シノハラ
2026-06-14 19:10:01
5939文字
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他人事

ンズイル オメガバースだけどンズイルはどちらもβで、モブだけがえらい事になっている話です

 夜明かしの墓にある建物は全てライトキーパーの管轄下にある。灯台はもちろん、フリンズが暮らす地下の住居もライトキーパーの拠点なのだ。
 であるからには、ライトキーパーの人間であれば家主がおらずとも立ち入っても問題ない。夜明かしの墓に用事がありがちな人員は合い鍵を所有しているし、申請をすればピラミダとナシャタウン支部にある鍵を使うことができる。だからといって、室内を漁ったり私室にまで立ち入ったりするなんて事はしないが。
 ファデュイの研究施設との調整の帰りに顔を出してみたのだが、夜明かしの墓の墓守は外出中のようだった。非番の日だったと記憶しているので、もしかしたらナシャタウン辺りまで出かけているのかもしれない。
 一応彼がよく使う釣り場も無人であると確認してから、イルーガは拠点に立ち入った。地下の居間はしばらく人がいなかったのか、冷たい感触を伝えてくる。
 アドンに居間を照らしてもらいながら照明を点けてから、静かな部屋でペチカに火を入れた。ぱちぱちと音を立てながら頬を炙る炎の温度が部屋中に広がるまで、コートは着たままにしておくことにする。
 早朝に汲まれたらしい水をコップに注ぎ、イルーガはアドンが落ち着いたテーブルの席に腰を下ろす。それから筆記用具を拝借して、ファデュイとの会議内容の覚書を作成する。何のことはない。お互いの巡回のスケジュールを擦り合わせて、無駄を省くための定期的なやりとりだ。
……ん?」
 運が良ければ家主に会えるだろうと思っていたが、どうやら今日は空振りになりそうだった。書き置きの一つ残していこうと新しく紙を手にした瞬間、奥の方から小さな音が聞こえてきた。アドンも反応したので、どうやらイルーガの気のせいではないらしい。
 先には廊下が続いていて、フリンズの私室や他のライトキーパー――とはいえ最近はもっぱらイルーガ専用らしいが――が使う客室がある。もしかして、自室で集中していて来客に気がつかなかったのだろうか。
「アドンはここにいてね」
 イルーガの言葉をしっかりと理解してくれる聡明な相棒にお願いすると、鈴を鳴らすような機嫌の良い声が帰ってくる。その頬を軽く撫でてやってから、イルーガは持ち運びのできる明かりを手に廊下へ出た。薄暗い狭路を照らしながら彼の部屋の前に行き、三度間隔を開けながらノックをする。返事はない。
 首を傾げてもう一度ノックをしてみたものの、やはり返事もなければ扉が開きそうな気配もなかった。ここにいないのであれば客室だろうか。
「フリンズさん?」
 先ほどと同じように戸を叩きながら呼びかけてみるものの、中から返事はない。アドンが音を聞いていなければ、イルーガは首を傾げながら踵を返していただろう。
「フリンズさん、開けますよ」
 こうなってしまってはフリンズが意識を失って倒れている可能性もあるので、私室も鍵がかかっていなければ改めた方がいいだろう。そんな事を考えながら戸を開けた途端に、籠もった空気と微かな匂いが嗅覚を刺激した。ほんの少し記憶を刺激されはしたが、それが何か思い出せずにイルーガは眉間に皺を寄せる。
「フリンズさん?」
 妙な気配に今までよりも声を強張らせながら呼びかけつつ、イルーガは部屋に一歩足を踏み入れた。見慣れたベッドサイドには光量が絞られた照明が置かれたままになっていて、ベッドの上には毛布がぐしゃぐしゃになっている。
 その毛布の塊だと思われたものがもそりと動いた瞬間、イルーガはようやくこの部屋で何が起きているか理解した。正確には聞こえてきた特徴的な声色から察せられたのだけれど。
 慌てて体を廊下に戻して、イルーガは空気を押し戻す勢いで扉を再び閉めた。扉の隙間から逃げ出してきた空気が再び鼻先に踊って、今度はきつく眉間に皺を刻んでしまう。
 女性の甘さのある体臭と体液の匂いだったのだろう。実際に知覚したことはなかったが、若い女性からそういう匂いがする事があるくらいはイルーガだって知っていた。廊下を逆戻りしていつもの地下の空気だけになったはずなのに、鼻に染みついてしまったかのような感覚に囚われる。
 それが何を意味しているのか。あの声を上げた人物は誰だったのか。次々に浮かびそうになる疑問を打ち消して、イルーガは居間に残っている書類を思い浮かべる。
 今はそれだけしか考えてはいけない。あれを早く片付けて、一刻も早くここを出なければ。そうしなければいけない理由もまた、考えてはいけなかった。少なくとも今はそうするしかない。
