千代里
2026-06-12 12:04:25
5884文字
Public リーブラ短編
 

【リーブラ短編】ノエとオデットと香りのはなし


「ねえ、知ってる? この前、イングルサイドのあたりに出たらしいよ」
「出たって、何が出たのかしら。幽霊?」
「バカね、あんた。こんな新しい街に幽霊が出るわけないでしょ」
 ぺちゃくちゃと賑やかなおしゃべりをしているのは、オデットの傍らで、せっせと汚れた服を洗っている女冒険者たちだ。
 イシュガルドに最近できたばかりの冒険者居住区『エンピレアム』。
 その噂はエオルゼアだけでなく遥か東方にも広がり、各地の冒険者たちがこぞって居住の申請を出していた。
 エンピレアムを擁するイシュガルドは、これまで外への門扉を閉ざしていた国だ。そのため、他よりも強く関心を寄せられているのだろう。あまりの人気に、建物の建築の方が追いついてないと聞く。
 目の前の冒険者たちも、そしてオデットも、エンピレアムの建設に先駆けた蒼天街の復興に尽力したため、優先的にこの新しい居住区で暮らす権利を得ていた。
 復興作業からの付き合いもあって、周辺の冒険者は顔馴染みばかりだ。自然と、日常の様々な雑用を一緒にこなす場面も増える。
 今日も、オデットは彼女らに誘われて、温泉の湯水を引いてきた洗い場で洗濯に勤しんでいた。
「幽霊じゃないなら、いったい何が出たというの? あ、わかりましたわ! 光の戦士様でしょう!」
「違う違う、そういうのじゃないのさ。確かに、あの人は時々蒼天街に顔を出しては、お祭りの準備を手伝ったりしてるけどね」
「それなら、何がイングルサイドの辺りに出たのですか?」
 質問をしながら、オデットは頭の中でエンピレアムの地図を開いていた。
 イングルサイドとは、エンピレアム内にある建物の一つだ。
 冒険者向けに貸し出す部屋を複数有する集合住宅で、遠くからでもよく見える高層建築である。
 こちらも大層な人気のようで、貸し出しが開始した同時に、一階付近は即座に埋まったらしい。
 オデットの質問に、問われた側のルガディン族の女冒険者は「ふふーん」と勿体ぶって見せると、
「幸運を運ぶ青いゾウさ」
……幸運を運ぶ、青いゾウ?」
 一字一句そのまま返したものの、言葉が含む胡乱な気配は消えなかった。むしろ増加した気がするくらいだ。
「エンピレアムにはね、時々真っ青なゾウの着ぐるみを身につけた、背の高い御仁が姿を見せるんだよ。それを見た人は幸運だって、最近冒険者の中でちょっとした噂になってるのさ」
「どっちかっていうと、それ、不審者の類ではないかしら?」
 横で聞いていた、エレゼン族の女冒険者が至極もっともな指摘を入れる。
「エンピレアムに入るには、衛兵さんに通行証を見せる必要があります。怪しい人は、入れないと思いますよ」
「オデットもあんたも、夢がないねえ」
 オデットとしては当然の指摘をしたつもりだったのだが、話の口火を切った彼女は、やれやれと肩をすくめて見せる。
「あのゾウの正体は誰も知らない。でもね、間違いないよ。あれは、高貴な身分の方がお忍びで来ているのさ」
 オデットも、話を聞いていた他の冒険者も、揃って瞳をぱちくりとさせる。
「お忍びに着ぐるみを着たってことですの? 逆に目立ちそうな気がしますわ」
「その食い違いがわからないほどに世間知らずなのか、あるいはそうでもして顔を隠さないといけないほどの有名人なんだよ、きっと」
「その方が高貴な身分の方と、なぜ言い切れるのです?」
 すると、語り手の女冒険者は「ふふん」と鼻を鳴らすと、
「あの着ぐるみからはね。……そうそう嗅いだことのない、途轍もなく良い匂いがしたんだよ」
「良い匂い……といいますと、香水でしょうか?」
「そうさ、オデット。イシュガルドの貴族なら間違いなく香水の一つや二つは嗜んでるもんだ。間違いない、あれは貴族の坊ちゃんだけがつけるような匂いだよ」
 力説する女冒険者をよそに、オデットはすんすんと鼻をひくつかせてみる。
 もちろん、そこには件の青いゾウは見当たらない。洗い場の石鹸の香りと、温泉から引き込まれた湯水の独特の匂いが鼻先を掠めるだけだ。
 だが、オデットは、青のゾウの臭いを知りたいわけでも、石鹸の芳香に鼻を浸したいわけでもなかった。
 彼女が思いを馳せていたのは、ここにはない過去の香り。
 かつて、イシュガルドの各地を巡ったオデットは、いくつかの貴族の家を訪れる機会を得た。
 そこでは、一体どんな香りが漂っていただろうかと、振り返ってそのときの匂いを思い出そうとしていたのだ。
 そして、もう一つ。
(イシュガルドの貴族といえば、兄さんやルーシャンさんもそうなるのでしょうか)
