Ymi:no
2026-06-09 14:56:21
23732文字
Public ビマヨダ加筆修正前
 

ハロー、ハロー! お元気ですか?

生活管理AIのドゥリーヨダナと大学生ビーマの料理道物語。後半ですがちゃんと恋愛もしてます。

 〝お客様の生涯のパートナー、生活管理AIで人生を変えませんか?〟
 このチープな煽り文から、誰が今の世界を想像できただろう。もはや生活管理AIは、人々の生活の一部になっていた。一家に一台ならぬ、一人に一台。誰もが自分専用のAIを持っている。それが当たり前の時代になったのだ。

   ❀❀❀

「これでいい……のか?」
 スマホの画面と睨めっこすること数時間。弟のアルジュナが書いた指示書通りに操作したが、どうにも上手くやれた実感がない。
「んで次は……アプリを開く」
 首を捻りながらもホーム画面に戻り、桜のアイコンを押してアプリを起動する。謎のファイルを作るのにだいぶ時間を使ってしまったが、どうにかスマホアプリ〝LifeCCCライフシーシーシー〟の起動に漕ぎ着けた。
「生活管理AI、なぁ? 使うのに随分と手間がかかるんだな」
 LifeCCCライフシーシーシー。生活管理AIとも呼ばれるそのアプリは、生活に欠かせないパートナーとして世界中に普及している。らしい。ビーマは知らなかったのだが、晴れて大学生となり一人暮らしを始めた兄にと、可愛い弟が勧めてくれたのである。曰く、人生の支えになってくれる、と。
 たとえどんな人生ゆめえがこうと並走してくれる、人生の相棒。もしもそれが本当ならば――ビーマには手伝って欲しいことがあった。
 傍に散らかったお手製のレシピ本を撫で、ふっと口元を緩める。AIなら、この夢も応援してくれるだろうか。
「で、開いたら次は……キャラクターを選ぶ?」
 ずらりと並んだイラストアイコンを眺め、適当にひとつ押してみる。すると画面いっぱいにファンタジー味のある立ち絵が表示され、音声が再生される。ゲームのキャラクター選択に似た画面構成にピンとくる。この中から相棒にしたいキャラクターを選べ、ということなのだろう。
「右下に赤い数字……値段か? ってっけぇなオイ!」
 並んだ数字の桁に思わず声がまろび出る。慌てて他のキャラクターもタップするが、金額は似たり寄ったりだ。
「五万……五万の出費か……懐がいて……
 ネットバンクを開いて残高を確認する。払えない額ではないが、やはり高い。
「安いやつはいねぇのか……?」
 たぷたぷと開いては閉じを繰り返し、キャラクターの右下にある値段を確認する。価格はやはり五万円前後、千円違えばいい方という有様である。
――おっ!」
 そんな中で、一人だけ四万円という破格の値段のキャラクターがいた。見た目はちょんと顎髭の生えたおじさんで、サンプルの声は一人称がわし様になっている。言葉の節々にも王族ムーブが漂っており、他のキャラクターに比べるとかなり癖が強そうだった。
「ドゥリーヨダナ、か」
 可愛い弟の顔と、おじさん改めドゥリーヨダナの立ち絵、通帳の金額を脳裏に並べ、迷わず決定ボタンを押す。特に見た目にこだわりのないビーマは、彼で十分だと頷く。こういう手合いはスキンが選べるだけで、中身に然して違いはないのだ。
 決済を終え、〝ようこそ〟の四文字が浮かんだ画面を食い入るように見つめる。人生の相棒という大それた存在の誕生に、柄にもなくワクワクしている自分がいた。
「ああ……さっきのファイルはここで使うのか」
 文字がふっと消え、謎のファイルを読み込む同意画面が表示される。説明書きを読むに、みっちり個人情報を詰め込んだファイルは、AIが正しく持ち主の為人ひととなりを把握するためのものだったようだ。
 くるりと読み込みバーが丸を描き、画面が切り替わる。右上に小さく内カメラに映ったビーマが掲示され、ドゥリーヨダナの上半身が画面いっぱいに表示される。
 ――こいつが、俺の相棒。
 綺麗な赤紫の瞳を見つめ、ほうと息を吐く。このおじ様然とした男が動いて、喋って、ビーマの人生に伴走する。それは何ともこそばゆく、暖かい。ビーマはもう、独りで悩まなくていいのである。
 感慨深くその姿を眺めていると、ドゥリーヨダナの大きな口がむにっと開く。まずはチュートリアルだろうか。とにかく聞いてみようと耳を傾ける。
『ビ』
「び?」
 鸚鵡返しに発音する。び、とはなんだ。不思議に思い画面を覗き込めば、ドゥリーヨダナの身体がぷるぷる震えていた。
『ビィ〜〜〜〜〜〜〜〜マがおるではないかぁッ!!』
「ぅおッ! うるせっ!」
 途端に鳴り響いた耳を劈く絶叫に、慌てて音量ボタンを連打する。びっくりする程うるさい。近所迷惑も甚だしくうるさい。キィィンと後からやってきた耳鳴りに顔を顰めれば、同じように険しい顔をしたドゥリーヨダナと目が合った。
『お前はわし様を知っておって選んでおるのか……?! 悪趣味がすぎるぞ?!』
 身に覚えのない訴えに首を傾げる。
「いや知らねぇけど」
『ハァ〜〜〜〜〜〜〜?! 知らんとはどういうことだ!!』
「んなこと言われてもよ」
 まるで旧知の仲かのような反応に少し戸惑う。間違いなくこいつとは初対面のはずだ。
『マハーバーラタを知らんのか! わし様はお前にだな……!』
 呪文のようなものを唱えつつ、ドゥリーヨダナが言い募る。全く話が見えないが、それはそれとして。
「だから知らねぇって。初めましてだろ俺たち」
『〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!』
 ――なんか悶えてるな……
 声にならない声を上げ、百面相をするドゥリーヨダナに感心する。ただの立ち絵と思っていたが、中々に表情豊かである。ともすれば人間より人間らしいかもしれない。
………………本当に知らんのだな?』
「おう」
 ぽとりと言葉が落とされる。それに真正面から答えれば、何か言いたそうな顔をしたドゥリーヨダナがもごもごと口篭る。
『本当の、ほんと〜〜〜〜に……知らんのだな?』
「そうだって言ってるだろ」
 更なる念押しに頷いてみせる。ビーマはドゥリーヨダナのことを知らない。知らないのだ。
………………分かった分かった。ならば仕切り直しだ』
 ウォホンッ、とわざとらしく咳払いをしたドゥリーヨダナが、赤紫の瞳をビーマに向ける。
『わし様は高貴にして至高の王子! 最強にして最優の戦士でもある、ドゥリーヨダナ様だ』
「ビーマだ。ビーマ・セーナ。生まれも育ちも日本のインド人だ」
 ドゥリーヨダナの名乗りに合わせて自己紹介をする。個人情報を握られているから必要ないのだろうが、礼儀としてビーマの口からちゃんと告げておきたかった。
『ややこい生育歴を持ちおって。まあよい。とにかくこのわし様が奉仕してやるのだ、感涙に咽び泣いて嗚咽を漏らすといい』
 ふふんと得意げに胸を張るドゥリーヨダナに、紛れもない本心を伝える。
「そこまでの感動はねぇな」
『なにぉう?!』
「仲良くやれたらいいとは思ってるが」
 感動はしている。しているが、べしゃべしゃに泣き崩れる程ではない。というより方向性が違う。これはまだ見ぬ未来への期待だ。ドゥリーヨダナと二人三脚で歩く、新たな人生への。
