kaede
2026-06-14 17:31:11
5367文字
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甘える燐音くんとつまみ食いされる一彩くんのはなし

燐一
⚠️雰囲気で読んでください
⚠️わたしはあまぎりんねに夢を見ています

 メールで請われた通りに兄さんの部屋へ行くと、扉を開けた瞬間に抱きつかれた。
……おかえり、兄さん」
 ドアくらいは閉めさせてほしい。
 兄さんの長い腕が伸びる気配とドアが閉まる音に背を向けたまま、僕は兄さんの背中に腕を回す。兄さんは黙ったまま、何も言わない。いつものことだ。多分、疲れているのだと思う。昔からそうだった。大人と変わらないまつりごと、責任を負ったあとはいつも、僕のところへやって来て、しばらく黙って僕をぎゅうっと抱きしめたあと、一彩のおかげで元気になれたよ、と笑っていた。そんなことで元気になれるなんてその頃の僕には不思議で仕方がなかったけれど、人は適度なスキンシップを取ることで、オキシトシンというストレス緩和が期待できるいわゆる幸せホルモンが分泌されるらしい。と、都会に来てから学んだ。ので、肉体的な疲労は変わらずとも、精神的なものについては多少なりとも軽減されていた、と考えるなら理にかなってはいたのだろう。
 実際、僕も兄さんとこうしているととても嬉しくて幸せな気持ちになるから、その効果について疑う余地はない。
「兄さん」
 お疲れさま、とか、愛してる、とか。いろいろな気持ちを一度に発言するに相応しい言葉を僕は持ち合わせていない。けれど、そのごちゃまぜだけれどいっとう大切な気持ちを少しでも伝えたくて、丁寧に、心を込めて兄さんを呼ぶ。
 兄さんが漏らした吐息が嬉しそうに僕には聞こえたからきっと、そのいくらかは届いたのだと思う。
……ただいま」
 僕をくるんでいた熱がほどけていくのが少し名残惜しい。少しだけ。兄さんは、僕から完全には離れていなかったから、少しだけ。
「ウム。少しは元気になれたかな、兄さん」
 まだ触れられる距離にいてくれたから。
 抱きしめるには遠いけれど、腕に触れるくらいなら難はない。
「んー……
 曖昧に唸った兄さんの顔色は、あまり芳しいとは言えない。肉体的なものよりも、精神的な疲労の方が強いように僕には感じられた。何か、難しい仕事でもあったのかもしれない。
「お腹が空いているなら、何か食べに行く? 食べたいものはある?」
 人は空腹だと神経が尖りがちだし、食事は気分転換にもなる。そう思って提案すると、また兄さんが僕を抱きしめた。
「一彩にする」
「ふふ。僕を食べたいの?」
「食わねェよ。まだ」
「まだ?」
 その言い方だと、いずれ食べる心づもりがある、みたいに聞こえる。僕の『食べる』が冗談だったように、兄さんの『食べる』は文字通りの意味合いではなくて、何らかの比喩だと想定できるし多分そうなんだと思うけれど。
 その比喩が指し示すものは、何?
「まだ、とはどういう意味?」
「そんなこと言ったか?」
「んん」
 同時に発してかぶった兄さんの言葉が想定外で、会話のテンポが乱れてしまう。
 調子を戻すのに数拍使ってから、答えた。
「言ったよ。……多分」
 兄さんは焦りも笑いもせず、あんまりにもニュートラルだったから、少し、自信が揺らぐ。確かに聞いたはずなのに、聞き違いだったのかもしれない、と思えてくる。
「確証がないなら聞き違いだな」
 そう言って、兄さんが僕の背中をあやすように優しく叩いたから、僕はもうそれ以上食い下がるのはやめた。絶対に聞き違いではないけれど、聞き違いということにしてほしいらしい兄さんを問い詰めてまで確認したいことでもない。
 だから、……だから? 何が『だから』なんだろう。わからないけれどとにかく、だから僕は兄さんにもう一度、抱きつく。抱きつくと、兄さんが笑った。実際は、兄さんは吐息を細かく漏らしただけだったから、僕が勝手にそう思っただけだけれど。でも、笑ったのでなかったとしても、何だか楽しそうな雰囲気だったから特に問題はない。
 だから、兄さんに促されるまま、座り慣れつつあるソファへ向かった。


