暗闇にデジタル時計の数字が滲んでいる。上原は捜査一課の自席で膝を抱え、ぼうっと光るそれを見つめていた。数字は滑らかに変わっていく。午後11時38分56秒。57、58。次々と線上に明かりが灯っては消えていく。蛍みたいだ。詮ない感想が脳裏に浮かんだ。
初めて蛍を見たのは小学一年生の時だった。丁度ほたる祭りがあるとかで、大和の家族と連れ立って向かったのだ。夜の河原では屋台のライトに負けじと、あちこちで黄色い光が大きく瞬いていた。その中で私は川の手前の草むらに、かぼそい光を見つけた。光るタイミングは震えるように不規則で、明るさも他より弱かった。自信なさげなその光の持ち主が私はどうしても気になって、掴んでいたお母さんの服の裾を離し草むらに近づいた。そうっと覗き込むとその主は驚いたのか、ふわふわと川の方へ飛んでいった。
「待って!」
せっかく見つけたお気に入りの子だった。夢中で追っているうちに、気がつけば草むらを抜けて河原へ出ていた。慌てて帰ろうと振り返っても、背の高い夏草に視界が遮られてどこから来たのかわからなかった。どうしよう。川の水音がやけに大きく聞こえる。とにかく川の方には危ないから行っちゃ駄目だと、目の前の草むらに突っ込んだ。青々とした葉が不意に腕に当たって体が跳ねる。ざわざわと揺れる草は手招くお化けみたいで、私は堪らずにしゃがみこんだ。お父さんとお母さんのところへ帰りたいけれど、あの真っ暗闇から何が飛び出してくるかわからない。ならもう一歩も進みたくなかった。ぎゅっと目をつぶって耳を塞ぐ。剥き出しの肌を虫や草がなでていく感触がして、気持ち悪さに私は一層身を縮こめた。はやく誰か来て。だれか。目に涙が滲む。大声を出せば気がついてくれるかな。
そんな時だった。
「由衣!」
温かくて力強い手が私の腕を掴んだ。
「かん、ちゃん......」
みるみるうちに大粒の涙をこぼし始めた私の頭を、「おーおー怖かったな」と敢ちゃんはぐしゃぐしゃにかき混ぜた。普段はちょっと痛くて嫌なのに、その日は見知った感覚にますます涙が止まらなくなった。しゃくり上げる私の手を握って、敢ちゃんは草むらをずんずん歩く。あんなに不気味だった草のざわめきでも、敢ちゃんの後ろから見ると平気だった。引っ張ってくれるこの手があるんだったら、どこだって行ける。繋いだ手の温もりも、夕闇にほわりと浮かんでいた。
なのに、なぁ。指先に視線を落とし、指を一本一本倒してゆっくりと握る。手の平には自分の爪が当たるだけだった。
長野県庁の9階、捜査一課があるこのフロアは、消灯され藍色に沈んでいた。その一角に一際深い影が落ちている。大和敢助の席だ。彼は恩師の死の謎に関わっているであろう男を見つけたと言い残し、そのまま消息を絶っている。彼がいなくなったとき雪深かった山々は、雪が溶け桜が咲き、ついには田植えが始まった。それでも彼は帰ってこないままで、上原は日に日に暖かく緩んでいく空気が恐ろしかった。
彼の自席は上原が毎日埃を払っている。上原はそちらの方向に目をやり、大和が座っている光景を思い浮かべた。電話の受話器を肩で挟みながらメモをとる姿、上原が淹れたコーヒーを飲むときに一瞬だけ上がる口元、上官からの指示に臆さず異を唱える姿。上原は椅子に背を預けて目を閉じる。くたびれた彼を迎え入れる準備はとっくにできていた。後は彼が捜査一課のドアを開けるだけなのに、その時はいつまでたっても来ない。今日も上原は飽かずに大和の姿を思い起こす。記憶の箱から取り出すうちに手垢が付き、彼の輪郭はぼやけてきていた。
大和の足取りが途絶えた山々には何度も通った。初めの1週間は昼も夜もなく探し回り、捜索が打ち切りになっても休日の度に足を運んだ。だが足取りが掴めそうな手がかりは一向に見つからなかった。「一人で行くのは危険だから」と付き合ってくれた同僚は一人、二人と消えた。
「いつまで探し続けるつもりだ」