『ぐぬぅ。――そうだ、お前はまだわし様のありがたさを全く分かっておらぬのだ……!』
 ドゥリーヨダナが威勢よく吠える。全くもってその通りである。なんてったってビーマは初めて生活管理AIを使うのだ。知らなくて当然と言えよう。
『よくよくその素晴らしさを教えこんでやろう。ほれほれ、望みを言うがいい!』
 何でも叶えてやるぞ? などと言ってにまにましているドゥリーヨダナに、ずっと抱えてきた夢を打ち明ける。
「ああ、それなら――俺は料理を極めたい」
 小さい頃から食べるのが大好きで、大切な人に尽くすのも好きだったビーマは、あっという間に料理に傾倒していった。母の手料理は誰よりも多く食したし、たまの外食でも五人前は簡単に平らげた。あまりの健啖っぷりに、少しは控えろと頭を小突かれた回数は数知れず。
 それでも食べるのを諦めなかったビーマは、当然のように自ら作り出す側に回った。家族はもちろんのこと、友だちやクラスメイトにまで手料理を振舞ったのだ。するとあまりにも美味い美味いと食べてくれるので、嬉しくなって何度でも調理台の前に立った。そうして料理に目覚めたビーマは、いつ何時なんどきもやる気全開フルスロットルで腕を振るってきた。レシピの開発や改良にも勤しんだし、調理の腕も磨いていった。そうすると皆が喜んでくれて、心做しか食べる料理も美味しく感じられたのだ。そんな思い出たちが、今のビーマを動かす原動力となっている。
『料理を極めるぅ? 三ツ星シェフになりたいとかか? お前のような森ゴリラが?』
「森ゴリラってなんだ。――将来的には目指してもいいかもだが、今はできれば料理の見聞を広めたい」
 ビーマの料理街道はまだまだ道半ばである。腕はそれなりに磨いたが、如何いかんせん作れる料理の幅が狭い。世界各国に山ほどのグルメがあるというのに、その一つも学ばずにいるのはもったいなさすぎる。故に更なる高みを目指しつつも、もう少し広く浅く、知識を身につけておきたいのが本音であった。
『料理の蒐集をしたい、ということか?』
「それが近いのかもな。生まれてこの方インド料理一筋でやってきたもんだからよ。大学生にもなったし、そろそろ日本食を学んでみてぇと思ってたんだ」
 手製のレシピ本の一冊を手に取り、中を開く。くるりとスマホを回転させ、ぎっしりと文字が詰まった頁をぱらぱらと捲ってみせてから元に戻す。個人情報のファイルにも写真を綴じ込んだが、ビーマはずっとインド料理のレシピを研究していた。新しいスパイスの配合を考えては試し、家族――とりわけ兄弟の意見を仰いで改良を進めていた。お陰で複数冊あるレシピ本は、書き込みすぎてどの頁も真っ黒になっている。
 そんなビーマのすいを凝らした、ビーマ手製のレシピ本が完成という陽の目を見たのは、高校を卒業しようかという頃であった。この時には兄弟たちも慣れたもので、食卓には忌憚ない意見が飛び交っていた。それらの言葉やビーマの経験を重ね合わせ、真っ黒な中に赤い線を引き、答えを弾き出す。そうして完成したのがこのレシピ本たちであった。これを書き上げた瞬間の喜びは筆舌に尽くしがたく、兄弟たちに無遠慮に抱きついて騒いだのも良い思い出だ。
 こうしてインド料理の探求が一区切り着いたので、大学進学を機に、ずっと気になっていた日本食を学んでみることにしたのであった。
『日本食か。であればそれこそ三ツ星の寿司屋や料亭を廻ればよかろう。勉強になるぞ?』
 ドゥリーヨダナの提案にもにょりと口篭る。ぐうの音も出ない正論だが、ビーマが求めているものからは少しズレている。
「なんつーか、家庭の味から料亭の味まで幅広く味わいたいってのがあってな」
……味わう? それはどういう、』
「なんてったって日本の飯は美味い! ドゥリーヨダナは竹屋の牛丼を食ったことがあるか? チェーン店なんだが、これが実に美味い。チェーン店すらこのクオリティなんだぜ。何だって食べて満喫しなきゃもったいねぇだろ!」
 ビーマの〝料理を極める〟には色んな意味が含まれている。調理の技術を高めることはもちろん、季節や国柄の料理を食べて楽しむことや、まだ見ぬ食材や料理を求めて探し回ることも範囲内だ。手広くやっているといえば聞こえはいいが、単純に食いしん坊で欲張りなのである。
……ああ、そういうことか。お前は全く……ビーマらしいと言えば良いのか悪いのか』
「?」
 ドゥリーヨダナがこれ見よがしに溜息を吐く。何かおかしなことを言っただろうか。頭上にはてなを浮かべていると、ドゥリーヨダナが片側の口角を上げて笑った。
『美味しく食べてついでにレシピも奪ってやろう、と』
「真似させてもらうんだ」
『どちらも同じことだ。全く随分と雑な頭をしておる。まあ一般庶民が抱く夢としては調度良いのかもしれんが』
 レシピを丸ごと奪うのは不可能に近い。再現レシピはあくまで再現であって、本来のレシピとは違うものだ。だからビーマとしては真似させてもらうが正しいのだが、ドゥリーヨダナはそれを奪うと言う。それは何とも。
「言い方に一々トゲがあんなぁ」
『事実を述べたまでだ』
 ドゥリーヨダナがふんすと鼻を鳴らす。このAIは考えるまでもなく尊大で露悪的だ。それが元からの性格なのか、ビーマが相手だからなのかは分からないが、あまり気持ちの良いものではない。それなのにどうにも憎みきれないのは、くるくると変わる表情や声のトーンに愛嬌を感じるからだろうか。何とも上手い塩梅の、世渡り上手な性格をしている。
「そうかよ。で、だ。俺が頼みたいのは――
『皆まで言うな、分かっておる。店探しとレシピの提供だろう?』
 言われて瞼を瞬く。それは正しく、ビーマが頼もうとしていたことだった。
「お前……頭いいな」
『当然であろう。だってわし様だぞ? お前の空っぽな脳みそなぞ秒で解析できるわ』
 呆れたような物言いでビーマを腐すドゥリーヨダナに、でも否定はしないんだな、と返しかけて言葉を呑み込む。
「頼もしくて何よりだ」
――――――――
 綺麗な赤紫の瞳を見開いたドゥリーヨダナが、ビーマを見上げる。その表情はどこかあどけなく、見ていたビーマも思わず口を噤んでしまう。
 お互いに呆けていると、はっと我に返ったドゥリーヨダナが慌てて口を開いた。
『まっ、まあ任せておけ! わし様の審美眼は誰よりも優れておる。店の十や二十、それこそ隠れ家的名店から有名どころまで、わし様が漏れなくピックアップしてやろう』
「いやぁ、助かるぜ。俺一人じゃ探し回るのにも限度があってよ」
 インド料理を極めていた頃は、それこそウェブ検索と自分の足で店を探していた。当たり外れも分からないまま、店に入って実食して判断する。勝率は五分五分で、不味い店に当たった日は一日しょんぼりが続く。それがドゥリーヨダナによって解消されるなら、願ったり叶ったりであった。
『統計にもよるが、都内の飲食店だけでも六万から八万店舗はある。お前の足で稼いでいたら寿命が明けてしまうぞ』
「そんなにあったのか……?!」
 途方もない数字に驚嘆する。流石にその数の店を回るのは難しそうだ。
