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ねぶくろ
2026-06-13 18:06:04
12092文字
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一次創作
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白雲を渡る
短編集『未満の僕ら』に収録予定の短編です。
よろしくお願いします
きっともうすぐ壊してしまう。
思考が白く痺れるような感覚を無視して、
高椋
たかくら
あやめは目の前で中ジョッキを揺らす同僚に愛想笑いを返した。
暑気払いという名目で催された今日の飲み会には、社内の三分の二ほどの人間が参加している。あやめが属する営業部のメンバーはもちろん、総務部や、普段はかかわりのないシステム管理部の面々など。総勢三十名を超える賑やかな飲み会の片隅で、あやめは冷えた思考と共に、話題を振ってきた先輩社員を見返した。
「高椋くん、この前の水曜に有給取ってたよね。何してたの? デート?」
へらへらと笑いながら尋ねかけてくる相手に、「そういう
日吉
ひよし
さんこそ、彼女さんとどうなんですか?」と言葉を返して回答を拒絶する。すっかり頬を赤く染め、アルコールに思考を溶かされた彼は、「俺ぇ?」とおよそ職場の人間に向けるべきではない、緩み切った声を発した。
「俺はさぁ
……
、彼女とは長いから、別に面白いことなんてな~んもないよ。そんなことより
他人
ひと
の恋バナが聞きたい。高椋くんはさぁ、モテるでしょ?」
これまでどんな子と付き合ったの? 今は、恋人は? どんな子が好み?
プライベートにずかずかと踏み込む質問の数々に、自身の眼差しが冷えていくのを自覚する。営業職で培った愛想を全開にして冷めた心情を隠しつつ、あやめはジョッキを傾けた。苦い炭酸で喉を湿して、「モテたらいいんですけどね~」とわざとらしく哀れっぽいため息を吐く。
「日吉さんみたいに、彼女と長く続く人って尊敬します。やっぱ連絡とかマメにしてるんですか?」
話題の主役を相手にスライドさせ、あくまでも自身の情報は秘匿する。あやめの誘導に気付いているのかいないのか、水を向けられた日吉は、「連絡はまぁ、マメにした方がいいよね」と苦笑交じりに頷いた。色の薄いハイボールを傾けて、彼が続ける。
「あとはやっぱ、記念日。これ覚えてるだけで、普段のちっちゃいいざこざは帳消しになるから。誕生日はマストで祝って、それ以外の大事な日
……
、付き合い始めた日とかも覚えとく。これ鉄則ね」
「日吉さん、営業先でも話題広げるの上手いですもんね」
無難な相槌を打って、相手に話を続けさせる。あやめはビールを傾けながら、痛みにも似た真っ白な思考を頭蓋骨の内で転がした。
そろそろ潮時だ。この場所を離れた方がいい。──そうでなければ、壊してしまう。
諦めにも似た感情と共に、それとなく座に視線を配る。隣の卓でドッと笑いが起こり、日吉の注意がそちらへ向いた。会話が途切れる。彼は、「なになに、何を盛り上がってんの?」と隣の輪に身を乗り出した。注意が逸れた隙に、ジョッキを携えて席を立つ。空いている場所には目星をつけていた。
壁際でキュウリの浅漬けをつついていた男性の隣に、するりと滑り込む。あやめが空いていた席に腰を落ち着ければ、男性はちらりと目を上げた。少し眠たげな垂れ目がこちらを認識して、「どうも」と会釈する。
「どうも。
雨居
あめい
さん、飲んでます?」
あやめが問いかければ、彼はゆるく頭を振った。
「いえ、ノンアルです。駅までは車で通勤しているもので」
穏やかな言葉に、あやめは彼の手元へと目を向けた。確かに、彼のジョッキには烏龍茶と思しき飲料が入っている。中身があまり減っていないのは、ノンアルコールとアルコール飲料とでは消費にかかるスピードが異なるからだろう。
