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古都子
2026-06-15 00:10:25
11611文字
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第一章「旅のつづき」
第一章「旅のつづき」
序
この世界には、ルミナス伝承というものがある。
およそ千年ほど前。
一人の地図師。 一人の怪異学者。 そして、三人の冒険者が小さな港町から出港した。
彼らは、当時知られていた大陸中を渡り歩き、地形そのものが特別な潮によって変化することを突き止めた。
その潮を読みながら、各地の地形などをまとめ上げ、史上初となる大規模世界地図を完成させた。
後世の地図師たちは、彼らのことを「ルミナス」と呼ぶ。
地図を作り上げた彼らは、古い伝承にある理想郷「約束の地アナスタシオス」を目指したらしい。
しかし、その記録を以て、彼らの消息は途絶えている。
彼らのその後の消息については、種々雑多な説が唱えられている。
だが、多くの地図師たちはこう語る。
「ルミナスは、世界の果てへ行ったのではない。ただ少し先の道を歩いただけだ」
一
ミャーオ、ミャーオ
……
。
黒い海を渡る中型船と並走するように、複数のウミネコが鳴きながら飛んでいる。
潮風に煽られる甲板に、海の様子をじっと観察する黒ずくめの男が立っていた。
首元の血に汚れたような真っ赤なスカーフだけが異様に目立つその男は、何も言わずに懐から手帳とペンを取り出すと、何かを記し始めた。
真剣な眼差しで手帳に何かを記している男を見つけたハルは、そっと後ろから近付いてその背中に飛びついた。
「なーに書いてんのお?」
「どわっ!」
唐突に背後から飛びつかれた男は、陰気な顔に似合わない素っ頓狂な声を上げた。
その間抜けな反応に、ハルはしめしめとした表情でこう言った。
「ぎゃはは! 折角の紳士ぶりが台無しだ!」
笑い声を上げながら男から勢いよく離れると、ハルはさっさと逃げ出そうとする。
だが、それは失敗に終わった。
男は、ハルの二又に分かれた尻尾をむんずと掴むと、そのまま自身の方へ引き寄せる。
それから、ハルのふわふわの三角耳を両手で引っ張った。
「おい、ミケ公。私の邪魔をするなと何度言ったら分かる」
「痛いって! わかった
……
わかったから。離せよカラスくん!」
ハルが適当な声で許しを請うも、男の手は緩まない。
「あー! もう! ジェード、ごめんなさい!」
ハルがやけっぱちで叫ぶと、ジェードの手がぱっと放される。
解放されたハルは、いじけた様子で己の両耳を撫でると、頬を膨らませた。
「ちえー。オレより弱いくせに、こういう時だけ強いよなー
……
」
「紳士のたしなみだ」
ジェードはそれだけ言うと、視線を手帳に戻してしまった。
(ぬぁ~にが、紳士のたしなみだよ。そのケツに生えた尾羽、蹴ったろか?)
ハルはそんなことを内心で考えながらも、視線は既に別のところにあった。
遠くに、小さな港町が見えたからだ。
遠くから望む白いレンガ造りの街並みが、日の光を浴びてキラキラと反射している。
「ジェード、港町だ!」
ハルが声を弾ませる。その言葉に、ジェードが手帳へ向けた視線はそのままに、慎重にペンを動かしていた手を止めた。
「そうか。やっと着いたか」
ジェードの薄い反応も気にせず、ハルはニコニコとした様子で甲板に身を乗り出す。
「早く着かないかなー! この商船都市の料理も美味しかったけど、やっぱ陸地の料理だよねえ」
まだ見ぬ異国の郷土料理を想像して、ハルが舌なめずりをする。
そんなハルの言葉に、ジェードは窘めるように言った。
「食事より先に、溜まった任務の報告だ。さっき、碧潮の兆候が見えた。忙しくなるぞ」
ジェードの言葉に、ハルは露骨に嫌そうな顔になる。苦虫でも吐き出すように、うげえと舌を出した。
「ゲッ。また地図の書き直し?」
ハルは、この碧潮が好きではなかった。
