現在忍術学園で保健委員会委員長を務める善法寺伊作は、一年生で保健委員会に入ってから、四年生に上がるまでの間、直属の後輩がいなかった。同級生たちに後輩ができて皆が先輩になっていく中、伊作はずっと委員会の末っ子だった。
そして、伊作の一つ上の学年の保健委員会の先輩は、三年もの間、伊作を唯一の後輩としてとても可愛がってくれていた。伊作も彼にたいそう懐いていた。
彼には伊作の一つ年下の弟がいた。なかなか家に帰れない中で、彼は伊作のことをまるで本当の弟のように可愛がってくれた。
「伊作を見ていると実家の弟を思い出すよ」
そう言われるたびに、一人っ子の伊作は兄ができたようで嬉しかった。自分が当番じゃない日でも、よく先輩にくっついて医務室で一緒に包帯を作ったり、話し相手になってもらったりしていた。他の保健委員会の先輩たちも「お前たちは本当に仲がいいな」と微笑ましそうに伊作たちのことを見ていた。
そんな二人の関係が変わったのは伊作が三年生の夏のことだった。
その年の夏は学園の周辺諸国がどこも領地争いの戦をしていた。基本的にどの勢力にも属せずに中立の立場にいる学園も、周辺の勢力図が大きく変われば、それに巻き込まれる可能性があった。通常であれば、戦場での視察は五年生以上の特別任務だ。しかし、その夏はあちらこちらで戦をしていて、圧倒的に手が足りなかった。そういう理由で、まだ実戦経験の少ない四年生も、監督付きで戦場の視察に駆り出されていたのだった。
真夏の、しかも複数の勢力が入り乱れる戦場は、どこも酷い有様で、力尽きた骸は腐敗して臭いを撒き散らし、じりじりと焼き付けるような太陽が容赦なく体力を奪っていった。経験の少ない四年生には少々過酷すぎたとも言っていい。
夏休みが間近に迫った満月の夜、何となく眠れなくてこっそり長屋を抜け出した伊作は、遠く医務室の灯りがついていることに気づいてフラフラと吸い込まれるようにそちらへ向かっていった。そっと戸を開けると、見えたのは濃い紫の装束。入口に背を向けるようにして座っていて、顔は見えなかった。
「先輩、帰ってきていたんですね」
ここ暫く四年生以上は任務で学園を離れていたので、伊作はずっとひとりで寂しかった。久しぶりに会えた嬉しさから、足音をならしながら駆け寄った。いつもなら「伊作、おいで」と両手を広げて伊作のことを抱きとめてくれる先輩は、伊作の言葉には反応せず、近づいてきた伊作のことをゆっくりと見上げた。
「先輩.......?」
その顔を見た瞬間、伊作は驚いて目を見張った。目が合ったのは、まるで人形のような虚ろな瞳だった。その目の周りは泣き腫らしたのか真っ赤に腫れていた。
「先輩、どうしたんですか?」
今まで一度も見た事のない憔悴しきった顔。頬には時間が経って褐色になった血が付着していた。
「い、さく......?」
「伊作です。大丈夫ですか?血がついています」
先輩の虚ろな瞳が伊作を捉え、小さな声で名前を呼ばれた。頬にこびりついた血液を拭おうと手を伸ばした時、その手が掴まれ、強い力で握りしめられた。
「先輩?怪我をしているなら手当をしないと」
「俺の血じゃないから大丈夫」
そう答えた声はか細くて、普段の先輩とは別人のようだった。
「大丈夫ですか?」
もう一度そう尋ねると、彼は小さく首を振り、俯いた。床に一滴、涙が落ちた。
「目の前で、沢山人が死んでいったんだ。腕が切り落とされて、腹を貫かれて、首が飛んで......」
段々とその声が震えていくのが分かった。
「俺は何も出来なかった。任務にも身が入らなくて、失敗して、怒られてばっかりで」
大好きな先輩が悲しそうな顔で、声で、ぽろぽろと涙を流しながら泣いていた。その姿に胸が締め付けられて、伊作も自分のことのように苦しくなった。
「自分が情けなくて仕方がないよ」
「そんなことないです!先輩はいつも優しくて、僕のこと助けてくれて、僕のっ、あこがれ、です......!」
必死になって言葉を紡いでいるうちに、いつしか伊作も泣いていた。
「お前まで泣くなよ」
「だ、だって」
「あーもう、伊作は泣き虫だな」
先輩が呆れたように笑いながら、伊作のことを抱きしめてくれた。伊作はその腕の中でぐずぐずと鼻をすすっていた。
「なぁ、俺は伊作のことが好きだよ」
先輩は優しく伊作の頭を撫でながらそう言った。
「僕も、先輩のこと、だいすきです」
この時の伊作は、まだ先輩が自分に向けている好きと、自分が先輩に向ける好きの意味が違うことに気づいていなかった。
「伊作、顔上げて」
伊作はそう言われて大人しく顔を上げた。その瞬間に唇に柔らかいものが押し付けられた。
「今の、なんですか?」
「口吸い。好きな人とすることだよ」
「口吸い?」
「うん。唇同士をこうやって触れ合わせる」
説明をしながら、もう一度唇が重ねられた。
「嫌じゃない?」
「はい」
「良かった。俺以外とはしちゃダメだからな」
「はい」
まだ何も知らない伊作は素直に頷いた。けれど、何となくそれが人前でしていい行為ではないことは分かっていた。だって今までそんなことをしている人を見たことがなかったから。
「伊作の顔を見たらちょっと元気になった。ありがとな」
先輩が伊作の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「もう遅いから早く部屋に戻れよ」
「先輩は?」
「俺はちょっと休憩してから任務に戻るよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