雨居は周囲の会話には混ざることなく、大皿に余った料理をひたすらに消費していた。刺身に酢の物、サラダや揚げ物など。参加者たちが気の向くままに注文し、ほったらかしにされた雑多なあまりものを、躊躇うことなく淡々と口に運ぶ。義務感で食べているのかとその横顔を眺めれば、雨居はその顔に確かな満足を滲ませていた。どうやら、単純に美味しいから食べているらしい。意外と健啖家だな、とその様子を眺めながら、あやめは盛り上がる一同に視線を放って、ジョッキを傾けた。
雨居は、総務部に所属している男性社員だ。年はおそらく、あやめより三つか四つ年上の三十代前半。営業部員は皆、交通費の清算などでお世話になっている相手だ。物静かで、あまり飲み会に参加しているイメージはない。
自身のジョッキを空にして、あやめは「今日は総務の方も結構参加してますね」と話題を振った。
「総務部って、あんまり飲み会に来ないイメージでした」
「確かにそうですね。お子さんがいらっしゃる方も多いので」
穏やかに頷いて、彼が中途半端に余ったサラダを取り分ける。「高椋さんも食べますか?」と問いかけられて、首を横に振った。生憎と、腹は空いていない。よく食べますね、と茶化すように言葉を返せば、彼は少し困ったように小首を傾げた。
「お酒が飲めない分、せめて食べないと。それに、食べ残すのはもったいないですから」
「確かに、お酒が飲めないと損ですよね」
あやめが笑いながら同意すれば、彼は「ですから、高椋さんは気が済むまで飲んでください」と飲み放題のメニューを差し出してきた。──あやめのジョッキが空になったからだろう。躊躇いなく差し出された気遣いに、かすかな後ろめたさを感じて笑みが強張る。あやめは「ありがとうございます。じゃあ遠慮なく」とおどけた返事でそれを受け取り、メニューに目を滑らせた。
店の前で一応の解散宣言がなされたので、あやめは二次会へ向かうメンバーに会釈をして駅へと向かった。幸い、帰路が被る相手はいない。気が楽だ、と息を吐いて夜道を歩き出す。
居酒屋の連なる通りを抜ければ、駅まで向かう人々なのだろう、同じ方向へ向かっていく人の流れにぶつかった。光に誘われる虫のようだ、これなら迷うことはないだろう、と散漫に思考しながら流れに乗る。五分も歩けば、見慣れた鉄道会社の駅名表示が現れた。流れに乗ったまま、改札を抜ける。
折よく滑り込んできた各駅停車は、金曜日の夜だからか、それなりに空いていた。きっと、あやめ達のように飲み会に興じている者が多いのだろう。それでも、座れるほどは空いていない。手近な吊革に掴まって、カバンからスマートフォンを取り出す。あやめは慣れた手つきで検索エンジンを呼び出して、ブックマークしている大手転職サイトのページを開いた。
画面上部のボックスに『営業』とキーワードを打ち込んで、求人情報を検索する。間を置かず、画面には百を超える求人情報が表示された。正社員、転勤無し、未経験者歓迎
……
と、様々な謳い文句をスクロールしながら、小さく息を吐き出す。漠然とした気の重さを無視して、あやめは検索結果を流し読みした。
電車が揺れて、停車する。乗り換え駅だからか、少なくない人数が席を立った。これ幸いに、と空いた席に腰を下ろす。入れ替わりに人々が乗車し、あっという間に空いていた座席が埋まった。先ほどまでは比較的余裕があった車内のスペースが見る間に圧迫され、吊革までもが埋まってしまう。あやめの目の前には、大学生の三人組が並んだ。
あやめの真正面に佇んだ青年が、吊革を掴んだのとは反対の手でスマートフォンを操作する。彼は両隣の友人に、「これ。最近流行ってるやつ」と画面を見せた。それを受けて、二人の友人たちが「え~、知らねぇ。初めて見たわ」などと、反応を返す。酒でも入っているのか、単に周囲の目が気にならないほど幼いのか、彼らの声量は車内で発するには不相応に大きかった。耳を塞ぐ手立てもないので、否が応でも会話の内容が聞こえてしまう。隣の席の老婦人が迷惑そうに彼らを見上げるも、当人たちは一向に気付く気配がない。
彼らは何やら、オンラインゲームの話をしているらしい。無料でできるから、と説明をしている茶髪の青年に向け、右隣に佇む友人が嘆息して言う。
「タクミ、マジでそういうの詳しいよな。どこで仕入れてくんの?」
タクミと呼ばれた茶髪の彼は、スマートフォンをポケットにしまって小首を傾げた。
「えぇ? 普通にネットとか。あとバイト先の先輩がゲーマーで、色々教えてくれる」