理由は単純明快だ。この碧潮という特別な潮が起きると、世界の地形が変わってしまうのだ。
ジェードから教わった発生周期の細かい理屈は覚えていない。
ただ、兆候が出れば地図を確認し直さなければならないことは、身体で分かっている。
兎に角、地図製作で主な生計を立てているハルとしては、この碧潮がやってくると、一生懸命作った地図の殆どがゴミくず同然になるのが耐えられないのだ。
「そんな顔をしても、碧潮は止められないぞ。諦めろ」
そんなハルを見て、ジェードがニヤリと目元に笑みを作る。さっきの仕返しのつもりらしい。
「はー
……
。ま、いいや。それより、そろそろ荷物取りに行こうよ。港には、オレが一番乗りするんだからな!」
ハルは、それだけ言うと、ぱっと甲板から離れて足早に船内に戻った。
二
到着した港町に一番乗りするというハルの目論見は、呆気なく崩れ去ってしまった。
乗船契約証を手に、今か今かと船の出入り口であるゲートで待っていたハルを、複数の船内警備員がつまみ出したのだ。
「なにすんだよ、オッサン!」
ハルが不満げに抗議の声を上げると、恰幅のいい警備員が笑顔でこう言った。
「すまんな。今回は特別な乗客がいるんだ。潮路商会は、彼らから先に降ろすという契約を結んでいる」
「むうー
……
」
この潮路商会の商船では、契約が全てだ。そう説明されてしまうと、ハルは何も言えない。
それでも納得できない様子で警備員を恨めしそうに見つめていると、背後からジェードがハルの首根っこを掴んだ。
「私の連れが迷惑をかけた。すまない」
そういってジェードが頭を下げると、警備員が首を横に振った。
「まあ、気にしなさんな。活きの良いお子さんですな」
「ああ。いや、コイツは
……
」
警備員の言葉に、ジェードが言葉を濁すと、ハルがジタバタと暴れだす。
「オレ、大人だし。こいつの子供でもないしー!」
だが、ハルの主張はあっさりと流されてしまった。
「はっはっは。反抗期という奴か。うちの娘も最近反抗期でねえ」
「はあ
……
それは大変なことで」
ジェードは、デレデレとした様子で世間話を始めた警備員を適当に受け流すと、ハルの首根っこを掴んだまま、その場を離れた。
ゲートから少し離れると、ジェードはハルを解放してやる。
「あのオッサン! オレのことガキだと思い込んでる! 腹立つ~」
「大人なら、もっと大人らしく振舞うんだな。子猫ちゃん」
ハルの抗議を適当に受け流すと、ジェードはゲートに視線を戻した。
その真面目そうな眼差しを不思議に思ったハルが、ジェードに声をかける。
「なんだ、カラスくんも気になってるんじゃん。でも、特別な乗客ってどんな人なんだろな」
そう言うと、ジェードは少しだけ思案するように視線を泳がせた後、ハルにだけ届く声で言った。
「どうにも、聖域監査局が一枚噛んでいるらしい。あまり騒ぐなよ。私は一番最後に降りる」
ジェードの言葉に、ハルも渋々といった様子で肩を竦めた。
「はーい。
……
オレ、列に並び直してくるね」
ハルはそう言うと、すごすごとした様子で引き下がった。
そうして、ジェードの監視の目を振り切ると、ハルは素早く人混みの中を縫うように元居た場所まで戻った。
(なんつって。ジェードの臆病者! オレは野次馬になるぞ!)
どんな人物が一番乗りの邪魔をしたのか気になるハルは、ゲートの外周でざわつく人混みの中に混じる。
警備員たちも、野次馬を抑えるので忙しいらしく、ハルなど眼中にないようだ。
と、その時だった。
ひと際、大きな歓声が上がる。
歓声の上がった方を見ると、薄水色のフードを目深に被った人物を両脇で護衛する形で、隊服を身に纏った長身の男と小柄な女性が出てきた。
「聖域の母だ!」
野次馬の誰かが、声高に叫ぶ。
すると、周りの温度が一気に上昇するのをハルは感じた。
(なにー! 聖域の母だって?! って、なんだっけ
……
?)
そんなことを考えながら、ハルも護衛対象らしきフードの人物をじっと見つめる。
すると、フードの奥から覗く青い目と、カチリと目が合った気がした。
(へ?)
