ORANGE*AXE/小野美歓
2026-06-13 19:42:41
14956文字
Public 風花
 

みんなのメルセデスおねえさん【ディミメル】

そういえばこれ6月の話だな、と思ったので、気まぐれに「CANDY BOX 」より再放送。青獅子の学級の面々とメーチェの、タイトル通りの話。
ぶっちゃけ、最後の殿下の科白を言わせたいがための話だったりする。あと、私は「メーチェ=猛獣使い」だと思ってる節がある。


 意識が不意に浮き上がり、メルセデスは目を覚ました。
 耳を澄ませれば小鳥の囀りが聞こえ、少しだけ開けていた窓から、薄らと光が差し込んでいるのが分かる。身を起こして改めて窓を見遣ると、隙間から覗く空の色は普段の目覚めの時より些か暗かった。
 どうやら、いつもより早く目が覚めてしまったようだ。もう一度布団に潜り込むと、今度は寝過ごしてしまう恐れがある。眠気は残っていないので、折角だからとこのまま起きてしまうことにして、寝台から抜け出した。


 身支度を調えて部屋を出る。空の色はやや暗く、やはりいつもより早い。日課の礼拝がてら、散歩でもしようか――考えながら階段を下りて辺りを見回したところで、良い案が思い浮かび、メルセデスはそちらに足を向けた。
 このところ戦闘の後処理で忙しかったから、温室に咲く花を見る暇も心の余裕もなかった。早い、と言ってもせいぜい数十分程度、空いた時間を過ごすのには丁度良さそうだ。
 流石にこの時間では管理人もおらず、中はひっそりと静まりかえっている。丁寧に手入れがなされた色鮮やかな植物が作る景色は、王都に向けて出発する前とあまり変わっていなかった。
 ゆっくりと奥へと進み、咲き誇る花を一つ一つ見ていく。その過程で、辺りの土が乾いていることに気づいた。早朝だから当然と言えば当然だ。
 メルセデスは道具置場に向かい、そこからじょうろを取り上げた。水やりを済ませられる程度の時間はあるし、後で手入れに来るドゥドゥーの仕事も減らせる。花の世話は彼の趣味でもあるけれど、今は戦闘の事後処理で忙しい身だから、少しだけでも手伝いを――そう考えて、じょうろに水を汲んで、辺りの花壇に撒いた。
 そうして暫し、一通りの水撒きが終わった頃だった。温室の扉が静かに開かれ、音に気づいたメルセデスが振り返ると、予想通りドゥドゥーが立っていた。
「おはよう、ドゥドゥー」
……おはよう、メルセデス」
 一方のドゥドゥーは、当然ながら先客があるとは思っていなかったようで、驚きの色を表情に含ませながら挨拶を返してくる。 
「これから、お花のお世話?」
「ああ。お前は?」
「今日は少し早く目が覚めちゃったから、朝のお祈りの前にお花を見ていこうと思って。ついでにお水をあげていたところよ」
 空になったじょうろを道具置場に戻し、振り返ってドゥドゥーを見上げる。その面に浮かぶのは、滲むような微笑だった。
「そうか、ありがとう」
 五年前に同じ学級の生徒として出会った頃は、こんな風に気負いのない笑顔をドゥドゥーが見せることはなく、厳めしい仏頂面で只管主人に付き従うばかりであったから、その巨躯も相俟って、近寄りがたいと思ったものだ。一年を同級生として過ごす中で、最初の印象は正反対に変わったが。
「いいえ、どういたしまして。それじゃ、私はお祈りに行ってくるわ。お仕事は山積みでしょうけど、無理はしちゃ駄目よ~」
 分かった、という低く短い返事を背に受けて、メルセデスは温室を後にした。
 抜けるような青に染まった空と、吹き抜ける風が気持ちいい。雨期には珍しく、今日は一日晴れそうだ。

