千代里
2026-06-08 17:49:11
10855文字
Public 君ふれ短編
 

君ふれ・クガネ編・26話


 小金通りでのそぞろ歩きは、ギンチョウだけでなくユキハネにとっても少なからず気晴らしになった。
 ギンチョウが勧めてくれたクガネ名物のお菓子はどれも美味しかったし、ユキハネにとっては異国の味であると同時に、懐かしさを沸き立たせる味でもあった。
 その一つでもある煎餅を齧りながら、クガネの土産物を見て回るのは、ケイと共に巡るのとはまた違う楽しみがあった。地元のことを知ってもらおうと思ってか、ギンチョウはユキハネに一つ一つの店について説明してくれた。
 一方で、ギンチョウに帯留を送るオロシの姿と、それを真っ赤になって受け取るギンチョウの様子を微笑ましく見守る、などという場面もあった。
 ――平和だ。
 まるで普通の町娘のような、平凡ながらもかけがえのない平穏。ユキハネがハタオリ家の娘として育っていたなら、当たり前のように享受してたはずの穏やかな日々。
 けれども、ユキハネは冒険者だ。
 美味しい駄菓子も、煌びやかな小物も、彼女の胸を躍らせはするものの、どこか空虚な隙間を残してしまう。
 そして、その隙間を埋めるのは、お菓子でも着物でもなかった。
「冒険者の道具って、こんなにも色々あんのね。ただの縄もあるじゃん。これって、何に使うの?」
「ロープは色々なことに使えますよ。鉤爪に結んで崖を登るのにも使えますし、荷物をまとめるのにも欠かせません。盗賊を捕まえた時には捕縛に必要ですし、出血を抑えるための血止めに使うこともあります」
……なんか、冒険者ってあたしが思ってたより泥臭いんだね」
 ギンチョウには呆れ半分の視線を向けられたが、ユキハネはどこ吹く風で、彼女をオロシに預けてずんずんと店の奥へと向かった。
 ギンチョウは、約束通りユキハネを冒険者向けの品を扱う店に連れてきてくれた。店内に一歩入った瞬間、ユキハネは今まで感じていた隙間がぴたりと埋まるのを感じていた。
 見慣れない瓶に入ってはいるものの、棚に並んでいる薬はユキハネにも見覚えのある錬金薬だ。粉薬が多いのは、ひんがしの国独自の加工方法があるからかもしれない。
 ギンチョウが話題にしたロープはもちろんのこと、荷物を入れる革製の袋や水筒も売られている。様式こそ違うものの、どれも冒険者の必需品だ。
 部屋の端にいくつも並んでいる武具には、立派な体格のアウラ族やヒューラン族の青年が幾つか手に取り、どれが良いかと吟味をしていた。
「すみません。ちょっと見せてください」
 小さなユキハネが彼らの間に入ると、一斉に驚き交じりの視線を向けられる。それらを無視して、ユキハネは武具売り場の片端に並んでいた杖へと手を伸ばした。
「すごい……。これが、東方の魔道士が使う杖なのですね」
 彼女の背丈ほどもある杖を手に取り、ユキハネは目を輝かせる。少し触れただけで、エオルゼアのものと材料が異なると分かった。
 だが、どこか既視感があるのは、東西関係なく使われる〈魔法〉という存在に対してのアプローチが同一だからかもしれない。
「私が使っている杖とは、恐らく作成時の手法も違うのでしょうね。でも、これはこれでバランスが取れています」
 ユキハネが魔道士として魔法に向き合ってきた期間は、二年と少し。熟練の魔道士と比べれば、大した目利きができるわけではないと自負しているが、それでも文化の違いから生まれた杖の様式の差くらいはすぐに見て取れた。