『ウム。そういうわけで、まずは目標範囲を都内の和食屋――料亭や小料理屋とする』
 ドゥリーヨダナの提案に、一も二もなく頷く。闇雲に当たれば、それこそビーマの首が締まるだろう。
「そこからどんどん広げていくんだな」
 王族を謳うドゥリーヨダナが、半端な店を紹介するとは思えない。であればいずれ都内だけでは賄えなくなるはずだ。そうしたら範囲を広げたり変えたりして、またドゥリーヨダナと二人で店探しをすればいい。
『いずれはな。そしてゴールは明確に、美味い飯を食うことと再現レシピを蒐集することだ。よいな?』
「おう!」
 ふわふわとしていた願望が、ドゥリーヨダナの手によって分かりやすく整理される。まずは都内で和食屋を探すこと。次に料理に舌鼓を打つこと。最後に再現レシピを二人で模索すること。結果として手元には再現レシピが蒐集される。これを繰り返し、料理の見聞を広めていくのだ。
『店の味を真似るのは簡単なことではないぞ。その店の味を作るまでに、料理人たちは腕を磨き心血を注いでおる。言わば秘伝のレシピだ。当然ネットの海に転がっているわけもない』
「そりゃそうだ。俺もスパイスの配合にはかなり気を使ってる。それを自分の舌と知識で当てようってんだ、簡単な道のりじゃねぇ」
 ドゥリーヨダナの忠告に真正面から切り返す。こいつの言っていることは一から十まで正しい。ネットのレシピはあくまで足がかりでしかなく、その後を詰めるのはビーマの舌と技量、ドゥリーヨダナの知識でやらなければならない。しかしビーマもそれを分かった上でこの道を選んでいる。ドゥリーヨダナがどう思っているのかは知らないが、ビーマが諦めることだけは絶対にない。
『分かっておるのならば良い。――では行くぞ』
「おう! ……ん? 行く?」
 威勢よく返事をしてから、そこに違和感を覚えて声を漏らす。行くぞ、とは。
『わし様の威を示すに相応しい、最初の店だ。スウェットというのは頂けん。相応の服装に着替えよ。すぐに出立する』
 なおもドゥリーヨダナが言い募る。言葉を意訳するに、これから記念すべき一店目に行くということらしい。
 ちらりとスマホの上端を見る。時間は丁度二時を回ったところだ。距離にもよるが、間に合わない時間ではない。
「まだ何が食いたいとか言ってねぇぜ?」
 ビーマの意見は通らなさそうだが、一応声をかけてみる。
『わし様のセレクトにケチをつける気か? ――安心しろ。お前が食べたくて、わし様が納得できる店だ。わし様はお前の全てを知っておるからな』
 ドゥリーヨダナの返答に面食らう。半分は思った通りだが、もう半分は全くの埒外だ。そもビーマの食の好みは勘案されていないものだと思っていた。個人情報のファイルにも書いていない何でも美味しく食べると記載したし、言ってもいない。ドゥリーヨダナの性格的にも無視しそうだった。それが何故だかきっちり計算に入っているという。
 どうやって食の好みを割り出したのだろうか。会話からか、ファイルからか。それともこれがAIパワーというものなのか。分からない、分からないが。
「へぇ、AIって凄いんだな……!」
『わし様が特別に凄いのだ!』
 これが事実なら、店選びはドゥリーヨダナに任せた方が確実ということになる。まさかの収穫にうきうきとした気分でスマホを天に掲げる。ドゥリーヨダナ様々である。
「っと、そんじゃ着替えるぜ!」
 掲げていたスマホをベッドに放り投げ、クローゼットを開ける。相応しい服装とやらは分からないが、着替えるのは大賛成だ。
『無視するでなぁい……!』
 ドゥリーヨダナが何事か吠えていたが、新たな料理との出会いに思いを馳せていたビーマは、全くと言っていい程話を聞いていなかった。

❀❀❀

 ドゥリーヨダナの案内は的確で、ホームに足を踏み入れると、目の前に電車が滑り込んできた。いそいそと乗り込めば、たまたま端の席が空いていたので腰かける。そうして片耳に着けたイヤフォンを直していると、程なくして列車が走り出した。
『この電車で八駅乗ればいいんだな?』
 筆談をするように、握っていたスマホにぺちぺちと文字を打ち込む。するとイヤフォンから、自信たっぷりなドゥリーヨダナの声が流れてきた。
『その通りだ。駅距離も長いから時間がかかる。今のうちに履修単位でも考えておけ』
 思わぬ助言にうぐっと唇を歪める。まだ始まってすらいない大学生活は、既に不安の種となっている。ビーマは国文学系の大学に身を置いているが、勉強が大の苦手であった。それこそ留年がかかっている単位の話なぞ、聞くだけで怖気が走る。
 更に最悪なことに、単位の取得には課題やレポート、テストの合格が必須だという。ビーマにはもちろんこなせる自信がない。ならば締切直前まで考えないことにしよう。料理の探求が本分であって、大学生活はおまけのようなものであるし。それがビーマの出した結論であった。
……分からんことがある。何故お前は国文学の方へ進学したのだ? それこそ調理系に行けば天国だったろうに』
 そろーっと目を逸らしていると、ドゥリーヨダナが心底不思議そうに問いかけてくる。そこに馬鹿にした響きがないからこそ、ビーマの心に深く鋭く突き刺さる。
 もちろんビーマも、進学前は調理系の大学を調べまくっていた。オープンキャンパスにも行ったし、出願のスケジュールを把握したりと準備を進めていた。しかし。
『親に反対されたんだ。大学に行きたいならGMARCHジーマーチ以上にしろって』
 予想だにしないところから反対が入ったのである。他ならぬ両親の進言とあれば、ビーマとて無下にはできない。学費も生活費も親頼りであるし、不安にさせるのは本意ではなかった。結果としてビーマは、比較的成績の良い国文学系の大学に進学したのであった。
……届いてないようだが?』
『目溢ししてくれてな。滑り止めとはいえ、受かったからって』
 とはいえ第一志望はあっさり落ちたので、親が指定したのとは全く違う大学に通っている。それでも潰しの効く四年制大学ではあるので、親は満足しているようだった。
『なんともめんど……いや、なさけ深いご両親だな』
 ドゥリーヨダナが肩を竦める。声のニュアンスからして、呆れているらしい。
『あんまり悪く言わないでくれ。あれでも俺の将来を心配してくれてるんだ』
 調理系の大学に進学できなかったのは残念だが、それはそれとして親には感謝している。手のかかっただろうビーマを、今でも大切に思ってくれている。それがひしひしと伝わるから、ビーマは親の言うことを素直に聞き入れるのだ。
『そうか。では大人しく一年前期で取る単位を考えるとしよう』
 あっさりした声でドゥリーヨダナが話題を引き戻す。不意打ちにぐっと顔を強ばらせれば、ドゥリーヨダナが声を上げて笑った。
『くそぅ、逃げられねぇか……
『当然だ、馬鹿者』
 しょっぱい気持ちを込めて打ち込むと、にやにやしたドゥリーヨダナにトドメを刺される。このAI、鬼のように手厳しい。
『つってもなぁ、色々あって分かんねぇんだよな……