     ***

 朝食を終えて、メルセデスは一旦寮の自室に戻るため、南側の通用口から食堂を出た。右手の階段を下りれば自室はすぐそこで、そちらへと足先を向けたところ、少し先に銀髪の青年の背中が見えた。進む方向から、彼も自室に戻るところだろうか。
「あっ。ちょっと待って、アッシュ」
 互いの位置はそう遠くなかったので、呼び掛ければ声は容易に届く。アッシュの足が止まり、振り返るのを目視で確認しながら、メルセデスは少し早足で彼に歩み寄った。
「おはよう、メルセデス。何か用でもあった?」
 律儀な挨拶に、呼び止めた理由を添えて問うてくる。そういえば今日初めて顔を合わせたところだと思い出して、メルセデスも挨拶を返してから質問に答えた。
「頼まれていた繕い物だけれど、出来上がっているの。渡してしまっても良いかしら?」
「えっ、本当に? 丁度部屋に戻るところだったから、今もらえるならその方が助かるよ」
「良かった~。それじゃ、一緒に来て頂戴」
 話がまとまり、二人で連れ立って階段を下りる。部屋の前で少し待つように言い、メルセデスは一人で中に入ると、預かっていた衣類の中からアッシュのものを探り当て、再び外に出た。
 本人に自分の依頼品であることを確かめてもらう意味も含めて、メルセデスはアッシュの目の前で畳んでいた服を広げると、修繕した箇所を示して見せた。これでいいかしら、と言いながら指差すと、驚きと感動と安堵とで、アッシュの表情がみるみる変わっていった。
「凄いや……!」
「そう?」
「だって、あれだけ派手に破いちゃったのに、ちょっと見ただけじゃ分からないくらい綺麗に直ってるんだよ。しかもここ、布地が複雑に重なってて厄介なところだし」
 手渡された服をしげしげと見つめるアッシュは、感心しきりと言った様子で一人頷いている。
「メルセデスの裁縫の腕は本当に凄いね。僕も少々ならできるけど、これは自分じゃ直せそうになくて、捨てるしかないかと思ってたんだ」
 一頻り見て満足したようで、服を軽く畳み直したアッシュは満面に笑みを広げる。そして、真っ直ぐに褒めてくれた。言葉は勿論、喜びに溢れた笑顔を見ることができて、メルセデスの心も浮き立って。
「お裁縫は昔から好きでやっているから、褒めてもらえて嬉しいわ~。他にも繕い物があったら、遠慮しないで持って来てね」
「ありがとう、メルセデス。手に負えなさそうなものがあったら、また相談するよ。それじゃ、これから訓練があるから、行くね」
「ええ。行ってらっしゃい、アッシュ。張り切りすぎて、怪我しないようにね~」
 離れていく背中にメルセデスが声を掛けると、途中の階段を上がりきったところでアッシュは振り返り。
「怪我したら、その時は治療をお願いしまーす」
 笑いながらそう返し、軽く手を振ってみせてから、寮の奥へと消えて行った。