さらりと答えた彼に向け、問いを放ったのとは別の友人が茶化すように言葉を重ねた。
「タクミって、何気に友達多いよな。教えてくれるゲームも対戦系か協力系ばっかだし。たまにはソロのゲームも教えろよ」
「なんでだよ、みんなで遊ぶのがいいんじゃん」
じゃれつくような会話に、羨ましいな、と眩しいような気持ちが胸を塞いだ。眺めていたスマートフォンから目を上げて、輪の中心に立つ青年を見上げる。まだ肌に幼さの残る、やんちゃそうな吊り目の若者だ。茶色く染めた髪の毛は快活そうな彼の雰囲気を魅力的に引き立てており、屈託なく笑う顔立ちには人好きのする明るさが滲んでいる。大学の一年生か、二年生だろうか。
あやめは数秒の間、談笑する彼らの様子を眺めてから、スマートフォンに視線を戻した。白く発光する画面の上部には、サイトのロゴと共に、『貴方に合った居場所が、きっと見つかる』とキャッチコピーが添えられている。もう何度も目にしたそのフレーズに、不意に、見つかるはずがない、と凶暴な気持ちが沸き上がった。
冷めた気持ちでスマートフォンの画面を暗くし、目を瞑る。電車の規則的な揺れに身を預けて、あやめは気持ちを落ち着けるように呼吸を重ねた。
大学生たちは、雑談を続けている。サークルの話題、それぞれのバイト先の愚痴や、学習内容についての相談など。取り留めもない話題選びと、口ぶりの気安さから、三人が互いを信頼し合っていることがわかる。彼らの会話を聞くともなしに聞いている内に、俺に気の置けない友人なんてできたことがあっただろうか、と漠然とした失望に襲われた。
大学を卒業して五年。あやめは既に、三回の転職を経験している。四社目となる今の会社には、二年前の夏に入社した。配属先は、これまでの三社と同じ営業部。経験者であることが加味されて、面接は難なく通った。
人と話すことは好きだ。営業職として、知らない人と会うことも、自社の製品をプレゼンすることも、苦ではない。愛想がいい、営業に向いている、と評価されることも多い。対人トラブルを起こすこともなく、むしろ誰とでも親しくなれる性質だと思われている。実際、あやめは誰とでも上手くやることができる。相手が欲しい言葉や反応を返すのは得意だし、興味のない話でも愛想よく、根気良く相槌を打つことができる。──けれど、それだけだ。自分には、誰かに心を開いたり、逆に誰かの心を受け止めたりすることが、難しい。
自分はきっと、根本的に欠陥のある人間なのだろう。他者と生きていくことのできない、人間社会に不適合な存在なのだ。どこへ行っても、誰と話しても、うっすらと重たい気持ちが拭えない。一定以上の親しみを向けられるとすぐに息が苦しくなり、思考が痺れるように真っ白に染まる。自己の内面を開示せよと求められると、それだけで首を絞められたような、身の危険を感じてしまう。人間関係が固着すると、全てを捨てて、どこか遠くへ行きたいと願うようになる。
自分は、人として持つべき基礎的なコミュニケーション能力や、愛情といったものが欠落している。──だから、もう、この場所を離れた方がいい。
小石を飲み込むような痛みと共に、思考が結論を弾き出す。築き上げた人間関係を、心地の良い空間を、自らの手で台無しにしてしまう前に、自分は早く今の居場所から立ち去るべきなのだ。
* * *
今の会社の選考を受けた時、あやめの面接官を務めたのは雨居だった。
「高椋あやめです。本日はお忙しい中、面接の機会をくださりありがとうございます」
着慣れたスーツに身を包み、面接の場として提供された会議室で口を開く。転職活動を行うのは人生で三度目であり、そうでなくとも、社外の人間と話をするのは営業畑に長く勤めているあやめにとっては日常でしかない。さして気負うこともなく挨拶をしたあやめに対して、「どうぞお座りください」と席を勧めてから、雨居は「面接を担当させていただく、雨居と申します」と穏やかに自己紹介をした。
「
……
男性であやめさんというのは、珍しいお名前ですね」
ブレイクアウトのために振られた話題に、浅い頷きと共に笑みを返す。初対面の人間には十中八九、同じことを言われる。あやめにとって名前の話題は、会話のきっかけとして使い勝手のいい、生まれ持った雑談の手札だ。雨居の落ち着いた雰囲気に合わせて、気持ちゆっくりとしたテンポで言葉を返す。
