何度も無い特別な時間。それを掴もうとしても、空を切ってばかりで先に進もうとしない。落ち着けと逸る鼓動に心臓が汗をかく。微笑む貴方に胡坐をかいて今だけは、自分の中の幼さを感情のせいにしてもいいだろうか。
コンビニの袋の音ががさごそとうるさい帰り道。土井はいつかと同じ落ち着かない気持ちでいた。ひゅるりと風が舞い、街路樹から落ちた枯葉を巻き上げている。今日は乱太郎が土井の家へ初めて訪れる日なのだ。何度も言うようだが土井は一回の苦学生である。日々バイトに邁進し、出来る限り全ての時間をバイトに捧げている。部屋には娯楽品は殆ど無く、お洒落な部屋とは程遠い。何の変哲もない部屋をどう面白くするべきか悩んでいるのだった。背の低い建物ばかりで空が広い。空の広さは土井の心の焦燥感を増しているようだ。通りすがりの無人駅の四角い自販機がぶんと音を立てている。ここは人も車も少なく、店も無い。影を落とさないコンクリートブロックの塀を、緑の蔦を這っている。
草臥れた二階建ての木造アパート。あの日訪れた乱太郎の住む家とは雲泥の差である。錆びた階段を上って橋の部屋、それが土井の城だ。音の鳴る扉を開けると、段差のない玄関と短い廊下の先に六畳の部屋がある。部屋のありさまを思うとため息が出る。買ってきた飲み物と菓子類を小さな冷蔵庫にしまうと、覚悟を決めた。土井の部屋には本が溢れかえっている。参考書やいつか読もうと思っていた文庫本。大小さまざまな本が三段ボックスからあふれ出て、床に積み上がっていた。どこから手を付けるべきか悩んで、手慰みにうすっぺらなカーペットに粘着クリーナーをかけた。
まず敷きっぱなしのせんべい布団をみすぼらしく感じて畳み直す。畳んだ布団を端に寄せてそこも掃除する。まずは人が二人座れるだけのスペースが机周りに必要だと、机の両端に積み上がった本を布団を畳んで空いたスペースに寄せてみる。そうしてみると机の周りだけがぽっかり穴が開いたみたいでバランスが悪い。その周りの本もまとめて寄せてみたが、そうすると本が塔のように積み上がってしまう。だが、土井には他に方法が思い浮かばなかった。仕方がないので、そのまま掃除機をかけることにした。
今まで掃除機なんてあるだけの飾りでしかなかったが部屋をよく見てみれば隅に埃の塊が見える。ここまで掃除していなかったかと自分でも驚いた。見渡してみれば部屋のどこもそんな様子で、今までの自分がどれほど部屋に頓着していなかったかがわかる。六畳の小さな部屋だが気合を入れて掃除するとなると少し汗をかいた。なれないことをしたせいだろうか、それとも緊張でもしているのだろうか。
胡坐をかきながら部屋の明かりを見上げる。ふらりふらりと振り子のように照明から下がったひもが揺れる。揺れはどこか頼りなく見えた。まるで自分の心を映し出しているようだ。埃っぽくなった部屋の歓喜のために開けた窓から、柔らかな風が入ってくる。冷たい風はのぼせ上った頭を冷やしてくれた。することが無くなってしまった部屋の中で、ただぼおっとしていると、かちこちと時計の音が聞こえだす。心臓の音と重なって、うたたねがしたくなった。微睡の中で乱太郎の顔を思い浮かべる。あの頃の笑顔、あの日見た笑顔、そして出会った日の唇の柔らかさ。今見られる彼の表情はあの頃見られなかったものばかりで、心臓が時計の音からずれ始める。
ピンポーン
間抜けなチャイムの音ではっと意識が戻る。這うようにして玄関に向かう。立って息を整える。深呼吸して、息を止めて、長く吐く。もたついているともう一度インターホンのチャイムが鳴る。意を決して、ドアノブの鍵を開ける。少しして、ようやく扉を開けた。
「良かった。少し早く着いたから、居ないのかと思いました」
あの日見た着流し姿とは違う、ラフで現代的な恰好だった。
「や、すまない。眠ってしまっていたみたいで」
「あぁ、そうなんですね。今日は天気も良くて、温かいですから」
「……そうだな、それでも寒いだろ。何もないけど、どうぞ」
「はい。お邪魔します」
簡素な部屋に乱太郎がいると部屋がぱっと華やいだ気がした。
「……なんだか、落ち着く部屋ですね」
「え?」
「私の家も物が多いですから」
「いやぁ、何というか。ものぐさなのは昔から変わらないんだ」
「ははは、そうみたいですね」
落ち着く部屋と言われて、土井はこそばゆい気持ちになる。掃除したとはいえ片付いているとは言い難い部屋に言う言葉ではない。個展の真っ白な部屋の中で見た乱太郎はどこか神聖さすら感じたが、今の乱太郎は普段着を着ていることも相まって親しみやすさを感じた。床に直接座らせる申し訳なさを感じながら乱太郎を机に案内し、買ったばかりの飲み物と茶菓子を出すことにする。
「用意できるだけ色々用意して見たんだが、何を飲む?」
「気を使わせてしまってすみません。じゃあ、お茶はありますか」
「冷たいのでいいか?」
「はい」