     ***

「いつもいつも、ホント、助かるわぁ……
「夕方にまた来ますからね。それより、お酒はほどほどにしないと駄目ですよ~、マヌエラ先生」
「分かってるわよぉ~……
 昨夜、またしても自棄酒を煽ったらしい。二日酔いで呻いていたマヌエラを寝台に押し込めると、メルセデスは洗濯物を入れた籠を手に医務室を出た。籠の中身は、血や体液、皮脂で汚れた包帯や当て布だ。
 先日の王都奪還のための戦闘は激しく、多くの負傷者が出た。白魔法での回復は数に限りがあり、治しきれなかったり軽微な傷などは通常の医学的な処置を取る。薬を使い、傷が開かないように清潔な布を当てて、包帯を巻く。その繰り返しだ。
 日を追うごとに皆が回復していき、使用される処置用品の量も減っていったが、それでも毎日ある程度の数は汚れる。朝の内に医務室を訪れ、洗濯物はないかと伺いを立てるのは、大きな戦闘の後のメルセデスの日課の一つになっていた。
 特に今日は、花冠の節には珍しい快晴だ。この際だからと寝台の敷布も取り替えて持ち出した――無論、今マヌエラが横になっている寝台も、彼女を寝かせる前に急いで取り替えた。
 西側から屋外に出て、衛生塔を目指して歩いて行く。と、視界の端に見慣れた赤毛の男性の姿が入り込んだ。向こうもメルセデスに気づいたようで、軽く手を振った後に近づいてくる。
「やあ、メルセデス。随分と上機嫌に見えるが、何か良いことでもあったのかい?」
「あら、分かる~? ほら、今日はお洗濯日和だなって。雨続きだとなかなか洗えない物も、今日なら良く乾いてくれそうでね」
「あぁ、それで今日は、やけに量が多いのか」
 籠の縁から溢れそうな布地を一瞥して、シルヴァンが苦笑する。彼には以前に話したことがあるから、メルセデスが医務室で使われる包帯などの洗濯を受け持っていると知っていての反応だ。
「そういえば、次の戦場はデアドラなんだよなぁ。どうせなら、物見遊山で行きたい場所なんだけどな~」
 医務室、血で汚れた包帯や当て布……その辺りからの連想からなのか、ふと思い出したようにシルヴァンが不満げに言い出した。
 そも、王都を取り戻したばかりの時期だというのに、幕僚が現地で戦後処理を行わずに大修道院に戻ってきたのは、戦闘が終わった夜に届いた同盟からの救援要請があったためだ。王国軍が王都奪還に向けて動いた隙を狙って帝国軍はアミッド大河を越え、リーガン領に向かって進んでいる。
 すぐに動けるものなら北上中の帝国軍に攻撃して止めることもできようが、生憎と王国軍も激しい戦闘の後で損耗が激しく、きちんと体勢を立て直してからでなければ返り討ちに遭うだけだ。準備が整い出撃する頃には、恐らく敵は領都に到達しているだろう。
 早く救援に向かいたいのはやまやまだが、焦っても仕方がない。気が滅入る話は敢えて避けて、メルセデスはシルヴァンが口にした「物見遊山」の方に乗ることにした。
「そうね~……、私は行ったことがないから聞いた話でしか知らないけれど、今の時期のデアドラはとっても素敵なんですってね」
 五年前に交流を持った金鹿の学級の生徒も、同盟出身の修道士も、大修道院に出入りしている行商人も、デアドラについては言うことは同じだ。余裕があるなら、一度は観光に行くと良い、と。因みに、デアドラはどの時期も良いが、過ごしやすさからやはり初夏から秋であるらしい。
「君も行ったことはないのか~。実は俺もなんだ。良ければ、いつか二人で行ってみないかい?」
 意外にも、シルヴァンもデアドラには行ったことがないと言う。誰しもが薦めるほどの風光明媚な土地だから、大貴族の嫡子である彼なら一度くらいは――と、彼の言葉の中に、聞き流してはいけないものがあったことに気づき、メルセデスは目を瞬かせながら問い返した。
「二人って、私とあなたと、ってこと?」
「勿論」
 他に誰がいるのか、と言わんばかりの顔で、シルヴァンが頷く。思わず呆れて、面に苦笑が浮かぶのが鏡を見なくても分かってしまう。
 学生時代なら「二人きりで旅行に行くほど親しくないわよね」と返していただろうが、今の状況で返すべき言葉は違う気がした。メルセデスは暫し考え、小首を傾げつつ、長身の彼を見上げて。
「う~ん……あのね、シルヴァン。そういうことは、本当に好きな人にだけ言うようにしないと駄目よ~? 予行演習にしても、他の人に聞かれたら誤解されちゃうわ」
「うっ……
 痛いところを突かれた――そんな顔だ。
 五年前にも他愛ない遣り取りの中で、彼は何度か同じような顔を見せた。あの頃は概ねが演技だったが、今は偽っている素振りは見えない。今の彼には「本当に好きな人」がいるからだろう。
「じゃあね。次はちゃんと、言う相手を確かめてからにしなさいね~」
 二の句を継げないシルヴァンに念を押し、メルセデスは彼を置いて歩き出す。敵わないなあ、というぼやきが背中の向こうから聞こえて来た後、深く息を吐く音が続いて。
「本当に好きな人、か……。そりゃまぁ、何時までも曖昧なままってわけには……
 低い声で紡がれた、恋に悩んでいると思しき独白が耳に届くも、敢えて聞こえなかった振りをした。彼はきっと、自分で答えを出せるだろうから。

     ***

 洗濯を終えたメルセデスが次に向かったのは大聖堂で、整然と並ぶ長椅子の一つに座って、人々の祈る姿を眺めていた。昼食の料理が粗方揃う時間になれば、配膳の手伝いに出向くつもりだが、半端に時間が余ってしまったので、ここで小休止というわけである。
 頃合いを見計らって席を立ち、軽く伸びをしてから大聖堂を後にする。深い谷に架かる橋を渡り、大広間を抜けて食堂へ。そのつもりで歩いていたところを、大広間に入ってすぐに呼び止められた。しかも、何故だか妙に、切羽詰まった声で。
 確かに自分の名だったから、と声がした方を振り返る。メルセデスを呼び止めたのは若い兵士だ。名前は知らないが、顔は何となく覚えがある。
 一見して困った事態に遭遇したのだと分かったから、何があったのかと問うと。
「訓練場で、殿下とフェリクス様が手合わせを始められたのですが、止まる気配がなくて……
 偶然訓練場で二人が顔を合わせ、手合わせを始めたは良いものの、互いに実力が拮抗していて何時までも続いてしまって決着せず、なお拙いことに真剣での勝負のため、双方相応に手傷を負ってしまっているという。
 二人の剣は嵐のように激しくなっていて、実力的にも立場的にも間に割って入れる者はその場にはいなかった。放っておけば大事になりかねないからとベレスに救援を求めるべく出てきたのだが、生憎彼女は大修道院の外に出かけていて昼過ぎまで不在だという。それで途方に暮れていたところに、メルセデスの姿が見えたので呼び止めた、というわけだ。いざという時の、回復要員として。
 状況の想像は容易だった。少し前に二人は和解し、少年期の蟠りに区切りを付けたと聞いている。とはいえ、それと武芸の技量に関する矜恃は別の話で、何かしらの切欠で「どちらが剣の腕が上か」とかいう話になったと思われる。手傷を負っても止めない、という辺り、既に意地になっているのだろう。
 メルセデスは溜息を吐いた。割って入るのは不可能だが、止めろと言うくらいはできる。白魔法での回復も、彼の期待に応えることは可能だ。
「分かったわ。訓練場に行けばいいのね?」
「はい。宜しくお願いします」
 共に行くと伝えると、悲痛ですらあった彼の声は安堵で少し緩んだ。