結局、戦は学園が夏休みに入る前には一応の終着を迎え、派手な戦いをした割には元々小さくて力のなかった城が食われただけで、学園周辺の勢力図は大きく変わらなかった。戦場での偵察のために駆り出されていた上級生たちも大きな怪我はなく、すっかり学園にも平穏が戻ってきた。
「伊作も家に帰るのか?」
「はい。明日から」
「またしばらく会えないとなると寂しいな」
「僕も寂しいです」
伊作がそう言うと、先輩が頭を撫でてくれた。今日は学期で最後の当番の日だった。休みのうちは生徒もいないので、包帯も作らなくて良い。言ってしまえば暇を持て余していた。今日は授業もなくみんな帰省の準備に明け暮れているので怪我をして医務室に駆け込んで来るような生徒もいない。することもなく手持ち無沙汰で、隣にいた先輩の顔を仰ぎみた瞬間、こちらをじっと眺めていた瞳と目が合った。
「伊作」
そう名前を呼ばれた瞬間に、何をされるか察した。言われるでもなく目を閉じると、唇にまたあの時と同じ柔らかい感触がした。今回の口吸いはこの間のような子供のじゃれ合いのソレではなく、明確に性的な意味を帯びたものだった。
「伊作、口開けて」
伊作は言われるがままに口を開いた。小さく開いた唇の隙間から柔らかいものが侵入してきてびっくりした。すぐにそれが先輩の舌だと分かったけれど、ざらざらとしたその表面で口の中をなぞられると体がぞわぞわとして気持ちいいような、擽ったいような、不思議な感じがした。
「せんぱい、これは何ですか?」
「これも口吸いだよ。ちょっと大人な口吸い」
大人な、と言われて、背伸びをしたい年頃の伊作は特別なことをしているようで嬉しくなった。
「これも好きな人とすること、ですか?」
「そうだよ」
みんなには内緒な、と声をひそめられ、伊作くんはうんと元気よく頷いた。
長いようで短い夏休みが終わり、久しぶりの登校日。
荷物を抱えて遠い道のりを歩いて学園に戻ってきた伊作は、まだ同室の留三郎が帰ってきていなかったので、誰かいないかと医務室に向かった。
中にはまだ誰もおらず、うっすらと埃を被った部屋の隅に積んである医学書のひとつを引っ張り出して読んでいると、入口の戸が開かれて部屋の中に光が差し込んだ。
「伊作、久しぶり」
顔を出したのは大好きな先輩だった。
「お久しぶりです!」
すぐに立ち上がって駆け寄ると、先輩は伊作のことを抱きとめて、「会いたかったよ」と伊作の額に口付けた。
伊作と先輩とは、決して恋仲と呼べるような関係ではなかった。ただ互いに、半ば依存に近いような形で熱を分け合い、親や兄弟と別れた寂しさを埋めるだけ。
五、六年生は学園にいないことも多く、必然的に二人きりになることも増えた。そうすると、どちらともなく唇を重ね合うのがいつしか当たり前になっていた。最初は口付けをするだけだったのが、そのうち先輩の手によって体の色んな部分を触られたり舐められたりするようになり、伊作はやがて彼の手に導かれるままに精通を迎えた。
伊作が四年生に上がると、ようやく初めての後輩が出来た。
「伊作先輩」
そう名前を呼びながら、不安げに後ろをついてくる数馬のことが可愛くてたまらなくて、伊作は数馬と過ごす時間が増えていった。一方で五年生になった先輩とはすれ違いの日々が続いていた。
学年が上がるにつれて、伊作は薬に興味を持つようになり、自分でも薬草を採りにいって薬を作るようになっていた。休みの日に数馬を連れて薬草を採りに行った帰り、たまたま任務帰りの先輩と遭遇した。
「先輩!」
久しぶりに会えたのが嬉しくて、伊作は思わず駆け出した。数馬はまだ先輩が少し怖いようで、伊作くんの後ろに隠れながらぺこりと頭を下げた。
「薬草採りに行ってたのか?」
「はい。先輩は任務の帰りですか?」
「うん。ちょっと見ないうちにすっかりお兄さんになったな」
数馬の手を引く伊作を見ながら先輩が笑った。その笑顔の奥に少しの嫉妬を隠しながら。 彼だって別に数馬のことが可愛くないわけではないけれど、伊作を取られてしまったようで少しだけ面白くない。しかし、伊作は先輩のそんな感情には気づいていなかった。
「数馬もそろそろ慣れたか?」
「はい。伊作先輩が優しく教えてくれるので」
「そうか。伊作は保健委員になるために生まれてきたようなもんだからな」
「何ですか?それ」
伊作が笑うと、先輩も笑いながら伊作の頭を撫でてくれた。久しぶりに先輩から触れられたな、と思う。
「僕たちは今から医務室に行くんですけど……」
「俺は先生に報告しに行かないと行けないから、ごめんな」
「分かりました」
じゃあ行こうか、と数馬の手を引いて医務室に向かおうとした時、「伊作」と名前を呼ばれて振り返った。
「今夜、五年い組の部屋に来て」
数馬には聞こえないように、耳元で囁かれた。伊作は小さく頷いた。
「じゃあな」
ひらひらと手を振って職員の部屋の方へと消えていく背中を見送って、今度こそ医務室に向かって歩き出した。
「伊作です」
深夜遅く、留三郎も眠りについた後でこっそりと布団を抜け出した伊作は、言われた通りに五年い組の部屋の前で小さな声で名前を名乗った。すぐに部屋の戸が開いて先輩が顔を出した。
「おいで」
手招きをされて中に入ると、中は橙色の柔らかな蝋燭に照らされていた。部屋の中央には布団がひとつ。
「今日はひとりなんですか?」
「うん。同室はまだ任務でいないから。呼び出してごめんな。久しぶりに伊作とゆっくり話したくて」
「いえ、僕も最近先輩に会えなくて寂しかったので」
「本当?」
「はい」
「良かった。伊作は後輩ができて俺の事忘れちゃったかと」
「そんなわけないじゃないですか!」
伊作がそう言うと、先輩に優しく抱きしめられた。
「伊作の匂いがする」
