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由崎
2026-06-14 11:40:00
7216文字
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還る場所
英ベス+捏造ブリタニアのお話です※羅ブリ気味
いつかの夜。
寝台の上で、ふたりは肩を寄せ合って横になっていた。窓の外では風が低く唸り、厚いカーテンの隙間から差し込む月明かりが、白いシーツの上に淡い影を落としている。寝室には暖炉の残り火がかすかに揺れ、静かな温もりだけが満ちていた。
穏やかな沈黙の中で、女はふと前から気になっていたことを口にした。隣に横たわる彼へと顔を向ける。少年のような姿のまま、ときおり年齢にそぐわないほど古い目をする男。王が代わり、時代が移り変わっても、この国とともに在り続けてきた存在。この国そのものとも言える、長い命を持つ愛しい夫だった。
「ねえ」
穏やかな声が、静かな寝室に溶けていく。
「父上の時代にはローマと決別して、姉様の時代には再びカトリックに戻ったでしょう」
女の指先が、シーツの皺をそっとなぞる。
「そして私は、もう一度この国をプロテスタントの国にしたわ」
少し間を置き、女は静かに問いかけた。
「あなたにとって、あれはどんな気持ちだったのかしら」
ただの好奇心だった。彼の長い人生の中で、時代の変化をどんなふうに受け止めてきたのか。それを知りたかっただけだった。
彼はすぐには答えなかった。薄く目を伏せたまま、天蓋の影を見つめるように黙り込む。その沈黙に重さはない。言葉を探している静けさだった。やがて、彼は少し困ったように眉尻を下げた。
「
……
この国に住む人々や貴族、それにお前の意思で変わるものだからな」
低い声が、寝室の静けさの中へ落ちる。
「俺は、それを受け止めているだけだ」
淡々とした言葉だった。その声音に混じる諦めの気配に、女の胸がかすかに痛んだ。
国の化身である彼は、この国の意思によって姿を変える。羅針盤の針のように、自分の望みとは関係なく、常に定められた方角を指し示す存在。それは、この国にとって必要なことなのだろう。それでも、一人の人として考えると、あまりにも残酷に思えた。彼自身の意思は、どこにあるのだろう。
女は彼の胸の上に指先で小さな円を描きながら、ふと口元をやわらげた。自分の死は、彼にとってはほんのひととき先の出来事にすぎないのだろう。千年という歳月でさえ、この国とともに生き続ける彼には、長い旅路の途中にあるひとつの区切りにすぎないのかもしれなかった。
「もしも私が先に天国へ行って」
そこで女は小さく笑い、首を横に振る。
「
……
いえ、千年王国が終わったあとでも、あなたにはまだ早いわね」
指先が彼の胸元をそっとなぞる。
「あなたには、この国をもっとずっと長く見守っていてほしいもの」
少しだけ顔を上げ、彼の瞳をのぞき込む。そこに宿る古い光を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
「それでも、いつか本当に長い旅を終えて、こちらへ来ることがあったら」
彼の手をそっと握りしめる。
「そのときは、また会いましょう」
彼女にとって、死後の世界は自然に天国として思い描かれるものだった。神のもとで安らぎ、いつか愛する人と再会する場所。そう信じて疑っていなかった。
彼はわずかに目を伏せ、小さく首を振った。
「
……
俺は、たぶん天国には行けない」
女は瞬きをした。
「どうして?」
胸の奥がきゅっと縮む。自分は赦されないと、彼はそう思っているのだろうか。女はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「神は慈悲深いわ」
言い聞かせるように、静かに囁く。
「たとえ罪があったとしても、悔い改めれば赦してくださる」
親指で頬を撫で、微笑みを浮かべる。
「だから、きっと大丈夫よ」
彼はしばらく黙っていた。それから、どこか遠いものを見るような目で静かに言った。
「
……
そういう意味じゃない」
女の手に、自分の手を重ねる。
「プロテスタントも、カトリックも、この島に伝わるよりずっと前から」
ひとつひとつ確かめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺たちは、最果ての西の島へ還るって決まってるんだ」
「最果ての西の島?」
女は小さく首をかしげた。
