遊悟
2026-06-10 12:11:59
2443文字
Public
 

夢のあとさき


 夜宵が書類片手に遊悟のデスクへ向かうと、席の主は机に突っ伏して眠っていた。
 愛用の黒縁眼鏡はその手元に乱雑に転がっている。寝落ちする前に、外すだけは外した、ということだろうか。
「白昼堂々居眠りとは肝が据わってんな……
 デスクの端に書類を置きながら、夜宵は遊悟の顔をそっとのぞき込む。
 いつもやかましいほどに語る緑の瞳も、今は黙ってまぶたの下に隠れている。
 うっすらとクマの浮かんだ目元は、その疲労の濃さを物語っていた。
(「まあ、最近、重めの予知をしたみたいだし……送り出したヤツらのことを気にしてんだろうな」)
 腕枕の合間から覗く泣きぼくろをつついてみるが、それでも遊悟は目を覚まさない。
 彼の経歴を思えば、ここまで深く眠れるようになったのは、ある意味良いことなのであろう。
 何しろ、出会って日が浅い頃は、そもそも人前では眠らない―――否、眠れない男だったのだから。
―――
 はく、と遊悟の厚い唇が動いた。何か呟かれた気がして、夜宵は何気無なにげなしに耳を近づけた。
―――れいな、さん……
 成人特有の低い声で、その名が紡がれた。
「だめだ、れいなさん。いっちゃ、だめ……
 掠れ声に悲痛な音色が混じる。
 怜那さん、駄目だ、危険だ、行くな。
 痛々しいほどに、同じ言葉を遊悟は繰り返していた。
「ああ、あ」
 意味をなさぬ単語とともに、絶望に染まった吐息が漏れる。
「やだ、やだよ、れいなさん。いかないで……おいて、いかな……
 夜宵が身を引くと、固く閉ざされた遊悟の目から、涙が伝い落ちていた。
 透明な雫は次から次へと、とめどなく零れる。
 ―――敷島怜那。
 暗殺者人殺しだった彼を死地から救い、捕らえ、教育を施し、更生させた捜査官。
 語弊を恐れずに言うのであれば、夜宵の前任者―――夜宵の前に、遊悟の監視を担当していた女だ。
 同じチームに配属されることはなかったため、詳しいことまでは知らないが、それなりに腕が立ち、かつ、遊悟がたいそう懐いていたという情報はなしだけは聞かされている。
 それから―――まだ星詠みがなんであるかを知らなかった遊悟が、意図せず詠んでしまった「未来予知」によって、死亡した、とも。
 それが未来予知であるとも知らず、降りてきたサインを語った遊悟。
 それが未来予知であると理解し、その道しるべサインのとおりに未来が描かれるように動いた怜那。
(「自分は死ぬが、それ以外に犠牲者はでない。その未来を現実のものとするために、命を捧げた捜査官……」)
 普段は多弁な遊悟も、己の過去となれば口を閉ざす。ゆえに、その腹の内までは知らない。
 けれど、見た目とは正反対に、人懐こく情に厚いこの男のことだ。ずっと後悔しているのだろう。その運命の日から、今日こんにちに至るまで、ずっと。
 そう。こんな風に、その時のことを夢にみてはうなされるくらいに……
……別に、お前が悪いわけではないだろうに」
 夜宵も遊悟と同じ星詠みだ。未来を予知することもある。
 ただ、それはゾディアックが与えた道しるべサインにすぎない。
 自分たちは、その道しるべサインを見ただけ。例えそれが悲劇的な内容であろうとも、自分星詠みたちのせいではないのだ。
(「それに、あくまで予知なんだ。未来をどうするかは、俺たちの選択にかかっている」)
 なにも、星読みの未来予知の通りに動かなくてもいいのだ。
 今どんな風に動き、どんな未来をつかみ取るかは、あくまで当人√能力者次第。
 だから、どんな予知をしていようと、星読みが責任を感じる必要はない。
 だが……
(「それでも、遊悟お前は負い目を感じてしまうんだろうな。
 敷島捜査官を―――命の恩人を、死地へ追いやったのは自分だ、と。
 大切だった人を死なせておいて、自分だけがのうのうと生きのびている、と」)
 苦しげに呟かれる寝言が、閉じられた目から零れる涙が、その証拠だ。
 ずっとずっと後悔し、ずっとずっと自分を責め続けているのだろう。
 例えみんなの前では明るく朗らかに振るまっていようとも、こうしてひとりになった瞬間、罪の意識が彼の喉元を締め上げてくるのだろう。
 生きれば生きるほど、苦悩は、苦痛は深まる。なんとも救われない話だ。
 だが……。 
「本当に、バカだな。お前は」
 夜宵はしばし逡巡しゅんじゅんしたあと、左手を伸ばし、遊悟の頭に触れた。
 そうして、優しくなで回す。
「お前を連れていかなかったのは、お前には生きていて欲しいと敷島捜査官が思ったからだろうに。
 それに……今は、俺や、七三子たちが側にいるってのに」
 お前に生きていて欲しいと願った者がいた。
 お前に生きていて欲しいと願う者たちがいる。
 ―――もう、お前ひとりの命じゃない
 だから、胸を張って生きていていいのだ。例えその両手が汚れていようとも。運命がその命を終わらせる、その瞬間まで……
「ぁ……
 夜宵の手のひらが遊悟の頭の上で何往復かした、その後。
 遊悟の口元が、ゆっくりと緩んだ。
……ゃょぃ」
 その唇から、ぽろりと名前が零れた。
「夜宵……七三子……陽、マリエ……
 ぽつぽつと、名前が呟かれる。そのたびに、きつくしわが寄っていた眉間が、ゆっくりとほぐれていく。苦しげだった寝息が、穏やかになっていく。
「ああ、そうだ。俺らが、いる」
 目尻に残った涙を拭ってやれば、遊悟の寝顔がだいぶん穏やかなものになった。
「罪は罪として償わなければならない。
 だがな、お前は一度処刑されたんだ。そして、今も贖い続けてる。
 それに、敷島捜査官のことは、お前のせいじゃない。
 だから、そんなに負い目に感じるな……
 俺らが側で支えてやる。だから、まだ生きていろ。
 遊悟の耳に届いていないと分かっていても、まるで願でもかけているかのように、夜宵は呟いたのであった。