ハルがぽかんと口を開けて呆けていると、フードの人物はさっと視線を逸らして船を降りて行ってしまった。
三
港町アイナリに降り立つと、ハルは使用済みの乗船契約証を愛用の手帳の中に貼り付ける。
「へへ! 潮路商会の切符! 切符コレクションコンプリートへの道がまた一歩近づいた」
その小さな身体に対して、少し大きめの手帳を抱きしめながら、ハルが嬉しそうに尻尾を空に向かって立てる。
嬉しそうに先を歩くハルの後方で、ゆったりと歩を進めていたジェードが足を止めて口を開いた。
「おい、ミケ公。どこに行くつもりだ。冒険者ギルドは、こっちだぞ」
ジェードの言葉に、ハルがギクリと背を丸める。
「なんのことでしょうか、ジェードさま。ぼくは、ただ、この先にある屋台の羊肉の串焼きが食べたいだけですけど?」
視線を逸らしながらハルが棒読みでそう言うと、渋い顔をしたジェードがつかつかと近づいてくる。
「そうやって、また無駄遣いをしようとする。きみは一体、老後をどう過ごすつもりだ」
「うっせーフリフリのフリル野郎! 明日の心配より、今日の飯の心配の方が大事だよ!」
ハルはそう叫ぶと、香ばしい匂いを漂わせている屋台目掛けて走り出そうとする。
だが、やはりというべきか、それはジェードによって制されてしまう。
ハルの背負う大きなリュックを掴むと、ジェードはずるずるとそれを引きずりながら、冒険者ギルドのある方角へ歩き出した。
四
冒険者ギルド、イニシル支部にて。
港町にある都合、この東ディシー大陸イニシル地方の中でも活気のある冒険者ギルドだ。
ジェード曰く、このイニシル支部で依頼完了の報告をすると、ギルドが発行している、唯一ほぼ全地域で利用可能な貨幣である証紙が通常より多く貰えるらしい。
ジェードに引きずられながら、ハルも受付カウンターに向かうと、そこには折れ曲がった猫耳が特徴的な、受付嬢らしき女性が居た。
受付の女性は、ジェードに気づくと気安い様子で声を掛けてきた。
「あら、セブンス。八年ぶりね。また通称変更でもするのかい」
「今はジェードだよ、リラさん。それに用件はそっちじゃない、こっちだ」
ジェードにリラと呼ばれた女性は、差し出された任務達成証の束に視線を落とす。
「へえ、結構な量じゃない」
感心した様子でリラが任務達成証を一枚一枚確認している。そうこうして、確認し終えると同時に、リラとハルの視線がかち合う。
「ジェード、そっちのイカしたさくら耳の子は?」
リラの言葉に、ジェードが「ああ」とやや面倒くさそうな顔で続ける。
「このミケ公は、小迷宮で拾った野良猫だ。今は一応、冒険者の端くれだ」
「ふうん?」
ジェードの雑な説明に、ハルがちょっとむっとした顔になる。
「お姉さん! オレはハル。地図師なんだ。オレ、結構凄い地図師なんだよ!」
「あらそうなの。ふふ、じゃあその凄い地図を売ってくれるかい?」
ジェードの紹介が気に食わないので修正したのだが、リラはくすくすと笑っている。
なんだかプライドが傷ついたハルは、唐突にリュックを下ろすと、中を漁り始める。
そうして暫くして、やっと見つけた薄茶色をした紙の束をカウンターに広げて見せた。
リラは、それを数枚じっくり広げて眺めていくと、少し表情が変わった。
「へえ、嘘じゃないみたいだね」
本当に感心したらしいリラは、ハルを見て言った。
「どーよ!」
ふふんと鼻を鳴らしながら、ハルが胸を張る。
「でも残念ね。さっき、情報部から碧潮の兆候があるって聞いたよ。だからこの地図は買い取れないわ」
リラの言葉に、ハルはがっくりと肩を落とした。
「むぎー! だから碧潮って嫌いなんだよ!」
地団駄踏むハルを尻目に、証紙を受け取ったらしいジェードがリラに礼を言う。
「ありがとう。いくつか任務を受注したいのだが、頼めるか」
「そうねえ
……
」
すっかり放置されてしまったハルは、二人のやり取りを聞きながら、辺りを見回す。
