kanaco
2026-06-13 17:50:30
10032文字
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【九信】最後に笑うのは

《九信》「また、食べにくるよ」そんな一言から始まった、奇妙で危険な会合のおはなし。王九は作る。信一は食べる。それだけの話だったはずなのに?未成立九信ですが、穏やかテイストです。

 コンコンとボウルとヘラがぶつかる、軽い音が響いていた。

 その音を聞きながら、信一は暇を持て余したように足をプラプラと揺らす。

 キッチンカウンターにある丸椅子には背もたれがない。しかも座る位置も高い。丸椅子は信一の足をギリギリ浮かしてしまうのだ。王九が洗練された動きで似合わないモノを作っている。信一は気を抜かないようにテーブルに両肘をつくと、手のひらに両頬を乗せて目の前の光景をジッと見つめていた。

 王九が彼のキッチンに立っている時は、声をかけない方が良い、というのを信一はすでに学んでいた。うるさいと、へそを曲げられては困るからだ。

 しかし退屈には耐えられない。

 この場を約束をしたわけではない。仲は良くないし、そもそも敵同士だ。

 しかし街角でバッタリ出会ったが最後。
 偶然は運命。

 信一はそんな風に調子よく言う。そうして王九のアパートへ強引に転がり込んだ信一は、飽きた子供のようにくたびれた顔をし、口を開いた。

 「なぁ~、出来上がりってあとどれくらい?」

 タルト生地に敷き詰めたアーモンドクリームの上へ、氷で冷やしたカスタードを手際よく塗る王九は、心底呆れた顔をして口を開いた。

「毎回見てんだから、想像つくだろうが」
「カスタードの後は、フルーツを盛りつけて完成」
「じゃぁ、聞くな」
「でもさぁ、小腹空いちゃったし、ヒマだし」

 ねぇ、話し相手してよ、と信一が注文をつけた。

 すると信一が想像した通り、王九が苦い顔をした。見るからにうんざりしている。しかし怒っている様子も無ければ、追い出そうとする様子もない。信一は急に鼻歌でも歌い出しそうに、機嫌よく口元を緩ませた。
 
 真っ昼間。
 敵の幹部が住むアパートで。
 その男が作る、フルーツスイーツを待っている。

 
 この奇妙で危険な会合を、信一はこっそり気に入っていた。

 
 ことの発端は、正確に思い出せないほど昔。信一はまだ十代半ばだった。

 龍捲風に引き取られ、九龍城砦が我が家となった信一は、子供の頃から黒社会が身近な場所で育った。養父である龍捲風は、黒社会では畏怖と尊敬の両方を集める伝説の男だ。信一へは義父の保護が効き過ぎなほどに効いている。そして、信一の所属する九龍城砦と王九の所属する油麻地果欄は、お世辞にも友好的な間柄ではない。それでもここ数年、抗争してもどちらにも旨味がないため、冷戦状態が続いていた。

 九龍城砦の龍に寵愛される少年と、油麻地果欄の大老闆の側近に抜擢された青年。

 何事も起きなければ接点などできるはずもない。ところが人生とは数奇なもので、九龍城砦と油麻地果欄、そこに違う1つの組織が対立して混戦を極めた時、王九はまだあどけない顔をした信一を、心外ながら預かる状況に陥った。

 数時間だけのことだ。しかし信一が一目で分かるほど、王九は『龍捲風の子ども』の扱いに困り果てた。こんな厄介な存在に関わるもんじゃない、と思いつつも無下にすれば後々面倒だ。

 悩んだ結果、王九が出た行動は……
 
 信一に手作りのフルーツタルトを食べさせることだった。

 
 そんな思い出に浸っていた信一は、なんだか懐かしくなって話しかける。

「ほんと、タルト作る手際、良くなったよな」
「お前、そりゃどこからの目線で言ってんだ」
「だって初めて作ってくれた時、レシピ本開いてブツクサ文句言いながら作ってたじゃん」
……ありゃ、まだそんなに作ったことなかったから」
「趣味が意外過ぎるんだよな。泣く子も黙る大老闆の右腕が、ケーキ作り、とかさ」
「ただの処理だ、処理」
 