 訓練場は異様な雰囲気に包まれていた。理由は言わずもがな、中央で激しい剣戟を繰り返している二人にある。
 辺りに視線を巡らせれば、不安げな面持ちで遠巻きに見る兵士たち……修練のために来たところでとんでもない事態に巻き込まれてしまい、どうすることもできずに立ち尽くしている。
 一方で、再び中央の二人に目をやれば、ディミトリもフェリクスも実戦さながらに鬼気迫る表情だ。以前のような蟠りはないはずだから、互いに剣を繰り出すのは憎悪ではなく、やはり、絶対に自分からは折れないという意地か。
 負けん気が強いのは別に悪いことではないが、程度による。そして、今の二人は確実に、その程度を超えていた。刃が肌を掠めて血が跳ね飛び、床にいくつもの溜まりを作る前に、互いに剣を引く。それができなくて、訓練と言えるだろうか。
 二人の間に割り込むのは無理だと思いながら来たが、この光景を見ては流石に一言物申さずにはいられなかった。軍を率いる将であるなら尚更、準備が整えばデアドラ救援に向けて出撃するのを分かっていながら、周りの者を困惑させてまですることではない。
 一緒に戻って来た兵士の怯えた顔を横に従え、メルセデスは一度大きく深呼吸する。そして、肚の底に力を込めて――
「何をやっているの、ディミトリ、フェリクス! 今すぐ止めなさい!!」
 打ち合う鋼と、弾む呼吸に紛れた何処か喧嘩腰の短い言葉だけが音として存在していたその空間に、メルセデスの怒りに満ちた声が響き渡った。
 僅かな間の後、ぎょっとした表情で中央の二人が動きを止め、ほぼ同時に振り返る。
「メルセデ、ス――?」
 譫言のように名を呼ばわったフェリクスは「今のは本当にお前なのか」と言いたげな驚きの顔で目を瞬かせ、ディミトリは先程までの戦闘態勢は最早忘却の彼方で、表情は叱られる間際の子供のそれに取って代わった。
 しん、と水を打ったような静けさが、訓練場の空気を更に張り詰めさせる。その静寂をメルセデスは無遠慮に破って進み、動きを止めた男二人を捕まえて広間の隅へと引きずっていった。
「治療するから、そこで座って待っていて」
 壁際まで連れて来て、傍らの床を指して二人を座らせる。辺りがざわつき始めたことに気づいて振り返ると、遠巻きに様子を窺っていた面々が未だ不安げにこちらを見ているので、先の若い兵士に歩み寄って、「もう大丈夫だから。みんな、お昼を食べに行ってらっしゃい」と笑顔で外に出るように促した。
 波が引いていく様に似て、一気に。訓練場から人気が消えるのはあっという間だった。
 メルセデスは床に膝を突いて目線の高さを合わせると、改めてディミトリとフェリクスを見据えて問う。
……どういうことなのか、説明してくれるわよね~?」
 対する二人は同時に「うっ」と呻いて声を詰まらせ、揃って困惑の色を面に浮かべたのだった。