……毎回思うのだけど」
「あー?」
「僕の膝枕はあまり気持ちよくないんじゃないかな」
「んなことねェよ。最高」
 決して広くはないソファに行儀悪く寝そべって小さく反論した兄さんの頭を、さらさらと撫でる。以前、兄さんにリクエストされたことを覚えていたからだ。兄さんは、猫だったらごろごろ喉を鳴らしていそうなくらいに上機嫌だ。僕を見上げる顔が、何だか幼く見える。だから、思った。
……僕は兄さんのこと、本当に何もわかっていなかったんだね」
「何だよ、いきなり」
 訳がわからない、というような口調なのに、兄さんの眼差しは不思議と、柔らかい。
「だって、兄さんがこんなにも甘えん坊だなんて、故郷にいた頃は思いもしなかった」
 もしかしたら昔から、僕に甘えたかったのかもしれない。でも僕が弱くて頼りなかったから、僕を守ることを優先していたから、本当に欲しかったものを得られなかった。
 そうなのだとしたら、僕は自分の愚かさが忌まわしい。
 下から伸びた手が、僕の頬を撫でる。幼い頃の記憶とは全然違う大きさなのに、触れた時の感触はあの頃と変わらない、いや、むしろいっそう深みを増した優しい手が、僕を。
「昔からこんなもんだったろ。疲れきって一彩に甘えて慰めてもらうとか、よくやってたしよ」
「僕の認識では、『甘える』ではなかったのだけれど、兄さんはそういうつもりだったんだね。理解できてなくてごめんね」
 それならばきっと僕は、兄さんの期待に応えられていなかった。
 兄さんは僕の視線を掬い上げるように、じいっと僕を見つめたあと、なぜか困ったように笑った。
「別に、謝ることじゃねェだろ。あながち間違いでもねェし」
 あながち間違いでもない?
「どういうこと?」
「さァな」
 そうおざなりに答えて、兄さんが顔を背ける。これ以上、追及してくれるな、とでも言うように。
 だから……本当は、兄さんの気持ちを尊重するなら『だから』でつなぐべきではないのだろうけど、それでも僕は知りたかったから。
 だから、言った。
「さっきも、本当はごまかしたんだよね?」
 兄さんが顔を戻す。僕を見る。
「さっきも? ……あァ」
 説明不足の僕の問いに、それでも合点がいった、という、つまり、認めるのと同義の相槌。
 それで兄さんは観念したらしい。もう僕の視線から逃げなかった。
……それで?」
「え?」
「何か思うところがあったから、わざわざ追及したんだろ」
 兄さんがうっすらとではあったけれど、僕を見て笑う。だから僕は、ああ兄さんは怒ってはいないんだ、と思った。ほっとした。
 兄さんに、斥力を持つ感情を向けられるのは、嫌だ。悲しくて、苦しくて、世界が真っ暗になるから。
「別に、兄さんの事情を蔑ろにしてまで知りたいわけではないけど」
 僕は自分の感情を説明するのが上手くないから、伝わらないかもしれない。そう、ちらと思いはしたけれど、言わなければ何も伝わらないことも、わかっているつもりだ。
 だから、僕には話を続ける選択しかない。
「それはそれとして、隠されて、なかったことにされるのは悲しいよ。僕はそんなに兄さんの信用に足る人物たり得ないのかな。……僕の言ってること、伝わっている?」
 兄さんが、ふう、とため息をつく。だから僕は兄さんに呆れられてしまったのかと思ったのだけれど。
「お前を蔑ろにするつもりはなかったんだが……って、結果的にはそうなっちまったんだもんな。ごめんな」
 僕の膝を解放した兄さんが僕の隣に座り直して、僕の髪をふわふわやる。だから……だから? 多分、だから、僕は兄さんに身体を預けてしまいたい、と、なぜかそんなふうに思ってしまった。でも、それをする理由が僕にはない。理由なんてなくてもいいんだろうか。自分の感情に従うことは、絶対的に正しいわけでもなければ、絶対的に間違っているわけでもない。僕は僕の心を正しさで律する必要はあっても、縛り付ける決まりはない。それが都会に来て、仲間と、兄さんと過ごして学んだことだ。
 なんてことを考えているうちに僕は僕の外側から働く引力に引き寄せられて、ああ兄さんが、と思っている間に兄さんに抱き締められていた。締める、といっても実際は綿菓子みたいにふわふわだったから、苦しいなんてことはなかった。嬉しかった。ずっとこうして、兄さんに囚われていてもいいと思えるくらいに。
 だから、僕を離さないで。
「『あながち』の方は今は勘弁してもらうとして、『食べる』の方は、お兄ちゃんがヒントをやろう」