 王九は前に、趣味がケーキ作りであるのは、合理性を考えた結果だと言った。商品としては出せないが、食べる分には問題ないフルーツを持ち帰ることがある。男の一人暮らしにフルーツが溢れても困り物で、捨てるも忍びないしもったいない。最初の頃はジャムにしていたらしいが、その流れでフルーツをふんだんに使う料理に手を出し始めたらしい。
 
 嘘と暴力にまみれ、血を浴びることにも慣れた、悪党はなはだしい男であるのに。
 
「マジ、可愛い~趣味」
「ぶっ飛ばすぞ」

 王九はこの趣味を隠しているらしい。その真意は信一には不明だった。つまり、王九のこのケーキ作りを信一だけが知っていることになる。

「やだよ、俺、フルーツタルト食べに来たんだもん。アンタとケンカしにきたんじゃない」

 信一が初めて食べた王九作のケーキは、フルーツタルトだった。

 唐突に目の前でタルトを作り出した敵の様子を、当時の信一は大人しくも夢中で見つめた。龍兄貴は料理が得意だし、デザートも得意だ。ただ、どちらかというと中華系のデザートが多い。龍兄貴の手作りスイーツは絶品で信一は大好きである。しかし王九の手作りの洋風デザートは、信一にとって物珍しくて興味を惹いた。そして瑞々しいフルーツがふんだんに散りばめられたタルトは美しくて、信一に衝撃をもたらしたのだ。

「美味しい!」
 
 新鮮なフルーツ、優しい甘さのクリーム、香ばしいタルト生地。フルーツの艶でピカピカとした贅沢なタルトに、信一は瞳を輝かせた。敵の陣地にいることを、一瞬で忘れてしまうような美味しさだったからだ。そうして、信一は王九のアパートを出る時に言ったのだ。

「また、食べにくるよ」

 その時の王九の豆鉄砲を食らったかのような間抜け面を、信一は今でも鮮明に思い出せる。閉めたドアの奥から、何やら叫びのような声が聞こえたような気もした。でも、気分が上がっている信一には関係がなかった。

 九龍城砦と油麻地果欄の関係は今も変わらずであり、なにがきっかけで過激化するかは分からぬ緊張感を保持している。そして信一と王九のこの奇妙で危険な会合も、二人が忘れないくらいの間隔を空けながら、細々と続いていた。

(嫌がると思ってたけど、なんだかんだで作ってくれるんだよなぁ)

 また食べにくる、という言葉が達成され続けているのは、お決まりのように嫌そうな顔をしながらも、王九が信一のためにケーキを用意するからだ。

 敵同士。
 王九の趣味を知るのは信一のみ。
 秘密の会合。
 暗黙のルールは、黒社会の話題を出さないこと。
 王九が作る、信一が食べる。
 
 ツヤツヤした苺が大粒の、甘すぎない生クリームのショートケーキ。
 酸味と甘さのバランスがクセになる、白と黄がオシャレなオレンジレアチーズ。
 リンゴとバニラアイスの溶け合いがベストマッチな、出来たてアップルパイ。
 バナナの風味が口に広がる、どこか懐かしい味のほっこりバナナケーキ。
 
 最も豪勢なのは、やっぱりフルーツ盛り沢山のタルト。
 
 作るケーキの種類は、王九の気分で様々だ。リクエストは聞かない。信一は出されたそれを、美味しい、美味しいと言って食べる。王九はいつもその様子を、何を言うわけでもなくじっくりと観察する。
 
 今日は、久しぶりのフルーツタルトだ。
 もらったフルーツの種類が多かったのか、何なのか。
 信一の目の前で、王九がフルーツを盛りつけ始めた。

 オレンジ、グレープフルーツ、キウイ、バナナ、イチゴ、ラズベリーにブルーベリー。

 王九の手には迷いがない。
 なぜならば。

「なんていうか、雑」

 王九の手つきをのんびりと見ていた信一が、正直な感想を述べた。

 フルーツの盛りつけは、作り手のルールに沿って規則正しく並べられていくか、ランダムに配置されるように見えてバランスよく散りばめられているものだ。しかし王九のタルトは本当に適当でフルーツの配置に偏りがある。それまで神経質な様子できっちりお菓子作りをしていたというのに、突然の大雑把ぶりなのだ。信一が知る限り、それは他のケーキでは見られない特徴だった。他のケーキは神経質に感じるほど、整然として完成されるのに、フルーツタルトだけは自由きまま。

