クドリャフカ
2026-06-14 00:31:50
7173文字
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寺川がトガシくんのマネージャーになる話⑧


 そんなこんなで、トガシが小宮の実家に遊びに行けたのは、世間の正月休みもすっかり終わった頃だった。

「ていうか、なんで寺川さんまでついて来てんですか」
「温泉って聞いたから」
「帰ってください」

そして、何故か寺川までついてきていた。
いや本当に何故か。である。

大分行きの新幹線の手配をしてくれたのは小宮だったが、寺川が同行するだなんて話は一切してないし聞いていない。そもそもタワマンの部屋を出た時点では、トガシは一人だったのだ。ところが東京を出発し、新横浜に着いたあたりで、寺川が何食わぬ顔でしれっと隣に座ってきたのである。これには流石のトガシもビビり散らかした。一方で寺川は、ちゃっかり横浜名物のシウマイ弁当とビールを抱えていて、もう完全に旅行を楽しむ気満々の構えであった。

「──そんなことよりトガシくんさァ、まさかお土産にひよこ買ってきたの?」

寺川がちらっとトガシの膝の上にある紙袋に視線を向ける。

「? そうですけど……
「あのねぇ、九州の人に東京のひよこ持ってくの大概失礼だよ?」
「えっ、そうなんですか?」
「そうだよ。もう最悪だね。知らない? ひよこ戦争」
「ひよこ戦争!?」
「そう、福岡のひよこと東京のひよこで深い深い因縁があるわけよ」
「い、因縁……
「うん。わりと、ガチで」

カシュッとビールを開けながら寺川が言う。その顔は険しく神妙であった。そんなただならぬ雰囲気に、トガシもなんだか急に不安になってくる。

「で、でも……ひよこって東京のお菓子ですよね……?」
「あー……、その思考がもう完全にダメダメだね」
「え」
「東京人の傲慢。最低。最悪」
「え、え」
「トガシくんのそういうところ、正直デリカシーないと思うわ」
「え、え、え」

ここぞとばかりに不安を煽られ、トガシの視線が寺川とひよこを行ったり来たりする。

「んで? どうするつもり?」
「ど、どうしましょう……


 ──もちろん、寺川の言は全て適当である。
しかしトガシは対人評価を気にする性格であるため、こういう否定をされてしまうとわかりやすく動揺するのだ。青い顔をしてオロオロするトガシをよそに、寺川はシウマイ弁当をムシャムシャ食べながら満足げに話を続けた。

「まぁでも、俺が一緒で助かったねトガシくん。こんなこともあろうかと、とらやの羊羹用意してきたからさ」
「寺川先輩……っ!!」

にんまり笑った寺川が、綺麗な箸使いでシウマイをひとつ摘んで差し出してみせた。トガシはそれをあむっと頬張った。陥落である。シウマイはとても美味かった。こうしてまんまと丸め込まれたトガシは、寺川の同行を許した。トガシはチョレ〜男なのである。

なお、東京銘菓ひよこは、証拠隠滅のため新大阪を過ぎるまでの間に食い尽くされたのだった。




 さて、というわけで東京から5時間半かけてやってきた大分県の中津である。

駅を出ると、ひと足先に帰省していた小宮が迎えに来てくれていた。トガシたちを見つけ、ちょっと照れたように手を挙げている。その後ろには『小宮温泉』と書かれた白いバンが停まっていた。

「トガシくん、寺川さんも、わざわざ来てくれてどうもありがとう」
「こちらこそ、迎えに来てくれてありがとう小宮くん。……それ、小宮くん家の車?」
「うん。旅館の送迎用」

 曰く、小宮の実家は旅館を営んでるのだという。大自然の山々に囲まれた温泉宿で、清流を眺めながらの露天風呂が名物らしい。温泉があるとは聞いていたので観光地の近くかなにかくらいに思っていたが、まさか実家に温泉が湧いているというのだから驚いたものである。

そんな小宮温泉に到着すると、さらに驚くことがもう一つあった。

「──えっ、財津さん……!?」

 あの財津がいたのである。

 2年前。突然の現役引退発表から、とんと行方知れずだった人物である。そんな男が湯上がりの浴衣を着流し、旅館のスリッパをペタペタ鳴らしながら普通に廊下を歩いていたのだ。以前よりも長く伸びた髪も相まって、ますます浮世離れした雰囲気を纏っている。