 高校の頃の友だち曰く、取る単位は先輩に聞くといいらしい。しかし入学式を明日に控えたビーマには、まだ頼れる知り合いがいなかった。ならばと軽い気持ちで開いたシラバスには謎の文字が舞っており、講義内容とやらも全く要領を得ない。はっきり言って詰みである。結果としてビーマは早々に理解を諦めて、そっとブラウザを閉じたのであった――という苦い思い出がある。
『就職だろうと料理人になろうと、一年次からしっかり単位を取っておかねばならん。特に四年で授業が残っておると詰むぞ』
『そうなのか』
 ドゥリーヨダナのレクチャーに感嘆する。このAIは大学の仕組みも分かるらしい。想像より万能なのかもと思っていると、ため息を吐いたドゥリーヨダナが腕を組む。
『さっさとシラバスを開け。取る授業はわし様が決めてやる。テスト対策、課題やレポートの作成もみっちり教えこんでやるから感謝するといい』
『て』
 一文字で誤送信したことに気づき、慌てて文字を打つ。
『手伝ってくれるのか?』
 齎された光明に縋る思いで問いかける。ドゥリーヨダナは料理だけでなく、勉強も二人三脚で走ってくれるのか。期待の眼差しを向ければ、ドゥリーヨダナが得意げな様相で胸を張った。
『それが生活管理AIというものだ。そろそろわし様のありがたみが分かってきたのではないかぁ?』
 不遜な笑みを浮かべた顔には、でかでかと〝わし様優秀!〟と書かれている。何ともイラつく表情だが、それこそがドゥリーヨダナなのだと思えばどうということもない。それよりも勉強のサポーターが見つかった感動や安堵の方が勝っていた。
『すげぇ助かる。ありがとな』
『分かれば良いのだ、分かれば』
 心から礼を言えば、ドゥリーヨダナがふんすと鼻を鳴らす。どうやらビーマに感謝されて天狗になっているらしい。
 一周回って可愛く見えてきた相棒の、鼻高々な様子に目を細める。ドゥリーヨダナが現れたことで、ビーマの日常は一瞬で様変わりした。昨日までのビーマと、たった一時間を過ごしたビーマとでは明確な差ができてしまったのだ。そしてこれからの生活も、他ならぬドゥリーヨダナによって賑やかなものになる確信があった。そんな未来に思いを馳せ、口元を緩める。安いからという理由で選んだ相棒だが、ビーマの性にはあっている気がした。
 そうしてシラバスと格闘していると、電車が目的の駅に到着する。画面を一時保存して立ち上がり、逸る思いでホームに降り立った。辺りには全く知らない景色が広がっているが、問題はない。ここからはドゥリーヨダナの仕事である。
『そこのエスカレーターに乗って上へ――降りたら左だ――突き当たりの角を曲がって――
 案内に沿って駅構内を歩く。一見すれば迷路のような道も、ドゥリーヨダナの言う通りに進めば簡単に踏破することができた。
 そのままさくっと駅の改札を通り抜け、眼前に広がる大通りに足を踏み入れる。
「すげぇ……! こりゃ桜か? 滝みてぇに流れてやがる」
 道の両側に、薄桃色の花弁をつけた木がずらっと並んでいる。そのどれもが見所を迎えているようで、まるで花びらが滝のように流れ、大通りを覆っていた。その景色を見せたくてスマホを掲げれば、イヤフォンから感嘆のため息が聞こえてくる。
『枝垂れ桜の並木道か。わし様たちの門出に相応しい景色と言えよう』
 ドゥリーヨダナも感動しているらしく、スマホをあっちへこっちへ傾けろとうるさく指示を出してくる。それに応えながらゆっくり歩を進めれば、あっという間に視界が桜一色に染まった。
「どこ歩いてんのか分かんなくなってくるな」
 辺り一面の桜を見上げながら、思ったことを口にする。切れ間なく並んだ大木はずっと先まで続いていた。まるで出口のない迷宮のようで、ひょっこりと少年心が顔を出す。
『まだ真っ直ぐだ。この桜並木の途中に店がある。通り過ぎるなよ』
「分かった!」
 探検隊にでもなった気分で、てくてくと大通りを歩く。ドゥリーヨダナの声を聞きながら、満開の桜景色を眺めるのは殊の外楽しい。まるで二人で散歩にでも来たようだ。
 そう思って進んでいると、大木の間に小道が伸びていることに気がついた。カメラを向ければドゥリーヨダナがこの道だと断言する。くるっと進路を変えて小道に踏み出せば、先程とは違った桜の景色が二人を出迎える。そのまま道なりに歩いていると、突き当たりに何やら建物が建っているのが見えた。
 あれがドゥリーヨダナの言っていた最初の店だろうか。非常にわくわくとした心持ちで外観を眺める。
「見るからに豪勢だな」
 立派な屋敷と見紛う店構えは、見るからに圧がある。重厚な扉の前には二人の男が立っており、飲食店とは思えぬ厳重さであった。
『ここで間違いない。入るぞ』
 ドゥリーヨダナの声にごくりと喉を鳴らす。ここが記念すべき一店舗目だ。果たしてどんな料理が待ち受けているのだろうか。期待に胸を膨らませながら出入口に近づくと、こちらに気づいた男たちが一礼をし、ビーマの前に立ち塞がった。
「初めて見る顔だね。君は……誰の紹介で来たのかな?」
 向かって左側に立っていた、金髪の男性が柔和な表情で問いかけてくる。物腰は柔らかいが、ピリッとした雰囲気から警戒されているのだと分かる。ただご飯を食べに来ただけなのになぜと内心不思議に思いつつ、正直に口を開く。
「ドゥリーヨダナに教えてもらったんだ」
 スマホの画面を男性に向け、空いた方の手で指を差す。ドゥリーヨダナの姿は見えないが、何となくドヤ顔をしているのが想像できた。
「これは……AIか。よく見つけたね」
 金髪の男と、もう一人黒髪の美丈夫がしげしげと画面を覗き込む。反応からして、AIに導かれて店にやってくる客はいなかったようだ。
『わし様の手にかかればこの程度、赤子の手をひねるより容易いぞぉ〜?』
 ドゥリーヨダナの有頂天といった声に眉根が寄る。イヤフォンの音声だから二人には聞こえていないのだが、そのことも忘れて自慢話を熱弁している。非常にうるさいので静かにしてほしい。
「うぅん。……折角来てくれたのに申し訳ないんだが」
――ほぁ?』
 AIを見つめていた金髪の男性が、顎を撫でながら言葉を放つ。その断り文句じみた言い方に、ドゥリーヨダナの口が止まる。ついでにビーマも固まっていた。
「この店はいわゆる、一見さんお断りの店でね」
 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走る。それはつまり。
「入れないのか……?!」
『入れないとでも言うつもりか……?!』
 ビーマとドゥリーヨダナの声が重なる。全く想定していなかった事態に、あたふたと意味もなく手をわきわきさせる。ドゥリーヨダナからはそんな説明、一言もなかった。ただ美味しいものが食べられると聞いて来たのに、どうして。
「申し訳ありません。そういうルールでして」
 隣の美丈夫が申し訳なさそうに頭を下げる。別にビーマは謝って欲しいわけじゃない。美味しいものを食べさせて欲しいのである。どうする、どうすればいい。うーんうーんと涙ながらに次の手を考えていると、イヤフォンから底冷えのするような声が聞こえてきた。
『追い返す……? それはつまり、わし様に恥をかかせるつもりか……? おいビーマ、接続を切れ。わし様が直接話す』