     ***

 メルセデスの私室は、いつになく賑やかだった。この日の昼食後であれば都合がつくからと、久しぶりに女性だけで集まっての茶会が企画され、卓や椅子が揃っているから、という理由でメルセデスの部屋で行うことになったのだ。
「はぁ……、先生のお茶とメーチェのお菓子が揃うなんて、本当に最高のお茶会だよね~」
 イングリット、アネット、メルセデス、それにベレスの四人が部屋の中央に据えた卓の席に着き、ベレスが選んだ紅茶とメルセデスが焼いた菓子を口にしながら、歓談の時を過ごす。戦争という非日常の中にあるからこそ、心を摩耗させないために必要な休息である。
「今日はお化粧をしているのね~、イングリット」
 紅茶を一口飲んで、茶碗を皿に戻したメルセデスが、正面の席のイングリットに向けて微笑みかける。すると、少し照れた様子ではにかんだ笑みを見せた後、イングリットは両隣の二人にも視線をやってから答えた。
「女性だけの集まりだから、良い機会だと思って。直した方が良いところがあれば、遠慮なく指摘してもらえると助かります」
 武芸の修練に熱心に取り組むイングリットは、汗をかけば崩れるものだからと殆ど化粧をしない。不慣れだからこそ、女性だけで集まるこの機に敢えて化粧をして意見を聞きたいと言うのは、何とも真面目な彼女らしい。
「ううん、直すところなんてないわ~。あなたによく合っていて、とっても綺麗よ~」
 学生時代、舞踏会の前に初めて教えた時とは大違いだ。あの時は粧し込むこと自体に抵抗があったようで、最終的には逃げられてしまった。それが今は、自発的に化粧をするまでになったのだから、教えた側としては嬉しいものだ。
「あ、ありがとうございます……そう真正面から褒められると、照れますね……
「だって、本当だもの~。アンと先生はどう思う?」
 メルセデスが両隣の二人に意見を求めると、アネットが満面の笑みで何度も頷いて。
「うん、うん。あたしもそう思う! イングリットが綺麗になったって、最近噂になってたんだよ。お化粧、練習してたんだね~」
「う、噂って……えぇ……?」
 大修道院は広く、人も多いので、どの辺りで噂になっているのか。イングリットの困惑具合から、彼女自身の耳に入るところでは、あまり語られていないのかもしれない。この手のことによく気づくのは、同じく化粧をする女性の方が傾向としては多かろうが。
「褒められてるんだし、素直に受け取っていいんじゃない? まあ、それで変な虫に纏わり付かれるようだったら、言ってくれれば私が退治するよ」
 化粧の技術についての評価はせず、ベレスは穏やかな笑みを浮かべたままで、物騒な言葉を口にする。そういえば、長く傭兵として戦場に身を置いてきたからか、彼女も身を飾ることには関心が薄い性質だ。
 可愛い教え子に不埒な真似をする輩は、絶対に許さない。そんな恩師の強い想いに触れたイングリットもまた、力強く返した。
「大丈夫です、先生。大抵の相手なら自分で対処できますので。武芸の面で手に負えなさそうな相手の場合は、そもそもそういう関心を持たれることはないでしょうしね」
「手に負えなさそう、って、あなたの幼馴染たちのことかしら~?」
 普段は謙遜して、武をひけらかすようなことは言わないが、イングリットは自分の技量がどの程度の位置にあるかは把握している。そんな彼女が「手に負えない」と感じる程の相手と言えば、メルセデスが知る中でもそう多くはなかった。
 勿論、他にも腕の立つ者はいるが、彼女の幼馴染である級友たち三人は特に象徴的だ。イングリットは真顔で頷いた後、面に苦笑を浮かべる。
「あの三人を相手取るとなると先生の手を借りる他はないのですが、私が化粧をしたところで彼らの目が変わることはありませんから、その点では心配はないかと」
 長い付き合いで内面を知っているから、外見を粧ったところで態度も関係も変わらない。イングリットはそう考えているようだが、さて、実際はどうだろうか。
 本人にとっては些細な行動も、様々な要素が絡み合って大きな波紋を起こすこともある。関係の変化の切欠となり得るのが、化粧で美しく飾った容そのものとは限らない。
 とはいえ、ここで追い詰めるように論じて、徒に警戒させるのは本意ではない。彼女と幼馴染たちとの関係が良くない方向に転がれば、大修道院内の空気にも影響が出てしまう。
 メルセデスが曖昧に笑って、別の話題を脳裏で探り始めて間もなく。右隣のベレスが何かを思い出したように小さく唸った。
「あの子たち……といえば、ちょっと聞き捨てならない話を聞いたんだけど。ディミトリとフェリクスが、訓練場で揉め事を起こしたって。君たちは何か知ってる?」
「え、それは本当ですか? 二人は和解したはずですが……
 不穏な言葉が場に提示されて、イングリットが目を瞬かせて驚きを顕わにする。視界の中に収まっているアネットも、声には出していないが、表情は同じだった。
 ベレスの口振りは情報を求めている態だったので、メルセデスは軽く手を差し上げて、知っている、と示した。
「先生が聞いた話が今日のお昼前のことだったら、別に喧嘩したわけじゃないから、心配はいらないわよ~」
「それで合っているよ。私が不在中にやらかした、って報告だったんでね」
 詳細を、と目配せで促され、メルセデスは頷いてみせて、続けた。
「始めは単なる手合わせだったみたい。でも、剣の腕に関しては対抗心があるから、打ち合ってる間にどっちも意地になっちゃって、動ける内は負けは認められないし、止めるとも言えなかったんですって。
 真剣だったからなお悪くてね~、辺りはもう血だらけだったわ。
 今頃は二人でお掃除をしているはずよ。ちゃんと綺麗になったか、後で見に行かないとね」
 救援を求める若い兵士に連れられて出向いた訓練場で目の当たりにした光景と、当人たちから聞き出した事情を詳らかにすると、視界の中の三人がそれぞれ微妙に違う反応を示した。