彼は微かに笑う。
「かの偉大なる王が眠る島」
その声は、遠い昔の伝承を語るように静かだった。
「アヴァロンだ」
月明かりの中で、その名だけが不思議な響きを帯びる。
「そこが、俺たち兄弟の還る場所なんだよ」
ブリテンの子らはアヴァロンへ還る。エリンの子らはティル・ナ・ノーグへ還る。キリストの教えが届くよりも前から、この島々にはそれぞれの帰る場所があった。
女はしばらく言葉を失った。彼が信じる死後の行き先は、自分の知る天国とは違っていた。神の国よりも古く、この島の土と海に根ざした、もっと古い故郷。
「
……
どうして?」
ようやく絞り出した問いに、彼は肩をすくめた。
「さあ」
少しだけ困ったように笑う。
「でも、あいつらが言ってたんだよ」
その声には、幼い頃の記憶を懐かしむような柔らかさが滲んでいた。
「俺たちの母さんがそう決めたんだって」
その言葉を聞いた瞬間、女の胸の奥で何かが静かに崩れた。
ああ、こんなことを聞かなければよかった。
もし死後の世界で再び会えるのなら、神の御許で、国でも女王でもない、ただの自分として彼の隣に立てるのだと。そんなささやかな願いを、心のどこかで抱いていた。
けれど彼の帰る場所は、自分とは違う。
彼はアヴァロンへ還り、自分は天国へ召される。
その道は交わらないのかもしれない。
女に残された時間は、もうそう長くはない。この時代において、自分の命は確かに終わりへ向かっている。
それでも、彼にとってその年月は、瞬きをするほどの短い時間にすぎないのだろう。
自分がいなくなったあとも、彼はこの国とともに生き続ける。
新しい時代を見届け、幾人もの人々と出会い、そしていつか、自分との日々さえ遠い過去になってしまうのかもしれない。
それは嫉妬でも悲しみでもなく、名前のつけようのない寂しさだった。
女は彼の胸に頬を押しつけたまま、そっと目を閉じた。規則正しく打つ鼓動の音が耳に届く。この温もりを感じられる時間にも、終わりがある。
それでも、願わずにはいられなかった。
もし奇跡が起こるのなら。
もし神がほんの少しだけ慈悲をくださるのなら。
国でもなく、女王でもなく。
ただ、わたくしとして。
何の責務も、何の宿命も背負わずに。
ただの夫婦として、もう一度彼の隣に立てたなら。
そんなささやかな夢の欠片が、音もなく胸の中で砕けていく。
女は目を閉じたまま、彼の寝間着の布をきゅっと握りしめた。言葉にすれば、涙になってしまいそうだった。
しばらくして、頭上から小さく息を吐く気配が降ってくる。彼は女が何も言わなくなったことを、眠ってしまったのだと思ったらしい。
「
……
もう眠ってるのか?」
胸に回された腕が、そっと女を抱き寄せる。額にやわらかな口づけが落ちた。
「おやすみ」
低く囁かれたその一言に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。今ここにある温もりが、たまらなく愛おしかった。
女は目を閉じたまま、彼の胸元へさらに身を寄せる。返事の代わりに、寝間着を握る指先にそっと力を込めた。
せめて今夜だけは、何も考えずにいたかった。
この腕の中で、ただ彼の妻として眠りたかった。
===
「
……
主よ」
しわの刻まれた自分の手を、女は静かに見つめていた。かつて白く張りのあった指先は細く痩せ、肌には歳月の跡がくっきりと刻まれている。その手で王笏を握り、その手で幾度も勅令に署名し、その手でこの国の舵を取り続けてきた。
長い、長い統治だった。
彼とともに、この国を大国へと押し上げた。太陽の沈まぬ勢いを誇った南の国の覇権に陰りをもたらし、海の向こうへと船を送り出し、新しい世界への道を切り開いた。大陸の強国たちと渡り合い、小さな島国だったこの国を、誰も無視できない国へと育て上げた。
誇らしい人生だった。
そう言ってしまえば、それで十分なはずだった。けれど、胸の奥に残っているのは王としての満足ではない。ひとりの女としての、ささやかな願いだった。
あの夜、彼の胸に頬を寄せながら抱いた願い。
国でもなく、女王でもなく、ただのわたくしとして。ただ、彼の妻として。もう一度、その腕の中で目を覚ましたかった。
女はゆっくりと目を閉じた。祈りの言葉は、震える唇の奥でかすかに揺れる。
自分が去ったあとも、彼はこの国とともに長い時を歩み続ける。数え切れないほどの別れを重ね、何度も時代の移り変わりを見届けるのだろう。その果てに、彼がようやく旅を終えるとき。もし神がほんの少しだけ慈悲をくださるのなら。