 本気で切れているドゥリーヨダナに背筋を震わせる。空気が読めないと言われがちなビーマでも、このドゥリーヨダナを矢面に立たせるのはまずいと分かる。
 しかし人間とは愚かなもので、このまま引き返すというのも何だか癪だなと思ってしまう。だってビーマはとても楽しみにしていたのだ。ドゥリーヨダナが自信満々だったのもあるし、弟にAIの凄さを説明されていたのもある。何にせよ信じていたのだ。ビーマの想像もつかないような美食が食べられるのだ、と。
 果たしてどうするか少し逡巡して、一旦ドゥリーヨダナに任せてみるかとイヤフォンの接続を切った。
『おい、そこのボンクラども』
……君、本当にAIかい?」
 スピーカーから響いたドゥリーヨダナの暴言に、金髪の男性が瞠目する。ビーマはドゥリーヨダナなら言いそうだと思ったが、普通のAIは言わないのだろうか。よく分からないが、他にAIを知っているわけでもないので、黙ってやり取りを見守ることにした。
『ここは王侯貴族や国の重鎮が通う店だろう。であれば紹介者なぞ必要あるまい。わし様は平身低頭で迎え入れられる側だからな。だというのにクル族の正当な王であるわし様を追い返すとは、どういう了見だ。弁明を聞いてやる。言え』
 ドゥリーヨダナの言い分をまとめるに、ドゥリーヨダナは紹介制と知っていて、けれど店の特色と本人の立場的に必要ないと判断してビーマを連れてきたらしい。なんとも豪胆だが、ドゥリーヨダナらしいなとも思ってしまう。しかし現状を見るに、明らかにこちらが不利だ。果たして。
「それはAIのキャラクター上の設定だろう? 私たちが迎え入れるのは現実の上客たちだ。よしんば紹介者は免除されたとして、君の詭弁で頷くわけにはいかないな」
 ドゥリーヨダナの圧のある交渉に、金髪の男がスパッと切り返す。ドゥリーヨダナも相当な口達者だが、この男も中々のものである。
『なぁ……?! わし様を侮辱するつもりか――!!』
 怒り心頭といった雰囲気で、ドゥリーヨダナが声を荒らげる。ちらりとスマホを傾ければ、茹でダコになったドゥリーヨダナが見えた。
「そんなつもりはないとも。ただ創作上のキャラクターと現実は違う、ということを分かって欲しいのさ」
 しかし金髪の男も全く譲らない。受け答えはまろやかだが、主張は一貫している。
『創作ぅ? わし様が? 本気で言っとるのか?』
 今度はほとほと呆れ果てた声が響く。どうやらドゥリーヨダナなりの反証があるらしい。ビーマは金髪の男性派閥だったが、ドゥリーヨダナの反論も気になるところだった。
「逆に聞くけれど、君が実在の人物だという証拠はあるのかい?」
 金髪の男が問いかける。ここがクリアできなければ、一見さんどころか上客の条件さえ満たせない。じりじりと焼けるような空気の中、ハラハラとした心地でスマホの背を見つめる。ドゥリーヨダナが失敗すれば、ビーマたちは泣き寝入りするしかないのである。
『はぁ〜? そんなもの、インドにたくさんあるではないか。お前たちもマハーバーラタを読んだことがないのか……? 最近の奴らは不勉強が過ぎる』
 緊張の中、あっけらかんと放たれた言葉にかくっと力が抜ける。心做しか雰囲気も柔らかくなって、門番の二人もきょとんと目を丸くしていた。
「そういやそれ、最初にも言ってたな。なんだそのマなんとかってのは」
 ここに来る前のやり取りを思い出し、改めて口にする。ビーマは特に気にしてなかったが、ドゥリーヨダナには何らかの思い入れがあるらしい。
「聞いたことがあります。確かインドに伝わる伝承だったかと」
 黒髪の美丈夫が補足を挟む。伝承と言えば古事記や日本書紀といったものがあるが、それのインド版がマなんとかに当たるらしい。血筋はインドだが、日本に暮らすビーマには触れる機会のない話であった。
……なるほど。君は自分が古代インド人だと主張するわけだ」
 話を早くに飲み込んだ金髪の男が、ドゥリーヨダナに確認を取る。その目に潜んでいた警戒は影もなく、まるで面白いものを見つけたような輝きを取り戻していた。
『その通りだ。AIの機能は単にわし様を補強するためのものにすぎん。であれば、王子たるわし様を丁重に迎え入れるべきであろう。違うか?』
 一切の躊躇なく言い切る姿に舌を巻く。古代インド人なんて実在していても生きているわけがない。それでもドゥリーヨダナならあるいは、と思わせるだけの圧があった。
「実在した王侯貴族であれば追い返すのも気が引けますね……
 実際に黒髪の美丈夫は納得しかけているし。
「面白い切り口だ。ルール上は通してあげられないが、無下にもしたくないね」
 金髪の男も楽しそうに目を細めている。
「おお……! 丸め込まれてる!」
……君たち、少し気をつけたまえよ。私たちが相手だったからいいものの、他の人にやったら怒られてしまうからね」
「うっ」
『ふん』
 ぽろっと本音を零せば、きっちりと釘を刺される。確かに意見がぶっ飛んでいるから忘れがちだが、礼節においてはかなりの無礼を働いている。そしてそもそもこの店は一見さんお断り、つまり紹介者がいない時点で本来なら終いなのである。むしろここまで話を聞いてくれたことに感謝するべきだ。
 少し申し訳なく思いながらも、金髪の男性を正面から見据える。そのことが分かっていても、ドゥリーヨダナとの記念すべき一歩目を諦めたくない自分がいた。
――ではこうしよう」
 ぱん、と金髪の男が手を叩く。
「都内にはこの店、雀のお宿の店主・紅閻魔女将の弟子や料理仲間がいる。その内の二人から紹介状を手に入れられれば、私の責任で君たちを通してあげよう」
「本当か……っ?!」
 出された提案に歓声を上げる。王侯貴族――現代でいう政治家やそれに類する権利者――を捕まえるより、圧倒的に難易度が低い。それでも探すのは相当苦労するだろうが、この店を見つけられたドゥリーヨダナとなら、きっと見つけられるはずだ。ビーマの心は俄然燃えている。
『このわし様を試すというか』
 ドゥリーヨダナが鼻を鳴らす。機嫌が直ったのか、声が丸い。
「これでもかなり譲歩した方さ。納得がいかないなら、」
『構わん。わし様のAIとしての実力、そして王子としての権威を見せてやろう』
 金髪の男の言葉を遮り、ドゥリーヨダナが宣言する。ビーマとドゥリーヨダナの道は決まった。そもそも店巡りは二人の本懐でもある。そこにもう一つ、紹介状集めというミッションが加わっただけだ。ならばやることは変わらない。ただ料理に舌鼓を打ち、再現レシピを蒐集する。そしてついでに紹介状も収集する。それだけだ。
「では決まりだ。またの来店をお待ちしているよ」
 金髪の男が話を締めくくる。こうして記念すべき一店舗目は、条件付きの入店拒否で終わったのであった。

❀❀❀

「すげぇ舌戦だったな……!」
 興奮冷めやらぬまま、ドゥリーヨダナに語りかける。ビーマだけであれば門前払いだった店に、ドゥリーヨダナの屁理屈で希望を見出したのだ。これを凄いと言わずして何としよう。
『ふん。わし様としては納得いかんがな』
「まあ店には入りたかったよなぁ」
 ドゥリーヨダナはまだ引っかかるところがあるらしい。それを言ったらビーマも料理にありつきたかったが、事情が事情なので仕方がないとも思う。
