なえつき
2026-06-10 18:28:38
3733文字
Public 『うちの上司は情緒がヤバい』
 

不笠䙥花と御波柘榴がランニングする話

『うちの上司は情緒がヤバい』の2次創作小説です。

 早朝。
 時刻は4時ちょうど。うっすらと街が明るくなっていく時間帯に目を覚ましました。
 日課のランニングのため外出した私は、ほんのきまぐれに、いつもとは違う道に進路を切りました。それが致命的な間違いでした。まさか、よりにもよって、この女に出くわしてしまうなんて。
「あら、おはよう。柘榴ちゃんもランニング? 奇遇ね」
……わあ。おはようございます、不笠先輩。よかったら先輩も、一緒に走りませんか?」
 ホントは一緒に走りたくなんかないですが、社交辞令というものです。いくら嫌いな相手だからって、出会った瞬間逃走を選んだなんて噂にでもなったら外聞が悪いですし。それに何だか負けた気がしますから。
「珍しいわね。柘榴ちゃんからお誘いだなんて、私、あなたには避けられてると思ってたから」
「それは誤解です。不笠先輩は私の憧れですから。先輩みたいな綺麗な人とお話するの、緊張してしまうんですよ。決して、そう決して不笠先輩が嫌いなわけではないんです。本当ですよ?」
「あら。嫌い、だなんてそんな。私そこまで言ってないけど?」
「すみません。言い間違えちゃいました。てへ」
「そっか。気にしなくていいよ、言い間違いだもんね。よくあることだし」
 やや汗ばんで額に張り付いた前髪を指で払い、にこりと微笑む不笠先輩。
 ――走って疲れてるときくらい、不細工な表情してたらいいのに。
 何気ない所作すら上品なものだから、いちいち苛ついてしまいます。
 早朝だってのに隙のないメイクだとか、いつでも完璧な表情管理だとか。 
 安定緒が生まれついての美人なら、この人が美人なのはきっと、日頃の努力の賜物なのでしょう。
 深呼吸して、乱れた呼吸を整えます。そのあとは、お互い無言で並走して、一時間くらい走ったあと、自然な流れで別れました。
……明日からは同じ道は使わないでおきますか」
 間違いなく最悪だった一日の始まりを終え、こんな出会いは今日限りにしよう、と決意しました。

 翌日。
 時刻は4時ちょうど。うっすらと街が明るくなっていく時間帯に目を覚ましました。
 日課の早朝ランニングに出かけた私は、昨日とは違う道を選び、その先で不笠䙥花でばったり出くわしてしまいました。
「おはよう、柘榴ちゃん。今日も早いわね」
……そーですねー、不笠先輩。また会えるなんて、私達、運命の赤い糸で結ばれてるのかも? なーんて! ふふっ、冗談ですよ?」
 ――本当に、冗談じゃありません。何なんですか、この女。
 軽めに準備運動をしながら、当たり障りのない世間話をしました。駅前のパン屋さんの新商品が美味しいだとか、今年人気のデパコスについてだとか、昨日放送されていたドラマが面白かっただとか。
 相槌程度で済ませるはずでしたが、気がつけば私も熱が入って、不愉快なことに話盛り上がってしまいました。認めたくないけれど、私とこの女の趣味嗜好は似通っていて、話していて案外馬が合ってしまうのです。
 ――それを認めたくないから、私は、この女と一緒にいたくないっていうのに。
 今日限り。本当に、今日みたいな日はこれっきりです。
 明日こそ。明日こそ本当に、この女とは決別します。
 神様仏様天国にいるお兄様、見ててください。
 私、やってやります。絶対にこの女とはもう一緒には走りませんから。
 そう、絶対に!

 翌日。
 時刻は4時ちょうど。うっすらと街が明るくなっていく時間帯に目を覚ましました。
 始発電車に乗って、隣町へと移動した私は、家の自宅の方向に向かって走ります。さすがに隣町にまであの女と出くわすことはないはずです。天才……あまりにも天才……グッドアイディア賞2026最優秀賞はまちがいなく私のもの。流石にもうあの女とランニングコースが被るなんて悪夢、絶対にありえません。絶対に絶対に絶対に――――
「ふっ、ふっ、ふッ――
 悪夢でした。
 爽やかな川が流れる河川敷を眼下に見下ろせるランニングコース、並走する不笠䙥花の息遣いを聞きながら、私は愕然としました。
 何? なんですか、この女、わざとやってます? 盗聴でもしてるんですか盗撮でもしてるんですか監視でもしてるんですか何なんですかこの女。きもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい――――
……おぇッ」
「ちょっと、ざく、ろちゃん、大丈夫? 体調悪いなら、休んだほうが、いいんじゃ、ない?」
「ええ、そう、ですねッ! 少々、きもちわるいッ、かも、です、ねッ――!」
「あら、たいへん。朝早いからって、朝食抜いてきた? だめだよ、ご飯はしっかり食べないと。柘榴ちゃん、ただでさえ細いん、だから」
「いえ、ご飯抜いたとかじゃないです、なんというか、こう、横が、ストレスで」
「ああ、脇腹が痛くなっちゃた? もー、柘榴ちゃんったら、もしかして走る前にたくさんお水飲んじゃった? ならちょっと向こうのベンチで休憩を――って、あれ、ちょっと、柘榴ちゃーん!?」
 得も言われぬ恐怖に駆られた私は、勢いに任せ、思いっきり駆け出しました。
 とにかくこの女から離れたい。その一心で腕を振り、足を踏み出し、そして。
 ――あ、これ、ヤバ……
 一気に血の気が引いていきます。
 小学生の頃、幾度となく経験した貧血の予兆。
 眼の前が朦朧として。私は意識を手放しました。


