青色
2026-06-14 23:36:13
6875文字
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燭鶴「紫陽花」

光忠くんが鶴さんと紫陽花を重ねて綺麗だな〜と思ってたり、二人一緒に雨に濡れたり、愛を確認してたりする話です。作中に引用した俳句は正岡子規の句です。

「あぁ、鶴さん、ここにいたんだね」

 本丸敷地内の池を東に回ったあたりに紫陽花が自生しているところがある。その紫陽花の前に鶴丸があぐらをかいて地面に座り込んでいるのを光忠は見つけて、声をかけながら近づいた。

 今日は朝から雨が降り続いていて群生する紫陽花の色はやわらかい。そういえば昨日、福島光忠がちょうど紫陽花が満開になったのだと話していた。

 鶴丸がどのくらいそこに座り込んでいたのか分からないが、光忠が近づいてみると彼の長い襟足がすっかり濡れた首筋にぺたりと貼りついているのはよく伝わった。そばに彼が差してきたであろう傘が放り出されていて、どうやら白い内番着が汚れることも気にせずそれなりに長い時間、雨に濡れているらしい。

 光忠はそんな鶴丸の隣に立つと頭上へと傘を差し掛けた。すでにここまで濡れてはいるけれど、これ以上濡れないようにと思って。

「おぉ、光坊か。何か用事だったかい?」

 地面に座り込んだままの鶴丸がこちらを見上げた。見上げるのに濡れた前髪が額に貼りついて邪魔だったのか、髪をかきあげている。あらわになるやや狭い額はひときわ白い。

「ううん、何ってわけじゃないんだけど、今日は鶴さん、非番なのにおやつのつまみ食いに来なかったからどうしたのかなって」
「おっ、もうおやつどきだったのか、長居しちまった」

 鶴丸は少し目を丸くした。本人としても、そんなに長い時間雨の下にいたつもりはなかったらしい。

「わざわざ探しに来るくらいだ、今日は特別だったみたいだな」
「あ、いや、探してたわけじゃないし、おやつはいつもどおりだよ。でも、鶴さんを見かけないとなんとなく気にかかるっていうか。……まぁ、だから、そうだね、そうすると鶴さんのことはやっぱり探してた、のかな」
「はは、相変わらずきみは俺が一人でどこにいるのか知りたいらしい。心配性だな。いや、寂しがりなのか?」

 鶴丸は茶化すように言って笑った。光忠も曖昧に微笑む。
 恋人の姿が見えないと探してしまうのは、寂しがり、なんだろうか。自分としては、寂しがりというよりは心配性という感覚がある。鶴丸という人は、自由奔放だから。実際、今もこうして雨に濡れているし。

「それにしても、何してたの? こんなに濡れちゃって寒くない?」
「何、この季節だからな、冷えはしないさ。ケロ助を見送っていたんだ」
「ケロ助?」
「あぁ、こいつのことだ」

 鶴丸が目の前の紫陽花の葉を指差したので、光忠もしゃがみこんで彼が指す先を見つめた。そこには、小さなアマガエルが一匹じっとしている。

「馬小屋に迷い込んでいてな。そこにいるよりは、雨の下で花に囲まれているほうがいいだろうと思って連れてきた」
「そうなんだ。――……

 何をしているのかは分かったが、しかしなぜ自らも一緒に雨に濡れているのか? という光忠の言葉にしなかった疑問を感じ取ったらしく、鶴丸は笑った。

「そして、俺は雨に濡れているケロ助とこの花たちが心地良さそうだったから真似してみたってわけだ」

 こいつは良い雨だぜ、と彼は言った。

「あぁ、そういうこと」

 光忠は頷いて、では自分がこの人に傘を差し掛けているのは無粋だったか、と思って傘を差し掛けるのをやめた。もっとも、鶴丸はあまりこのことを気にしてなさそうだったけれど。

「ケロ助さんとお花の真似してみてどう?」
「そうだな、雨ってのは思ったより冷たくない。静かで穏やかだ」
「雨ってなんだか退屈そうだけど、鶴さんが楽しんでるならそうじゃないんだね」
「そりゃそうさ。静謐さは単調じゃなく、豊かで雅だ。鮮やかでな」

 鶴丸は大人びた――いや、確かにこの人は大人なのだが、傘を放り出して雨に濡れているというわんぱくさが少年のようだったので、そこが引き立って見えた――笑みでそう言う。