「よく言われます。出産までは女の子だと診断されていたそうで、両親も女の子のつもりで名前を考えていたそうなんですよ」
どこからどう見ても女性の名前ですからよく間違われます、と笑いながら続ければ、雨居は微笑んで、「ご両親は出産前からお名前を用意して、高椋さんの誕生を待ち望まれていたんですね」と相槌を打った。あまりに優しい解釈に、思わず言葉に詰まる。あやめが返答を探していれば、雨居は穏やかな微笑のままで言葉を重ねた。
「私も、下の名前が『
香
かおる
』なので、よく女性に間違われます。
……
お揃いですね」
落ち着いた声に、「そうですね」と同意を返す。誰かに、自身の名前を「お揃い」だなんて言われたのは初めてのことだった。
面白い人だな、と雨居を観察する。年相応に年輪を刻み、溌溂とした若さは陰りつつある肌。努力や苦労、これまで経てきた時間の長さを思わせる静かな眼差しと、穏やかな物腰に似合った、優しげな顔立ち。──人は、ある程度の時間を生きていると、性格に見合った顔つきになっていく。纏う雰囲気が春の午後にも似た雨居は、表情のつくりや皺の刻まれ方で、外見からも温厚な人柄であることが察せられた。
こんな人が人事を担当している会社なら、規模が小さくとも居心地は良さそうだ。
好印象を抱いて、面接へのやる気が増す。一つ、二つと他愛のない言葉を交わして程よく場が温まったところで、雨居は志望動機や前職での経験など、採用に向けた質問を増やし始めた。
試されているというような緊張感は薄く、終始和やかに面接が進む。手応えは上々だ。合格通知が出たら、自分はきっとこの会社に勤めることになるだろう。雨居のような人が居る職場ならば、きっと、長く働ける。そんな明るい予感を抱いて、最後の挨拶を交わす。あやめはカバンを手に取ると、丁寧にお辞儀をして場を辞した。
面接時の経緯を思い返しながら、職場の休憩スペースでスマートフォンの画面を眺める。表示しているのは、先日と同じ、大手転職サイトの検索結果だ。『営業』で検索をかけると、都内だけでも百件以上の求人情報がヒットする。この中から、自分に合った職場を見つけ出すのは骨が折れる作業だ。一朝一夕で「これは」と思える求人に出会えることはなく、また、好条件の職場は倍率が高いので、必ずしも選考に参加できるとは限らない。応募した時点で既に枠が埋まっていた、なんてこともあるほどだ。
本当はこの会社に根を下ろせたら良かったんだけどなぁ、とため息を吐く。あやめが机に頬杖をついてすいすいと画面をスクロールしていれば、「転職されるんですか?」と頭上から声が降ってきた。びくりと肩が跳ねて、思わず声のした方向を振り返る。見れば、そこには雨居が立っていた。
休憩スペースに三台並んだ自動販売機に、お茶を買いに来たらしい。右の手に緑茶のペットボトルを持った彼は、「すみません、たまたま画面が見えたもので」と悪意を感じさせない穏やかな笑みと共に言葉を添えた。八の字に下がった眉を見ていると、本当に悪気なく、ただ目に入ってしまっただけなのだろうと信じられるから不思議だ。雨居には、人の持つ警戒心を消滅させる、魔法にも似た魅力がある。
あやめが咄嗟にスマートフォンの画面を消せば、雨居は周囲に目を配り、辺りに人の気配がないことを確認してから言葉を重ねた。
「そんなに警戒せずとも、口外はしませんよ」
「
……
だとしても、気まずいことに変わりはないですよ」
嘆息して、へらりと取り繕うような笑みを浮かべる。あやめは雨居に向きなおって、「よりにもよって、面接を担当した人に見られるなんてな~」と軽い声を発した。座りますか、とテーブルを挟んだ向かいの席を示せば、雨居はそれじゃあせっかくなので、と素直に腰を下ろした。購入したばかりの緑茶を開栓し、喉を湿してから口を開く。
「高椋さんの人生ですから、転職を検討されていることについて何か言うことはありません。
……
ただ、総務部の一員として、考慮すべき事情や改善すべき問題点があるのなら、お話を伺いたいと思います」
必要とあれば面談の場を設けますよ、という申し出に、あやめは苦笑しながら頭を振った。
