。分かっているはずなのに、オロシは俯いたまま、唇を噛んでしまう。
 今暴れたところで、目の前の人間に自分や父の生活が壊されるだけだ。何より、父親自身がこの男の言葉に耳を貸す価値があると判断している。
 オロシが抵抗したところで、最終的には家に閉じ込めるか、ほとぼりが冷めるまでクガネから遠ざけるぐらいのことはするだろう。
……ユキハネを助けても、結局、ギンチョウが俺の元からいなくなるだけだ。それなら、いっそのこと)
 一瞬傾きかけた天秤を、無理矢理元に戻そうとオロシはかぶりを振る。そこに追い打ちをかけるように、アラシの低く深い声が響く。
「オロシよ。私は、お前とギンチョウとかいう娘の交際を認めたつもりはない。一時の遊びならばと思っていたが、どうやら今のお前の態度を見る限り、そうでもないようだ」
 その話が一体何の関係があるのかと思うより早く、アラシは言う。
「お前が私を邪魔してまで、その娘との関係を続けたいと主張するのならば、この男とは違う形で私も動かねばなるまい。取引相手がなくなれば、その家も大層困ったことになるだろう」
……父上。それは、どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だ。大店が流す噂には、それだけの力がある。だが、お前が私の仕事に協力的な姿勢を見せるなら、お前の勝手にも少しばかりは目を瞑ってやろう」
 アラシが突きつけた取引は、オロシにとっては最終通告も同然だった。
 父親の庇護を振りほどき、ギンチョウの手をとってどこかに逃げれたら。一瞬、そんなありもしない夢に逃避したくなるほどに、彼の前には幾重もの壁が立ち塞がっていた。
 だが、現実的な問題として、オロシは未だ自活の手段を持っていない。クガネの外の世界も知らない。そんな自分がギンチョウと彼女の生活を守るためにできることがあるとしたら。
 無意識に止めていた息を、長く長く吐き出す。振り上げていた腕を――オロシは、ゆっくりと下ろした。
「ええ子やね。物分かりのいい子は、嫌いやないで」
「お前は何も考えずともよい。どうせ、すぐに事は終わる」
 ハチベエの声も、父からの言葉も、今は何も角に響いてくれなかった。
 ただ、腕を振り下ろしてしまった己の情けなさが、途方もなくみっともなく感じられるばかりだった。
 だが、それでも。
 オロシに新しい世界を教えてくれた彼女を守れるのならば。
 これでいいのではないかと思ってしまう自分がいることも、否定できなかった。
……ヒョウセツ。お前なら、どうしていた)
 馬鹿正直で、世間の駆け引きなどから無縁に思えた道場の競争相手。彼と言葉を交わし、己の正否を問いたかった。
 だが、同時にオロシは悟っていた。
 今の自分ではもう、彼の顔をまっすぐに見ることもできないだろうと。