「鮮やか」という言葉に引っ張られて光忠は満開の紫陽花の方を見た。雨のしずくを花の表面にたたえて、紫陽花は確かに晴れの日よりも鮮やかな色に感じられる。雨雲のせいで世界の光が全体に薄暗いからかもしれない。

 紫陽花を眺めてから、鶴丸の方を見た。彼の内番着はすっかり雨が染み込んで、白色の奥に襦袢の濃い色が透けている。同時に満開の花たちの色――青や紫の色が、彼の白い髪や袴の裾に淡く反射していることで、そこにほんのりと色が移っているかのようにも見えた。だから、光忠にしてみれば今日の彼も、なんだか彩り豊かだった。

 鶴丸が言うとおり、この静かな空間はとても色鮮やかだ。そしてこの鮮やかさを楽しむには、視界を遮るビニール傘が少々邪魔だと思う。

 だから光忠は唐突に傘を閉じて、鶴丸と同じように雨に濡れることを選んだ。

「おぉ?」

 光忠の行動に彼は不思議そうな声を上げて、こちらを見た。

「光坊、きみが思ってるより濡れるぜ。やめときな」
「あはは、濡れてる鶴さんに止められても説得力ないかな」
「だが、きみは内番着じゃないからな」
「どうせ洗うんだから、何を着てても一緒だよ」

 光忠は笑って言って、遮るものがなくなった視界で改めて目の前の世界を眺めた。

 うん、さっきよりももっと鮮やかに感じられるような気がする。花の色も、この人のことも。

「鶴さんが見てる彩りを僕も見たいと思ったんだ」
「そうか。光坊はそういうところがあるよな。……なら、しばらくこの色を堪能しようぜ」

 彼は面白がるように言って、膝の上に肘をついた。ぴょん、とケロ助が少し移動するのが見える。

……なぁ光坊、紫陽花は心の移ろいやすさを想像させるらしいと知っているかい」

 しばらく静かに雨を感じていると、不意に鶴丸がそう言った。

「移ろい……。えっと、それは、色が変化するからかな?」
「あぁ。『紫陽花や きのふの誠 けふの嘘』なんていう句もあったりするしな」

 ま、人の心ってのは確かに移ろいやすい。そんなようなことを軽い口調で鶴丸は言った。光忠は何か話が続くのだろうか、と思ってしばらく彼の横顔を見つめていたけれど、特になんということもなく、目的地のないただの雑談だったらしい。会話はあちらこちらに寄り道をしながら、他愛なく続く。

 雨は一定の強さで静かに降り続いていた。雨粒が花と葉の上を跳ねている。

 しずくは花の上に水滴となって溜まり、それはそのうちに大きくなって、やわらかな花弁の上を流れ落ちていった。

 その様子を眺めた光忠は、なんとなく視線を今度は鶴丸の横顔に向けた。

 先ほどの光忠と同じように紫陽花に落ちる雨を眺めている彼のその横顔を見ていると、やわらかな頬に雨の水滴がすーっと伝い落ちるのが分かった。それは泣いているようにも見えるかもしれなかったが、光忠にはそれが、しずくが流れ落ちる紫陽花の花弁に似ているように思えた。

 光忠がそうやって眺めていると、不意に鶴丸が紫陽花に人差し指を伸ばす。その指先は花の表面に触れて、しずくの流れをたどるように繊細な呼吸でそこをなぞった。

 その様子を視界の端で見た光忠は、彼と同じように指先を自分の視線の先のやわらかな表面に――鶴丸の頬に――伸ばして、流れ落ちた水滴の流れをたぞった。ふわりとやわらかい、内側が透けるような薄く白い肌の頬。

 鶴丸がびくり、と小さく身体を震わせて、光忠の指から少しだけ距離を取った。光忠の指先が触れたところを自分で確かめるように触る。嫌だったというよりは、純粋に驚いたみたいだ。光忠が恋人である彼に触れることは互いにとってめずらしいことではないが、このタイミングを想定していたなかったのだろう。