冒険者ギルドの内部は、大勢の冒険者が行き交っており、ジェードから伝え聞いた通り、なるほど確かに活気がある。
そろりとした足取りで、ジェードから離れたハルは、内部の探索を始める。
地下へと続く階段を発見したハルは、軽快な足取りで降りていく。
地下にあった施設は、酒場だった。情報交換の場として提供されている、冒険者ギルドの定番スポットである。
酒場の空気は、葉巻の煙で、少し煙っている。
バーカウンターに座ると、ハルは得意げに銀貨を数枚取り出してこう言った。
「おじさん。蜂蜜のエール、一杯頂戴!」
酒場の主人はハルと銀貨を交互に見ながら、申し訳なさそうに言った。
「火印銀三枚じゃ足りないよ」
「ええ!?」
ハルが戸惑った様子で声を上げると、酒場の主人が付け加えるように言う。
「碧潮が来るんだ。冒険者ならわかるだろう」
碧潮が来ると地形が乱れる他に、色々と災害が起こる。そのせいで、ギルドの発行する証紙も御三家と呼ばれる商会が発行しているそれぞれの貨幣の相場レートも全て崩れてしまうのだ。
ジェード直伝の商会ごとの換算式までは、正確には覚えていない。
しかし、碧潮前に物価が上がり、不安定になることは知っている。
「くそぉ。ここでも碧潮かよ~!」
ハルが憤慨していると、背後から呆れたようなジェードの声が降ってきた。
「こんな所に居たのか。日が暮れる前に次の目的地に着きたい。さっさと行くぞ」
「ええ? 食事は? 折角の港町だよ? おいしい郷土料理の数々は?」
ハルが必死に訴えかけると、ジェードが少し考えるようにして目を瞑る。そうして、やや間を置いてから、ジェードは渋々といった声で言った。
「一軒だけだぞ。
……
私は食べないし、絶ッ対に立て替えないからな」
「よしきた!」
ジェードの言葉に、ハルが「やったー」と言わんばかりに両手を勢いよく広げる。
五
港町アイナリの中央広場にある、食事処ミャオミャオ亭に、ハルとジェードは来ていた。
「お姉さん! この魚河岸揚げ三昧定食と地酒アリナリーナを一杯お願い!」
メニュー表を開きながら、ハルがウキウキとした様子で、フロアスタッフに告げる。
「そちらのお客様は?」
フロアスタッフがジェードに尋ねる。
「
……
私は、この一番安いエールを一杯頼む」
ジェードは、渋い表情でそれだけ言うと、フロアスタッフは笑顔でキッチンへと戻っていった。
その様子を見ていたハルが、ニヤニヤとした顔でジェードを小突く。
「なんだ! やっぱりカラスくんもお酒飲みたいんじゃん」
だが、ジェードの返答は、ハルの想像とは異なった。
ジェードは、提供された水を口に含み、真顔でこう返した。
「店に入っておいて何も頼まないのは、紳士として恥ずべきことだ」
「さいですか
……
」
紳士とは不思議なものだ、とハルは思う。まあジェードの場合は自称だけど、と付け加えつつ。
そうして、お待ちかねの魚河岸揚げ三昧定食と地酒アリナリーナが届くと、ハルは目を輝かせた。
カリっと揚がった地魚の数々は、どれも一級品で、地酒もとろりとした喉越しで、最高だった。
その向かい側では、ジェードがちびちびと安酒を飲んでいる。
「
……
イカのから揚げ、ひとつだけあげよっか?」
ちょっと憐れに感じたハルが告げると、ジェードが少しムッとする。
「同情なら結構だ」
「あっそ」
それだけ言うと、ハルは再び食事に手を付け始める。
じっくりと郷土料理を味わったハルが、名残惜しそうに地酒の最後の一滴を飲み干した時だった。
ハルたちの席の後方の客席から、深刻そうな女性の声が耳に入る。
「路守り小屋へ通じる森が、怪異化したらしいよ」
「やっぱり、碧潮が来るせいだろうか
……
」
女と相席しているらしい男性の声にも、どこか陰りを感じる。
会話を盗み聞いたハルが、小声でジェードに告げる。
「怪域かな? オレたちが通るルートじゃないと良いけど
……
」
その言葉に、既に酒を飲み終えて、窓の外を眺めていたジェードが視線だけハルに向ける。