 試しに手に取った杖は、木を加工して作られたものだ。エオルゼアで手に取った杖とは手触りが異なるので、東方にしか生えていない木を利用しているのだろう。
 黒塗りの先端には、全体的に刺々しい意匠が施されており、中心部には大きな真珠に似た丸い宝石が嵌められている。
 対して、石突側は目の覚めるような朱で塗装されていて、金飾りが杖に華やかさを与えていた。先端には複雑な飾り結びの金色の紐がかけられていて、ユキハネが手に持った弾みで軽く揺れた。
(この杖、見た目より軽くて私でも取り回しやすいです。最近使っていた杖は少し傷んできていますし、新しい杖に変えてもいいかも)
 そう思い、ユキハネはいつもの癖で振り返る。
「お師様、この杖買ってもいいでしょうか?」
 だが。
 応える声は、なかった。
――――
 店内にこだまして、消えていく自分の声。
 背後にいるのは、怪訝そうな顔でこちらを一瞥する男たちばかりで、見慣れた灰肌の男はいない。
 唇を、ぎゅっと噛む。
 そうしていないと、自分の中に駆け巡る無数の感情が溢れ出してしまいそうだった。それらは、まるで高熱の溶岩のようにどろどろとしていて、ひとたび噴き出てしまえば、きっと止められないだろうと自分で分かっていた。
……そうでした。私は、今はもう冒険者じゃないんです」
 己に言い聞かせるように口にしたものの、同時に「違う」と否定したい自分がいた。
 その矛盾が堪らなく苦しくて、目を瞑り、瞼に力を込めた時だった。
「もしかして、ユキハネか?」
 聞き覚えのある声が角に届き、固く閉ざしていた瞼を持ち上げる。
 再び振り向くより早く、自分の視界に見覚えのある青髪の青年が映り込んだ。まだ青さが残りつつも、心配そうにこちらを覗き込んでいる彼は間違いない。クガネを訪れるきっかけをくれた青年――ヒョウセツだ。
「ヒョウセツさん。どうして、こんな所にいるのですか?」
「店の手伝いで、配達に行ってたんだよ。その帰りに、ちょっと寄り道してみようかなって」
 少し気まずげな表情をしているのは、冒険者ではない自分がこの場にいることがユキハネに知られたのが恥ずかしかったからか。
 とはいえ、ユキハネは「いつか冒険者になれたら」と望むヒョウセツの夢を先日聞いたばかりだ。故に、彼がこの店に来るのは自然なことだと捉えていた。
「ユキハネは、その……大丈夫なのか? また、あのいけすかない借金取り野郎が家に押しかけてきたりしてないか?」
 ヒョウセツの心配に対して、ユキハネはゆっくりと首を横に振る。
 言われてみれば、ここ一週間と少しの間、借金取りことハチベエが家に押しかけてくることはなかった。玄関から物音がしたときは覗くようにしていたので、間違いない。
「私の知る限りは、全く顔を見せていません。叔母さんたちが借金を返したとも思えませんし、何か他に用があるのかもしれません」
「そのまま忘れてくれりゃいいんだけどな。……ごめん、ユキハネ。オレもあれこれ調べてるんだけど、ユキハネの家の借金をどうにかできそうな話とかは、全然見つかってなくて」
「そんな、とんでもないです。私の家のことは、本来は私の問題なのですから」
 正確には叔父と叔母の問題なわけであるが、どちらにせよヒョウセツが気に病む必要がないことだ。
「ヒョウセツさんには、お師様のことを教えてもらいましたから。それだけでも、十分お世話になってます」
……
 フェリキシーがユキハネをクガネに残し、仲間のミィハと共にエウレカという地に向かったと教えてくれたのは、誰あろうヒョウセツだった。
