助手席というものに少しばかり憧れがあった。座り心地こそ悪くないが、四方を守られ堅苦しい空気の中でただただ流れる外の景色を開かない窓から眺め続ける後部座席は息苦しく窮屈で退屈だった。そんなことを呟くと運転席ではないんですねと笑われる。そういえばハンドルを握りたいと考えたことはなかったかもしれない。立場に甘えていたことが露呈してしまったかのようで無意識と言えどどこか少しばつが悪い。
「誰かの車に乗るのが当たり前になってるんだ」
「大吾さんはそれでいいんです」
「でもお前はそうじゃないだろう」
目立つ色のぎらついた峯の車を思い出す。車体に負けず劣らず派手なエンジン音を響かせながら颯爽と走り去っていくその姿を見ていると、あいつらしいと思う反面どこか危なげに思えてしまい気づけばその後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。
「お前の隣は緊張しそうだ」
「乗りたいんですか」
「でもお前も飲んでるだろ」
俺が飲ませたから、とテーブルに置かれたグラスを指す。程よく酔いが回る中、自分ばかりがアルコールを注がれ気分を良くするのが寂しくなり半ば無理やりグラスを用意させると峯は諦めたようにそれを一口飲んだのだ。
峯は元々飲むつもりはなかった。あらかた書類を片付けたところで明日は休めと言われたのでそれなら夜を楽しみたいと峯に声をかけたのだが、スケジュールを詰め込むこの男はあまり深酔いはしたくないと言ったあと俺の家で飲みますかと車を呼び運転手に行き先を告げ一緒に後部座席に乗ったのだった。家に着き、何か食いたければ作りますよという峯になぜ家に連れてきたのかと聞く。返ってきたのは寂しそうな顔のあなたをひとりで夜に放ちたくないという言葉で、少し間が空いたものの結局何も思いつかずにそうかと呟くのが精一杯だった。
テーブルにはグラスの他につまみがいくつか並んだが峯のグラスに入っていたのは炭酸水だった。あなたを家に送りますのでと言われ少しばかり気分が醒める。泊まりたかった訳ではないし長居をするつもりもない。ただなんとなく、この時間が有限であることに気づかされそんなことをする峯に心の中で悪態をつきつつそんな気持ちごとグラスの中身と共に喉の奥へと流し込んでいた。
「大吾さんが良ければ乗せますよ」
「飲酒運転だ」
「一口ですよ」
「悪いやつ」
もっと悪いことしてますよと呆れたように笑われる。苛立ちは流し込んだはずなのに気持ちは晴れず峯に対してつい嫌なやつを演じてしまう。言い返そうにも言葉が浮かばず黙っていると、峯は温くなった炭酸水のグラスを手に取り中身を一気に飲み干した。
「そろそろ送ります」
「本当に運転するのか」
「大丈夫ですよ、あなたを乗せるんですから危ないことは出来ません」
家を出る準備を始める峯を座ったまま眺め続ける。こうなった峯は頑なだ。グラスを片付け上着を拾い、急かすようにこちらを立たせながらも緩んだ襟元をさりげなく直して駄々を捏ねる酔っ払いをあるべき姿にしてくれる。飲みますかと新しいグラスに炭酸水を注ぎ、この時間ならゆっくり休めるでしょうと言って腕の時計を軽く見る。
危ないことはしない峯。確かに一口程度で影響が出る訳ではないのかもしれない。テールランプの群れに紛れて峯と走る静かな夜。ビジネス街が織り成す光の揺らぎを眺めていたはずなのに、気づけば見慣れた景色の中で何事もないままおやすみなさいと言われ走り去る峯の車を見えなくなるまで見つめ続けてしまうのだ。
「帰りたくないって言ったら迷惑か」
「何かありましたか」
「危ないことはしないんだろ、だったら今日はこのまま寝て明日の朝に送ってもらうのはだめか」
言ってしまったあと、お前は休みじゃなかったなと吐露してしまったものを誤魔化そうと無理やり話を打ち切っていく。浮かれた気分は消えているのに頭と心は言葉を選べずぐちゃぐちゃとしたままで酔っているのか醒めているのかわからない。恐る恐る峯を見れば珍しく目を丸くしたまま動かずにいる。沈黙がだんだん辛くなり、帰ると諦めて口に出すと峯は突然アラームの設定時間を告げてくる。
「朝、結構早いですよ」
「頑張って起きる」
「朝食だってろくなもんないです」
「別になくてもいい」
「助手席で腹鳴らすのはやめてください、笑ってしまって事故にでもなったら大変だ」
子供じゃないと返すとすみませんと笑いながらシャワーと湯船どちらがいいかと聞いてくる。せっかく直された襟元を再び緩めながらもう一度、本当に泊まっていいのかと確認する。
「ベッドは大吾さんが使ってください」
「タオルも寝間着も何もかも用意してもらって悪い」
「あなたにならいくらでも」
「でも何で急に泊まっていいって言ったんだ」
「言ったでしょう、そんな顔のあなたを夜に放ちたくないって」
危ないことはしたくないんですと言って峯はリビングを出ていった。浴室の準備が終わるまでの数分間、峯の気配がないことを確認してそっと顔に手を当てる。どんな顔をしているのかはわからないが一刻も早く戻したい。頬に熱を感じるが酔いが醒めていないのだと思いたい。
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