「どんな匂いですか?」
「おひさまと薬草の匂い。落ち着く」
伊作の背中を撫でていた手が腰紐を解くまでそう時間はかからなかった。伊作だって部屋に呼ばれた時点で何をするか、されるかなんて分かっていた。
「伊作、こっち向いて」
「う、む、はぁっ」
口付けをされると頭がふわふわして先輩のことしか考えられなくなった。伊作はこの瞬間が好きだった。
「かわいい」
「ふぁ、せんぱい、もっと」
「うん。久しぶりだもんな」
お互いに相手の体に触れて、触れられて、欲望を吐き出して、唇を貪りあって。以前ならそれだけで終わるはずだった。
「伊作、今日はこっちも使ってみるか?」
先輩の指が、普段は触れられることのない奥まった場所に触れた。
「え、なんで、そんなとこ」
「ここんナカ、男でも気持ちよくなれる場所があるらしいぞ。医学書に書いてあった」
「ほんと、ですか?」
「試してみるか?」
伊作はこくりと頷いた。
二人分の吐き出したものを纏った指が小さな孔の中心を割り開いて、ナカに入りこんできた。最初は違和感しかなかったのに、触れられているうちにお腹の奥がきゅんきゅんと疼いて、伊作の意思とは関係なくその指を締め付けるようになった。
「伊作、好きだよ」
「ぼくもっ、すき、先輩のことすきです」
体を揺さぶられ、弱い所を擦られ、何も考えられなくなる。抱きしめられたら抱きしめ返し、好きと言われたら好きと言い返し、そうこうしているうちにあっという間に夜が更けていった。
それからというもの、伊作たちは夜にこっそり会うようになった。その場所はたいていの場合、医務室だったけれど、同室がいない時にはお互いの部屋ですることもあった。そういう時はちょっぴりの背徳感でいつもより盛り上がった。
二人の関係はもうひとつ学年が上がっても続いた。そして夏が過ぎ、秋も過ぎ、いよいよ卒業を迎えるという時、先輩が死んだ。
不幸なことに、その骸を見つけたのは伊作だった。
「いつまでもあいつが任務から帰ってこないんです!」
学園長室にそういいながら駆け込んだ先輩の同室の一言によって、五、六年生と先生たちも総出で捜索が開始された。伊作がその先輩に懐いていることを知っていた同級生たちは「お前顔色悪いぞ」「伊作は一旦休め」と口々に心配してくれたけれど、伊作は寝る間も惜しんで学園の周りを駆け回った。こういう時に限って不運は起こらなかった。
そして捜索が始まって二日目の夜明け頃、伊作が山奥でこときれている遺体を見つけた。「伊作」
留三郎の声掛けに、遺体の傍に座り込んでいた伊作が顔を上げた。光のない虚ろな瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「伊作、見るな。大丈夫だ、大丈夫だからな」
留三郎は、次から次へと溢れてくる涙を拭うこともせず、血に濡れた忍び装束から手を離さない伊作のことを力いっぱい抱きしめた。
「留三郎、先輩が、先輩がしんじゃったっ……」
二人が特別な関係にあったことは、五、六年生みんなが知っていた。本人たちは隠せているつもりだったかもしれないが、明らかに先輩後輩の距離ではなかった。死因は刃物で胸を貫かれたことによる失血死。胸元には血に濡れた密書の一部が張り付いていた。
その年の卒業式は例年よりも重苦しい空気の中で行われ、全員がそこにいるはずだったあと一人の存在を思って唇を噛み締めた。
「伊作」
「何?」
「大丈夫か?」
卒業式の日、医務室にいた伊作の元に留三郎がやって来てそう尋ねた。
「大丈夫じゃないよ。でも大丈夫にならないと。六年生になるし、また後輩も増えるだろうし」
次に入ってくる一年は数が多いらしい。どの委員会にも最低二人は入るだろうと言われていた。
「無理はするなよ」
「うん」
そう言って伊作は隈の出来た顔で笑った。
六年生になった伊作は、先輩を亡くした喪失感と悲しみを背負いながらも、新しい仲間が増えて何とか前向きに生きることができていた。
「乱太郎、伏木蔵、一緒に薬草を採りに行こうか」
「はーい!」
元気に返事をしてついてくる二人はまだころころとしていて可愛らしい。自分にもこんな時代があっただろうか。
「伊作のほっぺは丸くて気持ちいいな」
そう言いながら伊作のまあるい頬をつんつん突いていた先輩のことを思い出し、懐かしさと同時に心の奥がちくりと傷んだ。
「これは何の薬に使う薬草ですか?」
なだらかな丘に生える黄緑色の葉っぱを摘み取りながら乱太郎が尋ねてきた。
「これは解毒薬になる薬草だよ」
「伊作先輩、こっちは?」
今度は伏木蔵が尋ねた。
「それは傷薬だね。火傷なんかにも効くよ」
「じゃあこなもんさんの火傷にも効きますか?」
「これは出来たての傷口の炎症を抑える薬だからね。雑渡さんのはもう傷も古いし、また別の薬がいいんじゃないかな」
「ほぇ〜、薬って難しいんですね」
「そうだね。僕もまだ勉強中だから。さ、そろそろ日が暮れるから学園に戻ろうか」
先輩のあの一件があってから、伊作は取り憑かれるように毎日朝から晩まで医学書や生薬についての本を読み漁り、各地を歩き回って薬草を集め、薬を作る日々に明け暮れた。
友人たちはみな伊作のことを気遣って「少し休んだ方がいいんじゃないか?」と心配してくれたが、むしろ何かをしていないと気が狂ってしまいそうだった。保健委員の後輩である数馬や左近も伊作のことを心配しながらも、どう声をかけていいのか分からないようだった。