そんな思いがけない遭遇にトガシが目を丸くしていると、横から小宮がコソコソ声を潜めて言った。

「財津さん、ずっといるんだ……
「ずっと……?」
「うん。もう一年以上になるのかな……温泉が気に入ったって言って、ずっと連泊してて……

まるで昔の文豪みたいな暮らしぶりである。唖然となるトガシをよそに、横から寺川の声が遠慮なく割り込んだ。

「うわ、すげー!マジの財津選手じゃん!サインいいっすか?」

失礼にもほどがある。
トガシは反射的に寺川の背中を思いきりぶっ叩いていた。

「いった、なにすんのさトガシくん」
「財津さんに失礼だろうが。というかアンタ、陸上選手のサインとか欲しがるんですね」
「そりゃあね、普通に超有名人だし」
……俺、アンタにサイン欲しいって言われたことないですけど……?」
「アハハッ、そりゃあトガシくんなんかのサインなんていらないからね〜」
「そうですか……、じゃあ剃りましょうか」
「何を!? 待って待って、怖い怖い怖い!!」

そんなトガシと寺川の応酬を眺め、財津が懐手にゆるりと笑みを落とす。

「ふふ、構わないよ」

そう言って財津は本当にサインに応じてくれた。寺川がどこからともなく取り出した色紙(トガシが一般人にサインを求められた時用に持ち歩いているのだ)を受け取り、さらさらと筆を走らせる。達筆である。あまりにも達筆だったので、一瞬なにかありがたい言葉でも書かれているのかと思った。しかし色紙にはただ『海棠』とだけ書かれていた。説明はない。「怖っ」「え?何?どういう意味?」とビビるトガシと小宮をよそに、寺川は「不思議ちゃんじゃん笑」と笑って受け流していた。ベクトルは違えど、どちらもなかなか適当な男なのである。

ちなみに、この時の海棠(財津)のサインは、後日寺川の部屋のリビングにちゃっかり飾られていた。それを見つけた時、いや普通に飾るんかい!とトガシは心底驚いたものである。


 その後もなんだかんだで財津とは夕餉の席まで共にすることになったのだが、トガシは終始借りてきた猫みたいに静かであった。
そりゃあそうである。なんせ財津といえば、日本陸上界の半分神話みたいな男なのだ。彼とは学生の頃より幾度となく雑誌の対談企画や代表合宿やなんかで顔を合わせてきたものの、しかしいざこうして膝を突き合わせるとなるとやはり畏れ多さが先に立つ。むしろ初対面なはずの寺川の方がよっぽど遠慮がなく、「Switch2持ってきてるんで、財津さんも一緒に遊びません?」などと馴れ馴れしく誘っていた。陽キャ怖い。しかも財津も財津で、「ふふ、いいね」と普通に乗ってくるので余計におそろしいものである。

そんな流れで、食後には何故か大の男4人で桃鉄大会が開催されることとなった。そしてこれが予想以上に白熱した。

財津社長は、もはや豪運と呼べる異次元の引きの強さを見せつけ常にトップを独走。寺川社長は、持ち前の勘の良さと狡賢さで毎度上手く立ち回っている。トガシ社長は普通に右肩下がりであるが、ここぞという場面にだけ妙に勝負強い。そして、小宮社長は開始早々キングボンビーに憑かれ地獄を彷徨っていたのだった。高額物件、ランドマーク、ご当地B級グルメ、喜多方ラーメン、ぶっとびカード。サイコロひとつに命運を委ねる一進一退に、座敷の空気はどんどん熱くなる。そうやって、大の男4人が旅館の小さなテレビの前でみちみちになりながらゲームに興じる様子は、なかなかにカオスであった。

決算間際、寺川社長が最後の勝負を仕掛けた。彼はここぞとばかりにトガシ社長から資産を根こそぎ巻き上げると、あまつさえ屯田兵カードでトガシ社長を北の大地へと吹き飛ばしたのである。そのあまりにも悪逆非道な所業に、トガシ社長は思わずコントローラーで寺川社長の鼻をぶん殴っていた。

「いっっった!! 何すんの!?」
「アンタが何してんだよ!!」
「ゲームじゃん!!」
「うるさい!!」

かくして、結局彼らの桃鉄はトガシと寺川の取っ組み合い寸前の騒ぎで強制終了となり、その勢いのまま全員で温泉になだれ込むこととなった。

 小宮温泉の露天風呂は、見事な雪景色だった。日本画みたいな白い渓谷がどこまでも広がっていて、その下を大きな清流が流れている。まさに絶景である。白く濁った半透明の湯はやや熱めで、外の冷たい空気と相まってじんわり肌に馴染む。なるほど、これはたしかに極楽と言ってよろしい。そのあまりの心地良さに、さっきまで喧嘩していたはずの寺川とトガシもすっかり仲良く温泉に溶けていたのだった。