 そう言って兄さんが、僕の髪と、額と、まぶたと、頬と、それから、目上の人にするみたいに僕の手を恭しく取って、指先に口付ける。それから、一度だけ僕の口元に視線をやってから、僕を見て笑った。
「これが、『つまみ食い』な」
 兄さんは楽しそうに微笑んでいるようにも、別の感情を笑顔で抑え込んでいるようにも見える。
 僕の主観だけで言うなら、僕の手の届かない、遠いところで笑っているような。寂しそう、苦しそう、……切なそう、な、顔で。
 呼吸が浅い。
 僕の、呼吸が。
 どうしてだろう。
 少しくらくらする頭のことを思考の外に追いやるのは、正直言って難しくはあったけど、それでも何とか、空いた脳領域で、考える。兄さんが触れた箇所の共通点は……身体を構成するパーツ、ということ以外には僕には皆目見当もつかない。それより、そこに何をされたのか、を考えるべきだ。……口付けをされた。優しくて、でもそれはありふれた優しさではなくて、特別を感じる、そういうキスをされた。そしてそれらは兄さんいわく、つまみ食い、と形容あるいは比喩される行為らしい。僕は少しだって食べられた気なんてしていないのに? とても嬉しくて、でも目の前がくらくらして息苦しくて……ああだめだ。ちっとも考えがまとまらない。
……ヒント、ということは、答えは自分で考えろ、ということ?」
 それは何とか捻り出した質問ではなくて、質問を考えるための質問、時間稼ぎみたいなものだった。いま口にした通り、兄さんが簡単に答えを教えてはくれないことは経験則でわかっている。つまり、すでにインプットされていた常套句を流したに過ぎない。
 僕が知りたいのはそういうことではなくて。……何を知りたいんだっけ?
「いや、まァ……自分で気づけたらそりゃ百点満点だけどよ」
 僕がよっぽど情けない顔をしていたからだろうか。兄さんが、ぽんぽんと僕の頭を撫でる。それから。
「これに関しちゃ、おめェに知る準備ができたら教えてやるよ」
 その場所に、僕を宝物に変えてくれるキスをした。
 だから、兄さんにもたれかかることにさほどの迷いはなかった。
 兄さんは僕が期待していた通り、それ以上に、僕を大切に抱き寄せてくれた。
……僕は何を準備すればいい?」
「何も」
「何も?」
「俺の見立てなら、準備しはじめてる、ってとこだからよ」
……何もしないで兄さんに任せっぱなし、というのは性に合わないよ」
 正直言って、兄さんの言っていることが僕にはさっぱりわからない。けれど。
 兄さんの負担にしかならない僕が、僕は一番、嫌いだ。
 これだけは、僕の中で明確だ。
「お前は俺のことをずっと好きでいてくれれば、それでいいんだよ」
 僕の言い分を聞いて笑った兄さんは、少し困っているような、それでいて楽しそうな、幸せそうな、それでもやっぱりどこか切なげな、万華鏡のような顔をしていた。
 そんな綺麗で、どこか儚げな兄さんの隣に僕がいない未来なんて、僕にはかけらも想像できない。
……兄さんを好きでいるのは当然のことだから、実質何もしないのと同じじゃないかな」
 現にいま僕は兄さんが好きで、今後その気持ちが揺らぐことなんてあり得ない。兄さんにお前は不要だと勘当された時でさえ、僕は兄さんを諦められなかったのだから、それは絶対だ。
 兄さんを好きでなくなるなんて、あり得ない。
「ああ言えばこう言う子だな」
 口調こそ呆れはしていたけれど、兄さんが僕の目尻に落としたつまみ食いは、どうしてか胸の奥が熱くなって、僕が溶けてしまいそうで、でもそうされることが幸せだと感じるくらいに魅力的だった。それこそ、もっと食べてほしくなるくらいに。
 もっと。
 もっと……そうか。
「それなら僕は、兄さんを今よりもっと好きになるよ。これなら何かしらはしていることになるよね」
 本当は、自分の力で気づきたいのだけれど、兄さんが兄さんにしては条件を甘くしたのは、きっと僕にはそれに足る能力がもともと備わっていない、ということなんだろう。
 だから。

「兄さんにつまみ食いをされると、兄さんのことが好きだという気持ちがいっそう強くなるんだ。だから、ぜひこれからもつまみ食いをしてほしい」

 出した結論を、できる限り簡潔に伝えると、兄さんはなぜか呆気に取られたような顔をしたあと、何か言いたげな顔をして、でも。

 僕のくちびるの端をつまみ食いしたあとは、少しすっきりした顔をしていたから、だから僕は、兄さんの疲れを少しは癒せたみたいだ、と誇らしい気持ちでいっぱいになった。