スターハウスの廊下を歩きながら、藍良は怒っていた。いや、それは少し語弊がある。正しくいうのなら『面倒だなぁ』という絶妙に弱めの不満であった。
遡ること数分前。先輩二人は仕事で留守の部屋にて、全くのどかな外の日差しとは対照的に、藍良はずっと一彩を慰めていた。
「ほら、売り言葉に買い言葉ってあるしさ、先輩だって本気じゃなかった、と思うよ」
「兄さんはそんな分かりやすい嘘は言わない……」
「えぇ……?割と言うと思うけど」
分かりやすい慰めの言葉をかけるも、一彩が引きこもった布団から、すぐに落ち込んだ返しが飛んでくる。
今日は朝っぱらから元気に『兄さんと出かけてくるよ!』と部屋を出ていったのに、しばらく後、意気消沈した様子で帰ってきた一彩は、以前の様に自分のベッドスペースに引きこもり、どよどよ憂い始めたのだ。
最初こそ今朝方との変わり様に驚いて心配したが、質問攻めにして聞いてみるとなんてことはない。また天城の兄弟の喧嘩、いや喧嘩にもならない。ただの強めの言い合いだ。ただ、少し怒ったり悲しんだりすることはままある一彩だけれども、ここまでになるのは珍しいことでもあった。
「話聞く感じ、別にヒロくんは悪くないと思うけどさ」
「僕に非は無い」
布団お化けになりながらも断言する一彩。これだけ凹んでいても健在のふてぶてしさはどうかと思う。
布のまんじゅうの隙間からにゅっと伸びた手に捕まえられてしまい、適当に話を聞くのも忍びなく、仕方なしに経緯を聞き取った藍良は、隠すことなく辟易とした。
なんでも、一彩は今日の待ち合わせに遅刻してきた燐音に対し、強く諌めたらしい。前々から約束して予定があることもわかっていたのに、連絡もなく遅れてきて、挙句詫びの言葉も誠意のこもったものでは無かったらしいのだ。そのため、いつもよりも厳しく言ったそうな。
一彩が言うには、今日のお出かけをずっと楽しみにしていたのもあって、少し強めに言ってしまっただけ、らしいのだが、聞けば藍良でさえ少し言い過ぎではないかと思うような内容。
もちろん燐音に非があるのだが、こじれたことは一概に燐音だけ悪いと言い切れず、どうにかして穏便に、ド正論で殴るのはやめろと伝えたい。けれど、今の一彩は頑なに自分は間違ったことはしてないと言い張り、なんとも頭の痛い状況となっている。出かかったため息を飲み込んだのを、誰か褒めて欲しい。
「僕は間違ったことは言ってないよ」
「それはそうだけど……言い方は改めた方がいいかもねぇ。ヒロくん、なんでも正論パンチなんだもん。燐音先輩の気持ちも分からなくはないかな」
「なっ、兄さんの肩を持つのか?!」
「肩は持ってない。言い返したのは先輩だし、煽ったのも先輩なんでしょ。それは先輩が悪いよ。でも、何でもかんでも正しけりゃいいってものでもないんだよ。分かるでしょ?」
「…………」
「ヒロくんだって、分かってるから落ち込んでるんじゃないの?」
「……ウム」
原因は燐音だろうけれど、ヒートアップした遠因は一彩にある。想像に難くない応酬が藍良の脳裏で繰り広げられ、こんな痴話喧嘩にもならないものに付き合わされるのは面倒でげんなりする。もうすぐお昼ご飯の時間だ。だんだんお腹も空いてきて、一彩の相手を切り上げたくなってきた。
「じゃ、さっさと謝ってきなよ。言い過ぎてごめんなさいって」
「……僕は悪くない」
「そうだけど……」
随分前からこの繰り返し。本人としても自分の言動に引っかかる部分はあれど、間違っていないのに謝るのはどうにも納得いかないみたいだ。言いすぎたことまでは認められるのに、意地を張って振り上げた拳の降ろしどころがわからなくなっているのかもしれない。
が、そんなことは藍良の知ったことではない。付き合わされてかれこれ一時間、言っては悪いが堂々巡りの慰めに飽きてきたし、さすがにそろそろ昼ごはんの準備もしたい。
「もう、分かったよォ……ヒロくんの好きなように、今は頭冷やしなよ。おれご飯作ってくるから、手、離して」
「……」
「ヒロくん」
「……ウム」
一回言っただけではぎゅっと繋がれたままだった手は、そっと解放される。これでも布団から顔を出さないのだから、久々の兄との諍いが一彩にどれだけダメージを与えたのか、少しも想像できないわけじゃない。いつもあんなに元気なのに、今や項垂れてさみしそうな手の甲をぺしぺしとはたいて簡単に慰めた。
「ヒロくんも一緒に食べよ、できたら呼びにくるから。それまで寝てたら?」
「ウム……」