 伝えにくいことを、わざわざ家に来て知らせてくれたのだ。ユキハネは、そのことだけでも彼に助けられていると思っていた。
「ヒョウセツさんは、ここへは道具を見に来ただけですか? 何か必要なものがあるなら、多少は案内ができると思います」
 地域こそ違うものの、ユキハネは冒険者として冒険に必要な品々を見てきた実績がある。素人のヒョウセツよりも、目利きはできるはずだ。
 ヒョウセツは頬の鱗を指先で掻きつつ、
「師範に話してたのを、ユキハネは聞いていたんだよな。まだ先になるだろうけど、いつかはオレも……ユキハネみたいに、自分の力だけで身を立ててみたいんだ」
 以前は漠然とした憧れだった目標は、ユキハネを筆頭とした冒険者たちと行動を共にするにつれて、よりはっきりとした夢へと形を変えたのだろう。
 ヒョウセツの言葉には、青臭さこそ抜け切れていなかったものの、地に足をつけた確かさも交じり始めていた。
「もし冒険者として仕事をするってなったなら、普通は何が必要になるんだ?」
 今はまだ焦がれるだけであったとしても、彼は明確な目標として「冒険者を志す」と口にしてくれた。そのことがなんだか嬉しくなり、ユキハネは口元を緩める。
……まるで、昔の私みたい)
 お師様のような冒険者になりたい。
 まだ冒険者の実態や危険性を十分に知らなかった自分の、憧れまじりの無邪気な言葉を、フェリキシーは最初は切り捨てようとした。だが、最後には折れて、ユキハネに必要なものが何かを教えてくれた。
「最初の冒険に必要なもの、ですね。まず、たくさんの荷物が入る軽くて丈夫な袋。薬品が入れられる携帯用のポーチも欠かせません。ヒョウセツさんの戦い方なら、回復のために錬金薬は必須ですね」
 話しながらも、ユキハネは店の一角から順に商品を指していく。
「あとは、普段着としても使える厚手の防具と、不意打ちにも効果がある護符。それに長めのロープと、用途に合わせたナイフを数本。登攀用の鉤爪、応急手当てのための包帯や薬品一揃い……
 どうやら、考えることは西も東もさして変わらないようらしい。冒険者向けの商品を扱う品と謳うだけあって、ユキハネが必要だと思う品は全て揃っていた。
 人気があるのは武具や防具など、見目もいい品物だ。
 ギンチョウやオロシのような一般人も、これらの商品には興味があるようで、彼らは今そこに釘付けになっている。
 オロシの姿を視界に収めた瞬間、ヒョウセツは「げっ」と苦手意識がありありと滲み出た声を漏らした。
 ヒョウセツは、オロシと仲があまりよくないらしいとは、ユキハネも既に知っていることだ。
 オロシに気づかれないように、ユキハネはヒョウセツを入口の近くへと連れていく。そこなら、棚が壁となってオロシからヒョウセツを隠してくれるだろう。
「ありがとう、ユキハネ。オレ、やっぱりあいつがなんか苦手でさ……。ユキハネの従姉妹と仲がいいなんて、今でも信じられないんだよな」
「オロシさんは、悪い方ではありませんよ。ギンチョウさんのことを何度も気遣ってくれていますし、私たちの家の事情も気にしてくれて、申し訳ないぐらいなんです」
「うーん……。ユキハネには、優しいかもしれないけどさ。オレがあいつに引き分けてから、何か突っかかってくるんだよな。それに、その前からも、自分が一番偉いみたいな振る舞いをしてたし」
「それは、ギンチョウさんに出会う前のことではないでしょうか。彼女に会ってから、オロシさんも色々考え直したというようなことを話していましたよ」