 アネットは困惑し、イングリットは驚きと感心が等分で、ベレスは腑に落ちた、という顔をしている。
……えぇ……メーチェ、その場にいたんだね……。しかもその言い方……お説教したんだ……
「そりゃあ言うわよ。訓練場にいた他のみんなが怖がっちゃって、止められなくなってたくらいなんだもの」
 身分は二人の方が遙かに上で、指揮官としての彼らの体面を考えれば、自分が割り込んだのは拙かったかもしれない。しかし、本当に守るべきものは彼らの身の安全の方で、他のことを考える余裕はなかった。
 治療の最中に彼らにした注意は常識の範囲でしかないし、二人とも自分たちが悪かったと反省していた。落ち着きさえすれば、言えば分かるものだ。
 ……問題は、落ち着かせるまでが難しい、という点だろうが。
「みんなが怖がるような状況の殿下とフェリクスの間に割って入れるのなんて、先生かメーチェくらいだよ。すごいなぁ、あたしじゃ絶対無理~……
 ディミトリとフェリクスの嵐のような斬撃を想像してか、アネットはふるふると首を横に振り、イングリットが頷いて同調する。
「同感です、アネット。割って入るまでなら私でもできなくはないですが、本気で戦っているところを止めるのは難しいですね。魔法を使ったのですか?」 
「ううん。止めなさい、って言っただけよ~」
 言われて思い出したが、ファイアーの一発くらいぶつけてやるのでも、止めるのは可能ではあった。あの時は自分から攻撃するという発想がなかったから実行しなかったが、結果としては無事に収まったので良かったのだ。
 次に同じ場面に遭遇したら全力の魔法をぶつける、と事前に予告しておくのも、もしかしたら抑止力になるかもしれない。
 思考が物騒な内容に染まってしまったことに気づいたメルセデスは、小さく息を吐いて、二人の顔を思考から追い出した。次いで、隣のベレスを見遣って。
「そういえば、先生。最近はどうなの? お仕事で無理はしていない?」
「心配ないよ、メルセデス。以前と違ってディミトリと分担しているし、シルヴァンが管理してくれてるお陰で、時間を無駄に費やすことがなくなってね。随分と楽になった気がする」
 口元に寄せていた茶碗を置いて、ベレスが「だから、今日は参加できたんだ」と悪戯めいた笑みを浮かべる。
 上手く仕事が回っているのは良いことだ……とメルセデスは思ったが、傍らでイングリットは訝しげに眉根を寄せている。
「シルヴァンが、仕事の管理……?」
 ベレスの言葉を疑うというより、すんなりと受け入れきれない違和感がある様子で、イングリットは唸るように独り言つが。
「学生の頃はあの子が不出来を装ってるんじゃないか、って思ってたけど、予想は当たっていたね。剣を振るうだけだった私なんかより、余程有能だよ」
 イングリットが抱いている疑念には敢えて答えず、ベレスはシルヴァンの現状についてを淡々と述べる。それに反応したのはアネットだ。
「あ、それ分かるー。シルヴァンって不真面目なのに要領良いっていうか、閃きとか着眼点とかが凄いんだよね! あたしが滅茶苦茶悩んでた理学の術式、一目見ただけのシルヴァンが先に正解出したことがあって、凄く悔しかったの覚えてる」
「士官学校に入るまでに徹底的に仕込まれたか、本物の天才かは分からないけれど、シルヴァンが手伝ってくれるようになったのは本当に有難いね。強い兵は多いけれど、それを上手く纏められる人材は少ないから」
 懐かしい思い出に些か興奮気味のアネットがベレスの言葉に頷いている正面で、やはりイングリットは渋い顔だ。
「何か気になることがあるの? イングリット」
 メルセデスがそっと問うと、イングリットは暫し考え込んだ後に、躊躇いがちに裡の違和感を明かした。
「引っかかるんです。だって、あのシルヴァンですよ。この五年で多少は意識が変わったとはいえ、自分の担当ではない部署の仕事を、頼まれもせずに引き受けるなんて、そんなこと……
 学生時代はとにかく怠け、手を抜き、挙げ句女性関係は派手で揉め事が絶えなかった。メルセデスが知るよりも前から、イングリットはシルヴァンの素行の悪さに手を焼かされてきたためか、自分の責任の範囲にない仕事に自発的に関わっているという事実に違和感が拭えないらしい。
 しかし、視点を変えれば答えは容易に出る。本来ならば面倒くさがって逃げる仕事も、今のシルヴァンには利の方が大きい。というのも。
「別に不思議はないと思うわ~。だって、シルヴァンは先生のことが好きなんだもの。ねえ、先生?」
 手伝う相手に対する好意があるなら、理由としては十分なものだ。好きな女性の側にいる口実としても、頼りになるところを見せて彼女の目を惹き付けるにも。
 余計なお世話だろうかと思いつつも、近しい人にはやはり幸せになってもらいたいものだ。もし、既に想いを確かめ合っているのなら祝福したいし、そうでないなら間を取り持つことも吝かではない。
 そんな期待と純粋な好奇心を込めてベレスを見遣るも、彼女の反応はメルセデスの想像を超えていた。
「そうらしいね。毎日のように言ってきてるよ。でもまぁ、あんなのはシルヴァンにとっては挨拶でしかないし、気にはしていない。ただ、流石に嫌いな相手に言うことじゃないから、戦友として受け入れてくれてるのかな。彼も大人になったんだね」
 焼き菓子を摘まみ上げているベレスの容は眉一つ動くことなく、至って涼しい顔だ。彼女の言葉で既に明示されているが、シルヴァンの言動も行動も好意ではなく厚意からとの認識で、特別なものは感じていないらしい。
「えっと~……、先生、それは~……
 間違いなく彼の自業自得だが、あまりにも通じていなさすぎて、いっそ憐れに思えてくる。今朝のシルヴァンの最後の独白は、現状を理解した上での嘆きだったのか。
 ベレスの方に特別な感情がないことは分かった。これでは話が続かないし、どうにも気まずいので、メルセデスは追加の紅茶を皆に勧め、場の空気を変えようと努めたのだった。

