京都取材と嘯いて、友人と京都の街中を散策することがある。私とて大学時代は毎日京都に通っていたのだし旅先案内人が必要な訳ではないのだが、まあごっこ遊びのようなものだ。
今日は昼過ぎに火村と待ち合わせてラーメン街道の有名店に並び、満腹の腹ごなしに一乗寺の有名書店を覗きに行く予定だった。本屋で思う存分散財するつもりなので、丈夫なつくりの帆布のトートバッグを持参してきている。
そんな一日のスタート地点、ラーメン屋に並んでいる時に事件は起こった。キャリーケースを引いた男性の外国人観光客が、列に並んでいる私に何事か話しかけて来たのだ。前後の客もいるのに、なぜか私を狙い撃ちである。
それでも英語であれば、友人にサムライイングリッシュとからかわれながらも何とかつたなく対応することはできる。しかし目の前の外国人は明らかに英語ではない何某かをしゃべっていた。となると私にはお手上げ、パニック状態である。
『✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕?(聴き取り不能)』
「あ、あの……」
はたしてどうしたものかと冷や汗どころか脂汗が滲み始めたあたりで、隣から聞き慣れたバリトンが聞き慣れない音を発した。
「Brauchen Sie Hilfe?」
私より一歩前に進み出た火村が、私の目の前を陣取っていた外国人へ流暢に話し掛ける。外国人の顔がぱぁっと明るくなり、私に向かって話していた時より明らかに早口になって捲し立て始めた。相変わらず何語かは判らないが、とにかく火村が対応できる言語のようである。火村がいてくれてよかった、と柄にもなく彼の存在に感謝した。しかし、対応する気があるなら私が最初に話しかけられた時に進み出て欲しかったが。
友人と観光客の言葉のラリーは意外と長く続く。時折道を指さしていることから、どこへやらか道案内をしていることだけは判った。それにしても、よくこんなに淀みなく会話ができるものだ。一向に聞き取れない異国語を苦もなく操る横顔は新鮮で、こんな光景を目の当たりにすると、少し癪だが友人の優秀さを認めざるを得ない。
それから二言三言の言葉を交わして、観光客は感極まったように男性は火村の手を握ってから満面の笑みでその場から離れて行った。聞いていただけの私が気疲れしているというのに、当の火村は涼しい顔をしている。
「……なあ、今のって何語やったん」
「え? ああ、ドイツ語だよ。少し低地訛りがあったけど」
「そんなとこまで判るんか。さすがは語学堪能な火村センセや」
ははぁ、と感心しきった声が出てしまった。もはや癪などと言っている場合ではない。純粋にすごい。
「有栖川先生もラジオ講座でも聞いてみたらどうだ? 勉強法なら教えるぜ。大阪も外国人観光客が増えたって言ってただろ、意外と出番があるかもしれない」
「万博も無事終わってその可能性は縮小傾向や。気持ちだけ貰っとくわ」
実は万博の期間中、一瞬盛り上がって先輩作家である朝井小夜子と一緒に語学学習アプリを入れたものの、一週間で飽きたことは言わないでおく。呆れられるに決まっているので。
◇
私と火村英生は付き合いの長い友人である。二十歳の春に知り合って友人となって以来、大きな空白もなく気安く親密に付き合いを続けてきた。おそらく共通の知り合いである第三者だって、私たちの親密さを否定はしないだろう。
しかして私と火村の間が何もかもあけすけなのかというと、そういうわけではない。たとえば互いの過去や家族について語ることは少ないし、色恋の話が俎上に上がることもない。必要があれば話題に出すこともあるし禁忌という訳ではないのだが、なんとなくそうなっている。
その慣例は、今のところ私にとって都合のいいものであった。なぜなら私はこの偏屈で無愛想でそのくせどこか放っておけない危うさを持った友人に、出会ったその日から片想いをしているのだ。