 それに、ギンチョウにあの剣幕で捲し立てられても、オロシは自分の意見をすぐには翻さなかった。
 裏を返せば、彼は己の考えを正しいと信じ、貫き通そうという考えを、己の根幹に持っているのだろう。彼の振るまいは、オロシという人間の自尊心の高さを表しているとも言える。
 そんなオロシが、ヒョウセツに引き分けとはいえ勝負で勝ち星をあげられなかったのは、彼にとって許しがたい汚点となっているのだろう。
 故に、ヒョウセツには弱みを見せられず、殊更に尊大な振る舞いをしてしまうかもしれない。
「それならそれで、オレにも普通に振る舞えばいいのに。ユキハネたちに接するみたいにしてくれれば、オレだってあいつのこと、苦手にならずに済んだのによ」
「流石に、昨日の今日で今までの態度をがらりと変えるのは難しいのではないでしょうか。冒険者の中には、そういう人もいましたから」
「そうなのか? 冒険者って、そんなに他人のこととか気にするのかよ」
「冒険者だって、好きな相手もいれば嫌いな相手もいます。ペアを組むなら、気が合う相手のほうがいいってお師様も言ってましたから」
 そこで、ユキハネは唇を噤んでしまう。
 自分で言ったことだというのに、フェリキシーのことを思い出すと、やはり胸の奥がざわついてしまう。
(さっき、お師様と話をしようって決めたばかりなのに)
 ――あの人を、許さない。
 フェリキシーの姿を瞼の裏に思い浮かべる度、喉の奥を焼きそうな勢いで、体の内側から黒々とした炎が燃え上がる。それに身を委ねてしまえばいいと囁く何かがいる一方で、何かおかしいと抗う自分もいる。
 相反する二つの存在に振り回されたせいもあって、ユキハネは黙りこくってしまう。
「ユキハネ、大丈夫か。……その、やっぱり、フェリキシーのこと」
 ヒョウセツに答えようとして、地面に落ちていた視線を持ち上げようとしたときだった。
――――ぁ」
 ユキハネの目は、偶然捉えてしまう。
 店に入ってきた、おそらくはエオルゼアからやってきたと思しき男女の冒険者。
 片方は背の高さと尖った耳からもわかるエレゼン族で。
 もう片方は、ふわふわした獣の耳を生やしたミコッテ族の女性だ。
 親しげに笑い合い、身を寄せ合う二人。見るからに思い合っていると分かる、顔も知らない二人の姿を目にした瞬間。
……痛っ」
 頭が割れそうなくらい激しく痛み、思わずその場でうずくまる。
 突如しゃがみこんだユキハネに驚き、慌てふためくヒョウセツの声すら、もはや彼女の角には届かない。
 なぜなら、彼女の聴覚全てを埋めるほどに激しい怨嗟の声が、何重にもなってこだましていたからだ。
 ――許さない、許さない許さない許さない許さない許さない!!
 それは自分の声でもあるようで、けれども自分ではない誰かの声でもあるようで。
 ただ確かなのは――この声に飲まれてしまったら、自分は目の前にいる、名前も知らない冒険者たちを傷つけてしまうということだった。
 瞼を閉じていても、さながら紅いインクを滲ませたように視界が紅く染まっていく。どこか血を思わせるそれを振りほどくように、ユキハネはかぶりを振る。
(どうして、私、そんなこと、考えてもいないのに……!)
 気がつけば、ユキハネは走り出した。
 いつ店の出口から飛び出したのか、それすら覚えていない。ただ、ひたすらに、彼らから離れなければならないと、赤く滲んだ視界の中、がむしゃらに彼女は駆けた。
(許さない。絶対に、絶対に……!)