女王としてのわたくしは、やがて神の御許へ召される。この国を治めた王としてその生涯を終え、主の御前に立つ。それは揺るがない定めであり、静かに受け入れるべき終わりだった。
けれど、王冠を外したその奥にいるひとりの女としてのわたくしは、違う願いを抱いていた。
ただ、あの人の妻として。あの人が長い旅を終えたとき、最後に帰り着く場所になりたかった。
アヴァロンへ還るのだとしても。天国へ召されるのだとしても。そのどちらとも矛盾しないかたちで。
長い時を歩き続け、数え切れない別れを重ねたその果てに、ようやく肩の力を抜いた彼を迎えたかった。
おかえりなさい、と。
そう言って微笑みたかった。
彼がすべての役目を終えたとき、安心して身を預けられる場所に。冷たい海の向こうにある伝説の島よりも、もっと温かな場所に。あの人にとっての帰る場所になれたなら。
「そばにいたい」
それが、心の底からの願いだった。
===
ひどく遠くから届くような、それでいて胸の奥へ直接響くような、不思議な声だった。
『汝の願いは?』
女の瞼がかすかに震える。
古く静かな声。それは問いかけというより、確かめるような響きを帯びていた。
『あの子のそばに在りたい』
その声に、女の胸の奥が静かに熱を帯びる。震える唇が、かすかに動いた。
「
……
ええ」
乾いた喉から、ほとんど息のような声が漏れる。
「ただ、あの人のそばに」
それ以上の望みはなかった。王冠も、栄誉も、後世の称賛もいらない。ただひとりの女として、愛する人の隣にいたい。ただ、彼の長い旅の終わりに、「おかえりなさい」と言って迎える者でありたかった。
それだけだった。
声はしばし沈黙した。潮の満ち引きのような静けさが流れ、やがて満足したような気配とともに、再び囁きが耳元に落ちる。
『汝の願いは受け入れよう』
ひと呼吸置き、古く尊い名が静かに告げられる。
『ブリタニアの名において』
その言葉が響いた瞬間、目の前の闇がふわりとほどけた。
ひとりの女が立っていた。
白い衣の上に、深い森の色をしたフード付きの外套を羽織っている。その姿には、この島の大地と海が積み重ねてきた、気の遠くなるほどの歳月の気配が宿っていた。
その名を、知らないはずがなかった。
この島に古くから息づく伝承の主。
ブリタニア。そして、ブリテンの地のさらに遠い記憶を体現する、母なる存在。あの人の母親。
そう悟った瞬間、女の胸に不思議な安堵が広がった。遠い昔から彼を見守ってきた存在が、今こうして自分の前に立っている。
ブリタニアは静かに女を見つめた。その眼差しには、母が子を見守るような深い慈愛と、島そのものが積み重ねてきた悠久の時が宿っていた。
その瞳は、あの人と同じ森の色をしていた。
『お前の魂のひとかけらを、星の海を越え、最果ての西の島へ向かう船に乗せよう』
波のように穏やかな声が、静かに響く。
『お前は神の御許へ召される。この国を治めた王としての魂は、主のもとで安らぎを得るだろう』
深い緑のフードの裾が、かすかな風に揺れた。
『けれど、人はひとつの顔だけで生きているわけではないわ』
私たちと同じ。国としての在り方と、それとは別の、何者でもない自分としての在り方がある。
その微笑みは、すべてを知ったうえで受け入れる者のものだった。
『長い時の果て、あの子、私の坊やがすべての役目を終え、西の彼方へ帰るとき。その船に、お前の願いを乗せてやろう』
その言葉が胸の奥へゆっくりと沁み込んでいく。
『国でもなく。女王でもなく。ただひとりの妻として』
祝福を授けるように、ブリタニアは穏やかに告げた。
『お前は、坊やの帰る場所となるだろう』
===
『妾らしくないことをしてしまったな』
妖精の女王は小さく息をつき、遠くの光景へ静かに目を向けた。
そこには、妻の亡骸にすがりつき、声もなく泣き崩れる養い子の姿があった。
普段はどれほど気丈に振る舞っていても、今の彼はただ愛する者を失ったひとりの男にすぎない。肩を震わせ、その冷えゆく手を離すまいとする姿は、幼い頃に傷ついて泣いていた日の面影をそのまま残していた。
朝焼け色のヴェールを揺らしながら、妖精の女王グロリアーナはかすかに微笑む。
『お前の頼みだから力を貸したが、本来なら私の領分ではない』
その傍らには、白い衣に深い森の色のフードを纏った女が静かに立っていた。
ブリタニア。
最果ての西の島に住まう、このブリテンの母。
森の色の瞳は、ただひたすらに息子を見つめている。
「ありがとう、グロリアーナ」
ブリタニアの声は静かだった。けれど、その奥には母としての深い感謝が滲んでいた。