……お前はあまり、期待しておらんかったのか?』
「なんでだよ」
 躊躇いを持って投げかけられた問いに首を傾げる。期待していたかで言えば、かなり期待していた。実はビーマは鼻がいいのだが、あの舌戦の最中さなか、店の外にまで炭火焼きの芳ばしい香りがしていた。あの香りだけで間違いなく当たりの店だと分かる。ドゥリーヨダナの審美眼は正しかったのだ。
 だからこそ恥だなんだと食い下がるこいつを止めなかった。二人の門出に相応しい店はここしかないと思ったのだ。でなければあそこまで足掻きはしない。ドゥリーヨダナの音声をミュートにして謝って終わりである。
『ノリが軽い』
「そうか? これでも結構、ワクワクしてるんだがな」
 ビーマの情熱はドゥリーヨダナに伝わらなかったらしい。口下手なりに言葉を重ねてみるが、画面の中のドゥリーヨダナは胡乱げな顔をするだけだった。
『悔しいではなく?』
「金輪際入れねぇってわけじゃねぇだろ。ちゃんと条件も出してくれたし」
 ドゥリーヨダナの問いかけに素直に答える。今日食べられなくて残念だとは思うが、入れなくて悔しいとは思わない。細い糸とはいえ、入店の条件は提示されている。あとはそれをこなして、また食べに来ればいいだけの話である。
『それでなぜワクワクするのだ』
 尚もドゥリーヨダナが問いかける。ビーマの相棒は何を気にしているのだろうか。よく分からないけれど。
「お前が記念にって選んだ店だ、絶対美味いに決まってる。それが食べれるかもしれねぇんだ。ワクワクしない方がどうかしてる」
 思考は至ってシンプルだ。二人で紹介状を集めて、二人でまた来店する。次こそはその料理に舌鼓を打って、再現レシピを手に入れてやる。
――――お前は、』
「ん?」
…………いや、花畑のような頭をしとるな、と』
 そっぽを向いたドゥリーヨダナが暴言を吐く。今そんな流れじゃなかったと思うのだが。
「二つ折りにするぞ」
『困るのはお前だと思うが』
 はーっとため息をつけば、ドゥリーヨダナがさらりと言い返す。相変わらず減らず口が多い。
「チッ」
『こやつ舌打ちしおったぞ!』
 やる気に水を差された心地のまま、桜の小道を引き返す。さらさらと揺れる花びらは行きと同じ表情をしていて、大した時間が経っていないことを感じさせる。
 それでもてくてくと歩き続ければ、まるで慰めるように花びらがひらひらと舞い落ちてくる。その内のひとつを掴み取れば、ちょんと乗った桜色に心の蟠りも解けて消える。
 そうして気が付けば雀のお宿は既に遠く、枝垂れ桜の大通りまで戻ってきていた。
……………………
……………………
 滝のように流れる桜の中、来た道をのんびりと戻る。荘厳な桜は何度観てもうつくしく、何があろうと二人の門出を祝ってくれているように見えた。
……しかしこれで負け帰るのは癪だな』
 静寂を破り、ドゥリーヨダナが不服そうに声を上げる。言いたいことはとても分かる。
「確かになぁ。――あ、そうだ」
 ドゥリーヨダナのげんが呼び水となって、記憶が思い起こされる。次の店となるとハードルが高いが、再現レシピの蒐集であればあるいは。
『なんだ、何かあったか』
 ドゥリーヨダナが何事かと食いつく。
「レシピの蒐集でひとつやりてぇことがあったんだ」
『ほう。言ってみろ』
 提案すれば先を促される。ドゥリーヨダナも興味を持ってくれたらしい。
「昔……小学生の頃に、弁当交換って言えばいいのか? それで卵焼きってのを食ってよ」
 懐かしい思い出を頼りに、話を切り出してみる。実はこの卵焼きが、ビーマが日本食に興味を持ったきっかけだった。インド料理とは全く違う、素朴な味に心を打たれたのである。しかし当時は既にレシピの研究を始めていて、インド料理との同時進行は不可能だと渋々諦めたのだ。
『卵焼きか』
「それを再現してぇ。ドゥリーヨダナとしちゃ華やかさに欠けるんだろうが」
 薄ぼんやりとだが、このAIの性格も分かってきた。たぶんこいつは箔が付くとか、権威を示すとか、そういう自分を華やかに見せるものが好きなのだ。自分が何よりも優れていることを疑わないし、誇示するのも好んでいる。
 であれば最初のレシピが卵焼きというのは、ドゥリーヨダナの矜恃に反するかもしれない。そっと窺うようにドゥリーヨダナを見れば、目を瞑って思案する姿が映る。
………………いや、今のわし様たちにはその程度が丁度いいのかもしれん』
 首を振ったドゥリーヨダナが顔を上げる。ぱっちりと開いた赤紫の瞳には強い意志が宿っており、ようやく吹っ切ったのだと伝わった。
「いいのか?」
『構わん』
 ビーマが念を押せば、あっさりと流される。一度吹っ切れば立ち直りは早い方なのかもしれない。
『その卵焼きはどんな味だった? 甘かったか、しょっぱかったか』
 早速出された問いに、記憶を掘り起こして答える。
「甘かったぜ。しょっぱいのもあるのか?」
『甘いのとしょっぱいのと、甘じょっぱいのがある』
「へぇ! 種類が多いんだな」
 ドゥリーヨダナの解説に驚く。卵焼きと一口に言っても、様々な種類があるらしい。ビーマは全く知らなかったので、勉強になると頷いた。
『日本料理は地域柄で味の違う料理がいっぱいある。有名なのはお雑煮だな』
「おぞうに」
『正月に食べる汁物だ。出汁汁だしじるに塩と柚子皮……吸い物もあれば味噌汁もある。地域によっては汁粉なんてこともあるな。餅の形や具材も違う』
「なるほど。ビリヤニみてぇなもんか」
 ビリヤニといえば各地域、家庭で味が違うものだ。ビーマのレシピ集にも載っているが、これはあくまでもビーマが考える至高のビリヤニにすぎない。人が違えばレシピも違う。使う具材も、炊き上げ方も異なる。お雑煮とは、そんなビリヤニのような存在なのかもしれない。
『近いかもしれんな。そして卵焼きにも地域柄……というより家庭ごとに味の違いがある』
「そういうことか。俺が食ったのは甘いやつで、そいつの家は甘い卵焼き派の家庭だったってわけだ」
 ぴこんと思いつくままに言葉を口にする。ドゥリーヨダナの説明は簡潔で分かりやすい。大学の勉強もこのくらい分かりやすいと助かるのだが、果たして。
『料理だけは理解が早いな』
「お前が褒めるなんて珍しい」
 ぱちくりと瞼を瞬くと、ドゥリーヨダナがむっと唇を突き出した。
『卵の殻が大量に混入する呪いをかけておこう。それはそれとしてレシピはそれほど難しくない。さっさと材料を買って帰るぞ』
 何とも拗ねたような声に頬が緩む。ドゥリーヨダナとしては褒めるつもりなどなかったのだろう。ただ本当にぽろっと零してしまっただけで。そんな気の緩んだやり取りが、二人の距離感を示しているようで少し照れくさい。
「卵の殻って取り出すの大変なんだぜ?」
『知らん』
 たわいのない会話が、どうしたって楽しく思える。これは一人でやっていた頃にはなかった感覚だ。
 その得難い喜びを胸に、足取りも軽やかに桜の下を歩いていった。

……白だし?」
『ウム。これだけは百貨店ここでしか手に入らなくてな』
 帰りに百貨店に寄る、と言い出したのはドゥリーヨダナであった。その宣言通りに今、ビーマは百貨店の乾物コーナーに立っている。