 だが、女冒険者が言うような「途轍もなく良い匂い」という言葉も、二人には相応しいように思えない。どちらかというと、彼らから感じるのはもっと親しみのある、嗅ぎなれた香りのように思える。
 貴族というには複雑な立場の二人の顔を思い出し、再びオデットは鼻をひくつかせてみせた。
 
 ***
 
 洗濯を終えて家に戻ったオデットは、固く絞った洗濯物を暖炉の前に吊るしていく。外に洗濯物を干すと、イシュガルドの寒気に晒されてしまうと、乾く前に凍りついてしまうからだ。
「そういえば、濡れた洗濯物を干すと匂いが籠ると聞きましたが、この家はどうなのでしょう」
 普段から家にいる機会が増えるようになったこともあり、部屋の匂いを気にする場面はほとんどなかった。
 試しに力一杯息を吸い込んでみたが、鼻に入り込んできたのは暖炉でよく燃えている薪の匂いばかりだ。
 匂いの調査は中断し、洗濯物を全て吊るし終わった頃。折よく、入り口の扉の錠前が動き、開閉の音と共にもう一人の住人が帰ってきた。
「兄さん、おかえりなさい」
「ただいま、オデット」
 戻ってきたのは、オデットが兄と呼び慕う青年――ノエだ。
 今日は、雲海に浮かぶ島々で作業をする人の護衛のため、朝から出かけていた。
「兄さん、今日は怪我はしていませんか?」
「大丈夫、傷ひとつないよ。ディアデム諸島も蒼天街を復興した頃に比べれば、魔物の数も減ってきていてね。そろそろ冒険者を雇わなくてもいいかもしれない、と言われてきたところだよ」
「でも、流石に護衛なしで歩くには危険すぎませんか?」
「僕もそう説明したんだけど、平気だって言われてしまったんだ。あとで、彼らが無茶なことをしないよう、ギルドの人たちに伝えておかないと」
 ノエの言うように、雲海の島々はいまだに人智の計りえぬ未知を抱えている。武器を持たぬ人が散歩気分で歩くにはふさわしくない、とオデットも思っていた。
 雲海の島々を行く魔物が比較的おとなしいのは、これまで人を見る機会が少なかったからである。
 見慣れていない生き物に警戒をして、積極的に人を襲わない個体が目立っていたが、いずれ慣れてしまえば、危険度は雪原や森林の魔物と変わらなくなるだろう。
「兄さん、荷物を受け取ります」
「ありがとう、オデット」
 ノエに駆け寄ったオデットは、彼から装備や荷物を預かり、机へと移していく。重たい武器や防具以外を少しずつノエの体から外していくのは、彼が家に戻ってきた後、無事に日常に帰れたことを確かめる大事な儀式のようなものだ。
 最後にノエから手袋を受け取ったオデットは、ふと今日の会話を思い出し、すん、と鼻をひくつかせてみた。
 血の臭いはしない。感じるのは、ノエの装備に使われている獣の革や、剣や盾に使われている金属が混じり合って生まれた、独特の匂いぐらいだろうか。
 外を歩いてきたためか、凍りついた空気がまとう澄んだ香りと、運動の際に生じる微かな汗のにおいも溶け込み、それらが渾然となって、ノエという人を形作る匂いとなっている。
「どうかしたのかい。何か嗅いでいるようだけど、もしかして、汗臭いかな」
 服の袖口に鼻を近づけ、くんくんと自身の体臭を嗅いでいるノエ。
 眉を寄せるノエに、無駄に気を使わせてしまったとオデットは慌てる。
「あっ、そういうわけではないんです。今日、匂いに関する話をちょっと聞いて、それで気になって」
 ついでに、オデットはエンピレアムを訪れる、幸運を運ぶゾウの話をノエに話して聞かせた。ノエも、この噂話は耳にしたことがあったらしく、得心したように声を上げていた。
「それで、着ぐるみから香水のような良い匂いがしたから、きっとイシュガルドの貴族の人がお忍びで来ているだろうって話になったんです」
「なるほど、そうだったんだね。僕が思うに、あの人は、ただの貴族じゃなくて、騎士として戦ってきた経験がある人だと思うよ。一度見かけたことがあるんだが、体の運び方が神殿騎士の人たちと全く同じだったからね」
 オデットでは気づかない着眼点に、彼女は感嘆の声を漏らす。
 話しながらも、ノエは身につけていた装備を全て外して、鎧下とズボンだけの姿になると、暖炉のそばへ腰を下ろした。
 これまでオデットの鼻をかすめていたノエの匂いに、暖炉の灰と燃える木の香りが混ざる。
 それは、オデットの好きな匂いでもあった。
(だって、兄さんと一緒に寛いでいるときの匂いですから)
 いそいそとノエのそばに寄って、膝を抱えてちょこんと座る。ソファに座るのではなく、暖炉前の絨毯に直に腰を下ろす、ちょっとばかり行儀の悪い寛ぎ方がオデットは好きだった。
「兄さんからは、幸運のゾウさんのような香水の匂いはしませんね」
「つけたことがないからね。小さいころは服に吹かれていたみたいだけど、家を出てからはさっぱりだ」