「坊やがあれほど深く誰かを愛するとは思わなかった」
泣き崩れる息子を見つめる眼差しが、わずかにやわらぐ。
「だから、せめて長い旅の終わりに、帰る場所を残してやりたかったの」
グロリアーナは肩をすくめた。
『まったく。母親というものは厄介だな』
その言葉に、ブリタニアの口元にかすかな笑みが浮かぶ。
グロリアーナは隣の旧い友へと目を向けた。
『よく似ているよ。お前とあの子は』
ブリタニアは静かに瞬きをした。
『あの子は国の化身でありながら、ひとりの人を愛し、その者と生涯を共にした』
グロリアーナの瞳に、遠い昔を知る者だけが持つ懐かしさが滲む。
『お前もまた、かつてこの島を征服したローマを愛した』
その言葉に、ブリタニアはふっと目を伏せた。
遠い昔、ローマの鷲旗を掲げてこの島へやって来た帝国の化身。征服者であり、敵であり、それでも愛したただひとりの男。
「そうね」
かすかな笑みが、唇に浮かぶ。
「坊やは、わたしに似てしまったのかもしれない」
その在り方までも、母と子はよく似ていた。
===
一六四九年一月三十日。
王はロンドンの宮殿の外に設けられた処刑台の上で、民衆の見守る中、斧によって首を落とされた。
その瞬間、彼の胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
王が死んだ。
王を戴くこの国そのものが、終わりを告げたのだ。
あんなに、王権は大切だと、あいつから教えられたのに。
こんな形で。
北から来た王へと受け継がれた冠は、ついに石畳の上へ落ちた。神から授かった権威を信じ、王の意志こそがこの国を導くものだと疑わなかった男。その信念は民との溝を深め、ついにはこの国を、自らの手で王なき国へと変えてしまった。
どちらが正しかったのか、彼にはわからない。
王に従った者も、王に刃を向けた者も、等しくこの国の民だった。
どちらの血も、自分の血だった。
だからこそ、この結末はあまりにも痛ましかった。
「これでこの国は共和国となった」
誰かの声が聞こえる。
「さあ、イングランド殿。あなたも
……
」
そこで言葉が途切れた。
耳に届く音が、急に遠のいていく。かん、かん、と頭の奥で乾いた音だけが響く。
視界が大きく揺れる。膝から力が抜け、身体が傾いだ。
気づいたときには、冷たい石畳に倒れ込んでいた。
身体が動かない。
王なき国を、彼の心は理解できなかった。
けれど、この国そのものである以上、その変化を拒むこともできない。
相反するふたつの力に引き裂かれるように、意識が深い闇へと沈んでいく。
最後に胸に浮かんだのは、処刑台でも、流れる血でもなかった。
暖炉の火が揺れる静かな寝室。やわらかな体温。額に落ちた口づけ。そして、眠る前に聞いた、あの穏やかな声。
――
千年王国が終わった、そのずっと先で。
その言葉を抱いたまま、彼の意識は静かに途絶えた。
===
頬に触れる冷たい湿り気に、彼はゆっくりと目を開けた。
みずみずしい霧があたりを覆い、白く煙る世界の中を、小さな舟が静かに進んでいる。
古びた木の小舟だった。
船底には赤い布が敷かれ、その上に彼の剣と鎧、これまで身につけてきた武具が整然と置かれている。まるで、長い戦いを終えた者を見送るためのようだった。
「
……
確かに俺は、さっきまで
……
」
掠れた声が、霧の中へ溶けていく。
そうだ。
我が王の処刑を見届けていた。
王の首が落ちる瞬間を、この目で見た。
王を戴くこの国が終わる、その瞬間を。
それなのに今、彼は見たこともない霧に包まれた大海原を、ただひとり漂っていた。
波は驚くほど穏やかで、櫂を持つ者もいないのに、小舟は何かに導かれるようにゆっくりと進んでいく。
白い霧の向こうには、まだ何も見えない。
不思議と恐ろしさはなかった。
この光景には、見覚えがあったからだ。
かつて、偉大なる王が最後の戦いで深手を負ったとき、忠実な騎士に聖剣を湖へ返させ、自らは霧の中から現れた小舟に乗って、西の彼方の島へと旅立った。
アヴァロン。
ブリテンの王が最後に辿り着く、最果ての西の島。
古い伝承の中で幾度となく語られてきたその旅路を、今、彼自身が辿っている。
自分もまた、ブリテンとともに歩んできた者なのだ。
王が倒れ、王国が終わった今、自分もまた、ここで長い旅を終えるのだろうか。
「そうか」
白い霧の向こうを見つめたまま、彼は静かに呟いた。
「俺は、死んだのか」
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