「温泉サイコ〜」
「ですね〜」

岩で縁取られた湯船にだらっともたれながら寺川が言い、トガシも同じくらいふにゃふにゃした声で返す。その傍では、「ふふ、素晴らしいだろう小宮温泉は」と財津が得意げに小宮温泉の素晴らしさについて説いていた。まるで自分の温泉みたいな口ぶりである。その隣では小宮がまた始まったと言わんばかりの呆れ顔だった。

「泉質もいいし、眺めもいい。何よりこの静謐さがいい。この静けさに、温泉の醍醐味があります」
「あ、それ!去年バズってたやつ!スゲー本物だ!」
「ふふふ」

湯けむりの合間を、そんな会話がゆるゆる揺蕩う。ちなみに財津は、過去の講演会の切り抜き動画が昨年何故か急にバズり、その独特の言い回しから“財津構文”としてネットミーム化されていたのだった。2026年を代表するネットミームといえば、夜の踊り子か財津構文かというほどの人気っぷりなのである。



 そうして彼らはアービバノンノンと温泉に浸かり、のんびりまったり時間を過ごした。しばらくすると寺川が「無理。熱すぎて死ぬ」と情けない声を上げてあっさり脱落し、小宮も「僕も、のぼせてきた」とそれに続いた。結局、最後まで温泉に残っていたトガシと財津だけだった。

…………
…………

しばし、二人の間に静寂が降りる。

…………
…………
…………
……静かですね」

先に口を開いたのはトガシだった。自分でも、少しだけ意外に思う。

「あぁ。やはり温泉はこの時間が一番いい」

財津はゆっくりと頷き、湯気の向こうを見たまま息をついた。

「騒がしいのも嫌いじゃないけどね。トガシくんは、どうだい?」
「え?」
「──走るのは、好きになれたかい?」

それは不意打ちの問いかけだった。
財津の言葉に、トガシは少しだけ戸惑いながら答える。

……そうですね。今はちゃんと、好きです」
「そうか。ふふ、良かったよ。昔より随分はっきりしてきたね」
「はは、どうでしょうね」

財津は一瞬だけ目を細め、それから静かに頷いた。トガシはなんだかちょっと気恥ずかしくなって、首元まで湯に沈んだ。

「それで十分だよ。君は、君の速さで行けばいい」
「はい……

それ以上、会話は続かなかった。

不思議と気まずさはなく、湯けむりの間を静かな時間だけがゆっくりと流れていった。トガシは何故だかふいに、もういない祖父のことを思い出していた。財津の言葉の置き方が、宇宙を語る祖父とよく似ていたからかもしれない。


 やがて二人も、なんとなく同じタイミングで温泉から上がる。脱衣所の暖簾をくぐって廊下へ出ると、そのすぐ側には売店があった。アイスに冷凍みかん、ご当地瓶牛乳、温泉まんじゅう。あと謎のキーホルダー。温泉客の財布を確実に狙い撃つ小粋なラインナップである。そしてそんな売店横のベンチでは、寺川と小宮がなぜかパピコを半分こしながら仲良く座っていた。どういう状況だよと、トガシは顔を引きつらせる。陽キャほんと怖い。

「寺川さん、小宮くんとはよろしくしないんじゃなかったんですか? 何普通によろしくやってんですか」
「いやぁ〜小宮くんとはもう普通にマブだからね〜。さっきインスタ交換したし、あとでサイン書いてもらう約束もしたし♡」
「は!? じゃあ俺のサインは!?」
「トガシくんのはいらな〜い」
「んぎーーっ!!」
「と、トガシくん、僕は君のサイン、欲しいな……
「ありがとう小宮くん、喜んで書かせてもらうよ。この男のを剃ったあとでね」
「だから剃るって何を!? 怖い怖い怖い!!」

そんなやりとりを微笑ましげに眺めながら、財津がするりと自販機の前に立つ。

「──トガシくんも飲むかい?」

振り返りざまにそう訊ねられ、トガシは一瞬だけ躊躇った。けれど、ちょっと迷ってから最後には小さく頷いて応えた。

……ありがとうございます、いただきます」

そう返せば、財津が満足そうに優しく微笑む。
レトロな自販機に小銭を入れる。ボタンを押せばカコンという音がして、奥から牛乳瓶が転がり落ちてきた。財津から静かに差し出されるそれを、トガシはなんとなく面映く感じながら受け取る。湯上がりの体に、冷たい瓶がひんやり気持ち良かった。

