想像上の愛

焼肉軸あたりの平和軸松ガス
松→←ガスです
作中のイメージしてた曲はohmylittlegirlです

 想像上の愛

 カラオケに入り浸って勉強をしていたことがある。周りの人が程よく騒がしく、けれど内容もそこまで聞こえてこないから気にならない。ドリンクバーで粘りながら、ローテーブルに広げた教科書とノートをひたすらめくる。
 受験をしろと言われて親の敷いたレールの通りを歩いていた。もうこのままでもいいんだと半ば諦めながら、勉強をし続ける毎日だった。今日はあまりにも家でやるのが窮屈に思えて、「息抜きしてくる」と嘘を言って出てきた。
 隣から聞こえるのは同じ高校の女子の歌だ。流行りは一応知っているつもりだけれど、だからって一緒に歌う気にはなれなかった。あの女子の団体のうちの一人が、前に告白してきたことがあって、でもそれは本人の中でもう無かったことになっているらしい。彼女が告白して、僕に振られたっていうのが信じられないみたいだ。僕なんかが断るはずないだろうって思われていたのかもしれない。僕は人並みに恋愛をしたいと思っているけど、それは別に彼女とではなかっただけで、だからいまだに童貞なんだけど、その童貞を卒業するために彼女と夜を過ごすことに、あんまり意義を感じなかった。
 もう一方の隣からは騒がしい歌が聞こえる。男性の集まりみたいだ。僕の知らない歌を大熱唱したかと思えば、静かめのバラードでおいおい泣く声もしてちょっと面白い。酔った集団なのかも、と思うと、僕が将来大学に入って、卒業して、就職して、飲みに行ってカラオケに行って、ああしてくだを巻いていて、懐かしい歌に涙する日が来るのかも。いや、来ないか。僕だもんな。
 そんな愛想のないことを思いながら教科書を開くと、その酔っ払いの集団の中で少し揉めるような声が聞こえた。歌えよ! 嫌だよ。と問答があって、しばらくしたころ、ようやく一つの歌が流れ始めた。
 それは音程もきちんと取れていたし、出だしはおそらく恥ずかしがって小さかったのに、だんだん大きな声になった。隣から今まで聞こえたことのない声音の人だった。間奏になるとすすり泣く声が聞こえたり、その人の名前であろう固有名詞を大声で叫んで、まるでコンサート会場だった。
 僕もしばらく問題を解くのをやめて聞き入った。誰の、なんていう曲だろう、と調べたくなった。ずっと旋律が心に刻まれ、僕もかすれた声で口ずさむ。目の前のメロンソーダはもう炭酸が揮発して、甘いだけの砂糖水になっていた。その味を啜りながら、何度もその歌を反芻する。でも、僕の歌声なんかではだめで、あの人の精一杯の歌声が好きになった。もう聞くことがないのかと思うと寂しくて、同じ時間帯に何度か一人で勉強と称してカラオケに行った。必ず同じ部屋に通されるわけではないし、そんな団体がどこにだっている中で、可能性に賭けたのだけど無駄足だった──あのときあの瞬間に聞けたという事実が、思い出を美化させる。そのとき解いていた問題が受験に出てきたときは、人知れずこっそり笑った。