「さあな。ただ、発生して日が浅いなら、外縁部まで完全に閉じている可能性は低い。現地を見て判断する」
ジェードは、それだけ言うと、音も立てずに立ち上がった。
「会計を済ませて、さっさと発つぞ」
「はぁい」
ハルはそう言いながら、懐から肉球の焼き印と小さな鈴の付いたがま口財布を取り出した。
「別会計だからな? きみの分は、絶対支払わないぞ。もちろん、足りるんだろうな?」
念押しするようにジェードが確認すると、ハルが呆れた顔になる。
「守銭奴め。足りますよーっだ」
そう言いながら、そっとがま口財布の中にある貨幣に視線を落とす。
(ま、全財産なんだけどね)
と、ハルは内心で付け加えた。
六
町を出て街道に出ると、既に日が暮れ始めていた。
茜色に染まりかけている空では、寄り添うように浮かぶふたつの月が、それぞれ紅赤色と白緑色に薄く光り始めている。
冒険者ギルドや町の共同体などが作った舗装された道も、進む内に、途切れ途切れになっていく。
他の冒険者から買い取った地図を片手に、淀みなく進んでいくと、今日の野営地である路守り小屋へ続く森へと辿り着いた。
「ゲッ。これって、さっきの料理店で聞いた
……
」
地図に記された「鈴鳴りの聖域」と書かれた森と、目の前に広がる森を交互に見ながら、ハルの二又に分かれた尻尾が総毛立つ。
「そうだな、怪異化したと噂の森のようだ」
淡々とした様子でジェードは言うと、軽く荷物の中身を確認する素振りを見せた。
「路守り小屋までの道が残っているなら抜けられる。兆候が悪ければ引き返す」
それだけハルに伝えると、ジェードは一呼吸置いてから、携帯用の小型ランプを手に、すたすたとした足取りで中に入っていく。
「あ、待ってよ。ジェードってば!」
どんどん遠ざかっていくジェードの後ろ姿に、ハルが慌てた様子で追いかける。
頭上では枝葉が重なり、寄り添う双月も星も見えなかった。空を最初の基準点にするハルにとって、それだけで森はひどく歩きづらい。
(ったく。ジェードって、ほんとーに優しくないよなあ。もうちょっとこう、手心が欲しいよ)
両耳を水平に寝かせて外側へ向け、周囲を警戒しつつ、ハルは内心でひとりごちる。
ざわざわと木の葉同士がこすれ合う音の中に、微かに混じる異様な気配。
その気配に、携帯用ランプを持ったハルの手が微かにぎこちなく揺れる。
ハルにとっても、世界にとっても、この大地に蔓延る怪異というモノは、説明し難い現象で、碧潮と同じ自然災害のようなものだ。
碧潮も、怪異も、経済を狂わせ、人々の暮らしをも脅かす。
だが、それはそれとして、怪異は世界経済を回す為の貴重なエネルギー源でもあった。
ハルが今、手に持っている携帯用ランプの燃料も、元は怪異から生まれたものだ。
解体した怪異現象から発生する、灯晶という燃えるように輝く結晶が材料として使われているらしい。
精製工程は専門外なので、細部までは覚えていない。だが、灯晶を回収する手順は正確に身についている。
灯晶について教わった際、ジェードはハルに、こう語っていた。
(ハル。残念ながら、怪異と私たちは共存していくしかないんだよ)
そう語ったジェードの声は、諦念とも取れるような、どこか疲れ切った声色だったのを、ハルはよく覚えている。
(でもなあ。怪異なんて、ない方が平和じゃないの? まー、地図師としては、やっていけなくなるかもだけどさ)
静かすぎる森の中、不安を紛らわすように考え事をしながら、慣れた様子で先を行くジェードの後を付いて歩いている時だった。
ふっと、ハルの手に持っていたランプの明かりが消えた。
それと同時に、ジェードの持っていたランプの明かりも一緒に消え失せてしまった。
周辺が、急速に暗くなる。
「ジェ、ジェード!」
ハルが慌てた様子でジェードのコートの裾を片手で掴む。
「落ち着け、ハル。以前、教えただろう。これは灯喰いだ」
ぎゅっと掴まれた裾を振り払うことはせずに、ジェードが振り返らずにハルを宥めるように言う。
