夏蜜柑
2026-06-11 11:55:18
4827文字
Public
 

パルデア式挨拶、ジョウト社員には刺激が強い

amlk(+zlcn要素あり)、数年後未来if、エク社のモブ研究員視点

 エクシード社パルデア本社に転勤してきて、まだ三ヶ月。
 正直、いまだに慣れんことだらけや――と、ジョウト出身の俺は今日もエントランスの自動ドアをくぐりながら思う。社食のメニューは油と香辛料が強いし、昼休みはやたら長いし、同僚は距離が近い。肩を叩く、腕を組む、なんなら頬を寄せてくる。エンジュの実家でそんなんやったら、近所中の噂になるで、ほんま。
 それでもまあ、仕事は楽しい。ラボの設備は一級品やし、何より今の社長――まだ若いのに、ラクア騒動後のボロボロの会社を立て直した、あのアメジオ社長の下で働けるんは、研究者として誇らしいことやと思っている。
 ただ、あの人、めちゃくちゃ怖い。
 いや、理不尽なことは一個も言わへん。むしろ部下思いで有名や。せやけど、無駄口を一切叩かんし、報告の数字が甘いと紫色の目がすうっと細くなる。あの逆三角のハイライトに見据えられると、背筋が勝手に伸びる。笑った顔なんて、入社以来一度も見たことがない。
 社長の隣には、いつも秘書のコニアさんがいる。グレーの髪をきっちり整えた、すらっとした美人さんや。スケジュール管理は完璧、社長の言いたいことを半歩先で察して資料を差し出す、絵に描いたようなできる女。転勤初日に右も左もわからんと廊下で迷子になってた俺に、「研究棟はあっちよ。……ついでに社食の場所と、コーヒーが美味しい自販機も覚えときなさい。三ヶ月後のあなたを救うから」と地図まで描いてくれたんは、何を隠そうこの人や。社長への報告は折り目正しい敬語やのに、俺らヒラ相手やと急に姉御になる。怖い社長の隣で涼しい顔して立ってるけど、新入りへの面倒見はうちの社で一番ええと思う。
 それから、総務部のジルさん。岩みたいにごつい大男で、最初は正直びびったけど、話してみたらえらい気のいい人やった。社長とコニアさんとは付き合いが長いらしく、三人が揃って歩いてると、なんや歴戦の部隊みたいな貫禄がある。
 その日、俺はエントランスのソファで来客対応の順番を待っていた。
 ガラス張りのロビーに、午後の光が斜めに落ちている。観葉植物の影がタイルの上で揺れて、受付のお姉さんの声だけが静かに響く、いつもの昼下がり。
 そこに、エレベーターの扉が開いて、社長が降りてきた。
 タブレットを片手に、半歩後ろのコニアさんと何か打ち合わせながら歩いてくる。黒いジャケットの紫のラインが、歩くたびに光を弾く。相変わらず姿勢がええなあ、と他人事のように眺めていた、その時。
 正面玄関の自動ドアが開いて、一人の女性が入ってきた。
 歳は二十代半ばくらいやろうか。長い髪をゆるくまとめて、肩から使い込まれた大きな鞄を提げている。服も靴も、街歩き用やない。日に焼けた頬と、よう歩く人間特有の軽い足取り。うちみたいなオフィスビルには明らかに場違いな、風の匂いがしそうな人やった。なんやろ、調査隊の人……いや、もっと自由な感じの。
と思った瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなった。

「アメジオ!」

 下の名前。呼び捨て。社長を。
 ロビーの空気が、ぴしっと固まった気がした。受付のお姉さんの肩が跳ねる。俺もソファの上で固まる。あかんあかんあかん、お嬢さん、あの人めちゃくちゃ怖い人やねんで――
 社長が顔を上げた。
 そして。
 笑った。
 ふ、と目元がほどけて、口の端が持ち上がる。タブレットを無造作にコニアさんへ預け、歩幅を広げて彼女のほうへ向かっていく。
「失礼します」と一言添えて、コニアさんは預けられる前からタブレットの位置に手を構えてた。慣れすぎやろ。

