玲那
2026-06-14 01:11:08
5259文字
Public まほやく(ネファ)
 

ネファ Honey practice

魔法舎軸のネファ

それは初めて耳にした、湿度が高い声色だった。
「せんせ」
二人での晩酌中、テーブル越しに向かい合ったネロはそんな声で僕を呼んだ。ネロの部屋、僕が持ち寄ったワイン、ネロが作ったつまみ、他愛もない会話、居心地の良い空気と時間。それらはいつもと同じだったので聞き馴染みのない声色は気になったけれど、僕もいつもと同じように返事をした。
「なに」
すると、ネロは先ほどのそれを誤魔化すように明るめの声を出した。
「あー……つまみ、追加いる?」
「まだあるじゃないか」
「だよな」
ネロはワインボトルを手にして自分のグラスに注ぎ足す。しかし、その必要を感じないくらいにはネロのグラスにはワインが残っていたので、ボトルの口はすぐに天井を向いた。とっぷりとワインで満たされたグラスを手にし、下手したら溢れてこぼれそうなそれを器用に揺らしながら、その小さな赤い揺らぎにネロは視線を落とす。
「あのさ」
「うん」
湿度が戻った、と思った。
なのにひと口、ワインを飲み込むと今度はわざとらしいまでに乾いた声をネロは出した。
……美味いな、このワイン」
「そうだな。きみも気に入ったなら持ってきた甲斐があったよ」
「はは……
ネロらしくない、下手くそなその場しのぎの笑いにはさすがに聞かずにはいられなかった。
「ネロ、酔ってる?」
「んー?まぁ、わりと?」
僕を見つめるネロの瞳はいつもと同じ色をしているはずなのに、今夜はどこか違って見える。
何が違うのだろうとネロが作ったつまみを咀嚼しながら見つめていると、視線が合った。『美味しいよ』と口角を上げると、ネロはその黄金色の瞳を細め、頬杖をついて僕を見つめていた。まるで飲み込むまで見守るような様子で。
何だろう。ネロの瞳が、空気が、ひどく甘く感じる。甘くて、とろりとして……あぁ、そうか。
いつもと違うその瞳はまるでそう、蜂蜜のようなのだ。そこから溢れる涙はとても甘いような気がして、それを確かめるために泣かせてしまいたくなるほど。そんな瞳の原因が酔いだけとは考えにくい。きっと先ほどの湿度の高い声色も関係していることだろう。
珍しく好奇心が刺激された僕は、いつもより踏み込んでみることにした。
「さっきから何か誤魔化し続けてるようにしか見えないのは、本当に酔いのせいだけか?」
「先生は鋭いねぇ」
「あれで気づかないほうがおかしいだろう。何か言いたげだった」
「んー……まぁそう、かな?」
「言いたいことがあるなら言いなさい。怒らないから」
「それ言う奴、大抵怒るじゃん」
言いながらネロは机に顔を伏せた。見慣れぬつむじを無防備に晒すその姿と、言うか言うまいか迷って言葉にならない声で唸る様子は何だか子供のようだ。そんな彼が突っ伏したテーブルの上にあるのは赤が揺らぐワイングラスと、それに合わせて彼が作った美味いつまみの数々。そのコントラストが無性に可笑しかった。
「ふふ、怒らないよ」
「わかんねぇじゃん」
いじけたように言いながら視線だけこちらに向けたので、その空色の髪に伸ばしかけた手を咄嗟にワイングラスへと移した。
そのまま手を伸ばしてもきっとネロは頭を撫でさせてくれただろうけれど、何となく今そうするのは違うような気がした。
それは多分、先ほど僕を捕らえた彼の蜂蜜のような瞳のせい。湿度の高い声で「せんせ」と呼ばれたときに芽吹いた僕の予想を、とろりとろりと蜂蜜を垂らすように甘く甘く彩っては期待へと仕上げていく、そんな視線。
ネロのつむじを見ていなければシェフ特製のそれを素直に頂いたかもしれないと思いながら、ワインで唇と舌を湿らせた。
「ネロ」
僕の声色の湿度はきっと、ネロの『せんせ』と同じ。
僕のグラスがテーブルに再び着地する音を合図に、体を起こしたネロの視線がこちらを向いた。テーブル越しの距離ではわからないが、きっと彼の瞳には僕が映っていることだろう。
「聞かせてほしい」
僕の言葉で少し開いたネロの口が再び閉じる。合間に「あー」とか「えーと」とか短い言葉を挟みながら。