「あー
……
あかりぐい? うん、知ってる知ってる。アレだよね、ほら、アレ
……
明かりに寄ってきて臭い草で追い払えーる奴、みたいな
……
」
うまく説明できずに目を泳がせるハルに、はあ、とジェードが深いため息を吐く。
「概ね合っている。東側の大陸ではよく現れる。覚えておくんだな」
ジェードは、それだけ言うと、肩から下げていた丈夫そうなショルダーバッグから何かを取り出した。
スッキリとした爽やかな香りが、ハルの鼻の奥を通り抜けてゆく。
これは確か、この東の大陸へ渡る前に、西の大陸の港町でジェードが買い足していたミンティア草だ。
よく見ると、ジェードの手には小さな匂い袋が握られている。
手に持った匂い袋を、ジェードが丁寧な手つきでハルに手渡す。
「それをランプに括り付けろ」
ジェードが手本を見せるように、ランプの取っ手部分に匂い袋の紐を括り付ける。
すると、ぽう、と淡い光が徐々にだがランプに灯る。
それを見たハルも、まごつきながらも同じように匂い袋をランプに取り付けた。
そうして暫く待っていると、ハルのランプもすっかり明かりが復活していた。
「先を急ごう」
ハルの手元のランプにも明かりが灯り直したのを確認したジェードは、再び地図に目を落として歩き始める。
それを追うようにして少し歩を早くしたハルが、ジェードの隣に並ぶ。
「なあ、灯喰いは解体しないの? オレ、ちゃんと灯晶回収できるよ」
ハルが尋ねると、ジェードは前を向きながら、言い聞かせるように言った。
「夜に解体しても、無尽蔵に湧いてキリがない。やるとしても朝だ」
「
……
あっそ」
地図でルートを確認しながら、森を突っ切っていくと半ばあたりで、誰かが立てたらしい木製の案内標識が現れる。
案内標識は、二又に分かれており、分岐点を示していた。
それを見つけたジェードは、バッグから先ほどの匂い袋と簡素な耐水性の紙を取り出した。
何やら紙にメモをすると、匂い袋と共に、標識の柱に取り付けた。
「なにやってんの?」
ハルがその様子をまじまじと観察していると、ジェードが短く言った。
「後から来た人が困るだろう」
「あ、そうだね
……
」
ジェードの言葉の意味を察したハルが、やや恥ずかしそうに頷く。
「対症療法だが、これくらいはしておくべきだろう」
それだけ言うと、ジェードは再び地図に目を落とす。
やや、思考時間が長いような気がしたハルが、ジェードの顔を覗き込む。
「どったの?」
ハルの声に、ジェードが、何も言わずに己の顔半分を覆っている前髪の端っこを軽く指先で摘まむ。ジェードが困っているときの癖だ。
その様子で、事情を察したハルが、目を瞑って耳を澄ませる。
「んー
……
」
じっと耳を澄ませていると、左側の道から、僅かだがチリンチリンという鈴の音のようなものが聞こえた。
「カラスくん。こっちこっち」
ハルは、音のしなかった右側の道を指さした。
得意げなハルの様子に、ジェードは前髪を弄る手を止める。それから、ゆっくりと取り出したナイフで右の標識に傷をつけ、右側の道に入っていく。
「よくやった、ハル」
ジェードが、後ろからついてくるハルを振り返りながら、淡々とした声で言った。よく見ると、少しだけ口元に笑みが浮かんでいる。
「まあねー?」
ジェードの様子を見たハルが、その声に含みを持たせながら言った。
七
森を抜けて少し歩くと、舗装された道が再び現れた。
平坦な街道を歩いていくと、古い防犯灯柱が一つだけ、ぽつんと立っている。
その明かりの灯る柱の傍には、雨宿りくらいは出来る程度のひさしが付いた山小屋が建てられている。
「路守り小屋だ! やったな、ジェード!」
ハルが隣を歩くジェードを追い越して、山小屋目掛けて走っていく。
小屋の中に入ると、小さな二段ベッドと小さな机、そして壁際には掲示板と本棚が備え付けられている。
「やったー! 誰もいない! ベッド使い放題だ!」
