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白夜
2026-06-13 21:44:07
6139文字
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とある過去の話 恋仲になる日
袁紹が無銘と出会ってから、ひと月が経とうとしていた。
最初は、得体の知れない男だと思った。
何者か分からない。
どこから来たのかも言わない。
人に膝を折る気配もない。
袁紹の前にいても、恐れも媚びも見せない。
ただそこに立ち、袁紹を見る。
その目が、ひどく気に食わなかった。
気に食わなかったはずなのに。
いつの間にか、夜になると待つようになった。
人払いをして、灯を一つ残し、扉の外の気配に耳を澄ませる。
無銘は足音を立てない。
それでも、来たと分かる。
空気が変わる。
灯がわずかに揺れる。
そして、袁紹が振り向くより先に、低い声が落ちる。
「本初」
その呼び方にも、もう慣れてしまった。
慣れてしまったことが、袁紹には腹立たしい。
「遅い」
袁紹はそう言った。
無銘はいつものように、少しも悪びれない。
「呼ばれた時刻だ」
「早く来ようという気はないのか」
「待っていたのか」
袁紹は黙った。
無銘は、こういうところがある。
袁紹が言いたくないことを、平然と突いてくる。
だが、最後の一線だけは踏み越えない。
待っていたのだろう、とは言う。
私を好いているのだろう、とは言わない。
袁紹が言うまでは。
無銘は、いつもそうだった。
「
……
座れ」
袁紹は視線を逸らして言った。
無銘は黙って近づき、いつものように袁紹の向かいへ座る。
近い。
近すぎる。
けれど、袁紹はもう離れろとは言わなかった。
むしろ、遠いと落ち着かない。
それを認めたくなくて、袁紹は杯を手に取った。
「今日は飲むのか」
無銘が問う。
「悪いか」
「悪くない」
「なら黙っていろ」
「酔うな」
「命じるな」
「酔えば眠くなる」
「眠ればよいだろう」
「俺の膝でか」
袁紹は杯を落としかけた。
「お前は、本当に
……
」
「何だ」
「そういうことを、平然と言うな」
「したことだ」
「そういう問題ではない」
袁紹は顔が熱くなるのを感じた。
何度か、無銘の膝を借りた。
髪を撫でられ、そのまま眠った夜もある。
まだ恋仲ではない。
それなのに、無銘は恋人のように袁紹へ触れる。
頬に触れ、髪に触れ、疲れていれば横になれと言う。
袁紹が甘えるような顔をすれば、無銘はすぐ気付く。
そして、何も言わずに甘やかす。
それがずるかった。
袁紹の気持ちに気付いているくせに、無銘はそれを直接言わない。
袁紹の方から言うのを待っている。
逃げ道を残しているようで、実際には逃がしていない。
「無銘」
「何だ」
「お前は、私をどうしたいのだ」
言った瞬間、袁紹は自分の声が少し震えたことに気付いた。
無銘は表情を変えない。
だが、目だけは袁紹をまっすぐ見た。
「お前はどうされたい」
「私が聞いている」
「俺も聞いている」
「ずるいぞ」
「ああ」
「否定しろ」
「しない」
袁紹は唇を噛んだ。
無銘はそういう男だ。
欲しいなら欲しいと言え。
望むなら望むと言え。
だが無理には奪わない。
言うまで待つ。
待ちながら、頬に触れてくる。
髪を撫でる。
袁紹が自分で認めざるを得ないところまで、静かに追い詰めてくる。
「本初」
無銘が手を伸ばした。
袁紹の頬に触れる。
指先は冷たくない。
ゆっくりと頬を撫で、顎へ添えられる。
袁紹は逃げなかった。
「今日は、よく喋る」
「
……
悪いか」
「悪くない」
「なら黙って聞け」
「ああ」
無銘が頷く。
袁紹はその素直さにも腹が立った。
自分が今から何を言おうとしているのか、無銘は分かっている。
分かっていて、待っている。
袁紹は深く息を吸った。
「お前は、私が何を望んでいるか知っているのだろう」
「ああ」
「いつからだ」
「最初から」
「最初から?」
「お前は分かりやすい」
袁紹は睨んだ。
「失礼な男だ」
「事実だ」
「なお悪い」
袁紹は顔を背けようとした。
だが、無銘の指が顎に添えられたままなので、完全には逸らせない。
それもまた腹立たしい。
けれど、嫌ではない。
嫌ではないから、なおさら腹立たしい。
「分かっていたなら、なぜ言わぬ」
「お前の気持ちだ」
無銘は低く言った。
「俺が先に言うことではない」
袁紹は黙った。
その言葉が、思ったより深く刺さった。