伊作は学園長に直談判をし、戦場に行って医療行為をするようにもなった。絶対に学園の者と分からないように、という言いつけを守って山伏の格好をし、怪我人の手当をした。最初のうちは血を見るだけでもあの冷たくなった体を思い出してしまい過呼吸を起こしたり、吐いたりしていたけれど、それでも自分の体に鞭を打って戦場に出続けたお陰で最近では怪我人を見て動揺することも少なくなってきた。
「二人とも休みの日なのに付き合ってくれてありがとう」
「いえ、楽しかったです!」
「はい!それにたくさん薬草のお話も聞けたし......」
「良かった。二人とも良い子だね」
左右にいる乱太郎と伏木蔵の頭を撫でると、二人は恥ずかしそうに笑った。
「帰ったらちゃんと干して乾燥させないと......わっ!」
「伊作先輩!?」
一歩踏み出した時、突然足元が割れて伊作の体が地面の中に飲み込まれた。ドスンと尻もちをつきながら着地した場所は、伊作の背丈よりも深い落とし穴の底だった。
「先輩!大丈夫ですか!」
穴の縁から二人が心配そうな顔で覗き込んできた。
「大丈夫だよ。先に学園へ戻って誰が助けを呼んでくれるかい?」
「分かりました!」
トテトテと可愛い足音が去っていくのを聞きながら、伊作は湿った土に体を預けた。
おそらく留三郎辺りを呼んできてくれるだろう。二人の脚だと学園まで半刻ほど。
「暇だなぁ」
伊作がそう呟いた時、「これまた不運に引っかかっているね」と頭上から聞きなれた声がした。
「雑渡さん」
「こんにちは。というかもうこんばんはの時間だね」
彼は穏やかな口調で挨拶をしながら、伊作の体をひょいといとも簡単そうに持ち上げ、穴の底から助け出してくれた。
「怪我はない?」
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして。もう遅いし学園まで送ってあげるよ」
「あ、でも乱太郎と伏木蔵に助けを呼んで来るように言ってしまって......」
「それは大丈夫。部下が追いかけてるから」
「じゃあ、お願いしようかな」
伊作がそう言うと、雑渡は頷いて伊作の隣に並んだ。
彼は伊作が戦場で助けた患者の一人だった。戦好きで有名なタソガレドキの忍び組頭という立場ながら、その時の恩を返すため、という理由で何かと伊作や保健委員の子たちに良くしてくれていた。身体中に火傷を負っているらしく、包帯に巻かれて右目以外見えない彼は、一見すると不気味だが、話してみれば存外ユーモラスで穏やかだった。
「伊作くん、どうかした?」
「いえ、雑渡さんのその火傷は今何か薬とか使ってるのかな......と」
「一応乾燥を防ぐ軟膏なんかはつけているけど」
「そうですか」
「私の肌見てみる?」
「え、いいんですか!?」
伊作が勢いよく顔を上げると、静かにこちらを見つめる瞳と目が合った。雑渡と話しているとたまにこういうことがある。ふと彼の顔を仰ぎみた時に、優しい視線が向けられているようなことが。
彼は何も語らないけど、その視線はいつも先輩が伊作に向けていたものと似ていた。だから伊作は雑渡のその視線に気づくと、ちょっとだけ苦しくなるのだった。もう会えない人のことを思い出してしまうから。
「顔は恥ずかしいから、腕で許してね」
そう言いながら雑渡が少し包帯を解くと、その下の皮膚が露になった。
「触ってもいいですか?」
「良いよ」
そっとその肌に指先で触れた。でこぼこした表面の皮膚と、所々にあるまだ新しい瘡蓋。赤黒く爛れた皮膚はかつての火傷がどれ程酷いものだったかを物語っていた。
「うーん、やっぱり動くから擦れて傷ができちゃうのかな……」
ぶつぶつと呟きながら雑渡の傷跡を観察していると、不意に頭を撫でられた。
「伊作くんは本当に保険委員になるべくして生まれたみたいな子だねぇ」
感心したような口調でそう言われた時、伊作の目からほろりと涙がこぼれ落ちた。
「え、伊作くんどうしたの」
「すみません。ちょっと、昔のことを思い出してしまって」
泣きたくなんてないのに、いつか先輩にも同じようなことを言われたなと思い出して、勝手に涙が出てきてしまった。もう大丈夫だと思っていたのに。
雑渡は動揺しながらも、伊作の背中を優しくさすってくれた。
「大丈夫?」
「はい。ごめんなさい、驚かせて」
「それは全然良いけど......」
雑渡が何かを尋ねてきそうな雰囲気を感じて、伊作は「ありがとうございました。今度雑渡さんの肌に合いそうなお薬を作ってみるので試してくれますか?」と明るく問いかけた。
「あぁ、それは構わないよ」
雑渡はそれ以上何か追究してくることはなかった。大人の対応にほっと胸を撫で下ろす。
学園に着くと、門の前で待ってた乱太郎と伏木蔵が駆け寄ってきた。
「伊作先輩〜!」
「待っててくれたんだね。ありがとう。ちゃんと帰れた?」
「はい!尊奈門さんのおかげで薬草も全部無事です」
「それは良かった。尊奈門さんもありがとうございます」
伊作が頭を下げると、彼は「私は組頭の命に従ったまでだ」と言った。
それから十日ほどが経ったころ、伊作が医務室で一人薬を作っている時に、突然雑渡が現れた。
「伊作くん、こんにちは」
「わっ、雑渡さん!どうしたんですか?」
「いや、近くを通りかかったから顔を見たくなってね」
ほら、お土産だよ、と雑渡は近くの茶屋の団子を差し出してくれた。包みを開くと中には串に刺さった団子が五本。ちゃんと保健委員の人数分買ってきてくれたのだろう。律義な人だな、と思った。
「伊作くんは何をしていたの?」
「今は傷薬をつくっている途中です」
雑渡は伊作の向かい側に腰を下ろした。
「そういえば、この間言っていた薬ができたんですけど、試してみますか?」
「いいのかい?」
「はい。持ってきますね」
そう言って伊作は立ち上がり、壁際の箪笥からちょうど昨晩作った軟膏を取り出して持ってきた。