「深刻な悩みがあるわけじゃないんです。ただ、癖というか習性というか、
……
転職を重ねてきた身なので、すぐに他の可能性を考えてしまうだけで」
働きづらさを感じているわけではない、と言外に滲ませれば、雨居はそれ以上踏み込むことはせずに頷いた。常と変わらぬ穏やかさを纏って、彼が言う。
「そうですか。それでは、もし転職が決まったら総務に連絡してくださいね。各種手続きがありますから」
冗談なのか、本気なのか、彼はそれだけ言うと席を立った。「それと、今月の交通費の清算も忘れずにお願いしますね」と言葉を残して、彼が休憩スペースを後にする。あやめはその背中を見送って、ふぅと一つ息を吐いた。
スマートフォンをポケットに仕舞い、自動販売機で缶コーヒーを購入する。開栓はせず、そろそろ外回りに出よう、と温かいアルミ缶を片手に、エレベーターに乗り込んだ。スーツのポケットから社用車のキーを取り出し、駐車場へ向かう。
会社から割り当てられたライトバンで慣れた道筋をたどりながら、あやめはフロントガラスの先に広がる青空へ視線を放った。雨居から「内面を開示せよ」と求められなかった事実に、安堵が遅れてやってくる。ハンドルを切り、左折をしながら思考を回す。
雨居にならば、自分の持つ、真っ白な欠落を明かしてみてもいいんじゃないか。
そんなことを考えて、苦笑する。自分自身ですら受け止められない人としての欠点を他者に明かしても、良いことなどひとつもない。せっかくうまく回っている毎日を、敢えて自分から破壊する必要はないはずだ。
やっぱり、何も言わずに転職活動をして、いつも通りに次の場所を見つけよう。出来る限り迷惑をかけないように、引き継ぎを丁寧にしてこの場所を発つべきだ。──どうせ、自分には平穏を長く守り続ける技能などはないのだから。
白く痺れるような、悲しみと諦めの綯い交ぜになった感情が思考を染める。あやめは苦いものを飲み込むように表情を強張らせると、営業先へ向けて静かにアクセルを踏み込んだ。
* * *
営業部の人間は、それぞれに社用車を割り当てられている。そのため、営業先への移動には車を使うのが基本だ。しかし、取引先の中には新幹線や飛行機を利用しなければならない遠方の企業や事業所も存在する。また、車で移動した場合にも駐車料金などの細々した支出がかさむ。そうした、移動に関わる費用はすべて『交通費』として総務部にレシート類を提出し、清算を行う決まりになっている。裏を返せば、当月分の交通費がすべて出揃うまでは清算が出来ない。
あやめは定時を三十分ほど回ったオフィスで、せっせと今月中のレシートをまとめていた。──最後の客先で、予想外に打ち合わせが長引いてしまった。今日中に清算の届け出を提出しなければ、総務部の方の作業が滞ってしまう。幸いなことに、というべきか、総務部にはまだ雨居が残っていた。昼間に起きた社内でのトラブル対応で、通常業務に遅れが出ているらしい。
卓上カレンダーに書き込んだ営業の予定と照らし合わせて、レシートの枚数を数える。十数枚にのぼるそれらをクリップでまとめて、所定の用紙に総額を書き込んだ。電卓を弾いて、違算がないかを確認する。あやめは提出物に間違いがないことを確かめてから、席を立った。早足で、オフィスの入り口付近に位置する総務部の島へと向かう。
各部署を区画するパーテーションをくぐり抜け、一人で残業している雨居の下へ向かった。失礼します、とひと声かけて彼の傍による。雨居は、他の営業部員から提出されたレシートを確認しながら、表計算ソフトに数字を打ち込んでいた。計算中に声をかけるのは憚られ、あやめはデスクの傍で彼の作業がひと段落するのを待つ。雨居は、レシートの束から目を上げないままに、「すみません、少々お待ちください」と呟いた。彼の思考を寸断しないようにと、ただ黙って頷く。あやめが沈黙すれば、室内には秒針が時を刻む音だけが残された。
