やまだ
2026-06-15 14:08:40
1914文字
Public 無双オリジンズ
 

No title

曹操と紫鸞 雨の日の話

 外は雨だが、許都の城内の空気は乾いている。曹操は筆を手にしたまま窓から一瞬空を仰ぎ、曇天の暗さを改めて視認した。雨音は強く、このまま一昼夜は降り続くのかもしれなかった。
 こういう天気の日は気が重くなる、という人間がいる。戦場でなら曹操も同意したかもしれないが、ここは本拠の屋内だ。濡れる緑に雅意を見出すことこそあれど、何をも憂鬱に思うことはない。ましてやこの室内には今、曹操の霊鳥がいる。紫瞳の鸞は板間で片膝を立て、飽きもせずにじっと窓の向こうに広がる雨の庭を眺めていた。
 紫鸞が曹操の近くにいるので、護衛の許緒も典韋も場を外している。許緒の畑へ行くのだと、長大なむしろを巨躯に巻きつけ並んで出かけるふたりは愉しげだった。あるいは紫鸞は彼らを休息させるためにふらりと曹操のもとを訪れたのかもしれなかった。
 雨では曹操を気鬱になどできない。
 だが、と思いかけたところで衣擦れの音がした。紫鸞が半身を捻り、曹操を覗きこもうとする。そら恐ろしいほど澄んだ瞳の底には純粋な気遣いが沈むのだ。曹操はこういう瞬間の、日頃は沈毅な紫鸞の瞳から掬い上げられる感情の発見を好んでいる。
「手が止まっている。また体調が悪いのではないか」
 また、と言われる。
 近頃、天気が悪い日に鈍い頭痛がするようになった。耐えられる程度なので痛みを無視して過ごしているつもりだったが、紫鸞には看破されていたらしい。
「殿は働きすぎだ。だから仲康や悪来も日がな扉の左右に立っていなければならなくなる」
「人生幾許ぞ。やるべきことを思えば、私に立ち止まることなど許されない」
 進むと決めた道のために友を斬り、かつては父の死すら利用した。あれは薄孝の餓狼よという曹操への世論はまったく正しく、否定しようとも思わない。それらを負っているからこそ曹操は進む速度を緩めずにいられる。
「今日は城内もすっかり静かだというのに、あなたの卓の上だけが騒々しい」
「では城内の業務に遅滞はないということだな。よいことだ」
 ふ、と紫鸞が浮かべた微笑はどこか曹操を咎めているようだった。
「あなたは解語の鳥を飼っている。なぜこの鳥を活用しないのか」
「紫鸞よ」
 曹操が頭痛の種を吐き出してしまえば、この鳥は種子を孕んだ果実を生じる木を枯らしに行くだろう。他愛もない愚痴を催促されていることを理解するからこそ曹操は紫鸞を止める。
「その鳥は心のままに羽ばたくからこそ美しく、また私はおのれが他人を痛罵する無様をその鳥の目に晒したくはないと思っている。鳥は私のこのような見栄を笑うだろうか」
 紫鸞はしばらく考えこんだあと、ごく僅かに首を傾げた。
……もしかして、あなたの頭痛の種は俺なのだろうか」
「そのようなわけがなかろう」
 いやに神妙な口調で言うものだから、曹操も思わず失笑してしまった。
「おまえはあるがまま悠々と、縛るもののない空をゆくがよい。私は翼を持たぬゆえ、一歩一歩地を踏んで進むしかできぬというだけのことよ」
 そうか、と呟く紫鸞の安堵が目元に滲んでいる。彼が膝下にあることに安堵したいのは曹操のほうだというのに、当の本人は澄んだ瞳でのんきに雨を眺めるのだ。
 気も抜けよう。強張っていた背筋からりきみが消える。筆を置いた手で眉間を揉んだ。
「紫鸞、傘を持て。供をせよ」
「どこへ?」
 答えながらすでに紫鸞は立っている。どんよりと空は黒いが、曹操を窺う暁天は翳ることを知らないようにきらめいており、見上げればすがすがしい。
「たまには雨でうるおう庭を逍遥するのも風情があってよかろう」
「休息の時すら動いていないと気が済まないのか、殿は」
 曹操へこれだけはっきりと呆れ顔をしてみせるのも紫鸞や夏侯惇くらいのものだろう。つい数年前から仕え始めた男が幼馴染の従弟と同じような距離で曹操へ扈従し、そしてそれに違和感をおぼえさせないのだから、紫鸞とはつくづく面白い男なのだった。
「先に聞かせたであろう。人生幾許ぞ」
「たとえば雨露の如し、と?」
 立ち上がりながら笑声を放った曹操の背後に紫鸞が続く。
「いずこで覚えてきおった」
「自分で読んだ」
 意外な思いで振り返れば紫鸞が拗ねている。曹操を軽く睨み、瑞鳥は恨めしげにさえずったものだ。
「解語の鳥だと言ったはずだが。……俺だって少しは書を読みもする」
 今日の紫鸞は人をよく笑わせてくれる。
「やはり、おまえはありのままがもっともよい」
 空は暗く、前途は濡れていたが、傘を差しかけられながら進む曹操の足取りは軽い。
 この勤勉な瑞鳥が傍らにあるかぎり、曹操は鬱屈を忘れていられる。