 そんな話を松田さんにしながら、僕はメロンソーダではなく気の抜けたビールを、松田さんは水を飲んでいた。居酒屋で散々飲んだ松田さんは、カラオケ行こうよ! という僕の無茶振りに最後まで抵抗したが、今こうしてべろべろの僕の話を聞いてくれている。
「酔っ払って思い出に泣くなんてって冷笑しとった、高校生の山田くんはどこ行ってん」
「いいだろ、もう時効だよ。僕、あの歌聞きたいんだ」
 ハー…………と松田さんにひとしきり長いデカいため息をつかれ、僕は口を尖らせる。カラオケ特有の薄暗い部屋で、部分的に各所を色とりどりに照らすライトが松田さんの鼻筋を通った。
「大体その歌、俺の世代やないやろ。そん時酒飲んでた人らで、お前の知らん歌やったんやろ? やったら俺より上や、きっと」
「わかんないじゃん、聞いてみたら歌えるかも」
「俺は歌わへん」
「歌ってよ、僕の命を救うと思って」
「なら救わんくてもええな。ノスタルジックで泣きたいだけの男の命なら」
 ああ言えばこう言う。松田さんは面倒くさい男だ。それをぶつくさ言っていたら「お前に言われたないわ」と水を飲み干していた。ここでお酒を頼まないのは、僕の相当の酔いっぷりを見てのことだろう。
 さっきまで一緒に飲んでいたガイドさんや藤原さん、木村さんは、二軒目も居酒屋で! とさらに飲んだくれるようだし、僕はそこまで強くないしお腹もいっぱいで、帰ろうとしていた矢先だった。ふと通りかかった塾帰りらしい高校生の三人組が、卒業ソングを口ずさんでいたせいで、体の奥のスイッチが入ったように当時のことを思い出し、懐かしさに打ちひしがれたくなった。横にいて帰ろうとしていた松田さんの、背中のちょうど真ん中あたりをぐわっと掴んでスーツをしわくちゃにして怒られた。しわしわのはだけた松田さんに往来で怒られながら、「なんかあったんか」としまいに心配顔にさせたあたり、僕は相当目が据わっていたのかもしれない。その心配をよそに、カラオケ行こうよ! が僕の口から飛び出したのだから、さすがの松田さんも、いや、さすが松田さんと言うべきか、声を大にして「心配して損したわ」と僕の頭をはたいた。
 近くのカラオケはほとんど満室で、ここだけが唯一空いていた。汚れた床と壁で、人気のない店なんだなとおおかた察することができたが、酔っていればこの際どうでもいい。松田さんはタバコを吸えなくて少しイラついていて、僕の思い出の一曲を聞いたら(僕はあくまで松田さんに歌わせるつもりだ)すぐカラオケを出る予定をしている。
「大体、お前が歌えばええやろ」
「僕じゃだめなんだよ、声量とかもないし」
「とか、ってなんやねん」
「今入れるから」
 どれだっけなぁ、と言いながら覚束ない手で曲名から検索をしようとするが、どうにも最初の数文字が思い出せない。
「歌手は?」
「男の人」
「そこもわからんのかい」
 松田さんの呆れは最もだ。僕は酒のせいでいい加減になってしまっている思考を立て直そうと、普段丸まっている背筋を伸ばしかけて、パキッと腰を鳴らす。
「ちゃんと歌ってよ?」
「うっさいな、……マイクどこや」
 もはやマイクを探すことだって僕任せにしてるほど嫌なのに、それでも付き合ってくれるのだから松田さんは面倒くさくて、面白い。
 部屋のライトが曲の開始と共になりを潜める。暗い部屋に映る松田さんの横顔は、画面から放たれる青白くぼんやりとした光に照らされているはずなのに、くっきりと見える。僕がそこだけに集中して視野を狭めているからかもしれない。
 出だしの音がかすかに震え、松田さんが声を出す。まっすぐ歌詞を見て、はっきりと歌う──あのときの、あの人の声とは違った。これがもし映画や小説の世界なら、松田さんが実はあのとき隣の部屋だった人だという展開だって、何万分の一の奇跡としてあるのかもしれないけれど、僕はそんな崇高で輝いた奇跡より、外れた運命の外側、なんでもない休日の夜に寂れたカラオケで、酔っ払いのために一曲だけリクエストを聞いてくれた松田さんの、ニコチン切れでちょっと苛立った酒焼け声で歌う曲が、僕の思い出を塗り替えて、泣けるほど良かったりする。
 あの曲、なんだったっけ。今となってはもう思い出せない。それよりも頭に残る、松田さんの掠れた語尾に雑なパート。松田さんの声だとわかりやすい歌声。僕は気づけば泣いていたし、それはもう恥も外聞も捨てて、拍手を送っていた。
「お前……ほんまにタチ悪い酔い方したな。泣き上戸か」
「高校生の僕は、こんな大人になんてなるもんかって思ってたんだよ」
 グズグズと鼻を啜り、息を吐いた。
「あと、この曲じゃなかった」
「は⁈ お前この……
「ごめんってば。だってもう高校生のときだよ? 忘れちゃったんだって」
「あんな大事な思い出だとか抜かしとったやろが!」
「マイク越しに怒鳴らないで!」
 キーンと響く大音声に、店員さんが来てしまうかもしれない。僕は松田さんのマイクを奪い、テーブルに置いた。ガツッという音がスピーカーから鳴り、僕も大概乱暴に扱ってしまった。
「僕、松田さんのこの歌好きかも」
「そらどーも、初めて歌ったわ」
「え⁈ 知らない曲だったの?」
「おう。サビしか知らん」
 あ、そう……と僕は呆けて、松田さんが上着を着て「おら、出るで」とさっさと行こうとするのを慌てて追いかける。松田さんの家は僕が乗る駅の逆側、僕は明日からは取材で一週間、東京を離れなくてはならない。
「松田さん、もう一回」
「あ?」
 これ以上ない怖い顔で凄まれるが、僕は幸いとてもとても酔っ払っていたので、なんてことはない。へらへらと笑ってマイクのスイッチを入れ、同じ曲を入れようと座った。
「明日から聞くのに、録音、したいから」
 スマホをテーブルに置いて、僕がふたたび同じ曲を入れる。僕の勘違いで松田さんに歌わせた曲は、あのころの記憶にはない歌詞と音で、それでも僕に高校生のときの懐かしさを滲ませると同時に、その記憶に松田さんがいたような気を起こさせた。いや、きっといてほしかったという願望が、自棄やけを起こしているんだろう。
「なんで男の歌っとる声なんて録音したいねん」
 松田さんがそう言って、そういえばなんでだろう。と僕の手が止まった。松田さんがまた仕方ないといったふうにマイクを取る。それもまた、「こんなん歌わんで帰るで」と言えばいい話なのに。
 僕らは顔を見合わせる。録音はスタートした。部屋のライトが曲の開始と共になりを潜める。今度は真正面を向いている松田さんと僕の顔が、青い光に照らされた。「ええと」と僕が声を上げ、「離れたく、ないから?」と録音される。松田さんもマイクを持ったまま、Aメロは過ぎていく。