 素直過ぎる意見に対して「文句言うなら、帰れ」と王九が言うので、信一は首をフルフルと振り「でも、俺、あんたのフルーツタルト好きだぜ」と返した。

「だって、好きな部分だけ食べれば、好きなフルーツだけ入ってる」

 王九が盛りつけを終えたのと同時に、信一はタルトに近づいて「ここちょーだい」と指をさす。

「ピースのどこを取るかで毎回味も変わるし、一切れじゃ足りないよな」

 信一がニッコリと笑うと、王九が小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
 
「デブ」
「アンタ、サングラスに度を入れた方が良いんじゃね?」

 「視力大丈夫そ?」と言いながら、信一はいそいそとタルトを皿にのせてテーブルに移動した。先ほど勝手に淹れた紅茶のカップと並べ、美味しそうなタルトを満足気に見る。手を洗い終わった王九が、信一の向かいに座った。自分のケーキは用意せずに、信一が用意した紅茶だけ自分のマグカップに勝手に注ぐ。一息つくように飲みながら、信一の様子を静かに伺っていた。

 信一はその視線を一切気にしない。目の前のイチゴが多めに乗ったピースを、昔と同じようにキラキラとした瞳で見つめる。

「いただきます」と、挨拶は丁寧に。

 形を崩さないようにしながら、ゆっくりとフォークを入れていく。フルーツとフルーツの間をめがけて、甘い香りがする柔らかいカスタードクリームとアーモンドクリームを割っていけば、底のタルト生地でフォークが止まる。少し力を入れれば、サックリと。改めて真上からフォークをさすと、嬉しそうに口へと運んだ。

 イチゴとオレンジの甘酸っぱさとフレッシュさ。
 アクセントはブルーベリー。
 クリームの円やかさと生地の歯ごたえ。
 
 信一がフォークを咥えたまま、「うーん」と唸ってフニャリと嬉しそうに笑う。

「うまぁい」

 軽やかに弾んだ声が部屋に響いた。

 王九は何も言わず、また紅茶を一口飲んだ。視線だけは信一に釘付けのままだ。信一の方は王九など存在しないかのように気にせず、次のイチゴとキウイのエリアへフォークを運んだ。そしてまた、うっとりした表情で笑ってみせた。どこもかしこも美味しくて、幸せの心地だと言わんばかりにニコニコする。

「アンタがケーキ屋を城砦で開いたら、通うのに」
「バカを言うな」
「そう?でも、ケーキ作るの好きじゃん。なんで秘密にしてんの?商売の匂いもプンプンするのに」
「俺には、いらねぇな。趣味は、趣味だ」
「俺にだけケーキを食わせるって趣味?」
「お前が勝手に来てるだけだろうが」
「だって、せっかくケーキがあるのに、食べない手はないじゃん」

 好きにしたらいいのに、と信一は言った。王九は皮肉めいた顔をすると「これだから甘やかされたお坊ちゃんは」と返した。

「いらねぇ時間だ。生産性がないし……話が膨らんで面倒なことになったら困る」
「そりゃ、全部が思い通りになんていかないもんだろ」
 
 信一は不思議そうに言った。
 
「やりたいこと、やればいいのに……例えば、タルトを大老闆に振る舞ってみるとか。俺が龍兄貴にこれを作って振る舞ったら、きっと兄貴は大喜びしてくれる」

 信一は嘘や冗談を言うでもなく、いたって正直な気持ちを伝えた。王九が珍しく一瞬だけ顔色を変え、言葉に窮した。すぐにいつもの不愛想な表情に戻ると、呆れたように返事をした。
 
……お前のとこのボスと一緒にすんな。何でもかんでもお前の好きにすりゃいいって話じゃない」
「ふぅん。大人って退屈なんだ」

 信一はそう言ったが、三口目をフォークで刺す前に、コトンと首を傾げてから「ああ、でもまぁ」と言い直した。

「俺だけの特権って考えたら、このままでイイかもな」

 ニヤリと笑って王九を見る。
 
「だって異常だろ?俺たち、これでも城砦と果欄のNo.2だぜ?俺たちしか知らないこのオカシな状況は面白い。アンタが何で俺にケーキを食わせたいのかは知らないけど、あべこべだってことを考えりゃ、やりたいことをやってるんだろうさ。アンタは作るのが楽しい。俺は食べて美味しい。ならWin-Winでしょ」