だから今日のようなアクシデントは困る。困らないけれど困る。火村の、知ってこそいるものの滅多にお目に掛かるのとのない一面などを見せられると、年甲斐もなく胸が高鳴ってしまうのだ。
黄色い看板をした老舗のラーメン屋に入ったのは二度目で、今回はシンプルな中華そばではなくチャーシューメンを頼んだ。丼一面に、麺が見えないほどのチャーシューが乗っている。そのボリュームにうきうきと気分が上がった。
恋愛小説などではよく恋に夢中になると胸がいっぱいになって食事も満足に摂れなくなるという描写があるが、あれが私には判らない。好きな男に胸を高鳴らせていても食べ物を目の前にすれば腹は減るし、チャーシューメンはうまい。
火村が中華そばとともに頼んだ餃子とチャーシューをトレードして、鶏の旨味が凝縮されたスープを飲み干して店を出る。ラーメンのスープを完飲するのは健康上望ましくないと知ってはいるのだが、うまいラーメン屋のスープというのは飲まずにはいられない味をしているものだ。まったくもって罪深い。
ラーメン屋から目当ての書店までは徒歩十分と離れていないので、ラーメンの感想を言い合っているうちに着いてしまう。青く古びた味のある看板を掲げた、一乗寺の名物書店のドアをくぐればそこからは二手に分かれて個人行動だ。お互い乱読なので読む本がまったく被らないとは言わないが、私と火村では読書の趣味が違うので、一緒に本屋に行くとだいたいこうなる。
火村と離れた私がまず向かったのは、この書店の名物である書斎コーナーだ。幻想文学とシュルレアリスムについての書籍が並ぶ棚は圧巻だし、正直な話あまり売れ線とは言えないジャンルなのに、私以外の客も興味深そうに本を手に取っている姿を見られるのがよかった。
しばらく書斎コーナーで本を物色してから店内をくまなく見て回る。棚が独特なつくりをしているからつい熱中してしまうのもこの書店の特徴だ。人文書のコーナーでうっかり人とぶつかりそうになって顔を上げると、相手は火村だった。友人は既に四冊ほどの本を小脇に抱えていて、別に購入冊数で勝負しているわけでもないのに何だか負けた気分になる。
あとで、というアイコンタクトをすませて、海外文学の売り場と旅行にまつわる本の売り場で二冊ずつ、最初に覗きに行った幻想文学を三冊の計七冊を選んだところでレジに向かった。これ以上はトートバッグに入らないだろう。
会計をしてから火村の姿を探すと、彼は学術書のコーナーにいた。先ほど抱えていた本が手許にないので、おそらく会計をすませたのだろう。
真剣な面持ちで棚を見分している火村の姿は、なんとも見栄えがいい。店内の少し離れたところにいる二人連れの女性客が、本棚ではなく火村を見ながら何事かをひそひそと話している。男ではなく本を見ろ、と苛立ちが湧いて、女性たちの視線を遮る角度から火村へと声を掛けた。
「すまん。待たせたか?」
「そんなには。もういいのか?」
「ああ、会計終わったところや」
それなら出るか、と連れ立って店を後にする。女性たちから声を掛けられることはなかったのでほっとした。
「どうする、コーヒーでも飲んでいくか? このへん喫茶店多いから、煙草吸えるところもあるやろ」
「それもいいけど……お前がよければうちに来ないか? 今日、婆ちゃんがいないんだよ」
思わぬ誘いに心臓が跳ねた。今日は家に誰もいないの、と意中の女子から誘われる中高生さながらだ。もちろん火村に他意はなく、そして私は中高生ではない。
「婆ちゃんがおらんからなんやねん」
「いや、出がけに桃が吐いてさ。猫たちだけで留守番させてるのもな」
なんとも真っ当な、そして火村英生らしい理由である。思春期めいた考えを持ったことを私は反省した。
「吐いてたって、置いてきて大丈夫だったんか?」
「毛玉の吐き戻しだから心配するようなことじゃないんだけどさ」
「俺は飼ったことないから知らんけど、猫ってそんな吐くもんなんか?」
「まあそうだな、珍しくはない。ただ、もし続けて吐いてたら心配だから」
