やまだ
2026-06-09 11:57:19
3067文字
Public 無双オリジンズ
 

No title

惇紫 お手伝いの話

 読み書きのできる人間がひとり増えるだけでもありがたいのに、さらにそれが意思疎通に手間のかからない相手であれば最高である。仕事に主観が入らなければなおいい。
「つまりね、あなたは私たちにとってこの上ない同僚なのさ」
 にっこり微笑む郭嘉の手はすさまじい速度で墨を磨っており、その傍の荀彧は新品の竹簡を卓上に次々広げている。荀攸と賈詡は別の卓で地図を挟んで碁石を動かしあっていて、そして紫鸞は膝に積み上げられた竹簡の重さにおののきつつ、それらを取り上げては一巻ずつ朗読していた。
 紫鸞以外の全員が自分の作業をこなしつつ雑談に興じ、互いの仕事に意見を交わすことさえしながら紫鸞の読み上げも聞き逃さずに動き回っているのだ。ただ読むだけで本当によいのだろうか、とさすがに気後れしたものだったが、それすら耳に入れた郭嘉の先の言である。
「あなたたちは凄いな」
 心からの称賛は軍師たちを苦笑させてしまった。
「我々の本分はこちらですから。戦場であなたの武功を耳にするたび、同じことを思っておりますよ」
 郭嘉に筆を渡した荀彧がそう言ってくれるが、いまいちぴんとこない。紫鸞を戦場で動かす基礎となるものはやはり彼らの智で、それを大きく外れて動いたことはないからだ。
「紫鸞殿、手が止まっています。読み上げを続けてください」
「今あんたに任せてるそいつもお仕事だ。忘れてもらっちゃあ困る。なにせ口は誰にもひとつしかついてないんだからな」
「申し訳ない」
 はっとして掌中の竹簡に角度をつける。途中で止めてしまっていた文章の向こうでは、賈詡が紫鸞へにやりと笑いかける隙に荀攸から碁石を奪われていた。
「ぜひ今のうちに喉を酷使しておいてほしいな。紫鸞殿」
 流れるように筆を操る郭嘉が微笑んだ。
「今夜は私たちの奢りだ。たっぷり楽しんでもらえるよう、すでに店を取ってあるからね」
 