力無い布団まんじゅうの声を背に部屋を出て、藍良はキッチン目指してやってきたわけである。
まったく世話の焼ける。頑固なのは悪くないし、完全に一彩が悪いわけでもないから気持ちはわかるが、相手は燐音だ。どこかでどっちかが折れないと平行線のままなのだが、双方、少なくとも一彩がもうしばらく頭を冷やさないことにはどうにもならない。
「とはいえ、鬱陶しいんだよねェ……」
そこまで落ち込むのならさっさと謝れば良いのに。
さて、理由はともかく沈んだ友を元気付けるには、何はともあれご飯である。
残っていたはずの食材と自分の料理スキルを天秤にかけながら、さて何が作れるかとキッチンを覗くとそこには、憮然とした顔でひたすら餃子を包む、椎名ニキがいた。
「…………」
黙り込んで、やけに不機嫌そうにちまちま量産されていく餃子。ステンレスのボウルにある山盛りの餡をとって、これまた山積みの皮を取って、綺麗に包んでは傍の皿に並べている。スターハウスのダイニングはそれなりに広いのだが、その一角の異様な雰囲気に部屋全体から圧を感じるくらい、ニキには不機嫌の影がちらついていた。
恐る恐る近づいても手先から目を離さない先輩に、ゆっくりと声をかける。
「……あ、あの、椎名先輩……?」
「あ?」
「ヒッ!こっ、声かけてごめんなさい!」
「えっ、あ!ごめん、びっくりしたっすよね!」
「ひ、い、いえ!すみません邪魔して、あの、」
「わーん、怯えないで〜!」
比較的いつも朗らかなニキからはかけ離れて睨まれた藍良は、すぐに怯えて今にも逃げ出さんと距離を取る。だが、ニキはというと、餡と打ち粉塗れの手を振って、すぐに剣呑な空気はかき消えた。
「白鳥くんには怒ってないんで〜!なんか用があってここ来たんすよね、もしかしてお昼?散らかしててごめんっす」
「あ……えと、はい。ちょっと早いですけど、お昼ご飯に……えっと、なんかあったんですか?配信で食べるとか……」
「違うんすよ、燐音くんが無茶振りしてきてぇ〜」
「え、もしかして、ヒロくんとの喧嘩がらみですか?」
「そう!そうなんすよ!えっ、知ってるの?」
「はい、おれもさっきまでそのことでヒロくんに巻きつかれてたので……」
「!」
部屋で待つ布団まんじゅうを思い出してそう言えば、ニキの目が驚いたように見開かれ、見る見るうちに顔が輝き、がたっと椅子を引いて立ち上がって近づき、餡塗れの手で藍良の手を握った。
「白鳥くん!聞いてくださいよ!」
「うわぁー!手!」
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立ち話もなんだから、と餃子作りを手伝いながらニキの話を聞くに、どうやら一彩が喧嘩した相手も一彩同様、落ち込んでいるらしい。
「昨日はうっとうしいくらい機嫌良かったのに、自分が遅刻して注意されてキレるってなんなんすかホント、燐音くんが全部悪いじゃないすか」
「あはは……」
「しかもいきなりなんか作れって、無茶言うな!って感じっすよ、もう!僕だって休みの日にしたいことぐらいあるのに!」
山盛りの餡が入ったボウルを挟んで、向かい合わせで座る二人。お互いの手元にはこれまたそれなりの餃子の皮と水がスタンバイされていて、話しながらちまちまと包んでいっていた。その作業スピードには雲泥の差があるものの、おしゃべりのスピードは二人とも並び立っている。
「そんなに気にするなら、さっさと謝りゃ良いんすよ!」
「燐音先輩に悪いなんて感情があるとも思えないんですけどね」
「どうせまた変にプライドが邪魔してるんすよ。弟の前でとか、ちょっと遅刻でとか。でもそんなんで僕を巻き込まないでほしいっす」
「いくら先輩でもそんな……」
「いーや!絶対そう!変な意地張んのはやめてほしいっす、ほんとにもう!ちょっとは弟さん見習って、素直になったらいいんす」
「うーん……それはそれで不気味かも……」
あの赤い悪魔のでかい方が素直に謝るなんてしたら、それこそ天変地異の前触れだ。何か裏があるのではないかと、ゾッとしてしまう。
「ヒロくんも、なんか変な意地張っちゃってるんですよね。早く折れたら良いのに」
「いやいや、弟さんが謝ることじゃないっすよ。燐音くんが百悪いんだし」
「……実は、そうとも言い切れないと言いますか」
「んぃ?」
ふとニキが顔を上げた先では、細い指先がぎゅっと餃子のひだを整え終えて指で押し固め、出来上がった列に並べている。少し不恰好な餃子は、どちらかと言うと皮の割合が多めだ。ひだまで綺麗なニキのように上手くいかず、なんとも言い難い困ったような顔で、藍良は次の餃子の皮を取った。