 幼い頃。病弱で体調を崩しがちだった私を、多忙な両親に代わって、姉がよく気遣ってくれました。
 愛しい兄からの感情を独り占めする姉は嫌いでしたし、きっと姉も、兄に執着し姉を敵視する私のことは嫌いだったと思います。
 いつだったか。夏休みのラジオ体操に一人で家を飛び出して、貧血で倒れた私を、背負って家まで歩いてくれた姉の背中も、大嫌いでした。
 そんな大嫌いな姉と私は、一度も本音を語り合うことなく、永遠の別れとなったのは、後悔といえば後悔。
 ただの一度でもいいから、「大嫌い」だと言い合っていれば、私たち姉妹の関係は少しは違ったのでしょうか?
「そんなの、今更ですよね。……お姉ちゃん」


「私はあなたのお姉さんじゃないよ、柘榴ちゃん」
 冷水を全身に浴びせられたような気分。脳裏に浮かぶ、おぞましい未来予想。
 猛烈に嫌な予感がしつつも、おそるおそる、目を開けると、そこには。
 澄み渡った青空を背景に、にんまりとほくそ笑む不笠䙥花が私を見下ろしていました。
「おはよっ、よく眠れた? ふふ、うふふふふ、柘榴ちゃん、すっごく気持ちよさそうに寝てたよ。私の膝枕で。わ・た・し・の、膝枕で」
「う、うわ、うわァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ! 最悪最悪最悪最悪最悪! おぇえええええええええええええええええええええええええええええええええッ!」
 今すぐこの女の膝に吐瀉物をぶちまけたいです。恥も外聞もかなぐり捨てた衝動に駆られる私をよそに、ニマニマと気色悪い笑んでいます。この女、立場を分かっているのですか? いいんですよ、これからあなたの膝に嘔吐しても、私は。
「ふーん。お姉ちゃん、いやお義姉ちゃん、か……ふふ、うんうん、まあまあ悪くないかな。でも当然だよね。御幸くんと結婚した私からすれば柘榴ちゃんは義妹ちゃんだもんね。よしよーし、柘榴ちゃーん、お義姉ちゃんだよ~」
「今すぐその薄汚い口を閉じてください頭を撫でないでくださいあなたの義妹になった覚えはありません生理的に無理です胎児から出直してきてくださいさようならまた会う日までいやもう会わないでください二度と会いたくありません」
 思い切り飛び起きて、地獄の責め苦から逃げ出しました。
 あ、危なかったです……お兄様の妹にあるまじき醜態をさらすところでした。不甲斐ない。それもこれも全部、この女が悪いのです。ぜったいに許しません。
「く、屈辱です……まさか、あなたに介抱されるなんて……
 一生の汚点。まちがいなく黒歴史として私の後世に綴られた瞬間でした。
 頭を抱える私をよそに、不笠䙥花はじっと私の顔を見つめていましたが、ふっと頬を緩めました。
……なんですか」
「ううん、別に。……それで、どう? まだ休みたい? いーよ、まだ体調悪かったら、私の膝、貸してあげるよ?」
 会社で見せるようなお上品な物言いとはかけ離れた煽り文句。なんだ、そんな言葉も吐けるんじゃないですか。安心しました――この女、ちっとも美人なんかじゃない。
 つま先をとんとんとアスファルトをつつきます。
 前を向く。水平線の向こう側から、朝日が顔を出していました。
――結構です。もう子どもじゃありません。自分で歩けます」
「あ、そ」
 そこからは、いつもどおりに。仲良くもない私たちは、肩を並べてゆっくりと足を動かします。
 しばらく走ってから、
「私、あなたが嫌いです」
 ぽそ、と呼吸の合間に声を紛れ込ました。
 風の音にかき消されてしまうような小さな告白のあと、
「知ってるよ」
 そんな返答が聞こえました。