「まだ量が少ないので片腕だけとかになっちゃいますけど」
「じゃあ左腕でお願いしようかな」
「分かりました」
雑渡は躊躇いもなく上衣を脱いで上半身をさらけ出した。包帯の上からでも分かるほど鍛えられた美しい肉体に目が惹き付けられた。
「そんなに見られると恥ずかしいな」
「あ、すみません」
伊作が慌てて視線を外すと、雑渡がくすくすと笑い声をあげた。
「左側の方が火傷が酷いんですね」
伊作は雑渡の左腕に巻かれた包帯を解き、赤黒い肌に軟膏を塗った。彼は伊作の手をじっと見つめていた。
「伊作くんは卒業したらどうするの?」
「学園長の知り合いの医者に弟子入りしようかと」
「そう」
「卒業できたら、の話ですけどね」
「そんなに成績が厳しいの?」
「そういう訳ではありませんが、何があるかは分からないので」
「そうだね」
二人の間に沈黙が落ちた。
「私の父も突然死んだよ」
「そうなんですか?」
雑渡の顔を見上げると、彼は静かに頷いた。
「辛くなかったですか?」
「辛かったよ。尊敬していたからね。でも結局は時間が経てば記憶も悲しみも薄れていくものだから」
「僕も、そうなれるのかな……」
今だってもう随分悲しみは薄れて来ているけれど、たまにどうしようもなく寂しくて、涙が止まらなくなる夜もある。早くこの苦しみが過ぎ去って欲しいけれど、一緒に過ごした日々はどれも宝物だから、その思い出も同時に薄れていくのだと思うと、それは寂しかった。
その時、雑渡の大きな手が伊作の頭にぽんとのせられた。
「無理をしなくたっていいと思うよ。どうせ嫌でも忘れるんだから今はその辛い気持ちを大切にしてあげるといい」
雑渡の手が優しく伊作の頭を撫でる。伊作の目からはほろりと涙がこぼれ落ちた。一生懸命前を向こうと頑張っていたけれど、その度に先輩の存在が少しずつ小さくなっていってしまうようで寂しかった。この悲しい気持ちを無理して無くそうとしなくていいとそう言われて、ふっと肩の力が抜けたような気がした。
「二回連続で伊作くんを泣かせてしまったね」
「いえ……雑渡さんのせいではないので、気にしないでください」
慌てて否定すると、雑渡がすっと目を細めた。
「そう。じゃあ私の他に伊作くんにそんな顔をさせる人がいるってことかな」
少し妬けるな、と言いながら、彼は伊作の頬に伝った涙を拭ってくれた。
「これ、少し余ったので渡しておきますね。良ければまたお暇な時にでもいらしててください。その後の経過を見たいので」
「分かった。また来るよ」
元通りに包帯を巻き直し、服を着た雑渡が立ち上がった。そのまま出入口の戸に向かっていく彼の背中を追いかけて伊作も立ち上がり歩いていくと、雑渡がくるりとこちらを振り向いた。
「雑渡さん?」
何も言わずにこちらを見つめる静かな瞳に問いかける。
雑渡の腕が伸びてきて、伊作の頬に触れた。そして次の瞬間、唇に何か柔らかいものが触れていた。
「……っ!」
唇が触れ合っていたのは瞬きひとつ分くらいのほんの短い時間だった。
「じゃあね」
まだ動揺している伊作を残して雑渡は姿を消してしまう。後に残ったのは雑渡の大きな手の温もりと、少しかさついた唇の感触だけだった。
口吸いを、された。
伊作に口吸いを教えてくれた先輩は、好きな人とすることだと言っていた。雑渡は伊作のことが好きなのだろうか。
そんなはずがないと否定しようとしたけれど、雑渡の柔らかい眼差しや、伊作に触れた時の優しい手つきは先輩に良く似ていて、それが伊作の心を惑わせた。
仮に雑渡が本当に自分のことを好いていたとして、自分はどうしたら良いのだろう。口吸いの意味も、体を渦巻く熱の収め方も、誰かと肌を触れ合わせる心地良さも、ナカを突き上げられる快感も、全て先輩が教えてくれた。この先誰かと情を結ぶことによって自分からひとつずつ先輩の痕跡が無くなってしまうのかと思ったら酷く寂しくて、怖かった。
それからひと月ほど雑渡には会わなかった。雑渡のために作った薬はいつでも渡せるように持ち歩いていたけれど、その出番もなかった。最近はめっきり寒くなり、伊作たち六年生
は卒業の準備で忙しくて、互いに顔を合わせる機会も減ってしまった。それはもちろん保健委員の後輩相手でも同じだ。
「明日も実習か……」
誰に聞かせるでもない独り言が薄暗い医務室の中に溶けて消えていく。伊作は実践で怪我をした時のために傷薬を作っている最中だった。最近は後輩たちとゆっくり話す時間も持てていない。そういえば去年の今頃の先輩たちもすごく忙しそうだった。
そろそろ寝ないと明日に響く。そう思って作業を切り上げようとした時、天井裏からコトリと小さな物音がして伊作はそちらを振り返った。
「誰かそこにいるのか?」
そう声をかけてみる。しばらく沈黙が続いたあと、「こんばんは、伊作くん」と雑渡が顔を出した。
「雑渡さんかぁ。ビックリしました」
「驚かせてすまないね」
「こんな遅くにどうされたんですか?」
音もなく目の前に降り立った雑渡に尋ねた。
「いや、近くを通りがかったら明かりがついていたから、もしかしたら伊作くんかなって」
「それだけ?」
「うん。迷惑だったかな」
「そんなことはありません」
伊作が慌てて首を振ると、雑渡がくすりと笑った。
「何をしていたの?」
雑渡は伊作の目の前に腰を下ろした。
「明日の演習のために傷薬を作っていました」
「伊作くんも忙しいんだね」
「そうですね。卒業の準備でてんやわんやです」
そして伊作は何かを思い出したように雑渡のことを見上げた。
「そういえばこの間の薬はどうでした?」
伊作がそう尋ねると、雑渡が少しだけ体を寄せてきた。