「分かった。コップは……グラスでいいか」
自分のマグカップとグラスにお茶を注ぎ、乱太郎の前に置く。部屋に乱太郎がいるというだけでどこか落ち着かない。
「あー……すまん。面白いものが何もなくて」
「いいえ。部屋を見に来たというか、土井先生と沢山話したかったから来たんです。もてなそうとか、考えなくていいんですよ」
「そうか……」
「最近は、どうお過ごしでしたか」
「最近か。最近というか、俺はバイトと勉強ばかりでこれといって何かが毎日あるわけじゃないからなぁ」
「バイト……どんなバイトされてるんですか?」
「塾講師と、夜はコンビニで」
「わ、忙しそうですね。体は大丈夫なんですか?」
「まぁ、丈夫なだけが取り柄というか、確かに昼間眠たい時もあるけどな」
心配そうな乱太郎に笑って返す。確かに大変だ。でも、大変な分今の生活にやりがいを感じている。昔、生死のやり取りをしていた今頃と比べると、穏やかなものである。それに、塾講師として子供たちに授業をするのもすごく楽しい。
「乱太郎はどうなんだ?」
「私は、土井先生に比べれば気楽なものですよ。個展後は絵の発送準備なんかで少し忙しかったですけど。普段はずっと絵の事ばかり考えていますから」
「それも大変そうだがな」
「ふふふ、私の絵は趣味の延長のようなものですから。ただ……」
「ただ?」
「今は、過去の事ばかりではなく、現在にも目を向けてみようと思って」
「それは……」
「土井先生と出会って、ようやく今の私の人生が動き出したような気がしてるんです。そうすると、現在の風景も色を持ったように見えて」
「……そうか」
「ええ、そう思うと日常の一分一秒が凄く特別で大切に見えてくるんです。今、この瞬間も」
乱太郎が部屋を見渡す。乱太郎に伴って、土井も周りを見渡してみる。土井からすればありふれたいつもの部屋だが、芸術家が見ると何かが違うのだろうか。暖かい昼間の光が窓から差し込んで、乱太郎の赤毛をきらきらと照らしている。
「特別な人の部屋だからでしょうか。差し込む光や、少し古い畳の質感。古い部屋から感じる日常が温かく光って見えるんです」
「……っ!」
「この時間をそのまま切り取ってしまいたいと思います」
柔らかな若草色の瞳が、薄い虹彩を煌めかせながら土井を見つめている。瞳の中心に開いた穴に、吸い込まれてしまいそうだと思う。乱太郎から注がれる柔らかな想いに、同じだけの想いを返せたらどれほど幸福だろう。眦の垂れた脂肪の薄い一重瞼から、広がる睫毛がちらちらと光っている。
引き寄せられるように、肉の薄い二の腕を引く。それに逆らうことなく乱太郎の身体が前のめりに倒れてくる。乱太郎の少し大きな体を優しく受け止めると、乱太郎の静かな呼吸が耳元をくすぐった。耳下に寄せられた鼻先から、深く息を吸う音が聞こえる。触れるか触れないかの距離で首元を掠める息がくすぐったかった。
身を寄せた場所から、温かな体温が侵食してくる。至近距離で密着した体が、同じような体温に変わっていく。寄せられた体は気を使っているのかあまり重さを感じないが、それでも乱太郎の頼りない身体は少し重い。薄い身体を抱きしめる。乱太郎から回された腕は優しかった。この時間が永遠に続けばいいと思った。
緩く回されていた腕の力が微かに強くなり、二人の距離がいっそう近くなる。ひたりと首に乱太郎の鼻が寄せられて、唇が微かに首触れた。これに土井は少し身じろいだが離れることはしない。小さく静かな鼓動が、重なり合った胸越しに伝わってくる。見た目にそぐわない小さな鼓動に、聞き入った。背に回された掌は熱く、添えられた指先が背中をゆっくりと撫でていた。
「好きです」
こちらに気を使った、小さな呟きだった。
「あの頃から、貴方が好きでした」
「……私も、そうだよ」
「今、この想いを告白するべきか少し悩みました。でも、あの個展で貴方がかけてくれた言葉に返す想いは、これしかないと思います」
「私も……」
「今では立場も年齢も変わってしまったけれど、想いだけは変わりません」
「私も好きだ」
華奢な背を強く掻き抱く。肩を抱いて、乱太郎の目をしっかりと見つめ返した。そのまま、吸い寄せられるように唇が触れあった。あの時とは違う二度目のキスは、何処か甘い味がする。
「……もう、離せないぞ」
「私も、離れません」
もう一度、乱太郎を強く抱きしめる。体は小さく震えていて、胸が苦しくなった。肩口で乱太郎の前髪がたわむ。緊張が解けた体からは、しっかりとした重さが感じられた。こうしていると、初めて乱太郎を確かに感じられたような気がする。頭を撫でると柔らかい髪の毛が指の間を通り抜ける。色素の薄い髪はまるで日の光をそのまま触っているような感覚にさせた。肩が乱太郎の涙で濡れていく。乱太郎の想いが自分にしみ込んでいくようだった。
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