 
 以前そういうことがあったのだ、と語る紫鸞の前では、夏侯惇がやはり竹簡と地図とに埋もれた卓に覆い被さっていた。よい天気なのに誰も彼も忙しくしていて、正式な役職のない紫鸞ばかりが城内をぶらぶら歩き回って遊んでいる。
 忙しい誰も彼ものうち、特に夏侯惇は見るべきことが多いというのに、他者よりも目がひとつ少ない。本人は淡々と過ごしているが、隻眼というものは身体への負担がなかなか侮れないのだという。友人の医者から聞いた話だ。
「なんだ、飲みに連れて行けという話か?」
 大らかで読みやすい文字を書く夏侯惇の筆跡を上下逆で追いかけながらかぶりを振る。
「それもあるが。俺にも元譲殿の手伝いができるのではないかと思った。やれることがあれば言ってくれ」
 読み書きができるだけでありがたい、という頭脳労働組の言葉は紫鸞に勇気を与えた。常日頃から夏侯惇の世話になっている自覚があるため、こういうところで恩が返せるなら返したい。
 一行書ききって筆を置いた夏侯惇の隻眼が上がる。
「どんなことでもいいのか?」
「もちろん」
 今度は頷いた紫鸞をじっと見てから、夏侯惇は卓の片隅に積み重なっていた簡をひと摑みして紫鸞の前に置いた。同じ動作を何度も繰り返し、紐で組めばちょっとした長さの竹簡ができあがりそうな量の山を作る。
「殴り書きで構わん。諾、否、と、それぞれを簡一枚に一字ずつ記してくれ。あればあるほどいい」
 こう使う、と、夏侯惇はわざわざ手近な竹簡に簡を一枚挟んで見せてくれた。まずはこうして案件を大雑把に仕分け、そこからさらに細分化していきつつ処理するのだと言う。
「あれば助かるが、自分で用意するのは面倒でな」
「なるほど」
 借りた硯に墨を磨り、筆をとる。考える必要のない単純作業は紫鸞の得意とするところだ。一定の速度で二字を交互に書き記す。
 軍師たちの手伝いをしていたときの賑やかさとは打って変わって静まり返った、墨の香りと衣擦れの音しかしないような室内は、そっけなく見えて随分居心地がいい。誰かと似ているようだと、そう考えると愉快で、紫鸞はそっと微笑んだ。
「飽きが来たならそこでやめても構わんぞ。同じことの繰り返しでつまらんだろう」
「平気だ。それに、あなたの手伝いができるのは嬉しい」
「童子のようなことを言いおって」
 紫鸞の本音を鼻で笑い、夏侯惇は手にした竹簡へ墨が乾きたての「諾」を一枚挟んだ。早速役に立っている。
「俺は学もないし、考えるのも苦手だろう。だから賢い人たちから感謝されると背筋が伸びるような気になる」
……おい。まさか自分のことを阿呆だなどと思ってはおらんだろうな」
 諾、と書いた簡を渡すと夏侯惇はこれ見よがしなため息をつく。
「文字が読め、書けるだろうおまえは。しかも悪筆というわけでもない」
「師がよかった」
 朱和に白鸞はもちろん、里の大人たちも紫鸞の学習を面倒がらずに助けてくれていた。加えて今は邸に元化がいるので、たまに書の読みかたを教わっている。
「発音もいい。訛っておらず聞き取りやすい。だから郭嘉たちもお前に読み上げを任せるのだろうな」
「そうなのだろうか……
「まあ、声が幾分小さくはあるが」
 反射的に否、を書こうとした手が直前で迷った。なぜならば、夏侯惇の言葉が揺るぎなく事実であったからだ。
 彼は紫鸞へこれまで一度も偽りを口にしたことがない。渋々と諾を記した紫鸞の対面で、夏侯惇が新しい竹簡を広げる気配がした。
「文字の読み書きも美しい発音も学習の成果だろう。もっと誇れ。でなければおまえの師も甲斐がないであろうが」
 ことあるごとに夏侯惇はこうして紫鸞へ自己主張をしろと言ってくれる。かつては叱られているのかと思ったが、各地を随従する機会が増えるなか、この人の思いやりから出てくる言葉なのだと知るようになった。それからは、似たことを聞かされるたびどうにもこそばゆい。紫鸞も夏侯惇との付きあいはそこそこ長くなってきたほうだと自認しており、その慣れは紫鸞の舌を軽くした。
「俺は元譲殿の耳目手足なのだろう。手は育ちを誇らぬものだ」
 かつて冗談半分で言われた言葉を、紫鸞はいつまでも記憶している。曹孟徳大事のこの人が、外から流れてやってきた縁故も後ろ盾もない男をそこまで内側に抱えこんでくれようとしたことが忘れられない。夏侯惇自身が紫鸞の後見ぶっているようなところもあり、紫鸞はそれに甘えて彼からひとつ言質を取ったのだった。
 右側の眉を上げて待つ夏侯惇へ、右側の頬を上げて返す。
「それとも惇兄、あなたは日々ご自分の御手を労っておいでか」
 紫鸞には、自分が夏侯惇に近しい存在だという自信がある。こう呼ぶことを許されているだけで十分なのだ。その価値があると、夏侯惇ほどの男から認められるのは随分と気分がいい。
「おまえという奴は……
 大きな溜め息も墨を乾かすのにちょうどいい。紫鸞がさっと差し出した数枚の簡は、しかし息が当たる前に厚い手に回収されてしまった。卓の向こうに去る手を惜しみながら見送っていると、空になって改めて紫鸞へ伸びてくる。指が紫鸞の前で丸くなり、勢いよく伸びた中指は容赦なく額を弾いた。
「痛い……
「であればもう少し痛そうな面をしてみせろ。褒めても叱っても甲斐のない奴よ」
 紫鸞は少し考え、手元の簡へ可能な限り丁寧に諾を記した。鼻の前にそれを持つと、思いきり眉を下げた泣き顔をしてみせる。
 瞬時に頭を鷲掴もうと伸びてきた手をかわしきり、紫鸞は声をあげて笑うのだ。