「とても良かったよ。今までより乾燥も酷くなくなったし」
「それなら良かったです。作ったのがまだあるので持ってきますね」
伊作は小さな壺に入った薬を取り出し、雑渡に手渡した。
「ありがとう」
「いえ、他の薬のついでなので」
「そう」
雑渡は少しだけ不満そうな顔をした。それに気づいたけれど、何も言わなかった。
「ねぇ、今日は直接塗ってくれないの?」
軽く指先を触れ合わせながら雑渡が尋ねてきた。左手が雑渡の手に取られ、指先を絡められた。
「前回と同じように、片腕で良ければ」
「じゃあお願いしようかな」
伊作は雑渡の腕の包帯を解き、それから丁寧に軟膏を塗った。
「どう?肌の調子良くなってるでしょう」
「はい。少し肌質も柔らかくなっていますね」
「伊作くんのおかげだよ」
「お力になれたなら良かったです」
雑渡は伊作が薬を塗っている間中、じっとこちらを見つめていた。薬を塗り終えて、新しい包帯を巻いていく。
「終わりましたよ」
「ありがとう」
顔を上げたら雑渡と目が合った。その瞬間この間の口付けを思い出してしまった。
「伊作くん、どうかした?」
「いえ、何も……その、」
口ごもる伊作を見て雑渡がさらに体を寄せた。互いの膝先が擦れるほどの距離。
「伊作くん」
雑渡が伊作の名前を呼ぶ。伊作の手を取り、ぎゅっと指先を絡めて、それから唇が重ねられた。その瞬間大きく心臓が跳ねた。雑渡の唇は弄ぶように何度かふにふにと角度を変えて押し付けられ、その後、舌が伊作の口の中に入ってきた。肉厚な舌が伊作の口内を駆け回る。気持ちよくて、頭がふわふわして、それと同時にどうしようもなく悲しくて涙が溢れた。
「伊作くん、どうして泣いているの」
雑渡の優しい手が伊作の涙を掬いとった。
「ごめんなさい……」
自分は誰に謝っているのだろうか。
「伊作くん、こっちを見て」
雑渡が両手で伊作の頬を包み込んで、それから少し強い口調で言った。
「私のことを見て、伊作くん」
「ざっと、さん……?」
「お前は誰に謝ってるの?」
「ぁ……」
「ねぇ、お前にそんな顔をさせるのは誰?」
雑渡の顔が苦しげに歪んだ。
「私に触れられるのが嫌?」
伊作は頭を振った。ふたつの瞳からはポロポロと透明の滴がこぼれ落ちた。
「ごめ、なさい」
「謝って欲しい訳じゃないんだよ」
雑渡ははぁ、と小さく息を吐き出して、それから伊作のことを抱きしめた。伊作は雑渡の胸元に顔を埋めて、静かに泣いていた。
「私はね、伊作くんのことが好きだよ」
伊作がようやく泣き止んだ頃、雑渡が静かな声でそう言った。伊作は何も言えなかった。雑渡に見つめられる度、触れられる度、そこに誰かの影を重ねてしまう。だから雑渡の気持ちを知らぬ振りをしていた。
「どうやったら、伊作くんは私のことをちゃんと見てくれるのかな」
雑渡の手が伊作の頬に流れた涙を拭い取った。伊作よりも一回り大きな手は骨ばっていて、じんわりと温かい。何も考えず、この手を握りしめることができたら、どれだけ楽だっただろうか。
「もう行くよ。ありがとう」
「あ、待ってください」
伊作は、立ち上がった雑渡に慌てて声をかけた。
「あの、お薬、また用意しておきますから……」
雑渡は一瞬驚いたような顔をして、それから目尻を下げて微笑んだ。
「分かった。また来るよ」
大きな手が伊作の頭をそっと撫で、そして彼は姿を消した。
それから二週間後、久しぶりに医務室で後輩たちとゆっくり話をしながら包帯を作っていると、雑渡がやってきた。
「あ、こなもんさん!」
「こんなもんだよ」
雑渡の姿を見た伏木蔵は立ち上がり、走っていってその足にしがみついた。雑渡はその頭を優しく撫でながら、伊作に微笑みかけた。
「お土産を持ってきたからみんなで食べるといい」
そう言いながら差し出された包みの中には、おそらく南蛮のものと思われる見慣れぬ菓子が入っていた。
「これはなんですか?」
乱太郎が小さくころころとした綺麗な塊を手に取って尋ねた。
「コンペイトウという菓子だよ。砂糖を蜜で固めてある」
後輩たちはすぐに菓子に夢中になってしまった。
「みんなちゃんとお礼を言うんだよ」
「ありがとうございます!」
「ふふ、元気でいいね」
礼を言うなり菓子に手を伸ばし美味しいねとはしゃいでる子どもたちを微笑ましげに眺めながら、雑渡は伊作の傍に歩いてきて腰を下ろした。
「こんなに揃っているのは珍しいね」
「そうですね。久しぶりです」
「団欒の邪魔しちゃったかな」
「いえ、そんなことは……」
「なら良かった」
この間の事があるから何となく気まずくて、雑渡の顔を直視できなかった。
「こなもんさん、今日は何しに来たんですか?」
伏木蔵が無邪気に近づいてきて、雑渡の膝の上に座った。
「伊作くんにもらった薬が無くなったから新しいのをもらおうと思ってね」
「伊作先輩、こなもんさんのためにお薬を作っているんですか?」
伏木蔵が丸い瞳で見上げてくる。
「うん」
「伊作くんの薬はよく効くよ」
「ふふん、先輩は凄いんですよ」
なぜだか自慢気に胸を張る伏木蔵が可愛らしくて、伊作は小さく笑いながら丸い頬をつんとつついた。
「薬、なくなるの早かったですね」
ひと月程度は持つように作ったつもりだったが、最近は乾燥も酷くなったから多めに使っているのかもしれない。
「あぁ、本当はあと少し残ってるんだけどね、暫く戦で忙しくなりそうだから、先にもらっておこうと思って」
「戦、ですか」
タソガレドキが戦の準備をしているという情報は聞いたことがなかった。まだ秘密裏に動いているところなのだろう。聞いても良かったのか?という疑問か浮かんだが、おそらく雑渡はそこも織り込み済みなのだろうなと思った。