 頭の奥で、鋏で何かを断つ音が響く。
 糸を切るときのような、涼やかな音ではない。もっと生々しく、粘度が混じった悍ましいこの音を、ユキハネは聞いたことがある。
 一瞬でも油断すれば、思考がより深く沈み、淀んだ紅に染まっていきそうになる。
「違う、違うんです! これは、私じゃない……!!」
 何度も頭を横に振り、無我夢中で目に見えない何かから遠ざかろうと足を動かす。
 そうしているうちに、知らず知らず息が切れていたのだろうか。それとも、足が限界を迎えていたのだろうか。
 何かに躓き、ユキハネは受け身も取れずに、強かに体を打ちつけた。
 ざらりとした土の冷たさのおかげで、真っ赤になっていた思考が薄らいでいく。
 顔を上げた先に広がっていたのは、見覚えのない建造物の群れだ。おそらく、走っているうちにどこかの路地裏に入り込んでしまったのだろう。
「今のは、一体……
 すりむいた痛みはあるものの、そのじくじくとした刺激のおかげで、思考を埋め尽くしていた怨嗟の声も、頭が割れそうな頭痛も、潮が引いたように失せている。
 地面に手をつき、体を起こす。せっかく着付けてもらった着物も、全力で走ったせいで、いくらか着崩れてしまった。転んだはずみで、裾に土がついてしまっている。
「洗って返さないと。せっかく、ギンチョウさんが着付けてくれたのに」
 申し訳なさで胃が縮む思いをしながら、何気なく手を持ち上げたユキハネは、そこで「えっ」と声を漏らす。
 彼女の腕には、先日ケイと出かけた時にもらった珊瑚の腕輪があった。家族と再会できた記念として送ってもらった品は、店員の話では護符としても使えるはずのものだ。
 何とはなしに、貰ったその日から、風呂や睡眠の時以外はずっと身につけていたので、今ここにあること自体は何らおかしくない。
 ただ、問題なのは。
……ひびが、入ってる」
 転んだはずみでぶつけたのだろうか。紅珊瑚の艶やかな曲面に、亀裂が生じていた。
 今まで、はずみで軽くぶつけたことはあっても、小さな罅一つ入らなかったのに。今はもう壊れかけそうなほどにくっきりと稲妻のような線が走っている。
「修理してもらえないか、あとでお店を探さないと。せっかくケイさんからもらったのに」
 気持ちを仕切り直し、ようやく身を起こして、着物についていた砂を手で払った時だった。ざり、と誰かの足音が響く。
「おや、ハタオリさん家の姪御はんやないの。こないなとこで、そないな物騒なもの握りしめて、どないしたん。手ぇ、痛いやろ」
 聞き覚えのある、訛りの強い言葉。
 こちらを労るように見えて、値踏みするかのような無遠慮な視線を送る男。
 一度しか会っていないというのに、そうそう忘れられない強烈な印象を残した声に、ユキハネは思わず身構えながら、振り向く。
……ハチベエさん」
「一度しか会うてへんのに、名前覚えててくれたん? 姪御はんは、記憶力がええんやなぁ」
「私に何か用でしょうか。叔母なら、近くにはいませんが」
 思わずきつい口調で返してしまったが、彼に対しては油断してはならないとユキハネの直感が訴えていた。
 身を固くするユキハネとは対照的に、彼女の怒りを宥めるかの如く、ハチベエはひらひらと手を振ってみせる。
「そないな怖い顔せんでもええよ。それより、さっきも言うてたけど、手ぇ痛あないん?」
「手?」
 ハチベエが、強調するように右手をひらひらと振って見せる。それに釣られて、ユキハネは自分の右手に視線を落とし、
「え……
 息を呑み、思わず、その手に握りしめていた鋼の塊を――鋏を、取り落とす。
 ガシャン、と派手な音がする。
 遅れて、地面に赤の染みが点々と落ちた。
 それもそのはず、ユキハネの手からは今、真っ赤の雫がいくつも伝い落ちていたのだから。
――――っ!?」
 掌から流れ落ちる出血に気がついた瞬間、鈍い痛みが右手に走る。刃物を強く握りしめたかのような、鋭い刺激に顔が歪んだ。