 居間に続く扉を開けて、体を滑り込ませると先ほどと同じように力いっぱい閉じた。それからテーブルに残っている書類を見て、その脇にアドンがいないのに気づく。椅子の背にも、イルーガが床に置いているリュックの上にもいない。
「アドン?」
 背の高い家具にでも止まって部屋を見下ろしているのかもしれない。そんな事を考えながら視線を居間に投げかけて、回していた首が一点でぎちりと音を立てて止まってしまった。
 アドンが煌々と玄関口を照らしている。相棒は丈の長く深い色をしたコートに身を包んだ男の手に止まり、光り輝く風切り羽根を嘴で梳いていた。
 アドンに視線をやっていた男がちらりと視線をイルーガに差し向けて、月と同じ色の瞳がイルーガを捕らえる。
――見ましたか?」
 ひ、と喉から声が出て、自分が掠れた声を上げたのに気がついた。自分が初めて死に直面した時も、首に残っている古傷を作った時にもこんな情けない声を上げなかったのに。
 イルーガがしたようにアドンの頬を優しく撫でてから、ふむ、とフリンズが思案して見せる。どこから説明したものか、とイルーガに告げる様子もなく独り言ちるのが恐ろしい。
 いっぽ、にほ。いつも通りのゆったりとした歩みでフリンズはイルーガとの距離を詰めるが、イルーガは一歩も足を動かせなかった。すでに標的に選ばれているのに、息を潜めて気配を消してしまいたくなる。
……すみません」
 と、背後から急に声が聞こえてきて、今度こそ大きく声を上げそうになってしまった。何とか声を殺して振り返ろうとしたところに、目元を覆われて何も見えなくなってしまう。ごわごわとした感触の向こうに僅かにクッション性を感じるので、きっとフリンズの手袋だろう。
「見ない方がお互いのためです」
 反射的に剝がそうと彼の手を掴んだところ、耳元で小さく囁かれて背筋がそばだつ。正面は見えないが上ならと覆いの下から彼を窺えば、いつも通りの穏やかなまなこがイルーガを見下ろしていた。
「ご厚意で、とめていただいていて。それだけで、なにもありません」
「ご説明ありがとうございます。人がいるとつらいでしょうから、お戻りになってください。この子には僕らからも言っておきます」
 顎を上げずにイルーガをフリンズが見ているのは、フリンズも彼女を見ない方がいいからなのだろう。その仕草から二人が口裏を合わせているわけではないと確信を得て、イルーガは微かに安堵の息を吐く。
 男性が多い職場だからその手の話を聞くことは少なくはないが、同僚の性の事情に立ち入りたいとは思えない。今となっては失礼千万ではあるが、一番危惧していたのは二人の関係が良好なパートナーでない場合だった。
 ぱたんと扉が閉じる音がしてから、フリンズはイルーガの目隠しを外してくれた。明るくなった視界で後ろにいる彼をもう一度見上げると、イルーガを見下ろしていたフリンズの視線とかち合った。
「ごめんなさい、早合点をしていたみたいで」
「いえ、お気になさらないでください。四日前に急に天候が荒れたでしょう。そのせいで海を渡れずにいたようだったので、一晩客室をお貸ししました」
 なるほどと相槌を打ちながら、イルーガも四日前の事を思い出す。その時自分はキャンプにいて、夕食の食卓を囲んでいた頃合いだったはずだ。俄に南の方の空が暗くなり、しまいには鈍い稲光が届いたのを見て、こちらに流れて来なければいいけれどなんて話をしていたのを覚えている。
 その時、びしょ濡れになりながら夜明かしの墓の拠点の扉を叩いたのが彼女だったのだろう。住んでいる場所と仕事のスタイルから受ける先入観とは反対に、フリンズはとても親切な青年だ。きっと寒さに震える来訪者のためにたっぷりの湯と乾いたタオルを与え、夕食と翌朝までの宿を快く与えたに違いない。
「いつまで経っても起きてこないので、ノックをしても反応がないのでマスターキーで使わざるを得なかったのですが、その時にはすでにああなってしまっていて……
 当時の事を思い出したのか、フリンズの口調が少々淀む。周期にばらつきがある生理反応だから仕方がないとはいえ、朝っぱらからいきなり他人の濃厚な性の気配を食らっては驚いたどころの話ではなかっただろう。そうでなかったとしても、女性の寝所に踏み込む決心をするまでには相応の逡巡があったに違いない。
「僕はβでして、いかんせんこの手の場合の適切な対処法が分からず……とりあえず食事と身を清められる物だけお渡しして、後は途方に暮れながらなるべく家から離れて過ごしています」
「ああ、だからいなかったんですね」
 自分がフリンズの立場だとしたら、似たような選択をしていただろう。個室に隔離しているとはいえ、ヒートの真っ最中の見知らぬ人間と一つ屋根の下と言うのはなかなかに気まずい。気まずいだけならまだしも、もしも間違いが起こったら事である。どうしたものかと思いながらも時間の経過に任せる他なく、ぼんやりと釣りをしている彼の姿が目に浮かぶ。