「伏木蔵、右から二番目の一番下に雑渡さんのために作ったお薬が入っているから、持ってきてくれるかい?」
「はーい」
ぴょんと雑渡の膝の上から飛び降りて薬を取りに行った伏木蔵は、引き出しから小さな壺を取り出して持ってきた。
「このお薬はあんまり薬草の匂いがしないんですね」
伊作が作る薬はどれも原料となった薬草の匂いがほんのりと香ってくることが多いが、雑渡に渡す薬はほとんど無臭だった。
「なるべく臭いの少ない薬草を選んだんだよ。忍びは纏う香りにも気をつけないといけないからね」
「なるほどぉ。さすが伊作先輩です!」
「そんなに考えて作ってくれたんだね」
伏木蔵から薬を受け取った雑渡は、伊作の方を見て微笑んだ。
「それはまあ、僕も一応忍者の卵ですし……」
「ふふ、そうだね。ありがとう」
なんだか照れくさくて、雑渡の顔が見れなかった。
「さて、薬ももらったし私はもう行くよ」
立ち上がった雑渡を伏木蔵や乱太郎がトコトコと追いかけた。
「また来るね」
雑渡は二人の頭を軽く撫でてから、部屋を出ていこうとする。
「雑渡さん」
伊作が声をかけると、雑渡がこちらを振り向いた。
「どうか、ご無事で」
彼は一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから穏やかに微笑んだ。
「うん。またね」
大きな背中はあっという間に消えてしまった。
最後に雑渡と会った日から十日ほどが経ち、タソガレドキが戦を始めたという情報が入ってきた。今回の相手はタソガレドキに負けず劣らずの大国で、戦力もかなり拮抗しているという話だった。
「戦場に出てもいいですか?」
いつもと同じように、戦場に治療をしに行こうと学園長の部屋を訪れると、学園長は黙って首を横に振った。
「なぜですか」
「今回の戦はお前さんの手に余る」
「でも、たくさんの怪我人が……」
「卒業を前に命を捨てるつもりか?」
そう言われて、伊作は口を噤んだ。別の用事で同じく学園長の部屋を訪れていた土井先生も、横で静かに首を振っていた。
結局、伊作は戦場に出る許可を得られずに、大人しく長屋に戻った。
「どうした?そんな顔をして」
帰ってきた伊作の表情を見た留三郎が、心配そうに声をかけてきた。事のいきさつを話すと、留三郎も学園長や土井先生に同意を示した。
「去年の先輩の件があるからな。先生方も慎重になっているんだろう」
そう言われると、何も言い返せなかった。確かにあんな思いを同級生や後輩たちにさせるのは御免だ。
「曲者のことが心配か?」
「どうして」
「学園には関係ない戦なのにやけに戦況を気にしているみたいだからな」
留三郎の言う通りだった。心の奥を見透かされたような気分だ。
何をしていても、雑渡は無事だろうかという事が脳裏をよぎってしまう。そのせいで任務にも身が入らず、ここ数日は不運も普段の割り増しだった。
「図星か」
「何にも言ってないけど」
「お前の顔を見れば分かる。何年一緒にいると思ってるんだ」
普段はよき理解者である留三郎が、この時ばかりは少々憎たらしく思えた。
「大丈夫だ。認めたくはないが、あれは相当強いからな」
「雑渡さんの強さは僕も分かっているよ。でも……」
部下を守るために燃え盛る火の中に飛び込むような人だから。
いつか聞いた彼の火傷の理由を思い出して、伊作は小さく息を吐いた。雑渡は今何をしているだろうか。何故だか無性に彼の声が聴きたくて仕方がなかった。
それからさらに十日ほどが経ち、戦は泥沼化して多くの犠牲者が出ているという情報が学園に入ってきた。戦火の上がっている場所は学園からは遠く、直接的な影響はない。皆が他人事のような顔をしている中で、伊作だけは顔を曇らせていた。
「伊作、どこに行くんだ」
布団に入ってもなかなか寝付けづに、いてもたってもいられず長屋を出ようとした伊作に、留三郎が声をかけた。
「ちょっと厠に行ってくる」
見え見えの嘘だったが、留三郎は何も言わなかった。
足元を照らす明るさがないことに気づいて、そういえば今夜は新月だったと思い出す。暗い廊下を歩いて医務室に向かっている途中で、伊作はふと何者かの気配を感じて足を止めた。いつぞやもこのようなことがあった。あの時は、医務室の天井裏に雑渡が潜んでいたが、今回は——。
あたりを見渡すと、闇の中で小さく木々が揺れるのが見えた。
「誰ですか?」
少し離れたところから地面を踏みしめる足音が聞こえてくる。だんだんと近づいてくる気配に警戒しながら目を凝らすと、ゆらりと揺れる人影が見えた。
「伊作、くん……?」
その声は弱々しくて、今にも消えてしまいそうだった。
「雑渡さん」
伊作は裸足のまま地面に降り立ち、ぼんやりと見える人影に向けて駆け出した。あと一歩でたどり着くというとき、その身体が大きく傾き、倒れてきた。
「雑渡さんっ!」
伊作は慌ててその身体を抱きとめた。肩に当たる息は荒くてか細い。背中に回した右手が何かで濡れる。嫌な予感がした。
「雑渡さん、ちょっとでいいので歩けますか!?」
「ちょっと、なら」
「僕の部屋まで頑張ってください」
ここから医務室に行くよりも、長屋の方が近かった。留三郎を起こしてしまうことになるが、人命には代えられない。雑渡は伊作に体重のほとんどを預けながら、足を引きずって歩いていた。
物音に気付いたのか、伊作たちが到着する前に長屋の入口の戸が開いて、留三郎が出てきた。
「伊作、どうした」
「留三郎。すまないが、灯りをつけてくれないか」