 同時に、着物を汚してはならないと、ユキハネは出血している手をぎゅっと握り込む。少し痛みが増すが、ギンチョウの着物をこれ以上汚したくないという気持ちが痛みを上回った。
「そういえば、今日はあのこわーい冒険者はんはおらんのやな。この前は、大層な剣幕でうちに噛みついてはったのに」
 ハチベエと初めて会ったときのやり取りを思い出し、ユキハネは再び胸中に生まれた痛みに唇を噛む。
 フェリキシーは、ユキハネが矢面に立たないように庇ってくれた。その背中が自分の前にずっとあるものだと思っていたなんて、当時の様子を思いだすと、その能天気さに歯噛みの一つもしたくなる。
(お師様……
 師匠のことを思い出すたび、切なさとも悲しみともわからぬ感情がジワリと心を満たす。それだけではない。今は、先ほどの正体不明の怒りが、再び鎌首を持ち上げたような気もした。
 そんなユキハネの気持ちなど露知らず、ハチベエは飄々と言ってのける。
「なあ。あのお兄はん、今はどこにいてはるん?」
 眼前のユキハネから漂うただならぬ気配を感じているはずなのに、ハチベエは彼女の気持ちに土足で踏み入ってくる。そんな無礼な男を突き放すかのように、ユキハネは言った。
……今は、クガネにはいません。エウレカというところに行っていると聞いてます」
「へえ、エウレカ! あないな危険なところに行くなんて、何考えてはるんやろなあ」
「危険、なのですか」
 ハチベエを突き放そうと思っていたのに、彼の言葉につい反応してしまう。すると、ハチベエは細い目をますます細めながら、
「そやで。エウレカっちゅうんは、何人もの冒険者が向かってるみたいなんやけどね。その半分は帰ってこなかったちゅう、曰くつきの場所や」
「そんなところに、お師様が……
 どうして、と疑問が浮かぶより先に、大丈夫だろうかという不安が生まれる。フェリキシーとて不死身ではない。彼が怪我をしたところを、ユキハネは何度も目にしている。
 彼への心配から、先ほどとは違う意味で拳を握っていると、
「でも、お嬢はんは置いてかれたんやね。そのお師匠様ちゅう人に」
……!」
 頑なに閉ざそうとしていた心に、ハチベエの言葉が錐のようにねじ込まれる。
「どうして置いて行きはったんやろなあ。お嬢はんのこと」
……やめて)
「あんなに大事にしてはるようやったのに。それとも、お嬢はんは力不足っちゅうことやろか」
……それ以上、言わないで)
「ああ、でも、だからかもしれへんなあ。――大事な仕事に、『子供』なんて連れていけへんもんなあ」
――黙って!!」
 抑えていたはずの言葉が、弾け飛ぶ。
 男をこれでもかと睨みつけたものの、ハチベエは口元をつり上げるだけだ。
 いっそ、彼が立ち去らないなら、自分から立ち去ってやろうとまで思った矢先。
 ハチベエは不意に驚いたような顔をしたあと、ユキハネを改めて見つめ直した。ただし、その顔ではなく、その手に握りしめているものを。
「ああ、ごめんごめん。怒らせてしもた? せやけど、そんな風に鋏を構えたらあかんで。また怪我してまうやろ」
「はさみ……?」
 数秒遅れて、ユキハネも気がつく。自分の右手が握りしめている、冷えた金属の感触に。
 気付かぬうちに鋏を拾い上げ、ハチベエに向けていたことに。まるで、このままハチベエを刺そうとしているかのように。
「ち、違う! 私は……そんなつもりじゃ……!!」
 ハチベエの言動は、ユキハネの心を踏み躙るものではあった。だが、だからといって、武器も持たぬ人を傷つけようなどと、これまで一度だって考えたこともなかった。
 なのに、今、自分は武器を構えている。この男を傷つける準備をしている。
(私、いつの間にこんな……っ)
 何がなんだかわからない。なぜ、自分が刃物を持って彼と対峙しているのかも、どうして冒険者のカップルを見ただけで激しい怒りに駆られたのかも。
 何もかもが、ユキハネの理解の範疇から飛び出ていこうとしている。
 ずきりと頭が痛む。沈めたはずの怒りが、再び湧き上がってくる。目の前の男を、何もかもを壊せと怒り狂う誰かの声が、ユキハネの角にガンガンと響きかけ、