無銘は、袁紹の気持ちを弄ばなかった。
気付いていながら、暴かなかった。
急かすように触れてきても、最後の言葉だけは袁紹のものとして残した。
それが、ずるくて。
優しかった。
「
……
私は」
袁紹の声が小さくなる。
無銘は待っている。
何も言わずに。
頬に触れた手もそのままに、ただ待っている。
「私は、お前が来るのを待っている」
「ああ」
「昼も、お前のことを考える」
「ああ」
「お前の顔が好きだ」
「ああ」
「声も好きだ」
「ああ」
「その、腹立たしいほど不遜なところも
……
嫌いではない」
「そうか」
「少しは喜べ」
「喜んでいる」
「顔に出ていない」
「そうか」
袁紹は小さく笑ってしまった。
緊張していたはずなのに、無銘の返事があまりにも無銘らしい。
笑ってしまったことで、少しだけ言葉が出やすくなる。
袁紹は無銘を見た。
「私は、お前が欲しい」
無銘の目が、わずかに深くなる。
袁紹は逃げなかった。
「ただの客ではなく、ただの護衛でもなく、ただ夜に来る男でもなく」
言葉にするたび、胸が熱くなる。
恥ずかしい。
だが、もう止められない。
「私のそばにいてほしい」
「ああ」
「私だけを、見てほしい」
「ああ」
「私が呼べば来るのではなく、お前の意思で来てほしい」
「ああ」
「
……
そして」
袁紹は一度、唇を閉じた。
無銘は待った。
急かさない。
袁紹の言葉を奪わない。
だから袁紹は、自分で言うしかなかった。
「私は、お前が好きだ」
部屋の中が静かになった。
灯の揺れる音すら遠くなる。
袁紹は無銘の目を見ていた。
言ってしまった。
もう戻せない。
袁紹は急に恥ずかしくなり、顔を背けようとした。
だが、その前に無銘の手が頬を包む。
「本初」
低い声。
いつもより、ほんの少しだけ甘い。
「俺もだ」
袁紹の息が止まった。
「
……
何がだ」
「好きだ」
袁紹の顔が一気に熱くなる。
「お前は」
「何だ」
「なぜ、そう簡単に言う」
「簡単ではない」
「そうは聞こえなかった」
「お前が言ったから言った」
袁紹は無銘を見た。
無銘の表情は大きく変わらない。
だが、頬に触れる手は優しかった。
目も逸らさない。
嘘ではない。
揺らがない。
袁紹の胸の奥が、じわりと満たされる。
「最初から、知っていたのだな」
「ああ」
「私が言うのを待っていたのか」
「ああ」
「意地が悪い」
「そうか」
「そうだ」
袁紹は拗ねたように言った。
だが、もう本気で怒る気はなかった。
無銘が自分を待っていた。
自分の気持ちを、自分の口から言わせた。
それが悔しくて、嬉しい。
袁紹は無銘の衣を掴んだ。
「では、今日から」
「ああ」
「お前は、私の恋人だ」
「ああ」
「軽く返事をするな」
「軽くはない」
「顔に出せ」
「難しい」
「努力しろ」
無銘は少し黙った。
それから、袁紹の頬を撫でた。
「嬉しい」
短い言葉だった。
袁紹の胸が、また強く鳴る。
無銘の言葉は少ない。
だからこそ、ひとつひとつが重い。
「
……
なら、よい」
袁紹は小さく言った。
無銘の手が、頬から髪へ移る。
いつもと同じ触れ方。
だが、今夜から意味が変わる。
恋人のような手つきではなく。
恋人の手だ。
袁紹はその事実だけで、どうしようもなく落ち着かなくなった。
「無銘」
「何だ」
「これまで、お前は勝手に私に触れていたな」
「ああ」
「恋人でもないのに」
「ああ」
「今日からは」
袁紹は言いかけて、急に恥ずかしくなる。
無銘は待っている。
また、待っている。
袁紹は唇を噛みかけたが、無銘の指がそれを止めた。
「噛むな」
「命じるな」
「傷がつく」
「私の唇だ」
「俺のものだ」
袁紹は固まった。
「
……
今、何と言った」
「俺のものだ」
「お前は、本当に」
「違うのか」
袁紹は返せなかった。
違わない。
違わないと思ってしまった。
だから、さらに恥ずかしい。
「
……
違わぬ」
小さく答えると、無銘の目がほんの少し柔らかくなった。
袁紹はそれを見てしまい、胸が詰まった。
「今日からは」
袁紹は言い直す。
「触れたいなら、触れればよい」
「今までも触れていた」
「そういう話ではない」
「では、どういう話だ」
「許す、と言っている」
無銘は袁紹を見た。
袁紹は赤い顔のまま、精一杯威厳を保とうとしている。
「恋人として、許す」
「そうか」
「何だ、その返事は」
「嬉しい」
「また顔に出ていない」
「そうか」
袁紹は少し拗ねた。
無銘はその頬を撫でる。
正式に恋人となったばかりなのに、その手つきはすでに慣れていた。