 ニンマリする信一に、王九はピクリと眉を動かした。しかし話を広げたくはないらしい。「もういいから、早く食えよ。二つ食うんだろ?」と急かしてくる。信一はつまらなそうな顔をしたが、すぐに気持ちを切り替えてフォークを皿へとのばした。また当然のように顔をとろけさせれば、王九は軽いため息をついた。

「平和ボケしたノーテンキな王子さまめ」
「いいじゃん。平和が一番だろ。だってアンタのスイーツが食える」
 
 油麻地果欄って、すぐ物騒な方向へ向かってく。

 困りもんですね、と言わんばかりに口を尖らせ、信一はお芝居のように肩を竦めた。

「マジでどの口が言ってんだ」

 王九が嘲笑う。

 所詮はお互い黒社会。
 お前だって都合の良いことを吹聴し、都合の悪いことは蓋をしてお澄まし顔。

「ご自慢の顔の良さと口八丁手八丁で目くらまししてる、詐欺師だろ」
「ちょっと!照れるだろ、そんなに褒めんなよ」
「どこをどうしたら褒められたと思うんだよ。図々しい嘘つきめ」
「嘘?俺はずっと、本当のことを言ってる」

 アンタも素直になればいいのにさ。

 信一が意味ありげに王九の顔を見つめた。フルーツタルトを食べた時の、子供っぽくウキウキしたような笑顔ではない。大人びているというよりは、妖しく危険な魅力を醸していた。形の良い唇と瞳が、含みを多分に持っているかのようにクスッと笑う。
 
「ま、いいんだけどね。俺は自分の気持ちに忠実。だから最後に笑うのは俺だもん」

 信一はタルトの最後の欠片を一口でパクリと食べた。もぐもぐとしてから、鬱陶しそうにしている王九を見てさらに愉快そうにすると、フルーツタルトの2ピース目に手をのばした。

 
 
☆***☆***☆***☆ 

 第一の生を全うし。

 また、何度目かの春がやってくる。
 
 信一にとって二度目の15歳。

 
 制服を着た信一は鏡の前でクルリと一回転して見せた。自慢のパーマがフワリと優しく揺れる。新品のシャツは白くて眩い。柔らかいベージュのブレザーも、まだパリッとしたスラックスも新鮮だった。ご機嫌に鼻歌を歌う信一は、手慣れた様子でネクタイをキュッと締めた。結び方は体に染みついている。生まれた世界によって流行やルールはあるものの、今のところ結び方は一緒だった。

「哥哥!それじゃぁ、行ってきます」

 元気よくマンションを飛び出した信一は、高校へ続く通学路を軽やかな足取りで歩く。

 前世の記憶からカウントすれば、信一にとって何回目かの入学式だった。ピカピカの高校一年生。晴れの舞台にふさわしく、青空は澄み渡ってどこまでも広がっている。

 信一が前世の記憶……つまり香港、九龍城砦で過ごした日々を思い出したのは、小学校四年生の頃だった。

 きっかけは、龍捲風。

 忘れもしない。夏休みの宿題をするために行った市立図書館で、大学三年生の龍兄貴を一目見かけた瞬間、全てを思い出したのだ。

 流れる涙は悲喜こもごも。
 煌いて美しく、切なくて苦しい記憶たち。

 龍兄貴は驚き、しかし信一を力強く抱きしめた。兄貴にも記憶があるのだと知り、加速する感情は止まらない。
 
 その後の行動力については、信一が自画自賛しても誰にも咎められないほどだった。

 龍兄貴と一緒に住む。

 絶対に譲ることはできない理由のために、実家から遠く離れた名門高校への進学を選択した信一は、無事その高校の近くに住む龍兄貴のマンションに転がり込んだ。

 龍兄貴のマンションには同居する前も頻繁に通っていたため、高校への道やご近所の様子を信一はよく知っていた。すでに見慣れている風景が続く。

 だからこそ、新装開店したらしい店が目についた。大きな透明ガラスのウィンドウとドア。

 何の店だろう、と信一は足を止めた。
 
 まだ朝の8時半だ。ドアノブには「close」の看板が下がっている。
 
 でも中は見える。それほど広くない。白いタイル床に黒のシックな壁紙。奥にショーケースがあり、何かが並んでいるのが見えた。

 信一は眉を寄せながら一生懸命に目を凝らし、やがて大きく見開いた。ゴクリと唾を飲み込むとドアを押してみる。鍵はかかっていなかった。開店前などお構いなしで、スタスタとまっすぐショーケースまで歩く。そして……一列に並べられた品物をじっくりと見た。