「ユキハネ、大丈夫か!!」
「ハチベエ、ユキハネに何したの!」
 友人や従姉妹の頼もしい声が、ユキハネの思考を現実へと引き戻してくれた。
 だが、揺れ動く感情の波に耐えかねたように、ユキハネはその場で崩れ落ちる。
 再び地面に体を打ちそうになったところを支えてくれたのはギンチョウだった。彼女は、ユキハネの怪我に気がつくと、有無を言わさず手ぬぐいで彼女の掌の止血をしてくれた。
 遅れて、ヒョウセツとオロシが二人の前に立つ。二人の着物が軽く乱れている様子から察するに、ユキハネが飛び出したあと、彼らはほうぼうを探し回ってくれたようだ。
「お友達の登場やな。なら、うちはそろそろお暇しよか」
「待ちなさいよ。ユキハネに怪我させたのはあんた!?」
 ギンチョウが眦を釣り上げて問いかけるも、ハチベエは飄々とした口調を崩さない。
「怖いなあ、ハタオリさん家の娘はん。別にうちは何もしとらんよ。むしろ、そっちの娘はんに鋏向けられてこわーい思いしたんは、うちの方なんやから」
 ハチベエが扇子で示した先には、言葉の通り、無骨な裁縫鋏が転がっていた。
 一同の視線がそちらに向いた隙に、ハチベエはすでに背を向けて去っていくところだった。ヒョウセツたちは彼を追うのではなく、ひとまずはユキハネたちの元へと駆け寄る。
「怪我をしたなら、早く家に戻ってきちんと手当しよう。一体、何で怪我をしたんだ?」
 ヒョウセツに問われても、今のユキハネに応えるすべはなかった。
 代わりに、ユキハネはギンチョウとヒョウセツに掴まるようにして立ち上がる。
 傍らのオロシは、ユキハネが取り落とした鋏を拾い上げ、怪訝そうに眉を顰めていた。
「お前、鋏なんて持ってきていたのか?」
……わかりません。気がついたら持っていたんです」
 オロシの疑問ももっともだが、今のユキハネはそれどころではなかった。手の痛みはもちろんのこと、ユキハネを案じてくれる友人たちを不安がらせまいという想いと、ハチベエが残していった毒のような言葉をどうにか振り解こうという衝動。そして、
……ヒョウセツさん。お師様はエウレカに行ったと言いましたよね」
「あ、ああ。オレは、ケイからそう聞いた」
「エウレカというのは、大変危険なところだと、あの人は言っていました。それは、本当なのですか」
 ユキハネが必死の思いで尋ねた問いに、ヒョウセツは答えられなかった。
 彼は冒険者ではない。ただ少しばかり刀を振るのが上手いだけの一般人だ。故に、エウレカがどのような場所で、どんな危険を孕んでいるのかなどと知る機会はなかった。
 ユキハネを安心させたいのに、嘘を言うわけにもいかない。ヒョウセツが何と言うべきか迷っているうちに、ユキハネの視線はそっと彼から外れた。
……すみません。今日はもう家に戻ってもいいでしょうか。なんだか、頭がくらくらして」
「そうしましょ。嫌なやつの顔見たせいで、気分が悪いったらないわ。オロシ、家まで送ってくれる?」
「もちろん、そのつもりだ。それで、お前はどうするつもりなんだ」
 ギンチョウには柔らかな声音を送ったのに対して、途中でがらりと声音を変えてオロシはヒョウセツを睨む。対するヒョウセツは、一瞬彼の視線に気押されるも、
「もちろん、ユキハネを送っていく。お前にばっか、いい格好させられるか」
「ふん。それはこっちのセリフだ」
 後ろでやいやいと犬猿の仲の二人がやり合ってるのを聞きながら、ユキハネはギンチョウに支えられるようにして家路についた。二人の喧嘩まがいのやり取りも、そんな二人を「男って子供よね」と肩をすくめてみせるギンチョウの姿も、あの焼け焦げるような怨嗟を遠くへと押しやってくれる。今は、ただそのことだけがありがたかった。
 
 
 その晩、ユキハネは高熱を出して倒れ込んでしまった。
 ギンチョウから借りた着物を洗っている最中に崩れ落ちた彼女の傍には、そこにあるべきではない裁縫鋏が転がっていた。