そう声を上げると、ハルはリュックを下ろすと、勢いよくふかふかとは言い難い、ぺたんこに潰れた敷布に飛び込んだ。
ギッシと軽く軋む音がしたが、ハルは構わずに枕に顔を押し付ける。
「くう~。寝心地は最悪だけど、野宿よりは全然マシだね」
本日の寝床に適当に評価を付けているハルを尻目に、ジェードは壁に備え付けられた掲示板を確認している。
「カラスくん、ごはん! 腹減った!」
ベッドに寝転がりながら、ハルが手足を広げてじたばたと軽く暴れる。
騒ぐハルを無視して、ジェードは本棚に置かれた一番真新しそうな冊子を開いて読み耽っている。
こうなると、ジェードはもはや、ただの本を読むだけの銅像だ。
ジェードがご飯を用意してくれないのを察したハルは、リュックに入れてあった、ふたりの共有財産である食料袋を漁る。
「確か、港を出る前にー
……
あったあった」
ハルは、分配済みの携帯食である干し肉をカリカリのパンに挟んで食べ始める。
ベッドの上でパンを頬張りつつ、横目でジェードを見れば、先ほどとは別の冊子を読み始めていた。
「うわー。相変わらずの本の虫
……
気味悪っ!」
ハルが呆れた様子で嫌味じみた言葉を呟いても、ジェードは無関心だ。
旅の道中で出会う路守り小屋という野営地には、何故か本棚が備え付けられており、本が何冊も置いてある。
なんでも、誰でも書き込める自由帳のような冊子をいくつか備え付けて置くと、場が安定するらしい。要するに、怪異化しづらいという事のようだ。
名前は確か、道標帳だったか。
ハルは、歴史や学術的な理由には興味が薄い。ただ、記録がある場所は怪異化しにくいことと、旅人が情報を書き残す場所だということは理解している。
そして、現在の腹が満たされたハルにとっては、道標帳の確認よりも眠気の方が勝っていた。
ハルは、リュックから手帳を取り出し、適当に今日の出来事を記録すると、大きくあくびをした。
「もう寝るねー。おやすみ、カラスくん」
髪を結っていた水色のリボンを解くと、ハルはそれだけ言って、愛用の外套兼毛布を片手にベッドの中に潜り込んだ。
八
明け方になると、ハルは目を覚ました。
もぞもぞと、ベッドから這い出ると、ジェードが立ったままスヤスヤと寝息を立てている。
(なんでベッドあるのに、何時も立ち寝なんだろ、こいつ
……
)
そんなジェードの姿に軽く引きつつ、ハルは気を取り直して軽い伸びをした。
「暇だな~。カラスくんも起きないし」
身支度を整えたハルは、勝手に朝食を取りながら、本棚にあった最新の道標帳を手に取った。
ページを捲ると、小屋に立ち寄った誰かが書いたらしい記録が残されている。
「なになに。えーっと
……
なんだっけ、この字の意味」
ぼりぼりと頭を掻きながら、知らない単語の意味を無理くり自分なりに解釈しつつ読むと、そこにはこんな事が書かれていた。
――
港町アイナリには、料亭極楽鳥という世界有数の三ツ星料亭があるらしい。今から楽しみだ。(第五季の四十五日)ガストロミーより。
どうも、ガストロミーという人物が書き留めた記録らしい。
だが、そんな細かい事は、ハルにとっては些末なことである。それよりも、もっと重大な記述に目を奪われていた。
「な、なんだってぇ!?」
ハルは大きく目を見開いて、絶叫に近い声を上げた。
「ジェード! 大変だ! ジェードォオオ! 起きてってば!」
「
……
うるさいぞ、ミケ野郎」
ハルに叩き起こされて、ジェードが目をしょぼしょぼとさせつつ、恨めしそうな声を上げる。
「何事だ」
「何事も何も、超緊急事態だよ! 昨日の港町に引き返そう! 今すぐ!」
焦った様子で騒ぐハルに、ジェードが眉を顰める。
「なぜ?」
「あのアイナリって港町! 三ツ星料亭があったんだよぉ~!」
ハルの慟哭のような雄たけびが、路守り小屋の中で木霊した。
二人の旅は、続く。
第一章完
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