2026-06-12 18:26:08
2250文字
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愛のキッチン

アペタイザーを作るメインディッシュ

 早めの夕食を終えてしばらく経ったあとの借家へ訪れたのは、隣に住む家の持ち主その人だった。
 聞けば自分たち夫婦の冬支度に向けて、物置から動かしておきたい物がいくつかあるのだと言う。三人と一匹で過ごしてもゆとりのあるこの家には、急な出費が堪える一行の財布にも優しい契約内容で住まわせてもらっている。当初から家主の雑用を手伝うことも条件の一つだったので、ファイは笑顔で頷いた。子どもたちも巣立って久しいと語る夫婦に力仕事は酷だろうし、何よりこちらにはそういった仕事にうってつけの人材が居る。
「ってことで黒みゅうよろしくねー」
「黒鋼よろしくー!」
 ゆらりと立ち上がった黒鋼は、普通の人間なら一目散に逃げだしてしまいそうな眼光でファイたちを睨んだ。言いたいことは山ほどあるが、降って湧いた仕事への人選は仕方ない、といったところだろうか。見るからに人の良い貸主の前で言葉を荒げることもできず、黒鋼は無言で玄関を出て行った。
「いってらっしゃーい」
「あの、おれも手伝った方が……
「お父さんなら大丈夫だよー、オーナーさんも一人居れば充分って言ってたし」
「そう、だろうか……
「それより小狼君、明日早いんでしょう? 先にお風呂行っておいで」
「モコナもー!」
 夕食の時間を早めたのは明朝早くから外出の予定がある少年のためだったが、結果的にはちょうどよかったかもしれない。ファイはそんなことを考えつつ、申し訳なさそうな顔をする小狼の背中を押した。



 間を置いて戻ってきた黒鋼の手には、行きにはなかった丸々とした酒瓶が握られていた。
「おかえりー、どうしたのそれ」
「駄賃だとよ。祝いかなんかで贈られたは良いが、二人とも呑まねぇってんでもらってきた」
 そっけない言葉とは裏腹に、嬉しそうな雰囲気が隠しきれていない。多分あのご夫婦からも微笑ましく見られていたのだろうなぁと思いつつ、仕込みをしていた手を休める。
「小狼君とモコナはもう部屋へ戻ったよ。オレも先にお風呂入らせてもらったから、黒様ゆっくりしてきてー」
 キッチンに酒瓶を置いてすぐに踵を返すかと思われた長身は、予想に反してその場所から動かない。顔を上げると、リビングに面した流し台越しに、黒鋼がじっとファイを見つめていた。
……どうしたの?」
「出てきたらなんか食わせろ。あと、おまえもそのつもりでいろ」
 言うやいなや、こちらの返事も待たず風呂場へ向かってしまう。後姿を見送りながら、黒鋼の言葉をゆっくり咀嚼する。ファイはしばらく立ち尽くしたのち、機械的に手を動かし始めた。

 面と向かって言われたわけではない。けれどそれとなく、本当になんとなく、今日はするのかなという空気を感じていたのは事実だ。とはいえ予期せぬ用事が舞い込んだこともあり、示し合わせたわけでもない予定はすっかり流れたものだと思い込んでいた。
 それなのに、どうやらそうではなかったらしい。
 多めに炊いていた米でおにぎりでも作ろうかと思案したのち、酒の肴として作り置いていたしぐれ煮も取り出した。具材として中へ入れつつ、手に取りやすい大きさにさっと握る。
 今も昔も旅の仲間はファイの料理を誉めてくれるけれど、とりたてて変わったことをしているつもりはなかった。元が全くの素人であるため、本などで学んだ基本になるべく忠実であろうとしているだけだ。まぁ全てが記載通りにいくわけではないから、ある程度勘で対処しているのも否定できないが。
 製菓となると話は別だ。気温や湿度の面で感覚に頼ることはあっても、とにかく正確な作業を目指すことになる。ファイ自身はそれが楽しいと感じるものの、このあたりは人によるだろう。
 幸いここ最近は平和な暮らしが続いている。小狼の帰りを待つ間、明日は久しぶりに簡単なケーキでも作ってもいいかもしれない。
 黒鋼の夜食分、そして小狼たちの朝食分と想定していた量を作り終わったところで、ファイはふと手を止めた。目前では我ながらきれいに握られた白米が、キッチンの明かりを受けてつやつやと光っている。

 いくら力仕事をしたとはいえ、帰って来て眠るだけであれば、黒鋼は軽食を希望したりしなかっただろう。だからこれは、「これから」に備えた栄養補給だ。
 遠くからかすかにシャワーの音が聞こえてくる。あえて考えないようにしていた状況が、にわかに現実味を帯びてファイの目の前に迫ってきた。
 これから抱かれるのがわかっていて、そのための食事をファイ自身が用意している今の状態は、もしかして、もしかしなくとも、ものすごく恥ずかしいのではないか?
 発言の意図に気づかなかったふりをする?
 だとしても寝室へ連れ込まれたら結果は同じだ。
 いっそのことこれから急いで寝室に向かって、うっかり寝てしまった体を装うべきだろうか?
 それなら今からでも間に合うかもしれない。
 思いついたまま急いでキッチンを片付けたところで、がちゃりと妙に大きな音がした。固まるファイをよそに、黒鋼がタオルでがしがしと頭を拭きながら廊下へ出てくる。あ、なんだかすっごくやる気だ。
 とどのつまり、もう何もかもが手遅れなのだった。



 つんつんと跳ねる短い黒髪は、まだわずかに湿り気を帯びている。視線で隣へ座ることを促され、今更この場を立ち去ることもできない。ファイは大変居たたまれない気持ちのまま、まるで自分の番を待つかのように黒鋼が食事をする様子を眺め続けた。