 ケーキだった。まだ全て出そろってはいないのだろう。置かれている種類は少ない。ケーキの前にはラベルが並んでいる。クリーム色の台紙に金色の細い枠装飾。名前や金額が書かれていた。ピースでも、ホールで売っているようだった。
 
 信一は腰をかがめて、ショーケースに夢中で張りつく子供のようにラベルを読んだ。それから再び、ケーキに目を移した。

「おい、開店前だぞ」

 頭上で男の声がした。不法侵入であるからか、客を相手にしているとは思えない低い声色と咎める口調。

 ショーケースの奥は透明で向こうが見える。人の足だった。店長だろうか、パティシエだろうか。兼任だろう、と信一は思った。そうに違いないのだ。信一は何故だか確信を持っている。

 男が大袈裟にため息をついた。信一にはどうしてか、とても懐かしいように感じた。
 
……買うんですか?」
「いや……すごく気になって」
……いくつか試食したいとか?」
「ううん」

 信一はフルフルと首を振ると、ムスっとした顔をした。
 
「だって俺、これ全部食べたことあるんだよね」

 美しいイチゴのショートケーキ。
 オレンジの大人なレアチーズ。
 リンゴたっぷりのアップルパイ。
 素朴だけど、安心するバナナケーキ。
 
 それから、フルーツタルト。

「何の話か……
「フルーツの並べ方がテキトーなの、変わらないんだな」
…………
「不平等ってレベルじゃないよな。売りもんなのに、ウケる。でも、アンタって感じ」
 
 男が黙り込んだ。沈黙が流れて、やがて大袈裟なため息が聞こえた。信一はやっと視線を上に向けた。上目遣いで、自分と同じくらいムスっとしている男を見る。信一は不満そうな男を視界に入れると、思わずプッと吹き出した。

 面影、というレベルではない。信一の敵であり、大切な人を殺め、信一の全てを奪った。狂おしいほど憎み、本気で殺し合いをした相手がそこにいた。

 違うのは清潔感ある短髪と、コックコート姿だった。あの頃に瞳を隠していたサングラスは、もちろん無かった。

「髪が、短いっ。違和感ヤバすぎる」
……ケーキを作るのに、髪は邪魔だろうが」
「なんか分かんねーけど、無駄に爽やかなのウケる」
……相変わらずうるせぇガキだな、おめぇはよ」
「褒めてるんじゃん。昔は思わなかったけどアンタ、イケメンだったんだな」

 ゲラゲラと遠慮なく笑い、そこはかとなく失礼なことを言って、信一は腰を上げた。真正面から視線が衝突する。

 龍捲風と再会した時の、健やかで希望に溢れる喜びとは違う、複雑な感情が流れ込んできた。その当時、愛憎劇なんて大仰な言葉にさえ辿り着けやしなかった、もっと雑多でまとまりのない感覚。信一はニヤリと笑うと、その瞳にかつての物騒さを取り戻す。今の平和な世の中じゃ、不釣り合いな剣呑さだった。

「久しぶりだな、王九。アンタも生まれ変わっていたとはね」
……お前こそ。……変わりがねぇようだな」
「変わり?ないね。昔とは正反対の世の中で、昔と同じように兄貴と仲睦まじく暮らしてるさ」
 
 鋭利な視線を送りながら、口元だけヘラヘラと笑って「平和ボケ最高」と信一が言うと、王九が何とも言い難い表情をした。信一の大切なものを破壊しつくし、信一の手によって殺された男は、再会を喜んでいるようには見えなかったし、悪びれているようにも見えなかった。しかし、拒否をしているようにも見えない。それこそ、件の大事件が起きる前の、曖昧を是としていた緩やかな雰囲気に戻っている気がする。