「ドゥリーヨダナのイチオシってことか」
 目の前に海藻がずらっと並ぶ中で、ぽつんと瓶入りの調味液が置いてある。この瓶こそがドゥリーヨダナの言う白だしであった。
『和食において出汁は命だ。適当なものを使うと味が雑になる。成分表示を見てみろ』
 言われるがままに瓶を手に取り、くるくると回してみる。裏側の成分表を見れば、何やら難しげな漢字が並んでいた。
「なんちゃら昆布、と……まぐろの節?」
羅臼らうす昆布だ。それと鮪の節・枯節かれぶしを合わせ、薄口醤油――今回は小麦醸造調味料しろたまりだが――などの調味液で整えた万能出汁を白だしと呼ぶ。まあ中身が鰹節のものが一般的だが、わし様のおすすめはこっちだ』
 ビーマが読み上げると、ドゥリーヨダナが解説を挟む。この難しい漢字は羅臼らうすと読むらしい。そして昆布と鮪の出汁なるものが万能調味料のようだ。ビーマとしてはマサラを思い出すのだが、使い方は似たようなものなのだろうか。何にせよ、新しい調味料との出会いはいつだってわくわくする。
「使うのが楽しみ……なんだが、値段がっけぇなぁ」
『材料にいいものを使っておる。更に調味液にも余計なものが入っていない。雑味がないだけで料理の気品が一気に上がるぞ』
 ドゥリーヨダナが勧めるだけあって値段が高い。しかしマサラのような使い方を想定すれば、この一本で相当な量が作れるはずだ。ドゥリーヨダナに確認すれば、マサラとは違うが一回量は大さじ程度という回答があった。ならばそこまで家計の負担にはならないだろう。
「何本買って帰ればいい?」
『とりあえず一本でいい。ものによっては昆布と鰹で一から出汁を引いたりもする。要は使い分けだ』
 一から出汁を引く。また知らない概念が登場した。出汁とはこの液体調味料のことではないのか。それともお雑煮と同じく種類があるのだろうか。白だしは出汁の一種であるとか。あるいは出汁本体を簡略化したもの――市販のペーストのような――であったり。頭の中で出汁という言葉がぐるんぐるんと回る。しかし。
「なるほどなぁ。よく分からんが、奥が深そうでいい」
 料理の研鑽はビーマの得意分野である。特に奥が深くて探求しがいのあるものだと尚嬉しい。つまり出汁という、複雑そうなものなどは大歓迎だった。
『そう言えるなら料理人には向いていよう。ついでに昆布と鰹節も買って帰るぞ』
 ドゥリーヨダナがくふくふと笑う。機嫌の良さそうな声にビーマの口元も緩む。また褒められたと思ったが、嬉しかったので指摘はしなかった。
「昆布っつってもいっぱいあるぜ? 羅臼昆布を買えばいいのか?」
 棚から少し距離を取り、スマホのカメラを向ける。昆布だけでもかなりの数がある。
『いや、鰹節と合わせるなら利尻りしり昆布だ』
「りしり」
『上から二段目の、左側。利用するの利にケツの尻だ』
「なるほど利尻昆布。何が違うんだ?」
 利尻昆布のパックを手に取り、しげしげと眺める。棚に置かれた羅臼昆布と見比べても、特に違いは感じない。恐らく昆布に対する造詣が低いせいだろう。こういう時は素直にドゥリーヨダナを頼った方がいい。
『品種も違うし厚みも違う。利尻昆布は旨味が強いのにクセがなく万能で、羅臼昆布は濃厚な旨味がガツンとくる』
「ほぉん」
 厚みと言われて気づく。確かに羅臼昆布の方が厚みがある。こういう違いは後々に響くものだ。実際の味はまだ分からないが、別物だろうことは想像に難くない。
『実食すれば――……いや、そうか。そもそもインド料理漬けだったお前には出汁が分からんのか!』
「知っててスルーしてるんだと思ってたぜ」
 電撃が走ったかのようにドゥリーヨダナが叫ぶ。ビーマはドゥリーヨダナなりの考えがあるのだろうと思っていたが、違ったらしい。
『そんな訳なかろう。出汁とは、食材を水やお湯に漬けることで抽出できる旨味成分のことだ。イメージとしては、そうだな……トマトを想像しろ』
 水に漬けることで抽出できる旨味成分。そしてインド料理ではトマトがイメージに近い。まるで化学のような言い回しだが、お陰で少し尻尾を掴めた気がする。つまり。
「グレイビーか!」
 出汁とは料理の下地、グレイビーのことだ。インドカレーの下地には、必ずと言っていいほどグレイビーが使われている。トマト・玉ねぎ・生姜・にんにく・ナッツ・塩・油・各種スパイスを煮込んで作るカレーの素は、どのカレーを作る上でも欠かせない。これが日本食においては出汁なのだろう。自信満々に答えれば、ドゥリーヨダナがふっと笑った。
『正解だ。もちろん中身は全く違うのだが、何というか……こいつが一番近い。あるいはケウラウォーター……いや、忘れろ。つまるところ、出汁は料理に旨味と香りを出すために使うのだ』
「なるほど。じゃあこの昆布や鰹、鮪ってのは玉ねぎや生姜みてぇな立ち位置なんだな?」
 一度結びついてしまえば理解は早い。玉ねぎだって水で煮込めば味付きの玉ねぎ汁ができる。トマトならペーストだ。同じように昆布や鰹、鮪を漬けたり煮たりすることで、味付きの汁――出汁ができるのだろう。
『むう。当たらずとも遠からずだ。組み合わせごとにベースが変わってくる』
「だいたい分かってきたぜ」
 グレイビーに種類があるように、出汁にも種類があるようだ。だから食材の組み合わせが複数存在する。この違いがどうやって味に活きてくるのか、大変に楽しみである。
『あとは実地で教える他ない。今はそんなものなんだと思っておけ』
「分かった」
 出汁の取り方はまだ開示されないらしい。実地でということは、口頭で説明するのが難しいのだろう。ある種の予感がして、俄然やる気が湧いてくる。こういうのは相応の難易度がある方が、極め甲斐があって良いのだ。
「昆布はこれでいいとして、鰹節はどれとかあるか?」
『本枯節だ。血合い抜きと両方買う。本枯節とは――
 ビーマが素直に聞くからか、ドゥリーヨダナの解説もかなり白熱している。そのどれもが知らないことばかりで、とても勉強になる。更にドゥリーヨダナなりのこだわりも垣間見えて、ほくほくとした気持ちになった。
 ただ二人で買うものを選んでいるだけなのに、たったそれだけのことがどうしたって楽しい。兄弟たちと行く買い物も楽しかったが、ここまで食材に熱中したことはなかった。
 改めて相棒になったドゥリーヨダナの、得意げな顔を見つめる。これからはずっと、こういう日々が続くのだ。そう思えばむずむずと口元が緩んでくる。ずっとこういう談義がしたかったのだと、過去のビーマが笑っているのを感じた。 

 百貨店から更にショッピングセンターへ移動し、全ての買い物を終えた二人は、自宅のキッチンに戻ってきていた。
『さて、用意も整ったところでレシピを開帳するぞ』
「おう!」
 スマホスタンドをコンロと調理台の間に置き、キッチン全体が見渡せるように固定する。背を向けた形で奥に置くのも考えたが、ドゥリーヨダナの顔や声を確認しながら調理したかったのでこの形にした。腕をぶつけないようにだけ気をつけよう。
『材料は卵、白だし、みりん、砂糖だ』
 全てが調理台の上にあることを確認し、新品の四角いフライパンを取り上げてコンロの上に置く。