そして手元のワイングラスに残った決して少なくない量のワインをぐいと飲み干すと、グラスをテーブルに置いた手が恐る恐る、すぐそばにある僕の指先に触れる。ワインで潤った唇が動いて、微かに空気が震えた。
「キス、したい」
指摘したらまた酔いのせいにしそうなくらいに顔と耳を赤くして、視線を逸らしながらネロはそう小さく呟いた。その表情に身体が脈打つような、頭の奥がじんと痺れるような感覚を覚えて今夜の自分の酒量を思い出そうとしたがすぐにやめた。この昂揚感が酔いだけではないことくらいわかりきっていたから。
ネロは、恋人もなく四百年引きこもっていた僕とは反対に、過去に集団生活をしていたり、深く関わることは避けていたとはいえ人間のふりをして街で料理屋をしていたりと誰かと関わりながら生きてきた。詳しく聞いたことはないけれど、その中にはキスやその先をするような関係の相手もいたことだろう。僕と違って彼はそういうことには経験豊富なように感じていたし、晩酌中に彼の口から語られるエピソードから察するに多分その予想はそう大きくは外れていないと思う。唇を重ねることなんて、彼にとってはそう難しいことではないはずだ。
なのに、そんな彼が僕に告げることをあんなにもためらって、こんなにも恥ずかしそうに言う。
キスがしたい、と。
いつかの雨の街でネロは、僕のことを「呪い屋先生の心は乾いてる」とからかい、照れ隠しに合い傘をひやかしていたことを思い出した。なのに今はひやかすことすらできなくなっている恋人を見て、その可愛らしさにひどく甘やかしたい気持ちと、やさしく意地悪したい気持ちが同時に高まるのを感じていた。そんな今の僕は、誰かさんのせいで随分潤ったものだと思う。
テーブルの上で遠慮がちに寄り添う指先が返事を催促するように身じろぎするのを見て、僕は口を開いた。
「誰と?」
目を見開き、瞬きを繰り返して僕を見たネロは眉間に皺を寄せると大きなため息をついた。
「おいおい……この雰囲気でそりゃないだろ」
「どうして」
「どうしてって……
不満気に唇を尖らせて言葉を止める様子と、彼が自分よりも経験豊富な二百歳も年上という事実。この類のコントラストは今夜で二回目だ。
「ただキスという行為がしたいだけなら僕である必要はないだろ。他を当たるといい。酔っ払いの雑な願いを聞いてやるほど僕はお人好しじゃないからな」
言いながら指先が触れていた手をそっと離すと、ネロはあからさまに寂しそうな顔をした。
それに口元が緩むのを感じながら、僕は手袋を脱いで今度は素肌でその手に触れる。反対の手で頬杖をつきながら、触れた指の感触を確かめるようにそっと絡めた。
「でも、僕とキスがしたいと可愛い恋人がおねだりするのなら、話は別だ」
……先生って結構めんどくさいんだな」
「きみに言われる筋合いはないよ」
それもそうか、と笑ったネロは覚悟を決めたようにひと呼吸つくと、ぎゅっと手を握り返す。
「キス、したい。ファウストと」
相変わらず照れくさそうに、でも今度は視線を逸らさずに。そんなネロの表情にいたく満足した僕は握った手を口元へ引き寄せ、その指先に口付けた。
「よくできました」
「また子供扱いして……
お返しと言わんばかりにネロは握ったままの僕の手を自分のほうへ引き寄せると、指を広げて僕と自分の手のひらを合わせる。そのまま手を下へずらし、今度は両手で僕の手首をつかむと、まるで祈るように目を閉じたネロは僕の手のひらにキスをした。そしてゆっくりと、あのとろけた蜂蜜色の瞳が現れて再び僕を捉えた。
「せんせ」
「なに?」
……そっち、行かね?」
ネロの視線の先にあるのは一台のベッド。
……は?」
「え?」
同じように一文字で疑問を提示しているのにどうも噛み合っていないことがわかる。ネロは明らかに困惑した顔をしていた。
「えっと……せんせ?」
「きみ……キスがしたいんじゃなかったか」
「そうだけど……え、嫌だった?」
「嫌ならとっくに断ってる。嫌じゃないが、その……
沈黙に耐えきれず、ずれてもいないのに眼鏡を直した。先ほどネロにキスをされた手のひらをぎゅっと握った。
……きみは、キス以上もしたい?」
「は!?え、な……あ」
ネロは言葉にならない短い声を上げながら次々に表情を変え、僕の手首を掴んだまま、反対の手で顔を覆ってため息をついた。
