-淀の裾
その日、ブロッケンJr.はメインにストックを使った花束を抱えて駆けていた。河口の周りに設けられた公園には穏やかな空気が流れ、憩いの場として愛されている。石畳にパテントレザーのブーツが重なり刻まれる軽快なリズムが待ち人の耳に届くと、前に垂れていた辮髪が肩を撫で、後ろへと落ちる。
「相変わらず早いな」
「早いのではない、日光浴をしていたらお前が来たのだ」
「なんだよそれ」
待ち合わせをしていたというのにこの言い草であるが、その言葉は照れ隠しであるとブロッケンJr.には分かっていた。花束を抱えていない方の手を差し伸べ端正な顔が綻ぶと、竹のように指がしなやかに伸びる手がぎこちなくそれを取る。
特別な事はない。食事をし、賑わう街を歩き、疲れた頃合いにカフェで休憩する。ありふれたものだ。
それがラーメンマンを苦しませるのだ。
「今日も楽しかったぜ!ほら、花も幸せそうだ」
一日を二人と共に過ごしたストックの花は心なしか待ち合わせた時よりも彩りが増し、ロマンティックな姿をしている。ブロッケンJr.は腕を組む男の手を掴み、花束を握らせる。
「
…すまない」
「そこは、ありがとうだろ?」
「謝謝」
抑揚のない物言いは若者の心に小さな鉛を投げ込む。この程度ならば痛くも痒くもない為に青い心はシャンとしている。
「またな」
ブロッケンJr.はラーメンマンに背を向けると黄昏空に手を舞わせる。彼は年上に配慮して敢えて背を向けたのだ。案の如く若年寄はヒラヒラと舞う指間から差す残照の煌めきをただ見ているだけだ。
帰途、二人の距離が遠のくと腕の中の
愛の絆がみるみる萎れてゆく。それが何を示しているのかを能面の男は分かっており、溜め息をひとつ落とす。
「ならんのだ、私達は
…」
色をそのままに不自然に生気だけを失った花に能面が沈む。
丁子の独特な甘い香りは忘形見が恩師を喩える時によく用いるが、それに似ておりラーメンマンは顔を歪ませる。
意識の中を濁流が這いずり侵食してゆく。
-吐瀉る
青い怒号が夜半の空を
劈く。それ程までに聡明な声が荒ぶってしまった
理由は能面の男にある。
遡り、宵を迎えた頃。突如ブロッケン邸にラーメンマンが訪ねてきた。若者は驚いて目を丸くしながら邸宅に招き入れようとしたが、能面の男は綺麗に揃えられた手のひらを前に出して断りを入れる。
「要件はすぐに済む」
「急用か?俺でよければ助けに
…」
年上から続けて発せられた言葉に、若い顔からやんわりと浮かんだ笑みが一瞬にして消える。
「なに
…言い出すかと思ったら
……冗談はよしてくれよ
…」
「冗談ではない。もう遊びはやめにしよう」
ラーメンマンが言う遊びとはブロッケンJr.との関係の事だ。彼がこの
恋仲を終わらせにきたと言うのだから、端正な顔が歪むのも仕方あるまい。
「遊びって
…何言ってんだよ、俺は本気で
…」
「誰しも過ちは犯すものだ
…経験の浅い若い頃は特に。よく見ろ、おまえの前にいる男を」
困惑して泳ぐ目が一点を捉えるとギョッと見開く。そこには能面ですらない、『何も無い』
「ラーメンマン
…?」
「用はこれだけだ。後は自分でよく考えろ」
男はブロッケンJr.に背を向け、静かに飛び去る。黙って見送る若者は茫然自失としており、暫くその場に立ち尽くした。
頭の中をぐるぐると駆け巡る「遊び」の文字が、真剣だった綺麗な恋心に小さな傷をつけてゆく。
「受け入れてくれたじゃねーか
…恋愛ごっこに付き合ってやったとか
…そんな
…」
歯を擦り合わせる鈍い音がしてからギリッと強く噛み締めた瞬間に鋭い犬歯が覗く。
「嘘を吐いてんじゃねーぞ!!!!!」
ここで夜半の空を怒号が
劈いた。
先刻、年上が説得でもさせるように淡々と述べた言葉が嘘であると彼が言い切れたのは、本に囲まれたあの部屋で重ねた涙が本心であると信じているからだ。何より、面に『何も無かった』事が不自然であった。
奇襲がある度にラーメンマンはブロッケンJr.に「罪を憎んで人を恨まず」と教えてきた。それは正義超人として生き、人間を慈しむ師ゆえに口から出る言葉なのだろう。ここに自らの贖罪は含まれていない事をブロッケンJr.は分かった上で、幾度と反芻し導き出した結果から、彼はラーメンマンという人柄を愛しているのだ。おそらく師はここを勘違いしているのだろうとブロッケンJr.は目を瞑る。
「いつまで
罪の泥濘みにいるつもりなんだよ」
-泥濘み
忘形見へ伝えた言葉に偽りはないが、それを理由に開き直っているとも言えず、ラーメンマンは心の最深部に度々沈む。
青い芽が太陽に向かって背を伸ばしてゆく様子は胸を高鳴らせ微笑ましいものである。太陽として導いてやれていることはラーメンマンにとっても誇りであろうが、恋となれば話が変わってくる。
ブロッケンJr.は敬愛とは別に恋慕を抱いており、ラーメンマンとて愛されること自体は構わないが相手がまずかった。思いなど人それぞれであり自由であると客観的な思想を抱く男が、父親を殺した男に恋をするなど『間違っている』と主観から拒んでしまっている。幾度かあしらってきたが、ブロッケンJr.の真っすぐさに意志を貫ききれず受け入れてしまった事を、愛を向けられる度に思い出してしまうのだ。