「ヒロくんがなんて言ったか、聞いてます?」
「えー、いや?知らないっすね」
「けっこうキツめに言ったみたいで……割とそこそこ、言い過ぎなぐらい。遅れたのも連絡しなかったのも燐音先輩が悪いと思うんですけど、ヒロくんも大概です。悪意があったわけじゃないと思うけど、あんな風に言われたらカチンときますよ」
「あー……まあ弟さん、基本は悪気ないですもんね」
「だから、それはヒロくんも謝ったほうが良いんじゃないかなって思うんですけど……自分が正しいから、なんか頑固になっちゃってるみたい」
「うーん、たしかに」
一彩と一年同じ部屋で暮らしたニキには、藍良が言うことが多少は分かった。ただ、一彩は自分の意思や考えを正しいと思ったのならそれを貫き通す性質だということは理解できるが、一彩は相手の言うことに一理あると思ったら素直に引けるところもあるはずなのだ。ニキが今、藍良の言ったことに『なるほどな』と思ったということは、一彩だってそう思ったはず。
「それって弟さんには言ったんすか?」
「言ったんですけど、『僕は悪くない』って。ヒロくんも言い過ぎた自覚はあると思うんですけど」
「へぇ〜、意地張るのなんて珍しい。弟さん素直なのに、そんなにひどいケンカだったんすかね」
「違いますよ多分、燐音先輩に甘えてるんですよ。先輩が悪いんだからそっちから謝れって思ってますよ、きっと」
「なはは、それはその通りなんすよね」
「でもどっちかが折れないとなんも解決しないですよォ。あーぁ、せっかく久しぶりに一人だから、円盤見ようと思ってたのに……」
ぶつくさと文句を言う藍良に、ニキは一つ苦笑いで返した。
喋りながらも手を餡塗れにしながら包んだ餃子は、もうそれなりに大量になっている。二人が都度つど手を伸ばしていたボウルの中はもう半分以上なくなって、比例して皮も無くなってきた。藍良よりもずっと速く作業を進めていたニキは、一足早くノルマを終わらせたようで、不意に席を立って食器棚に向かい、何か探しながらも声を上げる。
「弟さんは部屋なんすか?」
「はい。多分先輩とケンカしたあとすぐ帰ってきたみたいで、今は布団に籠ってます。手繋がれて全然離してくれなくって……ご飯作るって無理やり出てきました」
「あはは、可愛い拗ね方っすね。燐音くんにもその可愛げを分けて欲しいっす」
棚を探っていたニキは、奥の方から新しく大きな平皿を引っ張り出し、二人で大量生産した餃子を皿にぎゅうぎゅう詰めていく。並べてみるとよく分かるが、綺麗なのがニキ作、少しいびつなのが藍良作。焼いた時に破れないようしっかりと閉じたつもりだけど、どうなるかな。料理人のニキが何も言わないのなら大丈夫なんだろう、と信じたい。
「部屋入ってくるなり僕のこと追い出して、問答無用でこき使ってきましたもん。腹立つんで、時間かかるやつにしてやろうと思って」
「あぁ、だから餃子……」
「ちょうど材料が揃ってたってのもおっきいんすけどね」
「材料って、皮も?いつも置いてるんですか?」
「ううん。燐音くんたち中華食べに行くって聞いたから、僕も食べたくなって昨日買ってきてたんすよ。そうだ、白鳥くんも食べます?手伝ってもらっちゃったし、お昼食べにきたんでしょ?」
「えっ、いいんですか?!」
「うん、予定してた量の二倍は作っちゃったし。せっかくなら弟さんも呼べば良いっすよ。どうせ燐音くんも来るし」
「あー……」
今の二人が居合わせて一体どうなるのかというと、それはそれは気まずくなるだろう。藍良とて進んでその場にいたい訳ではない。気まずい図が一瞬頭をよぎる。
「大丈夫なのかな。またケンカ売らなきゃいいけど」
「大丈夫でしょ〜。もしなんかヤバそうなら僕らだけで逃げましょ、付き合ってらんないっす」
「そ、そうですね」
その後、キッチンでは大量の餃子がニキにより焼かれて煮られて、藍良によりぎこちない二人が連れてこられた。案の定微妙な空気になったものの、餃子のおかげか藍良とニキのおかげか、いつの間にかうやむやになって終わった。
そのあとのことは藍良たちにはまるで無関係のことであり、喧嘩の結末は当の二人のみぞ知るところである。けれどその日の夕方、二人で出かける兄弟の姿が見かけられたとかなんとか。
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