袁紹は悔しくなる。
「慣れすぎだ」
「何に」
「私に触れることに」
「触れたかったからな」
袁紹はまた黙った。
こういうことを、無銘は何の前触れもなく言う。
不意に心臓を掴まれる。
「では」
袁紹は無銘の衣を掴む手に力を込めた。
「今も触れたいのか」
「ああ」
「どこに」
「頬」
「もう触れている」
「髪」
「それも触れた」
「唇」
袁紹の呼吸が止まった。
無銘はまっすぐ見ている。
「嫌か」
また、その問い。
袁紹は弱い。
嫌ではない。
嫌なはずがない。
だが、口付けなど、まだ。
いや、今日から恋人なのだから、してもおかしくはない。
そう思った瞬間、さらに恥ずかしくなった。
「
……
嫌ではない」
袁紹は小さく答えた。
無銘は頬に触れたまま、少し近づく。
袁紹は目を閉じるべきか迷った。
迷っているうちに、無銘の唇が触れた。
軽い口付けだった。
本当に触れるだけ。
それなのに、袁紹の指が無銘の衣を強く掴む。
離れた後、袁紹は目を開けた。
「
……
短い」
自分で言って、固まる。
無銘は袁紹を見る。
「もう一度か」
「違う」
「違うのか」
「
……
違わぬ」
無銘は二度目の口付けを落とした。
今度は少し長い。
袁紹は目を閉じる。
唇が触れているだけで、胸の奥が熱くなる。
息の仕方が分からなくなる。
無銘が離れると、袁紹は少しだけ不満そうに目を開けた。
「本初」
「何だ」
「可愛い顔をする」
袁紹は真っ赤になった。
「言うな」
「本当だ」
「なお悪い」
無銘は袁紹の髪を撫でる。
「これで、恋人か」
袁紹は少し息を整えながら、頷いた。
「そうだ」
「なら、明日も来る」
「恋人でなくとも来ていただろう」
「そうだな」
「なら、何が変わる」
無銘は袁紹を見た。
「お前が、俺を呼びやすくなる」
袁紹は胸を突かれたように黙った。
無銘は続ける。
「触れてほしい時に、言いやすくなる」
「
……
それだけか」
「抱きしめてほしい時も」
袁紹の顔がまた熱くなる。
「言わぬ」
「言う」
「言わぬ」
「本初」
「
……
いつかは言うかもしれぬ」
「それでいい」
無銘は袁紹を引き寄せた。
袁紹は少しだけ抵抗するふりをしたが、すぐに無銘の胸元へ収まった。
抱かれる。
ただ、それだけ。
けれど、今夜からは恋人として抱かれている。
そう思うと、袁紹は胸がいっぱいになった。
「無銘」
「何だ」
「私は、あまり甘えるのは得意ではない」
「知っている」
「だが」
「ああ」
「お前には、少しは甘えるかもしれぬ」
「少しでいいのか」
「調子に乗るな」
「乗っていない」
「乗っている」
袁紹は無銘の胸に額を押しつけた。
顔を見られたくなかった。
嬉しい顔をしている自覚があった。
無銘の手が髪を撫でる。
袁紹はそれを受け入れた。
「本初」
「何だ」
「好きだ」
袁紹の肩が小さく震えた。
「
……
何度も言うな」
「嫌か」
「嫌ではない」
「なら言う」
「少しは加減しろ」
「しない」
袁紹は困ったように、けれど嬉しそうに息を吐いた。
「では、私も言わねば不公平か」
「言え」
「命じるな」
「言え」
「二度言うな」
袁紹は顔を上げた。
無銘の顔が近い。
相変わらず表情は薄い。
だが、目だけは袁紹を捕らえている。
袁紹は逃げなかった。
「好きだ、無銘」
無銘は袁紹の頬に触れた。
「知っている」
「そこは、嬉しいと言え」
「嬉しい」
「
……
ならよい」
灯が小さく揺れる。
夜はまだ長い。
けれど、二人の間にあった最後の言葉は、もう袁紹の口から落ちた。
無銘はそれを奪わなかった。
待っていた。
袁紹が自分で言うまで。
だから袁紹は、悔しいほど安心していた。
「今夜は帰るな」
「ああ」
「明日も来い」
「ああ」
「私が呼ばなくても」
「来る」
「恋人だからな」
「そうだ」
袁紹はその言葉を聞いて、ようやく少し笑った。
無銘はその笑みを見て、静かに口付ける。
今度は袁紹も逃げない。
恋人として初めて交わす口付けは、まだ浅く、けれど長かった。
夜の終わりに、袁紹は無銘の腕の中で眠った。
無銘の衣を掴んだまま。
まるで逃がさないように。
無銘はその指を見下ろし、低く呟いた。
「逃げない」
袁紹は眠っていて、返事をしない。
無銘は袁紹の髪を撫でた。
まだ出会ってひと月。
けれど、もう決まっていた。
袁紹は無銘を選び、無銘も袁紹を選んだ。
この夜から、二人は恋仲になった。
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