「なんだい、驚いた」
「あっ、ごめん、なんでもない」

 光忠も光忠で、ほとんど無意識に触れてしまっていたので少しばかり慌てた。驚かせるつもりはなかった。

「なんでもないってことはさすがにないだろう。何か付いてたか?」
「いや、そうじゃないんだけど――

 光忠はなんと説明すればいいか迷った。触れたのは確かに無意識だったけれど、触れたいと思った理由がないわけではない。

「そう、だね、……えっと、鶴さんは、さっきなんで紫陽花の花に触れてたの?」
……?」

 光忠から逆に質問が返ってきたので鶴丸は怪訝そうな顔をした。したものの、彼は少し考えて、綺麗だと思ったから触れたくなった、と言った。

「じゃあ、僕もそれと同じだ」
……?」

 鶴丸が首を傾げるので、光忠は続ける。

「さっき鶴さんに触れたのは、あなたが紫陽花に触れた理由と同じだよ。綺麗だなって思って」
「はは、紫陽花と同じくらい綺麗ってか。さすがの俺も花には劣るぜ」
「そうかなぁ。鶴さんは綺麗だよ。いつでも鮮やかだし」

 光忠は至極真面目に言ったのだけれど、鶴丸はやれやれと言いたげに肩をすくめた。
 彼はいつも光忠の言う賛辞のうちいくらかを、光忠の贔屓目が過ぎると思っているようだった。別に光忠の恋人としての贔屓目じゃなくて、事実そうなのだと光忠としては思うのだけれど。そのあたりは伝わっていないみたい。

 そうしているうちに、光忠たちの近くを行ったり来たりしていたケロ助がふと紫陽花の木々の奥へと消えていく。それを確認して、よし、と鶴丸が立ち上がった。

「ケロ助も帰っていったし、さすがにちと濡れすぎたな。帰るか、光坊」

 彼の言葉に頷いて、光忠も立ち上がった。ちょうど雨もほとんど止みかけてきていた。光忠は放り出されていてた鶴丸の傘も拾い上げて閉じると、自分の傘と一緒にまとめて持った。帰るために踏み出した足元の地面が来た時よりもぬかるんでいる。

「なぁ、光坊」

 本丸までの道を戻りながら、鶴丸が口を開くので、光忠は彼の方を見た。

「きみは俺と紫陽花が似ていると思ったんだよな」
「うん、どっちも鮮やかで綺麗だからね」
「そうか」

 鶴丸はこちらから一度視線を逸らして、何かを考えるような顔をした。

「白い紫陽花があるのを知っているかい?」
「あ、福島さんがこのあいだ活けてたね。あれも土の影響による色なのかな?」
「いや、それが違うらしい。白い紫陽花は始めから終わりまでずっと白いんだ」
「へぇ、そうなんだ。知らなかった、そういうタイプもあるんだね」

 鶴丸という人は好奇心旺盛で、それゆえに知っていることの幅が広い。兄たちから草花の蘊蓄話を聞かされている光忠より草花のことを知っていたりする。

「だから、俺が紫陽花に似ているなら、それは白い紫陽花だな」
「ふふ、そうだね、色で言えばそうなるかも」
「違う違う、色が変わらないってことだ」
……?」

 光忠が首を傾げたら、彼は曖昧に呆れたような、それでいてどことなく真剣な表情でありながら笑って続けた。

「仮に俺が紫陽花だとしても、移り気に色が変わる花ではなくて、一途に色が変わらない花だってことさ。だから俺がどこかへ行ってしまうかもしれないだなんてことを心配したり、寂しがったりする必要はないぜ、光坊」
……、えっ?」
「いや、その、なんだ、……俺の姿が見えないとき、それをきみが気になるのは、そういう――俺に置いていかれる、みたいなことをを不安に思っているせいというか、俺がそういう不安を抱かせているせいなのかと思っただけだ」

 まぁ、違うならいい、と鶴丸は少しだけ早口で添えて、必要以上に大袈裟に肩をすくめて見せた。おどけて何かを誤魔化しているのかもしれない。たとえば、照れみたいなものを。

 光忠はといえば、そういった不安をまったく抱いたことはなかったので、彼がそういうことを気にかけてくれているのは意外だった。
 鶴丸という人は確かに自由だ。けれど、彼が自分のもとを選んでくれているということを、全面的に信頼している。だから、何か不安になることはない。

「大丈夫、そういう心配はしたことないよ。だって、鶴さんはいつも僕の隣にいる人だから」
「そう、か」

 鶴丸はなんだか拍子抜けしたような、しかし、なんだか安心したような顔をしてから苦笑した。

「俺の考えすぎだったな。すまん、忘れてくれ」
……? うん。あ、でも、鶴さんにさっきみたいなことを言ってもらえるのはすごく嬉しいよ。もう一回言ってほしいな、鶴さんが僕に一途だって」
「そこまでは言ってないだろう」
「えぇ? 言ってたよ?」