実は私はまだ返事をしていなかったのだが、火村の中では私を連れて帰るのは決定事項のようだ。北白川までの道中、私は猫の吐き戻しについての知識を多く得ることになった。動物と暮らすのは大変だ。一応マンションの規約としてはペットは許可されているが、おそらく私が動物を飼うことはないだろう。
吐き戻しについての講義から猫の生態レクチャーに話が及んだあたりで下宿に到着した。玄関を開けると、噂の渦中にあった桃がマットの上に香箱座りで鎮座している。素人目には元気そうでホッとした。飼い主である火村も頭をひと撫でしただけで通り過ぎて行ったので、目に見えた異変はないのだろう。
「先に二階に行っててくれ。吐いてないか見てくる」
「おう」
応えてそのまま二階に上がって行くと、階段の途中に茶トラ柄の体の瓜太郎が転がっていた。とんだ猫屋敷だ。しかしながら火村はと言えば、これでまだ猫を増やしたいと夢見ているらしいのだから、その猫馬鹿ぶりにはまったく恐れ入る。
二階に上がって相変わらずちらかった六畳間に足を踏み入れると、慣れ親しんだ煙草の匂いが鼻をついた。匂いがこもっているので窓を開けて換気をすると、少しはマシになる。何をするでもなくしばらくそのまま窓辺に倚っていると、見回りを終えたらしい火村が部屋に入ってきた。
「何か飲むか?」
「何かって、何があんねん」
「冷たいのは麦茶、コーヒーはホットだな」
品数の少ない喫茶店である。六月の湿気をはらんだ気温にホットコーヒーを飲む気にはなれなかったので麦茶を所望した。客を客とも思わない部屋の主は私を台所に立たせることもあるが、誘った手前か今日はホストとしての役割を果たしてくれるらしい。
窓辺から離れて、いつも使わせてもらっている座布団を壁際から発掘する。適当なところに置いて座ると、盆にふたつのグラスを乗せた火村が台所から戻ってきた。感心なことに、麦茶の入ったグラスには氷が浮かんでいる。
火村が座卓の前の座布団に腰を下ろし、畳の上に盆を置いた。グラスを手に取って口につけると、気づかないうちに喉が渇いていたのか一気に飲み干してしまう。
「お替りはセルフサービスで頼む」
「サービスの中途半端な喫茶店やな」
「ドリンクバー制なんだよ。茶菓子があるけどどうする?」
そう言ってすいっと目前に出されたのは、下呂温泉の土産と思しき温泉まんじゅうの化粧箱だった。とはいえ未開封ではなく、既に半分ほどなくなっている。
「なんや君、いつの間に温泉なんか言っとったんや」
「俺じゃねぇよ。婆ちゃんがお隣さんから貰ったんだ」
「ははぁ、それで婆ちゃんと半分こしたっちゅうわけやな」
「お見事な推理だ、さすがは有栖川刑事」
まんじゅうをひとつ手に取った火村がヒュウと口笛を吹いた。こんなもの、何が推理であるものか。
私も火村に倣ってまんじゅうの包み紙を開けると、中からはカエルの顔をした緑色のまんじゅうが現れた。予想外の形をしていたので少し怯む。
「これ、抹茶味か?」
「緑だから抹茶味とは安直だな、作家先生。枝豆らしいぜ」
「安直で悪かったな。下呂って枝豆が名産なんか?」
「そこまでは知らねぇよ、そういうのはお前の方が詳しいだろ」
カエルの顔を割ろうかどうか悩んで、そのままかぶりつく。しっとりとした生地に、ほんのりとした甘さの餡がたっぷり詰まっていてうまい。後を引かない甘さだ。心の中で私も、顔も知らないお隣さんに礼を述べておく。
「そういや婆ちゃん、今日は旅行かなんか行ってるんか?」
「日帰りだけどな。町内会のバスツアーでさくらんぼ狩り」
「さくらんぼってこの季節なんや、知らんかった」
「夕方には帰ってくるぜ。顔見せてけよ」
火村の提案にううんと頭を悩ませた。急いで帰らねばならないほど詰まっている仕事はないが、今日は婆ちゃんがいないと聞いて手ぶらで来てしまった。もっとも、婆ちゃんはそんなことは気にしないだろうが、なんとなくおさまりが悪い。