「はい、そろそろ食事の用意をしなければと戻ってきたところに、大慌ての坊ちゃまがいたというわけです」
「すみません、余計なことを考えてしまっていて……
 あの時の自分はきっと、犯罪者を見るような目で彼を見てしまっていただろう。しっかりと頭を下げて謝罪すると、あれは自分も良くなかったとフリンズも苦笑する。
「あなたもその様子では少なくともαではなさそうですね」
「はい、僕もβです」
 普段はあまり意識もしないが、こういう場面に立ち会うと自分がβであってよかったと心底思う。Ωはもちろん、αだってこんな時に本能に自分を支配されたいとは思わないだろう。
 ナド・クライでは多くの人間がβではあるが、それでも今回関与した人間がどちらもαでなく、更に言えば人の弱みに付け込むタイプでなかったのは不幸中の幸いだった。一つでも条件が違っていれば、声しか知らないあの人は今頃無事ではなかったかもしれない。
 そう、女性なのだ。激しい雷雨の中一晩過ごすのと、見知らぬ男の家に泊まるのを天秤に掛けた結果とはいえ、恐ろしくなかったはずがない。
 その上、予想以上に早く訪れたヒートである。相手がαでなかったとしても、見知らぬ相手に弱味を見せる危険性はおそらく他の国よりもずっと高い。
「どうしましたか?」
……いえ、フリンズさんがとても良い事をしたと考えていて」
 つらつらと考え事をしている間、どうやらイルーガはフリンズをじっと見つめてしまっていたらしい。とうとう不審に思ったのか問いかけてきたフリンズに、イルーガは言葉を選んで動機を教えてやる。
「ありがとうございます。僕に一方的にではありますが、お慕いしている方がいるからでしょう。その方が僕にそうさせてくれたに違いありません」
 安堵するように、今一度自身の思いを確かめるようにフリンズが告げる。そう認識できたのは少々間の抜けた声をイルーガが上げてしまった後の事だった。
「君にもそういう人がいるんですね……
「はい、実は」
 驚いた拍子につられて跳ねた心音が元に戻るのはしばらく時間がかかりそうで、思わず心臓の上に手を置いてしまう。息が上がっているわけでもないのに、とくとくと普段よりも喧しい心臓が少しだけ物珍しい。
「もしかしたら、勝手に操を立てていると笑われてしまうかもしれませんが」
「そんな事はありませんよ。それともこの状況を知って、笑うような方なんですか?」
 それなら相手は選んだ方がいいのでは、とは言わなかったが、言ってしまっているようなものだろう。怒られても仕方がないと思うのに、どうにも我慢が利かなかった。
――まさか」
 少し口元を緩めて微かに笑いながら、フリンズがイルーガの勘ぐりを否定する。その柔らかさは彼の想い人がフリンズに与えたものなのだろうと思うと、普段の物腰の柔らかさとは違う性質を帯びているように感じられた。
「さて、坊ちゃま。心苦しいですが、今日はお帰りください。事の顛末は次にいらしたときにでも」
「はい、そうさせてもらいます。話のネタになるような事が起きないといいですね」
 まったくです、なんて言いながらフリンズがイルーガの鞄を手に取ってくれたので、机にほったらかしになっていた書類をまとめて鞄に入れるついでに受け取った。彼が言う通り、今回はここに留まるべきではないだろう。
「今度は物資を持ってきますね」
「分かりました。楽しみにお待ちしています」
 小さく手を振ってから彼の家を後にして、玄関がぎりぎり見える辺りで一度振り返る。そうすれば、フリンズはまだ玄関の前に立っていた。用事があって家に帰ってきたものの、再び戻るには覚悟を固める時間が彼にも必要なのかもしれない。
 今度は大きく手を振ってやると、フリンズが手を振り返してくれた。彼の心情を思うと後ろ髪を引かれる思いではあるが、かといってイルーガがいて助けになるわけでもあるまい。そんな事を考えているうちに客室の光景を思い出してしまって、イルーガは大きく首を横に振って踵を返した。
 あの場にいた全員のためにも他の事を考えなければ。足を滑らせないように気をつけながら、ぬるりとした海藻が所々についた大きな岩に靴底を下ろす。そう、たとえばフリンズの片思い相手の事とか。
 彼の言葉を信じるのであれば、フリンズには好きな人がいるらしい。半ば驚嘆しながらも、イルーガはその事実を受け入れる。
 そういう人だとは知らなかった。いや、人は生きていれば恋の一つくらいするものなのかもしれないが。
 つまり、彼は心の奥底の柔らかい場所に誰かを住まわせているのだ。誰といる時――もちろんイルーガといる時にも、そこは独り占めした誰かが座り込んでとろとろと微睡んでいるに違いない。
 恋をするとはそういうことだ。それなのに、イルーガにはそれがどうにも寂しく思えてならなかった。