 嗅ぎなれない匂いがあれば、野生の獣はすぐに気がつく。長らく屋外で生活をしていたノエには、香りを纏う必要がなかったのだ。それが習慣となり、今も香水やお香の類を手に取ることはない。
「香水が気になるなら、ルーシャンさんに教えてもらったらどうだい。あの人は、グリダニアにいた頃から使っていたはずだよ」
「ルーシャンさんは、いつも何だか良い匂いがしてましたものね」
 依頼のない日に限ってだが、彼は自分好みの香りを纏うことを楽しんでいるようだった。そんな彼のこだわりを指して『スカしている』と揶揄する同業者もいたが、どこ吹く風だったことをオデットも覚えている。
「でも、わたしは自分が香水をつけたいわけではありませんから。それに、最近はサルヒさんがルーシャンさんの香水を選んでいるそうですよ」
「そうだったんだ。どうりで、この前会った時いつもと少し匂いが違うなと思ったんだ」
「サルヒさん曰く、旦那様が違う匂いをつけてきたらすぐわかるように、だそうです」
 まるで恐妻家のような言い分ではあるが、ルーシャンはルーシャンでこの小さなやきもちを楽しんでいるようだった。
 サルヒの精一杯の束縛に付き合っているのも、近頃少しばかり距離感の変わった、彼らなりの新たな歩き方なのだろう。
「ルーシャンさんも、サルヒさんが何を選ぶのか、待っているような感じでもあったからね。サルヒさんの好みを知りたいと思っているのかもしれない」
「サルヒさんも、選んでもらっているのでしょうか」
「かもしれないね。お互い、ゆっくりできる時間も増えただろうから」
 今までは冒険者として荒事に向かうことが多いためか、サルヒが香水をつける場面は皆無と言って等しかった。だが、言われてみれば、近頃外で会う時は上品な香りがふと彼女の後を追っていたように思う。
……兄さんは、わたしも何か香りをつけたほうがいいと思いますか?」
 サルヒに限らず、イシュガルドの街を歩けば、上流階級の婦人や令嬢は、誰もが花のような匂いを纏っている。
 対して、オデットは依頼を受けて冒険者として戦う場面もあるので、匂いについてさしたる拘りは持っていなかった。
 だが、もしノエに臭いと思われていたのなら、暫く立ち直れなくなってしまうだろう。
 そんな不安を抱えて聞いたものの、ノエは不思議そうに瞳を瞬かせただけだった。
「今のオデットは、十分にいい匂いがしているよ。目を閉じていても、君のそばにいるとわかる匂いだ」
「そうですか……?」
「さっきまで洗濯をしていたんだよね。だから、今は石鹸の香りが強いけれど、朝起きた時はオデットがこの前作っていたサシェの香りがする。枕に詰めている香草の香りもね。それから、朝ごはんを作るときの卵や小麦の匂いも少し香ってるよ」
 話しながら、言葉通りノエは目を瞑る。ちょうど、今朝の風景を思い返すかのように。
「最近のオデットからは、パンや焼き菓子の香りもする。サルヒさんと料理の練習をしてるんだなって、すぐにわかるよ。その匂いで、家に帰ってきたんだな、っていつも思っているんだ」
 オデットが想像していたものとは少し異なるが、少なくとも自分の匂いを感じるだけで、ノエは安心を覚えるらしい。
(それなら、よかった)
 どうせならと、彼の二の腕に頭を預けてみる。そうすると、少し遠かったノエの香りがより濃くなる。
 薪の匂い、煙の匂い、革の匂いに微かな草木の匂い。
 それらを吸い込みながら、オデットは思う。
(イシュガルドに着いたばかりの頃に比べたら、兄さんの匂いはずっと穏やかになっている)
 あの頃のノエは、常に気を張っていた。
 オデットのこと、自分のこと、出会った人々のこと、そしてルーシャンを筆頭とした仲間のこと。
 考えなければならないことが山ほどある中で、彼はいくつもの選択を掴み、同時にいくつかの選択を切り捨てた。
 そんな日々の只中にいた彼から感じたのは、冷え切った金属のような冷たさを孕んだ、厳しさが混じった、言葉にしがたい気配だった。今思えば、あれも一種の匂いと言えるかもしれない。
 けれども、傍にいる彼からは、あのときの冷たい気配は薄い。鼻の奥に突き立つような冷たい匂いを、オデットは感じない。
「兄さん」
「うん?」
「香水は、なくてもいいです。わたしは、今の兄さんの匂いが好きですから」
 匂いの話にかこつけて、頭をぐりぐりと二、三度押し付ける。それからパッと離れて、オデットは立ち上がった。
「兄さん、お腹空いてませんか。パンの匂いがするわたしが、軽いものを用意してきますね」
「お願いするよ。美味しい匂いのオデットさん」
「ふふ。任せてください」
 ノエの視線を感じながら、オデットは厨房に向かう。すっかり馴染んだ香ばしい香りが、長い髪からふわりと漂った。