捜査の隙間を縫って有休をねじ込む上原に、上司である警部は眉根を寄せた。
「いつまで、とは。大和警部を見つけるまでのつもりですが」
それ以外に何かあるのかと気色ばむ。そんな上原を警部は手で制した。
「こんなことを言うのも酷だが、これだけ時間が経っている以上、生存の可能性は極めて低いだろう。どこかで見切りをつけた方が良いんじゃないのか」
「警部は諦めろと仰っているのですか」
「いや、そこまでは言っていないだろう。俺にとっても失いたくない同僚であることは事実だ。しかしだな」
「でしたら私の休日くらい、僅かな可能性にかけさせてください」
失礼しますと一礼し、踵を返す。背中に刺さっていた周囲の視線が、ざっと他所へ逃げるのを肌で感じた。
この時に限った話じゃない。物言いたげな視線を向けられたり遠巻きにされたりと、皆が上原を腫れ物のように扱うのは珍しくなかった。昼休憩時の談笑に背を向ける格好で、上原は未宝岳の地図を広げる。捜索箇所の抜けをつぶさに探す上原に向けられる表情は、心配よりも憐れみの色が日に日に濃くなっていた。そんな彼らを、上原はどこか冷ややかな気持ちで見ていた。どうせ誰も大和のことを本気では考えていないのだ。諦めの膜を通して見る世界は翳っていて、いつでも夜が続いているようだった。大和がいなくなって数ヶ月たった今では、上原に同行するのは専ら諸伏だった。
今から2カ月ほど前、4月が始まってすぐの頃だった。その日も上原は諸伏と未宝岳を捜索していた。大和がいなくなった直後は膝まで積もっていた雪は、山の中腹でも既に溶けてきている。ぬるく緩みつつある空気が頬をなで、思わず唇を噛んだ。山道の両側には小ぶりなツツジが咲いている。前を行く諸伏の足元は跳ねた泥で汚れていて、普段の整然とした服装とは程遠かった。
大和がいなくなってから今日で何日だろうか。疲労を紛らわせるために、上原は頭の中でカレンダーをめくることに集中する。53日目だ。ということは四十九日を過ぎたのか。縁起でもない飛躍した考えが頭を過った。甲斐さんほどの優れた警察官も、ある日突然消息を絶ったのだ。あの時はひたすらに、「甲斐さんが徒に周囲に心配かけることをするはずがないのだから、何かあったに違いない」という思いが頭を占めていた。結果としてその考えは当たっており、彼は変わり果てた姿で見つかった。だとすれば、敢ちゃんも。雪解け水がつくるぬかるみに僅かに滑り、足に力を入れて踏ん張った。
「大丈夫ですか」
上原の足音の乱れに気がつき、諸伏が振り返る。
「大丈夫。少し滑っただけ」
「お疲れなのではないですか。昨日も時間を捻出するために、遅くまで根を詰めていたでしょう」
「なら、諸伏警部も疲れているんじゃないの?それを見ていたんだから」
おどけた調子で片眉を上げた諸伏は歩調を緩め、上原の隣に並んだ。今歩いている山道は片側が崖になっている。当然のようにそちら側を選んだ諸伏に、上原は「ありがとう」と口にする。諸伏は小さく首を振った。
上原は崖側の景色に目を移す。そちらは木々が開け、太陽が雪を照らしていた。眼下に広がる山肌は雪に覆われているが、ところどころ倒木の茶色や苔の緑色が覗いている。まばらに立つ木々の枝の先には桜のつぼみが健気に時を待っていた。
「ねぇ、諸伏警部。敢ちゃんが帰ってきたらどうする?」
さっきの不吉な妄想を振り払いたくて、そんな事を口にする。
「そうですね。まずは不在だった期間の分、馬車馬のように働いていただくのと、何か我々にご馳走していただくのは当然として」
諸伏はぎゅっと眉根を寄せた。
「随分遅い帰りでしたねと言ってやろうと思います」
数ヶ月間行方不明だった人間にかけるとは思えない憎まれ口が、却って上原の胸を突いた。口を開けば小競り合いが始まる彼ららしい日常を取り戻したいのだ、彼らは。