     ***

 乾いた洗濯物を取り込み収めた籠を手に、メルセデスは夕暮れに差し掛かった空の下を歩く。
 訓練場の前から谷が見えてきたところで何となく疲れを感じたので、側近くの長椅子で少し休むことにした。
 椅子に座ってひと息吐いて、身体の緊張を解く。吹き抜けていく風が程良く涼しく、たった今まで動いていた身の熱を冷ましてくれる。
――メルセデス?」
 そうして一人でゆったりと過ごしていると、不意に背後から名を呼ばわれた。声はディミトリのものだ。
 近づく足音も同時に聞こえたので、メルセデスは座ったままで振り返ると。
「お掃除は終わった?」
 長椅子の背凭れに手が届く距離まで来ていたディミトリの面に苦笑が浮かぶ。
「ああ。フェリクスと二人で済ませてきたよ」
 隣は空いているかと訊ねられ、彼も座るつもりなのだと理解したメルセデスは、座面にあった籠を自身の反対側に置き直して、どうぞ、と席を薦めた。
 礼を言って腰を落ち着けたディミトリが、先程メルセデスがしたのと同じように息を吐いて、谷の向こうの大聖堂を仰ぐように見ている――と思われる。こちらから見えるのは眼帯に覆われた右目なので、正確なところは分からない。
「傷の具合は? 塞がっていないところとか、痛むところはない?」
 正面を向いたその横顔にメルセデスが更に質問を投げかけると、ディミトリは背凭れに預けた身を起こし、姿勢を正して視線を合わせてきた。その動作を律儀だ、と思ってしまったのは、声を掛けても目も合わせない時期が、彼にはあったせいかもしれない。
「俺は問題ないな。全部掠り傷程度だったし、お前の魔法はよく効くから。後でフェリクスにも確認しておこう」
「違和感が残るようなら、すぐに治療に来るように伝えて頂戴ね。あと、あの時着ていた服も、お洗濯した後でちゃんと繕うから、勝手に捨てないように、って」
 二人は自室が隣同士だから、フェリクスに確認をとってくれるのなら、ついでにと伝言を依頼する。分かった、と頷くディミトリに、メルセデスは微笑を浮かべて付け加えた。
……あなたもよ?」
「う……、済まない……手間を掛ける」
 浮かべた笑顔に毒を混ぜたつもりはなかったが、経緯を思えばばつが悪いのか、ディミトリは申し訳なさそうに首を竦めている。
「手間は別に構わないの。ただ、ねぇ……あなたたちのことだから、どうしても夢中になってしまうんでしょうけど、程々にしないと駄目よ」
「次からは気をつけるよ。またお前に叱られたくはないからな」
 苦笑するディミトリに、矜恃を傷つけられたという感情は見えないが――二人を止めたこと自体は当然の対処だ。しかし、多くの兵士の手前、言い方はもう少し考えるべきだったかもしれない。
……ごめんなさい、偉そうなことを言ったわね、私。立場も考えないで」
 目を伏せて謝ると、視界の上から少し慌てた響きの声が降ってきて。
「ああ、いや。顔を上げてくれ、メルセデス。今朝の件は全面的に俺たちが悪いんだから、お前が気にすることじゃない」
 促されて姿勢を戻すと、ディミトリの表情は安堵で緩んだ。刹那、視線が合って、ほぼ同時に互いの顔に笑みが浮かぶ。
「私ってみんなよりちょっと年上だから、ついお姉さんぶってしまうところがあるみたい。余計なお世話なんだろうなって、分かってはいるのだけれど」
「姉、か。成程、確かに青獅子の学級おれたちの間では、確かにその表現がしっくりくるな」
 得心がいったと頷いたディミトリが、穏やかながらも真顔になる。頼みがある、と前置いてから、彼が言うには。
「俺もフェリクスも立場があるから、ああして真正面から叱られることは殆どないんだ。先の発言と矛盾しているかもしれないが、見過ごせないと思ったら遠慮なく叱って正してほしい」