そう頼むと、部屋の中に小さな灯りがともった。なんとか雑渡を部屋に運び入れ、伊作の布団の上に寝かせる。白い寝具にじわりと赤黒い色が滲んでいく。脳裏にかつて見た先輩の最後の姿が思い浮かんで、手が震えた。雑渡は意識もなく、呼吸も弱っていた。早く怪我の治療をしなければ。そう思うのに、凍り付いたように体が動かなかった。
「伊作!」
突然耳元で大きな声がして、伊作はハッと顔を上げた。
「伊作、大丈夫だ。曲者は生きてる。まだ助けられるぞ」
「助けられる……」
「ああ。大丈夫だ」
そう言われた瞬間、目の前が開けたように、自分のするべきことを理解した。
「留三郎、清潔な布と水を持ってきてくれるかい?」
「分かった」
伊作は必要なものを言いつけ、それから雑渡の体に触れた。どうやら脇腹を深く切ってしまっているようだった。留三郎が帰ってきたら、濡らした布で傷口を綺麗にする。思ったよりも傷が浅くて少しだけ安心した。
「ほかに必要なものはあるか?」
「医務室からありったけの包帯と傷薬を持ってきて欲しい」
部屋を飛び出していった留三郎は、すぐに腕いっぱいに包帯と薬を抱えて戻ってきた。
「ありがとう。そこに置いておいてくれ」
「曲者の容体は?」
「呼吸は弱いけど、安定してる。まだ血は止まらないけど……」
「そうか」
伊作は布で押さえつけている傷口の上から包帯を巻いていった。
「大丈夫か?」
留三郎に尋ねられ、伊作は首を振った。
「まだわからない。止血できれば、なんとか」
「違う。お前がだよ」
留三郎が伊作の顔を覗き込んできた。
「僕は大丈夫だよ。やるべきことは分かっているから」
「ならいい。ここにいるから必要なことは何でも言ってくれ」
「ありがとう」
騒ぎに気付いたのか、先生たちや他の六年生たちも起きてきて、伊作たちの部屋を訪れた。彼らへの説明は留三郎がしてくれた。その間、伊作はずっと雑渡の傍らで早く血が止まるようにと祈っていた。出来る処置はすべて施し、後はもう祈ることしかできなかった。
段々と空が白んできて、部屋の中に淡い光が差し込んでくるようになった。包帯が赤く染まるたびに新しく巻きなおし、それを何度か繰り返したころ、やっと血が止まった。
「伊作、俺が見ているから少し寝た方がいい」
ただでさえここ数日寝不足だったのに加えて、夜通し雑渡の治療にあたっていたおかげで、伊作の目の下には深い隈ができていた。見かねた留三郎が声をかけたのを、首を振って拒む。
「僕は大丈夫だよ」
「このままだとお前まで倒れるぞ」
「でも、寝ている間になにかあったら」
「新野先生を呼んでくるから、とにかく一旦休め」
留三郎に強く説得され、伊作はしぶしぶ仮眠をとることにした。ずっと気を張っていたからか、意思とは反して横になるとすぐに睡魔に襲われ、伊作はあっけなく意識を手放した。
どれくらい眠っていただろうか。伊作が目を覚ますと、部屋の中には伊作と雑渡以外の人間はいなかった。外からはざわざわと話し声が聞こえているので、おそらく休み時間なのだろう。
まだ疲れの残る体を引きずるようにして雑渡の元まで移動し、その顔を覗き込む。昨夜に比べて随分と顔色は良くなったようだった。
「雑渡さん」
小さな声で呼びかけると、少しだけ彼の瞼が震えたような気がした。
早く目を覚まして、いつものように名前を呼んで欲しい。雑渡の大きな体に抱きしめられたい。
「雑渡さん。僕は貴方のことが好きです」
届かない声が部屋の中に溶けて消えていった。
また少し血の滲んでいる包帯を変えようと手を伸ばしたとき、固く閉ざされていた瞼が徐に持ち上げられた。
「ざっとさん」
薄く開いた右目は、状況を把握するように左右に動き、それから伊作のことを捉えた。
「雑渡さん、分かりますか?」
「伊作、くん?」
「はい。よかった、本当に、良かった……」
伊作の瞳からは勝手に涙が溢れて、雑渡の顔の上に落ちた。
「伊作くん、泣かないで」
雑渡は右手を持ち上げ、伊作の頬に触れた。その手を取って、両手でぎゅっと握りしめた。
「ごめんね、無事に帰ってこられなくて」
雑渡にそう言われ、この間自分がかけた言葉をきちんと覚えてくれていたのだと胸が締め付けられた。
「いいんです。生きていてくれたら、それで」
溢れる涙はいつまでも止まらなくて、涙と鼻水で伊作の顔は酷い状態だった。
「雑渡さん、僕、ようやく分かりました」
「なあに、どうしたの」
雑渡はゆったりとした口調で、伊作に問いかけた。
「雑渡さんのことが、好きです」
伊作の言葉を聞いて、雑渡は目を細めて口元に笑みを浮かべた。
「もう一度、言って」
「雑渡さんのことが好きです」
伊作はそう言いながら、握りしめていた雑渡の手の甲に唇を押し付けた。
「やっと、私のことを見てくれたね」
「はい」
伊作はずっと怖かった。雑渡を愛することで、かつての大切な人との思い出が上書きされてしまうと思っていた。だけど、雑渡を大切に思う気持ちと、先輩への思いは別物で、どちらかを選ぶ必要はないのだと気付くことができた。
「こんな状態じゃなければ、伊作くんに口づけができたのに、ね」
「治ったら、たくさんしてください」
「じゃあ、早く元気にならないとね」
雑渡はふわりと微笑んだ。その時、足音が近づいて来て、留三郎が顔を覗かせた。伊作は慌てて握っていた手を離した。
留三郎は泣き腫らした伊作と、微笑む雑渡を交互に見て、すべてを察したようだった。
「戦は終わったそうだぞ。タソガレドキの勝ちだとさ」
「そう」
雑渡はその一言を静かに受け入れた。
「良くなったらすぐに出て行けよ」
留三郎はそう言いながら背中を向けて去って行く。雑渡と伊作は顔を見合わせて小さく笑った。
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