camellia57
2026-06-13 21:57:59
2175文字
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悲喜劇の天秤

しおしおになった川瀬の話

 人生というものは良いことと悪いことの収支は帳尻が取れるようにできているらしい。
 そんな根拠のない言葉を信じていなかったけれど、玉森くんと暮らし始めてから幸運の方に天秤が大きく傾いて、いつかなにか悪いことが起きるんじゃないかって柄にもなく不安になる。
 玉森くんの行動を制限する気はない。でも本当はいつも一緒にいたいと思っている。そんなこと言葉にするつもりはないけれど。

 ついてない日というものは稀にあって、今日はまさにそんな日だった。
 帝大に向かう途中に車に泥を撥ねられて、昼休みは教授に捕まって雑用を頼まれ、弁当を食べる時間もなかった。午後の最後の講義が休講になったから帰ろうとしたところで雨が降ってくるという始末だ。急な雨じゃタクシーを捕まえるのも楽じゃないだろう。図書館で時間をつぶして雨脚が弱まったところで帰宅を急ぐ。
 こんな日だって家に帰れば玉森くんが待っているから。それを思うだけでささくれだった心が落ち着いていく。早く玉森くんの顔が見たい。

 なのに。今日に限って玉森くんがいない。いつもの夕飯より早い時間だから買い物にでも行っているのかな。……買い物籠、置いたままだけど。
 灯りをつける気にもならなくて、濡れた髪をタオルで拭って、そのままソファに腰掛けた。
 どこかに出掛けるなんて言ってたかな。俺が講義を受けている間、ちゃんと勉強してるのかな。帝大受かる気あるのかな。玉森くんは俺と一緒にいたいって思ってないのかな。
 ……ちゃんと、ここに、帰ってくるのかな。
 規則的な時計の針の音だけが響く暗い居間、1分がとてつもなく長く感じる。
 どこで何をしているのか、わかればいいのに。どこにいたってすぐに連絡できたらいいのに。
 思っていた以上に気落ちしている自分が可笑しくて、探しに行こうかと思ったところで玉森くんが帰って来た。居間の灯りをつけた玉森くんが俺の姿を見て、驚いた声をあげる。
「川瀬!?」
「おかえり、玉森くん」
「ど、どうしたのだ……? いつもより早い帰りだな」
「講義が休みになったんだ。君は、遅かったね。どこまで行ってたの?」
 温度をなくした声に気づいた玉森くんが言葉に詰まる。
「ちょっと遠くまで買い物に……
「籠、置きっぱなしだったよ。それに、なにも買って帰って来てないみたいだけど」
「そ、そうだ。買い物に行ったが、うっかり籠を忘れたことに気づいてな! 軽く運動をしただけになってしまった!」
 にゃはは……、と笑って誤魔化す玉森くん。
「そう、ところで君は雨に遭わなかったの? 傘持ってなかったでしょ?」
 問い詰めるのは、言い逃れできないところまで証拠を集めてからにしよう。
「雨は、雨宿りを、してたから……、平気だったぞ……?」
「どこで?」
「店の、中……
……
 玉森くんの眉が下がって、どんどん困った顔になっていく。
 彼を困らせるのは好きだけど、今日の俺の心はじれていて、そろそろ隠しごとを暴こうとしたとき、チャイムが鳴った。
 玄関を開けるとそこに立っていたのは水上だった。水上がうちを訪れるなんて珍しいこともあるものだ。
「川瀬、遅くに悪いな。玉森は帰ってきているか? 玉森がうちに忘れ物をしたから届けに……
「水上!」
 言い終わる前に真っ青な顔をした玉森くんが水上に駆け寄って、口を塞ぐ。
「ど、どうしたんだ……?」
 慌てる玉森くんの様子に戸惑いながらも、原稿用紙の束を渡して水上は帰って行った。
……
「か、川瀬……、その、怒ってる、よな……?」
「怒ってないよ」
 これは本当だ。誰と会っていたって、それは玉森くんの自由だ。
 俺じゃあ玉森くんの書いたクソみたいな小説を褒めたりできないし。
「いや、怒ってるだろ……
「水上と会っていたことには怒ってないよ。下手な嘘には少しだけ。嘘をつくなら俺にも見抜けないヤツを頼むって言ったでしょ」
「すまん……
 素直に謝ってくる玉森くん。これはいい機会かもしれない。
「じゃあ、君からキスして」
「!?」
「してくれたら許してあげる」
 いつもなら玉森くんと目線を合わせるけど、今日はそれをしてあげない。
 少し背伸びをした玉森くんが俺の両腕を掴んで顔を近づけてくる。
 意地悪をしたくなって顔を遠ざけてみる。
 ムッとした顔になった玉森くんがもっと近づいてくるからその必死さが可愛くて笑ってしまった。
「わ、笑うな! それに、目を閉じろ!」
「はいはい」
 機嫌を損ねないように言うことを聞いてあげると、唇に柔らかい感触がして、すぐに離れた。
 これでいいだろって顔をした玉森くんの頭の後ろに手を回して、口づけを返した。3倍にして。
 抗議しようと口を開いたそこに舌を捩じ込んで、舌先を絡める。両耳に手を当てて、わざと音を立てるようにしてキスをする。そうすると、立っていられなくなった玉森くんが俺にしがみついてくるからその姿が可愛くて。寝室までは遠い。軽い玉森くんを持ち上げて、ソファの座面に横たえる。逃げられないように背もたれとの間に閉じ込めたい気持ちもあるけど、玉森くんに覆いかぶさりながら何度もキスをした。

 キスで蕩けた玉森くんに求めさせて、心が満たされて、今日も幸福な1日になった。