「一時の迷い、一時的な関係」
薄暮の中で灯りもつけずに床にへたり込む男は、普段の堂々とした姿は見る影もなく弱々しく同じ言葉を自分に言い聞かせる。こうなってしまうのは彼もまた『あの子』を恋慕ってしまったからだ。
「俺はあんたを憎んじゃいない
…好きな気持ちは本気だ。これは嘘じゃねぇから、受け止めて欲しい」
誓いを交わした日のブロッケンJr.が発した言葉が頭の中をぐるぐると巡る。全く偽りを感じさせないからこそラーメンマンは与えられる愛情が心地よく、月日を重ねるほどに恋慕を深めた。
ラーメンマンは揺らぐ頭を抱えて蹲る。
-月読の抱擁
夜半前、ブロッケンJr.は東京に降り立つ。相手は手軽な連絡ツールを持ち合わせていないため足を動かすしかなく、先に中国の母屋に向かったが人気がなかった故に
東京へやってきたのだ。
「邪魔するぜ。ラーメンマン、いるか?」
合鍵で中へと入るがどこも灯りは付いておらず若者は目を凝らす。探し人がどこに居るかは何となく分かっていた。
「
…風邪引くぜ」
ベランダへ続く窓はカーテンが半分開いており、レースカーテン越しに月明かりが部屋を照らしていた。その窓際で膝を立てて座り蹲る男は微動だにせず、くぐもった声で来訪の理由を問う。
「何用だ?」
「用事がなきゃ会いにきちゃいけねぇのか?」
「帰れ」
まるで泥でも被っているように動かない若年寄りを前に若者は
毅然としている。ブロッケンJr.は泥濘みにゆっくりと歩み寄ると、勿忘草だけで組まれたのブーケを足元に置く。月明かりに照らされた小さな花はふわりと白く輝く。
「ッ!いらん、私には
…」
「俺との思い出、忘れないでくれよ」
動揺から面を上げたラーメンマンに掛けられた言葉は動揺を加速させる。
「忘れ
……」
白い勿忘草に目を落とした瞬間カランッと能面が落ちたような音がして、室内だというのに雨がひとつふたつと小さな花に落ちる。どんよりと重たい雨雲を夜空が抱擁する。
「それがあんたの本心なんだな」
腕の中で体温が少しずつ上がってゆくのをブロッケンJr.は感じて綻ぶ。
「あの日と同じだ」
あの日と言うのは誓いを立てた日だ。その日も彼は雨粒を前に微笑んだのだ。
「なぁ、ラーメンマン。少しだけ話を聞いてくれないか?」
返答はないが、断りもないそれは承諾を意味している。
「あんたが背負っている罪はこの先も抱えていくもんだと思う
…俺も許してねぇ。だが勘違いしないでくれよ?罪を憎んで人を恨まず
…俺はあんた自身を恨んではいないんだ。心の師に教わった、慈愛の念だ」
心当たりのある言葉にラーメンマンはゴクリと喉を鳴らす。
「なんでもそつなくこなせるくせに恋愛に対しては不器用で、自我が出てあーだこーだ文句を言ってくる
…そんなふうに俺だけにわがままになってくれて嬉しいんだ」
ブロッケンJr.が言葉を紡ぐほどに月が輝度を落としてゆく。
「
…お前は、やけに達観している」
「隣に居たくて背伸びしてんだよ」
「
…そうか」
年下の返答にラーメンマンは表情を和らげるが、渡された花束の意味を思い出して痛む胸を感じながら今一度目を落とす。
「!?
…青い
…」
薄暗くなった部屋にある勿忘草は晴天の空色をしていた。
「強い光が当たると
真実って飛んじまうんだな
…俺たちはこれくらいの明るさで生きような」
徐々にほどかれていた抱擁が完全に解かれ、ブロッケンJr.はあっけからんとした笑みをラーメンマンに向ける。
「余計な気を遣わないでくれよ」
「お前に気を遣ったのではない」
「わかってるよ、あんた自身にだって。そんなつもりじゃなかったのに俺のことを好きになったことを後悔してほしくない。別れはマジで興味無くなったら言ってくれよな」
じゃないと俺は未練タラタラで付き纏いそうだと大きく笑うブロッケンJr.にラーメンマンは眉を顰めて笑み返す。
「困った
騎士様だ」
ラーメンマンは花束を拾い上げて顔に近づける。勿忘草を纏った顔はせせらぐ川のようで、若者は息を呑む。
「今日は泊まっていけ」
広口のフラワーベースに勿忘草を飾りながらラーメンマンが情人に声をかけると、軽やかな声色でダンケと返される。
「そんなの持っていたんだな」
ブロッケンJr.がフラワーベースを指差しながら話しかけるとラーメンマンはクツクツと肩を揺らす。
「デートのたびに花束を渡されるからな。バケツでは悲しかろう」
「受け取って嬉しかったから買ったんじゃないのか?」
図星を突かれた若年寄は笑うしかできず、潔く白旗を振る。ほのかな月明かりがフラワーベースを煌めかせて控えめな花を引き立たせる。
テーブルに花を飾り終えたラーメンマンはブロッケンJr.の方へ歩み寄り、背中を丸めて顔を覗き込む。
「仲直りに、この後どうだ?」
悪戯に妖艶さを含んだ瞳に目を奪われて陶酔する若い体をラーメンマンは押し倒した。
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