 もう一回聞かせてよ、と光忠がしばらく食い下がってねだったので、鶴丸は仕方なしという様子で口にしてくれた。

「はいはい、鶴さんは光坊に一途ですよっと」
「ふふ、ありがとう」

 しぶしぶ、という雰囲気なのは、嫌なわけではなくて照れているだけだ、と思う。この人は器用な人なのに愛を表現するとき、ときどき素直じゃないから。

「しかし……、それじゃあ光坊は、どうして俺の姿が見えないとき俺を探そうとするんだい?」
「うーん、どうしてかな」

 光忠は少し考えた。いつも、何か理屈を考える前に彼のことを探して一緒にいるからあまりよく考えたことはないけれど、しいて言うなら――

「鶴さんが見てるものと同じものを見ていたいのかもって思う。鶴さんの見てる世界は僕のよりずっと綺麗な気がして、だから僕もそれを覗いてみたいんだ。さっきも鶴さんと一緒に見た紫陽花はいつもより色鮮やかだったからね」
「はは、俺の見てる世界がことさら綺麗ってのは、相変わらずきみの過大評価だとは思うが。ま、だが、そうだな。一緒に見ているものが、一人で見ているものより綺麗だというのは同感だ」

 鶴丸はそう言い終えた瞬間、お! と声を上げて空を指差した。

「見ろ光坊、虹だぜ! しかも二重だ」
「わぁ、本当だ、綺麗だね」

 光忠は少し目を細めて前方の空を見上げた。雲が晴れてきていて、少し眩しい。

「きみが来なかったらこの時間まで紫陽花を見てなかっただろうから、この虹も見ることがなかったな。やっぱり二人で世界を見ると綺麗なのは間違いないのさ。だろう?」
「うん、そっか。鶴さんが見てるものっていうより、僕たちが一緒に見るものが綺麗なんだね」
「そういうことだ」

 鶴丸は機嫌良さそうに言って、こちらを下から覗き込むように上目でうかがって、続けた。

「それで、光坊が紫陽花と虹の次に俺と一緒に見たいものはあるかい?」
「そうだね、鶴さんとならなんでも見たいけど……

 光忠が少し考えたら、光忠の答えるよりも先に鶴丸が少年のような表情で言った。

「俺はな、きみと湯気のけむった風呂が見たい」
「あはは、見たいっていうか、それはただお風呂に入りたいだけでしょう?」
「いやいや、真面目にだぞ? 実際、きみと一緒に入る風呂が一番気分がいい。それはつまり、一緒に見る綺麗なものとも言えるだろう」

 彼が堂々と胸を張って屁理屈めいたことを言うので、光忠は笑ってしまった。

「一番気分が良いって、それは鶴さんは何もしなくていいからじゃない? 僕がいつもあなたを洗ってあげてるし」
「そういうことじゃない、きみといることのリラックス効果によるものだ! 行くぞ光坊」

 鶴丸が歩くペースを上げて、やや小走りになったのでそれに着いていく。

「全身ずぶ濡れだからな! 早くきみに頭を洗われたい!」
「やっぱりそれって僕になんでもしてもらいたいだけだよ」
「いいじゃないか、光坊はそれが好きだろう?」

 鶴丸は悪戯っぽく笑って、さらに駆け出すと、こちらを振り返って手招きしている。

「それはそう! だって、それもあなたと一緒に見れる綺麗なものだから」

 光忠は少し先に行った彼に声を張って返事をすると、そのあとを追いかけた。

 さっきすぐには思いつかなかったけど、僕が次に一緒に見たい――見せてもらいたいのは、自由奔放な鶴さんが僕を信頼してくれているところかな。

 光忠はそばに駆け寄りながら思った

 そういう様子は鶴丸が光忠に無防備に身を任せてくれるときに現れるものだから、次に見たいものがお風呂というのは正しいかもしれない。光忠に洗われているときの彼はとても無防備にこちらを信頼してくれているから。

 光忠の言ったことの後半についてぴんとこなかったようで鶴丸は不思議そうでもあったけれど、あまり気にしないことにしたのか、光忠が追いつくとすぐに楽しそうな表情に変わっている。

「きみも乗り気になってきたな、光坊」
「うん、僕も鶴さんと一緒に熱々のお風呂が見たくなってきたよ」
「いいねぇ、ざぶんといこう」

 二人は濡れた服を絞りながら本丸へと戻った。ずぶ濡れであることは本来不快なものだけれど、なんだか愉快な感覚なのは、きっとこれもまた二人で一緒に見る綺麗な世界の一部だからだと思った。