「久しぶりだな。船はもう着いていたのか」
「ついさっき! 連絡しようと思ったんだけど、どうせなら直接来ちゃおうって」
「君らしい」

 そう言いながら、社長は当たり前のように両腕を広げた。彼女も当たり前のようにその中に収まる。大きな鞄ごと、ぽすん、と。
 ――は?
 俺の頭が追いつく前に、二人は身体を離し、そのまま顔を寄せ合った。右の頬と右の頬が触れて、ちゅ、と軽い音。続けて左。

「元気だった?」
「ああ。君は少し日に焼けたな」
「ずっと外にいたからね。あ、これお土産。寄った先の島の」

 ちょっと待って。待って待って待って。
 今、社長、ほっぺに、キス、した? された? 両方?? ロビーで?? 白昼堂々??
 慌てて周りを見回す。受付のお姉さんは書類を取り落としかけて固まっとる。よかった、仲間や。せやのに、その横を通りかかったカロス出身のマダム社員は会釈ひとつで素通り。ガラル出身の警備のおっちゃんに至っては、微笑ましそうに目を細めてるだけや。
 なんでや。なんでそっちは平常運転なんや。
 思わずコニアさんのほうを見た。秘書として、止めるべきとちゃうんですか。会社の品位とか、週刊誌とか、いろいろあるでしょう。
 コニアさんは、涼しい顔のままタブレットに何か入力していた。動じる素振りも一切ない。それどころか、ロビーの隅で固まってる俺に気づくと、口の動きだけで「い・つ・も・の・こ・と」と教えてくれた。新入りのフォローまで完璧や。さすが姉御。
と、来客の女性がコニアさんに気づいて、ぱっと駆け寄った。

「コニアさんも! お久しぶりです!」
「リコ、おかえりなさい。元気そうじゃない」

 ……笑った。
 コニアさんが、笑った。完璧秘書の涼しい澄まし顔やなくて、ほんまもんの、目尻のとろけた笑顔で。しかも呼び捨て。来客を。社長すら「リコさん」関係の距離感やと思っとったのに(いや社長はほっぺにちゅーしとったけども)、この人、身内の顔や。

「半年ぶり? ちょっと見ない間に、また顔つきが頼もしくなって」
「えへへ、そうですか? コニアさんは全然変わらないですね」
「あら嬉しいこと言うわね。お昼まだでしょ、社食の新メニュー、あんた絶対好きなやつよ」

 完全に親戚のお姉さんや。半年分の心配と近況確認を三秒で詰めにいく距離の詰め方、うちのエンジュの伯母とまったく同じ動きや。

「あ、そうだ。マスカーニャも連れてきてるんですよ。あとで挨拶させますね」

 ぴし、と音がした気がした。
 コニアさんの笑顔が、止まった。タブレットの上で指が浮いたまま。笑顔は笑顔のまま、せやけど耳が、じわじわと赤い。

……っ、そう。それは、ええ、業務上、大変、重要な案件ね」

 声のトーンが半音上がってますよ。あと業務関係ないでしょ、それ。

「ふふ、コニアさん、相変わらずですね」
「な、何のことかしら。私はただ、遠路はるばる旅してきた子の、コンディション確認を……ブラッシングの用意なども、念のため」

 用意してるんかい、ブラシ。
 完璧秘書の化けの皮が、めくれかけている。社長が呆れたように息をついたけど、止める気配はない。慣れてはるんやろなあ、これも。
 そこへ、どすどすと床を鳴らして大きな影がやってきた。ジルさんや。台車に来客用の荷物カートを載せて、まっすぐコニアさんの横につける。

「カート、持ってきたぞ」
「あら、早い。まだ頼んでないわよ」
「リコさんが来たら荷物がでかいのは毎度のことだろ。それと、ほら」

 ジルさんが胸ポケットから何かを差し出した。受け取ったコニアさんの手の中を、俺は見てしまった。ポケモン用のブラシ、の、替えのやつ。

……気が利くじゃない」
「この前『そろそろ毛先がへたってきた』ってぼやいてただろ」
「あんた、そんなのいちいち覚えてんの」
「お前のぼやきは長年聞いてるからな。大体覚える」

 コニアさんがふいっと横を向いた。耳、さっきより赤いですよ。マスカーニャの時と色味ちゃいますよ、それ。

……勤務中よ、ジル」
「俺はカートを届けに来ただけだが?」
「ならさっさと応接室の準備。15時から使うわ」
「へいへい。終わったら例の件、昼に話した店でいいんだな」
「っ、それは、あとで!」