 勝手な話だ、と信一は思った。「俺のことなんてどうだっていいけど……」と続ける。
 
「俺はアンタが兄貴にしたことは許さねぇよ」
「だろうな」
「何度生まれ変わろうが、俺とお前がどう変わろうが、変わるまいが、許さない」

 信一の瞳の強い光に対し、王九の瞳の奥は静まり返っていて、動揺すらしなかった。すこしの無言が流れた後、王九がボソリと言った。

「だからどう、でもない」

 キッパリ言い放った王九に、信一は頷いて見せた。
 
「間違いない。あの時、俺らは黒社会だ。でも今は違う。しかしこれは俺個人の気持ちで、言う必要がある」
「お前には言う権利がある」
「アンタにもあると思うけど?」
「俺は……お前に言う言葉はない」
「そうか。殺した俺に寛容だなぁ。アンタはアンタの思う通りにしたってわけだ」

 そこで初めて、王九が釈然としないような顔をし、僅かに肩を下した。
 
……思い通り何ていってねぇよ」

 信一は怒りを籠めた瞳を緩和させて、目をパチクリとさせた。うーん、と唸りながらショーケースのケーキに目を移し、順番に見ていく。美しく整えられた、美味しそうなケーキたちだ。唯一雑な盛りつけになっているフルーツタルトですら、新鮮そうなフルーツがツヤツヤと光って魅力的だった。
 
「やっぱケーキ作るの好きだったんじゃん。ヒマつぶし、とか言ってたくせに」
……できなかったことをしてる」
「今は衝動に突き動かされてるってわけ?」
「お前が言ったんだろ」
「生まれ変わってまで俺の言葉を叶えちゃうなんて、俺のこと大好きじゃん」
「どうしてそうなる」
「あの頃のケーキそのままを並べておくなんて、俺のこと待ってたんでしょ?」

 信一はショーケースの上に両肘を乗せて手を組むと、あざとく顎を手の甲に乗せてニッコリと笑った。誰もが振り向くような優雅で愛らしい微笑みを作って、コトンと首を小さく傾げる。

「俺のこと、好きだったくせに」

 俺、昔から分かってたよ。
 
 明言をされた王九は、心の底からうんざりしたような顔をした。前世だって何度もうんざりした顔をしていたが、一番気持ちがこもっているような表情だ。そのくせに、否定をしなかった。信一は満足そうにウンウンと大きく頷く。
 
「言っただろ、最後に笑ってるのは俺だって」
 
 フフフと笑った後、信一は突然思い出したように腕時計を見る。
 
「やばいっ!遅刻する」

 気がつけば15分も時間が過ぎていた。

 学校まであと10分ほどの距離だが、歩きではギリギリアウトの時間だ。信一は慌てて学校鞄を肩に持ち直すと、早足で駆けだす。ガラスドアに手をかけて、一度だけ振り向いた。

「じゃぁまたな王九!帰りにまた、食べに来るから」
「いや、来るな。……買うなら金払って家で食え」
「いいや、そんなことを言っておいて、アンタは俺が学校から帰ってくるまでに、俺専用のケーキを用意して待ってるね!フルーツタルトが良いな。出会いはやっぱり、フルーツタルトだ」

 背中から悪態をつく声が聞こえてきた。

 しかし愉快そうに笑う信一は振り向かず、元気よくケーキ屋から飛び出していったのだった。



 
 ……カランカラン。

 店のドアに取り付けたベルが鳴る。信一の背中はあっと言う間に消え去った。前世であろうが今世であろうが、騒がしいことこの上ない。取り残された王九はポツンと佇んでいたが、やがて大きなため息をついた。昔のように髪をかきむしりたい気分だが、衛生上さすがに気が引ける。

 王九は、なんとも複雑な気分だった。懐かしいのか、気まずいのか、感傷的なのか……少し、浮足立つような心地もある。

「相変わらず、意味の分からねぇ野郎だ」

 敵である王九が作ったケーキを、ただただ純粋に「美味しい」と笑って、食べていた若者。
 そういう真っすぐな意見と賛辞が、あの頃の王九にはあまりにも特異で物珍しいものだった。

「あいつ、本当に帰りに来る気かよ」

 独り言はポツンと店内に落ちた。信一のケラケラと笑う幻聴が聞こえてきた気がして、王九はもう一度嘆息した。それでも……

 信一が特に好きなフルーツのピースを残しておいてやるために、売り物のタルトを取り分け始めたのだった。