作業を注視するのも憚られて、普段は滞在することの少ない総務部内を、不躾にならない程度に観察する。オフィスに滞在する時間が長いからだろうか、外回りが基本業務の営業部の面々とは異なり、総務部員のデスクには、私物が多かった。各自が居心地の良さを確保するために、創意工夫をしているらしい。プラモデルやフィギュアを置いている者、花粉症なのか高級路線の箱ティッシュを複数積み上げている者、飛行機や新幹線で眠る際に使うネックピローを椅子に引っ掛けている者。──デスクを眺めるだけでも、普段はあまり言葉を交わさない人々の、生活の一端が垣間見えるほどだ。
雨居のデスクはどうだろうか、とそれとなく視線を移せば、PCの傍にちょこんと置かれた折り鶴が目に入った。既製品のフィギュアなどとは趣の異なる、素朴なそれに目を奪われる。あやめが折り紙を注視していれば、雨居がようやくレシートから顔を上げた。目が疲れたのか、二、三度瞬きをしてからあやめを見る。
「すみません、お待たせしました。お預かりしますね」
「あ、はい。お願いします」
クリップで留めたレシートの束を渡して、あやめは「折り紙、お好きなんですか?」と、他に私物の置かれていない簡素なデスクで異彩を放つ折り鶴を指さした。雨居が指の先を辿って、「えぇ、趣味で」と頷いた。
「営業部の方はあまり私物を置いていないですよね」
雨居の言葉に、「外回りに出ますからね、デスクの居心地を良くしてもあまり意味がないというか」と苦笑を返す。雨居はゆっくりと頷いて、「確かに。滞在時間が違いますね」と相槌を打った。
彼から話を振ってくるのは、珍しい。先ほどまで根を詰めて計算をしていたので、少し休憩をしたいのだろう。
雨居の他に、総務部に残っている者はいない。会話をしても誰かの邪魔をするわけではないし、定時を過ぎたとはいえ、夏も盛りの今の時期では、外はまだ明るい時刻だ。帰りが遅くなっても、どうせ眠る意外にやることはない。少しくらい雑談をしてもいいだろう、と判じて、あやめは彼の話題に乗ることにした。
「雨居さんも、たくさん私物を置くタイプではないんですね。気が散るとかですか?」
一日の大半をデスクで過ごす事務方の中には、「デスクには必要な物しか置きたくない」という者もいる。彼もそのクチかと問いかければ、雨居は自身の気持ちを探るような仕草で小首を傾げた。ゆっくりとしたテンポで、言葉を紡ぐ。
「気が散る
……
というよりは、整理整頓が苦手と言った方が正しいですかね。数を決めておかないと際限なく増やしてしまいそうなので、会社に持ち込むのはとっておきの一つと決めているんです」
「この子がとっておきですか」
復唱し、折り鶴へ目をやる。ピンと伸びた尾羽の美しい、白い鶴だ。純白の折り紙というのは珍しい気がするが、それ以外に特筆すべき点は見当たらない。一体、どこが『とっておき』たる所以なのだろう。
疑念が顔に出ていたのか、雨居は鶴を自身の手のひらに乗せて、あやめに差し出した。指先で羽をもち上げて、その裏側を示す。彼は、「ほとんど自己満足なんですけどね、」と照れたような微笑と共にこちらを見上げた。
「この折り目が、綺麗にぴったり折れたんです。左右対称で、乱れなく。
……
それが嬉しくて、連れてきました」
言われて、翼の裏の折り目を見る。確かにそこには一直線の美しい折り目があるが、言われなければ気づかないし、言われてもそれがどれほど特別なことなのかはピンとこない。あやめは瞬きを一つして、「なんだか
……
、職人みたいですね」と感想を呟いた。雨居が照れ笑いをして、小首を傾げる。
「高椋さんは、ご趣味はないんですか?」
投げ返されたパスに、苦笑を返す。あやめは、「これと言って特には
……
」と答えつつ、記憶を探るように目線を虚空へ放った。自身の休日を振り返って、何かないかと考える。
あやめは、人から誘われれば外出するが、積極的に情報を集めて興味のある場所へ出かけるほど、アクティブな性質ではない。かといって、雨居のように自分ひとりで何かを突き詰めるようなこともしていない。休日には、なんとなくテレビや映画を観たり、思いついて散歩に出たり、はたまた日々の中で溜まってしまった家事をやっつけたりして過ごしている。──思い返しても、生活の中に一貫した趣味や楽しみは見つけ出せない。
苦笑したまま、「無趣味ですね」と結論を出す。雨居は「そうですか」と頷いて、手に乗せた鶴へ視線を落とした。
「人は、三つのコミュニティに所属することで精神的に安定すると聞いたことがあります。家庭、職場に次ぐ、サードプレイスという考え方です。