「こいつが卵焼き器……と、あとは焼く用の菜種油だな」
 自宅にあるのはマスタードオイルとギーだったため、急遽買い足した油を付け加える。これをフライパンに引くと、具材がくっつかなくていいのだ。
『よォしよし。では調理に取りかかるとするか』
「だな!」
 食器棚からボウルを取り出し、手元に置く。ここからはドゥリーヨダナの指示に従って、実際に卵焼きを作っていく。
『まずは卵をボウルに入れ、溶きほぐす』
 ボウルに卵を三つ割入れ、菜箸で白身を解すように掻き混ぜる。菜箸は普段から使っているので、扱いも熟れたものだ。そうしてある程度綺麗に混ざったところで手を止めた。
「まあここまでは簡単だな」
『そのくらい出来なくては困る。ところでザルはこの家にあるか?』
「あるぜ。濾せばいいのか?」
 食器棚からボウルと網目の細かいザルを取り出す。何回と聞くと三回というので、えっちらおっちらザルで濾すのを繰り返した。すると混ざりきっていなかった卵白が解れ、綺麗な黄色い卵液が出来上がる。
「綺麗なもんだ」
『ふわふわの卵焼きには欠かせん工程だ。次に各調味料を入れ、混ぜ合わせる。絶対に泡立てるなよ!』
「了解!」
 みりん、砂糖、白だしを匙で測り入れ、滑らかに混ぜ合わせる。全く泡立つこともなく、少し色の付いた卵液をカメラに向ければ、ドゥリーヨダナが満足そうに笑った。それを合格と受け取り、次の指示を待つ。
『では実際に焼いていくぞ。卵焼き器を中火で熱し、サラダ油を薄く引く』
「キッチンペーパーを使うと便利だな」
 卵焼き器に小さく油を垂らし、菜箸に挟んだキッチンペーパーで薄く広げる。この辺りの知識は小学校の家庭科で習ったものだ。日本に住んでいると、あちこちでこういう知識に触れる機会があって助かる。
『ウムウム。熱くなったら卵液を入れる。ただし! 三回に分けて均等にだ』
「ほう」
 菜箸で卵焼き器に触れ、微かにだがパチパチと油が弾ける音を聞く。これが熱し終わった証左である。
『チャパティに喩えると分かりやすいか? あれを三枚丸めて重ねると考えろ』
「あー、なるほど? チャパティだと割れちまうと思うが」
 ドゥリーヨダナの解説を聞きながら、卵一個分と思しき量を卵焼き器に注ぐ。すると卵液が広がっていき、自然と薄く四角い形に収まるのが見えた。その動きのうつくしさにほうと息を吐くと、ドゥリーヨダナが鼻を鳴らす。
『イメージの話にケチをつけるでない。そして卵に火が通り過ぎるとまずくなる。底に火が通り、表面が半分ぐじゅぐじゅの内に手前側へ折り込め』
 ふんふんと指示を聞き、卵焼き器の形に沿って焼けた卵を三つ折りに折り畳む。
「こういうことか?」
 さっとカメラ側に卵焼き器を傾け、ドゥリーヨダナに確認を取る。
『そうだそうだ。調理の技術に問題はなさそうだな』
「そりゃあな、ある程度のことはできるぜ」
 胸を張って答えつつ、卵焼き器を火から離す。火を通しすぎると良くないようなので、指示を待つ間はこの方がいいと判断したのだ。
『そうしたらその塊を奥へやって油を引き、持ち上げながら卵液を敷く』
「繰り返し折り畳むんだよな?」
『その通りだ』
 後は巻く作業を繰り返せばいいようだ。卵焼き器をコンロに戻し、手早く油を引いて卵液を敷く。卵焼きの雛の下にも卵液が行き渡ったことを確認し、卵の火の通りを見ながら半熟で折り畳む。それを二回繰り返せば、記憶にある卵焼きを長くしたやつが出来上がった。
「おお……! なんかそれっぽいのが出来たぜ!」
 火を止め、卵焼き器をコンロから下ろす。中身をカメラに映せば、早く引き上げろと怒られる。慌てて平皿を引き寄せ、卵焼きを滑らせる。ちょんと皿の真ん中に鎮座した卵焼きは、見るからに黄色くふわふわとしていて美味そうだった。
……やはり少し火が通り過ぎておるな。指示を出しながらだったから仕方ないが』
 改めて皿を差し出せば、眉根を寄せたドゥリーヨダナがぼやく。確かに二回目、三回目の巻きに比べると、一回目は割と火が通ってしまった感覚がある。しかしドゥリーヨダナの言う通り、指示を聞きながらだったので仕方ないとも思う。
「ん。でも味は美味しいぜ!」
 平皿を手元に回収し、スプーンで切り分けながら掬って口に運ぶ。ひと噛みすればしっとりふわふわの卵から、柔らかな甘みとほのかな旨味がじわっと広がっていく。子どもの頃も、この柔らかな衝撃に魂を撃ち抜かれたのだったと思い出しつつ、甘くて柔らかなそれに舌鼓を打つ。やはり卵焼きは美味しい。
『再現できておるか?』
……あー」
『なんだ』
 ドゥリーヨダナの問いに口篭る。皿の上の卵焼きは既に腹の中で、美味かったことに間違いはない。しかしだからといってこれを言っていいものか。逡巡して、口を開く。
「こっちの方が美味うめぇ」
『ふっはは』
 もう顔も思い出せない級友の母に申し訳ないが、ビーマとドゥリーヨダナの作った卵焼きの方が好みだし美味しかった。それを素直に答えれば、ドゥリーヨダナが可笑しそうに笑った。
「もうこのレシピが正しいってことにしようぜ」
 ビーマの提案を聞き、ドゥリーヨダナが腕を組む。
『それはきっちり半熟で作り直してからな』
「それもそうか」
 ドゥリーヨダナの言うことも最もだ。卵なら失敗も鑑みて四パック買ってある。卵焼きをもっと食べたいし、折角だから全て焼いてしまおう。ドゥリーヨダナに言えば呆れられたが、気にせず卵を手に取り調理に戻る。買ったばかりの卵焼き器も大活躍であった。
 たくさん並んだ卵焼きを包丁で切り分け、並べたり積み上げたりしてタワーを作る。シャンパンタワーならぬ卵焼きタワーである。その上から一切れずつ摘んで、どんどん口の中に放り込んでいく。
「んー! 柔らかくて美味ぇ!」
 しっかり半熟で折り畳んだ卵焼きは口溶けが滑らかで、じんわりと広がる甘みと卵の味、ふわふわの食べ心地が癖になる。更に白だしの旨味もよく効いていて、味に上品な塩味と奥行きが生まれている。これならば味も単調にならず、ずっと楽しんでいられる。加えて黄色の断面もうつくしく目に楽しい。これを売り物と言っても、きっと驚かれはしないだろう。
『気に入ったようで何よりだ』
 ぱくぱくと食べ続けていると、ドゥリーヨダナが呆れたような口調でそう言い放つ。それに元気よく声を返せば、画面枠から身を乗り出したドゥリーヨダナが目を細めて笑った。
「これで再現レシピひとつ目だな!」
『調理の腕も見れたことだ。今回は良しとしよう』
「素直じゃねぇなぁ」
 初めての和食レシピ、それは二人で作り上げた卵焼き。ビーマがにかりと笑って喜べば、ドゥリーヨダナが捻くれた言葉を付け足してくる。ビーマの相棒はやはり素直ではない。しかし声の調子が頗る明るいから、喜んでいるのはバレバレである。
 ドゥリーヨダナは全てが全て顔と声に出ているのだが、自覚していないのだろうか。しかし指摘するのも野暮なので、ビーマは絶対に教えてやらない。今のままの方が可愛げがあるというものだ。
 最後の卵焼きを摘み、口に運ぶ。二人で始めたレシピ蒐集は、この卵焼きのように優しく甘やかであった。


続く