まんじゅうを食べながらどうしたものかと悩んていると、階下から玄関の呼び鈴の音がした。どうやら客人のようだ。
「悪い、ちょっと出てくる」
言って火村が立ち上がる。階段を降りていく足音が響いてから、玄関を開ける音がした。何事かを話し込んでいる気配がするが話の内容までは聞こえないし、そもそもそんなものに聞き耳を立てるほど下品でもない。窓から時折吹き込んでくる風にあたりながら、火村に言われたとおり麦茶のお替りを勝手に淹れてふたつめのまんじゅうを堪能した。
部屋の主が戻ってきたのは五分ほど経ってからだ。階段を上がってくる足音が少し荒いことに、おやと思う。
「なんや、何かあったんか?」
「ああ、まあな」
それだけ言ってどっかりと座布団の上に胡座を組み、残っていた麦茶を一気に飲み干した。これは機嫌が悪そうだ。
こちらから話し掛けることはせず麦茶をちびちびと飲みながら友人の様子を窺っていると、己の発する空気の不穏さに気がついたのか、火村が居心地悪そうに頭を掻いた。そして少し考え込む様子を見せてから、ぼそりと「不動産屋だよ」と呟く。
「不動産屋って……ああ、婆ちゃんが前に言ってた」
「ここの土地を売ってくれって話だな。家主がいないって言ってるのにしつこい上に、婆ちゃんに対して失礼なこと言いやがって」
それはそれは、さぞ大家想いの店子の怒りを買ったことだろう。思わず不動産業者に合掌してしまう。
京都といえば終わりの見えないインバウンド需要で、地価もずっと高騰していると聞く。以前婆ちゃんはここを売るつもりはないと言っていたが、不動産屋も退かないようだ。
「もしここの下宿がなくなるとしたら、火村センセはどうするんや?」
与えられた部屋だけでなく他の部屋にもあふれている火村の蔵書に想いを馳せる。これだけの荷物量を移動させるとなると、引っ越しもひと苦労だろう。私も今の住居である夕陽丘のマンションに越す時にはなかなか大変だった。
「まあ、全部婆ちゃんが決めることだし俺から何も言うつもりはねえよ。でもそうだな、もし婆ちゃんが下宿を閉めることになったら……」
──お前、一緒に暮らさないか。
まったく予想していなかった提案が飛び出て、私は思わず目を剥いた。今までそんな話をしたことなど一度もなかったのに、急に何を言い出すのだ、この男は。
「待て、どういう経緯でその提案に行き着いたんか説明してくれ」
「いや、お前相手なら気を張らなくていいし、本がどれだけ増えても問題ないだろ。それにある程度蔵書の共有もできるし」
「一人暮らしでも問題なくやっていけるやろ、君なら」
別に私の生活能力が著しく低いということはないが、家事能力はおそらく火村の方が高いだろうし、わざわざ私と一緒に暮らす必要性が感じられない。一人暮らしが淋しいなんてかわいげのある性格もしていない。
まさか、もしかして、利便性以外の理由で私を必要としているのだろうか──そんなふうに勘繰って一人で胸を高鳴らせそうになった時、火村が口を開いた。
「お前と暮らすとなると、お前は家で仕事をするだろ」
「まあ……そうやな」
「猫たちが淋しがらなくて済む」
なんとも猫馬鹿な火村らしい話であった。思わず気が抜ける。
「俺は別に、猫の面倒を見るために作家やってる訳やないぞ」
「誰もそんなことは言ってないだろ、合理性の問題だよ」
「何が合理性や」
呆れたようにこれみよがしな溜め息をついてやると、火村が両手を上げて降参の意を示した。無茶苦茶を言っている自覚はあったらしい。
自分たちが話題になっていることを察したのか、玄関にいたはずの桃がニャアと声を上げながら部屋に入ってくる。桃を抱き上げながら「冗談の判らない作家先生だな?」などと抜かすので、人の心臓を無駄に跳ねさせた恨みを込めてその優秀な脳みその詰まった頭をはたいてやろうかと思った。
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