「違う、そうじゃなくて……いや、したくないって意味じゃなくて、その」
「落ち着け、ネロ」
「先生は何でそんな落ち着いてんの……
ネロは赤い顔から離した手も僕の手に重ねた。熱い手だった。
……テーブル越しじゃキスをするには遠いから、もっとそばにって言いたかったんだけど、その……言い方間違えた」
「ふふ、きみらしいような、きみらしくないような」
「俺らしいって?」
「今までもそういう誘い方をしてきたんじゃないのか」
「先生、俺のこと何だと思ってんだよ」
「きみはこういうこと、初めてではないだろ?」
「そりゃまぁ、キスしたことないって言ったら嘘になるけどさ」
ネロはそっと手を離すと椅子から立ち上がり、先ほど『そっち』と視線を送った先へと腰掛けた。小さくベッドが軋む音がする。
……ファウストとするのは初めてじゃん。緊張だってするよ」
ベッドに後ろ手をついて座るネロはその赤い顔を僕から隠すように反対側へと向いている。けれど、その赤い耳までは隠しきれていない。もう一度、あのとろけた蜂蜜色が見たくなった僕はそれを叶えるために立ち上がった。
椅子を引く音、目的地へと近づく足音、ベッドのスプリングが軋む音。そして静かな部屋の空気を震わす湿度の高い声。
「ネロ」
その手に自分の手を重ねる。熱い手だと思っていたけれど、それはネロの熱なのか、自分の熱なのか、もうわからなかった。
「そばに来たぞ。次はどうすればいい?」
……いいの?」
「え?」
「初めてキスする相手、本当に俺でいいの?」
蜂蜜色は見えないまま、ネロの小さな声だけが聞こえた。
「ふふ、ははは!ここまで来させておいてまだそんなことを言うのか、きみは」
「笑うなよ……
『すまない』と言いつつネロの手を取る。
「きみでいいのかどうかは僕にもわからない。したことがないからな。でも、僕も───」
先ほど自分がされたようにその手のひらに口付けた。
「キスがしたい、ネロと」
僕の言葉に、ようやく蜂蜜色が見えた。僕を映すその瞳は甘く揺れている。
「せんせ」
この距離でないと聞こえないような密やかな声でネロがそう囁き、顔が、唇が近づいてきた。
「そうだ、ネロ先生」
一度閉じられた蜂蜜色の瞳が開かれ、あからさまに不機嫌そうに眉をひそめられた。
……は?」
「質問がある」
「この状況で?」
わざとらしいくらいに肩を落とし、大きなため息をついたネロはヤケになったように『どうぞ、ファウストくん』と手のひらを差し出して質問を促した。さすがに自分が雰囲気を壊してしまったことに気づき、ためらいがちに口を開いた。
「その……眼鏡は外したほうがいいのか?」
……え?」
「キスをするときには邪魔になると聞いたことが──」
……ぷっ……ははは!そりゃネロ先生にもわかんねぇな」
ネロが笑いながら目尻を拭う仕草までするので今度は僕が眉をひそめた。『ごめん、ごめん』と言いながらネロは僕の眉間の皺を優しく撫でる。
「だからさ」
ネロの手が僕の両肩に置かれた。
「まずは眼鏡したまま、してみるってのはどう?」
「まずはって……
「そう。で、次は眼鏡外してしよう。座学も大事だけど、実践したほうが早いものもあるだろ、先生?」
……ふふ、それもそうか」
「ったく……こんなに時間がかかるキスは初めてだよ」
「嫌?」
「んー?」
ネロはわざとらしく首を傾げてみせるが、甘くとろけるような蜂蜜色の瞳を細めて笑った。
「俺はじっくり煮込んでソースを作るのが好きな性分なんでね」
「ふふ、きみらしいな」
彼の六百年の中で、ただ唇を重ねるだけの行為にこんな時間をかけたことが本当になかったのかどうかはわからない。でも、そんなことはどうだってよかった。
僕が雰囲気を壊しても、キスまでに時間をかけてしまっても、そんなやり取りも嫌いじゃないと笑ってくれるネロが、初めてでもないキスをためらいながら誘うネロが、僕はひどく愛おしい。
あの蜂蜜色の瞳が僕に向けられている、今そこに確かにある事実があれば十分だ。
僕はゆっくりと目を閉じた。肩に置かれた手にほんの少し力が入り、ネロの顔が近づく気配がした。
果たして眼鏡は邪魔になるだろうか。けれど、もし問題なかったとしても僕はきっと眼鏡を外すだろう。
キスがしたいのは、ネロだけじゃないから。