……
聞いたことがあるかもしれませんが」
問うような眼差しを向けられて、あやめは「一つの場所に依存すると良くない、とは言いますよね。適度に役割を脱げる場所があると良い、とか」と相槌を打って、先を促した。雨居は、手のひらに鶴を乗せたまま、穏やかに頷く。
「役割や肩書きとは無縁の、『個人』でいられる場所を持つのは大事なことです。
……
というわけで、高椋さんもやりませんか? 折り紙」
予想外の誘いに、「え」と声が零れる。雨居は呆気にとられたあやめの顔をどこか面白がるように眺めて、言葉を続けた。
「市民交流センターで月に二度ほど活動している、折り紙サークルに参加しているんです。地味な趣味ですが、楽しいですよ。デジタルデトックスにもなりますし」
「いや
……
、俺はその、」
壊してしまう、と白い危機感が警鐘を鳴らす。職場ですら人間関係を守り切ることのできない自分が、趣味の居場所を持つなんて。──上手くやれる想像が出来ず、あやめは目を伏せた。視界に入った白い鶴に視線を固定したまま、低く、硬い声で言葉を押し出す。
「
……
人間関係を維持するのが、苦手なんです」
呟いた自分の声に、雨居の声は返らない。重たさのない沈黙に、ずっと秘めていた後ろめたさが、像を結んだ。言える、と不思議な安堵と共に言葉を重ねる。
「昔から、どこかひとつのところに根を下ろすことができない。
……
きっと、サークルに参加しても、すぐに逃げ出すと思います」
だからごめんなさい、と続けようとしたあやめの言葉に先んじて、雨居が「なるほど」と何かを納得したように頷いた。その声の穏やかさに釣られて視線を持ち上げれば、彼は常と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべて、あやめを見返した。
「高椋さんは、渡り鳥なんですね」
唐突な言葉に、目を瞬く。あやめは彼を見て、訝しむように問いを発した。
「話聞いてました?」
「聞いてましたよ。一つの場所に根を下ろすのが苦手なんでしょう? それは、貴方が巣を守るよりも、その時々で居心地の良い場所へ渡っていく人だからだと思いますよ。それ自体はなんら、特別なことじゃないと思います」
ただ、高椋さんはちょっと極端かもしれませんね、と彼が呆れたように息を吐く。教師が教え子を諭すような、大人が若者に助言をするような、やわらかくて風通しの良いいたわりの気配を滲ませて、彼は言葉を続けた。
「毎回リセットしていたら大変でしょう。一つの場所に根を下ろさないとしても、渡る場所をいくつか確保して、その時々で居心地のいい場所を適当にローテーションしたらどうですか?」
渡り鳥だって越冬地や繁殖地は決まった場所にしてるんですから、と彼が言う。あやめが返事をできずにいれば、彼は思いついたように引き出しを開け、黒のボールペンを手に取った。
手のひらに乗せていた鶴のくちばしにペン先を当てて、器用に模様を描き込む。純白だった鶴は、くちばしの黒いコハクチョウへ変貌を遂げ、──雨居はそれをあやめの手のひらに押し付けた。
「どうぞ」
「
……
どうも」
思わず受け取り、困惑したまま雨居を見る。彼は満足げに微笑みながら、「というわけで、どうです?」と言葉を続けた。
「参加してみませんか。
……
根を下ろす場所としてではなく、冬を越す場所としてでも。あるいは、そんな場所を見つける練習のつもりで」
居場所の比重を変えてみるのはいいことだと思いますよ、と笑いかけられて、あやめは手のひらの上のハクチョウに目を向けた。『とっておき』を翼に秘めた、純白の渡り鳥。その凛とした静かな佇まいを眺めて、不思議な心地で目を瞬く。
一生、どんな場所にも根を下ろせないとしても。一つの巣を守り切る力がないとしても。この翼には、『とっておき』が宿っている。──ならば、俺もいつか、白雲を渡った先に、あたたかな大地を見つけ出すことができるのだろうか。
初めての予感に、むず痒さを感じて頬が緩む。あやめは雨居へ視線を返して、言葉を返した。
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