「湯上がりに飲むみどり牛乳にこそ、温泉の醍醐味がある」
「はは、ありがとうございます。財津さん構文だ」

こうしてトガシも、湯上がりに牛乳を奢ってもらう程度には、財津との距離が縮まるに至ったのだった。




 大分への滞在は当初の2泊3日の予定に加え、大雪で帰りの飛行機が欠便となり結局さらに2泊延びた。期しせず長めの滞在になったわけであるが、いかんせん雪が深く、観光らしいことはしないままほとんどを小宮の旅館で過ごした。やることもないので旅館の雑用や雪かきを手伝ったり、リモートで打ち合わせ中の寺川を邪魔したり、小宮と川沿いの道を少し走ったりもした。暇な時間は財津と温泉に浸かり、それからやっぱり寺川の仕事の邪魔をしたり、夜になればみんなで恒例の桃鉄で遊んだ。不思議と退屈ではなかった。むしろ、雪に閉ざされた山の温泉宿は、都会の喧騒を忘れさせるくらいに静かで、心地が良くて。財津が長居したくなる気持ちを理解するには、十分過ぎる時間であった。

 そんな小宮温泉での最後の夜。分厚い雪雲はきれいに散り、夜空には星が満ちていた。秘湯の温泉からの帰り、本館と別館とを繋ぐ橋を渡っていたトガシはなんとなく足を止め、そのまま川辺の石垣に腰を下ろした。天を仰ぐ。夜は深く、空はどこまでも高い。街灯りの乏しい土地のせいか、空気が澄んでいるせいか、星がやけにはっきりと見える。実際の宇宙もこんな感じなのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、ふいに後ろから砂利を踏む音が聞こえた。

「──やぁ、いい夜だね」

振り返れば、財津がいた。

「はい。星、すごいですね……東京とは全然違うっていうか……
「都会の星は減速しているからね」
……減速、ですか?」

トガシが思わず聞き返すと、財津は夜空を見上げたまま静かに言葉を継いだ。

「光が多すぎると、宇宙までの時間が鈍るだろう。本来の距離は変わらないまま、時間の奥行きだけが削られる」
「時間の奥行き?」
「あぁ。星を見るというのは、過去を見ることに近い」
「それは、光の時間が均等ではないから?」
「そうだね。時間というものは均質的ではない。伸びもすれば、縮みもする」
……走っていると、たまにそれに近い感覚に触れる時があります。同じ10秒のはずなのに、やけに長く感じることがあって……前にあるはずのゴールがむしろ遠のいていくみたいな。反対に、ゴールまでほんの一瞬で過ぎ去ってしまう時もあって……

財津が静かに頷いた。

「宇宙でも似たことが起きる。速く動くものほど時間の進み方が変わる。存在は運動に従属し、星は進みながら落ち続けている」
「落ち続ける?」
「地球の重力に引かれている。だが、同時に進んでいるから落ちきらない。それで軌道を描く。落下を完遂できない状態こそが、運動の正体とも言える」
「じゃあ──」

トガシは夜空を仰いだまま、白く息を吐いた。

「人が走るのも、落ち続けてることなんでしょうか」
「そうだね。重力か、あるいは時間そのものに向かってかもしれない」

星がひとつ瞬きながら、ゆっくり流れたような気がした。降り積もった雪が音を吸い込み、世界に静寂が満ちる。宇宙の静けさのなかで、二人は、たぶん二人にしか伝わらない言葉で静かに会話を続けた。

「動勢の法則は螺旋だ。速さを求めるということは、螺旋に編まれた宇宙の構造に触れることに等しい」
「“孤独の濃度”ですね」
「そう。速さに終わりがない以上、孤独に挑み続けるしかない」
「でもそれって……、ちょっと怖くなりませんか」
「怖いね」

あっさりした声だった。随分と人間らしい顔をする財津に、トガシもちょっと面食らう。

「じゃあ、なぜ」
「宇宙が膨張をやめないのと同じで、人間もまた次の一歩を出すのをやめないからさ。──それに、君ならわかるだろう? トガシくん」
「そうですね……陸上って“良い”ですからね」

そう言って、二人は顔を見合わせて静かに笑った。なんだか壮大過ぎる話も、結局はそこに立ち返るのだから面白い。

「あの……、財津さんは、やっぱりずっと陸上選手を目指していたんですか?」
「いいや、なりたいものは別にあったかな」
「そうなんですか。ちなみに、子どもの頃の夢って何でしたか?」
「そうだね——

財津は暫し思案してから、至極真面目な顔でこう答えた。


「レタスかな」