 実際に今朝の件でも、訓練場には多くの兵がいながら、ディミトリとフェリクスの間に割って入る者はなかった。二人の繰り出す剣戟があまりに凄まじく、仲裁に入るのは単純に危険ではあったろうが、身分に対する遠慮が作用して腰が退けた、というのも理由にあるだろう。
 立場や柵に囚われずにそれができるのは、家族くらいなもの――しかし、メルセデスは言葉を飲み込み、曖昧な表現を選んで口にした。
「そう、ね。あなたたちの身分だと、色々と難しいこともあるものね……
 ディミトリの目が何処か遠くを見るように、焦点がぼやけたような気がした。それは錯覚かと思える程、ごく僅かな時間で元に戻ったが。メルセデスが一つ瞬きをする間に、彼の表情は照れたような苦笑いに彩られて、垣間見えたものを隠してしまう。
「そういう事情だから、お前は今のままでいてくれる方がいいんだ。仕事が増えて負担になるなら、無理にとは言わないが」
「負担だなんて、そんなことないわよ~? 好きで……というか、性分だもの」
 自分が好きでしていることが、人の役に立っている。それが嬉しくて世話を焼いている面があるから、止めろと言われる方が寧ろ堪える。メルセデスもまた苦笑いで返すと、ディミトリは優しく目を眇めて、ありがとう、と応えた。
 今のままでいいのだと、これまでの自分の有り様を肯定されて安堵したせいなのか。話に区切りがついたところで、不意に目の前が霞むような、思考が朧になるような、そんな感覚を自認する。次いでやって来た欠伸をどうにか噛み殺して、メルセデスはその正体を理解した。
「ん~……ちょっと疲れちゃったのかしら、何だか眠いわ~」
 顧みれば、今朝の起床は普段より早かった。二度寝はせずにそのまま活動を開始して、晴天に浮かれて普段より多く洗濯に時間と体力を費やしたし、他にも細々と働いたものだ。眠くなるのも仕方ないかもしれないが――
「部屋で休むなら、送っていくぞ」
「ううん、ゆっくり休んでる時間はないのよ~。ほら、取り込んだ洗濯物もあるし」
 ディミトリの申し出は有難いが、断るしかなかった。今の時間に自室に戻って横になったら、夕食を食べ損ね、或いは夜に眠れなくなったりしそうだ。
 それに、洗濯物は医務室に運んで、そこでもまた一仕事が残っている。当て布はともかくとして、包帯はきちんと巻き直しておかないと、使う時に困るからだ。
 眠気はそう強いものでもなさそうだし、無理矢理にでも歩いていれば目も覚める。大丈夫だと言おうとして改めてディミトリを見遣ると、メルセデスよりも先に彼の方が口を開いた。
「だったら……そうだな、ここで仮眠するか? 膝くらいなら貸せるぞ」
「えっ?」
 予想外の言葉が紡がれて、流石にメルセデスは躊躇った。意味は勿論分かっているし、彼としては事情と状況を勘案した結果、効率の良い方策を出したに過ぎないのだろうが……
「皆の『姉』として頑張っているんだし、偶には『弟』として労らせてくれないか」
 そう言われてしまうと、折角の気遣いを無下にはできなかった。
……ふふ、ありがとう。そういうことなら、遠慮なく甘えようかしら」
 長椅子に深く座り直したディミトリに促されて、メルセデスは身体を倒して彼の腿に頭を載せた。寝顔を見せるのは気恥ずかしいので、顔は俯せ気味に、谷の方へ向けて。
「十五分くらいで起こしてね」
「ああ。……お休み、メルセデス」
 力を抜いて、目を閉じる。それだけでも意識はたちまち曖昧になっていくのに、頭をそっと撫でてくれる大きな掌の温度と感触が気持ち良くて、眠気は更に強くなる。
 ――でも、俺はいつまでも「弟」の立場に甘んじるつもりはないから。
 そんな声が聞こえたような気がして、立派な心がけね、と思ったけれど。眠気が勝ってしまって返せないまま、メルセデスの意識は穏やかな暗闇へと落ちていった。