 例の件。店。なんですかそれは。聞いてもええんですか。あかんやつですか。
 その横でリコさんが「ジルさんもお久しぶりです!」と笑い、ジルさんは「おう、また旅焼けしたなあ」と岩みたいな顔をくしゃっと崩した。なんやこの一帯だけ、会社のロビーやのに親戚の集まりみたいな空気は。
 ジルさんは肩を揺らして笑いながら、カートにリコさんの鞄を軽々と積んで運んでいった。その背中にコニアさんが「重ね方雑にしたら承知しないから!」と投げて、ジルさんは振り向かずに片手だけ上げて応える。長年連れ添った夫婦のやりとりかな?
 俺は隣のソファのパルデア出身の先輩の袖を、無言で引っ張った。先輩は書類から顔も上げずに「ん?」と言う。

「せ、先輩、あれ、あれって」
「ああ、リコさんだろ。社長の昔からの知り合いだよ。冒険者だ」
「ぼ、冒険者」
「そう。世界中あちこち回ってて、誰も行かないような土地の調査なんかを請け負ってるらしい。うちが地図にない島のデータを持ってる時は、大体あの人経由だね」

 そら風の匂いもするわ。オフィスに居場所のない足取りやったもん。

「いやそれより! ほっぺの! あと秘書さんの笑顔と! 総務のジルさんとの、あの距離感!」

 先輩はようやく顔を上げて、ロビーを一瞥し、それから心底不思議そうに俺を見た。

「ほっぺは挨拶だけど?」
「挨拶ぅ?!」
「パルデアでは普通だよ。親しい間柄なら、右、左、って。カロスなんかでも似たような挨拶があるはずだ。なに、ジョウトはやらないのか?」

 やらんわ! エンジュであんなんしたら、明日には町内会の議題やわ!

……そういえば前に、カントー出身の新人も同じ顔してたな。逆にイッシュから来た営業の連中は、初日からハグで挨拶してきて驚いたけど」

海の向こうとこっち側で、感覚が真っ二つらしい。世界は広い。

「コニアさんがリコさんに甘いのは昔からだな。なんでも、あの子が学生の頃から知ってるらしい。それと、ジルさんとコニアさんは付き合い自体は社長より長いって噂だ。あの二人については社内でも長年議論が割れてる。『ただの腐れ縁』派と『もうとっくに』派で」
「先輩はどっち派ですか」
「俺は『本人たちだけが気づいてない』派だ」

 第三派閥あるんかい。
 エレベーターの前で、社長がリコさんのために先にボタンを押して、扉が開くのを待っている。リコさんが何か言うと、社長は呆れたように息をついて、それでも目元は柔らかいまま。その隣でコニアさんがリコさんの髪についた糸くずをさりげなく取ってやって、リコさんが「あ、ありがとうございます」と笑う。最後に乗り込んだコニアさんと一瞬目が合って、彼女は俺に「初めて見ると驚くわよね」と言わんばかりの、お手本みたいなウインクをひとつ。直後、閉まる扉の隙間から、もらったばかりのブラシをそっと確認してるのが見えた。
 ……いや、もう、情報量が多すぎるんよ、今日のロビー。
 俺は確信した。文化の違いとか関係ない。社長は、あの人の前でだけ、まるっきり別人や。完璧秘書のコニアさんは、リコさんと可愛いもんと、あの大男の前でだけ、ちょっと別人や。
 その日の社食で、俺がこの目撃談を語ったところ、食堂は綺麗に二つに割れた。パルデア勢に加え、カロス、ガラル、イッシュ出身の同僚たちは全員「挨拶でしょ」「うちでもやるよ」と眉ひとつ動かさず、カントー、ホウエン、シンオウ出身の連中は全員「は??」「絶対付き合ってるだろ」と身を乗り出した。見事なまでに、海のこっち側とあっち側で。
 なお「ジルさんがコニアさんのぼやきを全部覚えてた」という証言には、出身地方を問わず全員が「それは知ってる」と頷いた。
 知っとるんかい。
 社内の文化交流が一番進んだ昼休みやったと思う。