「私はね、敢ちゃんがいない間に何があったかをたっぷり聞いてもらうつもり。それで、もう一人で捜査はしないでほしいし、帰る時間とか毎回教えてほしい。敢ちゃんはうざがってそんなことしてくれないだろうけど」
大和が不満げに顔を顰めるのが目に浮かぶ。まだ目に浮かぶことに密かに安堵する。
「その時は私も加勢しますよ」
「心強いけれど、それはそれで敢ちゃん素直に聞いてくれるかしら。高明が行動を改めるなら考える、とか言いかねないわよね」
むしろ余計に頑なになりそうと考え、自然と口元が緩む。諸伏も穏やかな眦をしていた。良かった。まだ敢ちゃんの話をしても、痛々しい目でこちらを見てこない人がいる。
でも「いつまで捜索を続けるのか」という彼らの指摘もまた事実だ。敢ちゃんが向かった場所として有力視されている未宝岳を始め、周囲の山々まで必死に探した。「何か見逃したかも」と不安が離れず、雪のまばゆさに目を眇めながら同じ道を歩き回った。手袋をしていてもなお千切れるような指の痛みと、鼻の奥を突き刺す凍てついた空気は、この一度の冬でこれまでの人生と同じくらい味わった。だけど。捜索の初期に発見された、未宝岳の麓から数百メートル続く二人分の足跡以外は、何も見つからないままだ。これ程探し続けていても碌な成果がないのなら、これ以上捜索する意味は無いのではないか。ならばいっそ、他に敢ちゃんのためにできることをすべきなのではないか。
眼前の景色はやがて鬱蒼とした樹林に変わった。比較的平坦な道に深緑色の影が落ちている。正午を跨いだ時刻だが日差しは乏しく、積雪は一段と厚みがあった。靴越しに雪の重みを感じながらざくざくと歩を進める。
白と僅かな緑で彩られた世界のなか、上原は「新緑までは見たい」とふと思った。例えこの先も何一つ手がかりが得られなかったとしても、この雪が溶けて山々に春が来るまでは探し続けたいと。ならば今から二ヶ月くらいか。敢ちゃんがいなくなった日から数えるとすると、今が53日目だから、100日目くらい。良いのではないか、100日。100日目ならば何かが起こるのではないかと、理由のない期待が胸を満たした。
「諸伏警部」
やや視線を下げ、黙々と歩いていた諸伏が上原を見る。
「諸伏警部は、私が敢ちゃんを探さなくなって、たった一人になったとしても探し続けるの?」
諸伏は数度瞬きした。その僅かな時間がひどく長く感じた。
「ええ。敢助君を見つけるまでは」
二人の間を風が通り抜け、表層の粉雪が舞う。暫しの間、聴こえるのは足音と木々のざわめきだけだった。
「もし、この山の雪がすっかり溶けても、敢ちゃんが見つからなかったら」
諸伏の静かな瞳と目を合わせる。
「私、敢ちゃんを探すのを止めるわ」
諸伏の目が見開かれる。そんな諸伏に「100日たっても」とは言えなかった。諸伏に終わりの日をはっきりと見せたくなかった。
「ごめんね」
「何故、謝るのですか。貴方は何も悪いことをしていない」
「だって、あなたを一人にしてしまうから」
言葉はみぞれのように足下へ落ちる。いつの間にか歩みは止まっていた。
諸伏は上原がいなくとも、誰に何を言われようとも大和を探し続けるだろう。そのことを上原は始めから分かっていた。ただ突き刺さる視線に晒されるのが彼だけになると思うと居た堪れなかった。
「顔を上げてください。そのような表情をさせたいわけではありません」
丸みを帯びた声で諭され、上原は大人しく従う。
「一人で進むのは怖くないの?」
「どうでしょうか。恐怖は然程ありません。それよりも歩みを止めることの方がずっと恐ろしい」
三日月みたいな横顔だった。彼が行く道は大和のもとへ続いているのだと信じている、そんな凪いだ顔を見て、上原はたじろいだ。あなたがそう在るのなら、私はどうすれば良いのだろう。答えは見つからず、ただ黙って春が近づく山道を探し続けた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.