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77nairo
2026-06-08 00:00:03
9539文字
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松イチの日
好きになったのはどっちが先だと思う?
バスケ部の同窓会は春と秋の二回、河田の家で。それが定着したのはもう十年くらい前のことだ。春は苗作りを、秋は稲刈りを手伝う。十年選手ともなればそれなりに手際も良くなって、最近では近隣農家の苗作りや稲刈りにまで駆り出されることもある。
「まあ、十年も経てば周りの爺っちゃ婆っちゃもそのぶん歳とるからの」
そう言って笑いながら、河田が松本と一之倉のコップになみなみと日本酒を注いだ。河田はすっかり農家の顔をしていて、筋肉の付きかただって現役の頃とはずいぶん違う。重たい苗箱や米袋を上げ下ろしする二の腕はますます太くなり、人とぶつかることのなくなった胴回りはやや弛んでいる。これはひと仕事終えたあとの酒と肴のせいでもあるかもしれない。
「俺たちだってそのぶん歳とってんだから、あんまりこき使ってくれるなよ」
そう言って笑う松本の目尻には皺が寄って、頬は日焼けとアルコールで赤くなっている。
「このへんじゃ四十代なんて赤んぼ扱いだ」
「赤んぼはこんな労働できねえよ」
がはは、と笑った河田は自分のコップに残っていた日本酒を飲み干して、よっこらしょと口に出しながら立ち上がった。今度は深津と野辺のほうに酌をしにいくらしい。稲刈りのあとの楽しみにとっておいたというひやおろしの一升瓶は、あっという間に底をつきそうだ。
ザルの河田から解放されてほっと息をついた松本と一之倉の間に、さぁっと風が吹いた。二人同時に振り返る。座敷の障子も廊下の掃き出し窓も開け放してあって、網戸越しに吹き込んでくる乾いた風はほんのり藁の匂いがした。
「
……
秋にここに来ると、一之倉に初めて会ったときのことを思い出す」
「え? 春じゃなくて?」
一之倉は、すっかり暗くなった田んぼを眺めていた目を松本へ向けた。顔が赤くて瞳が潤んで、どこからどう見ても酔っ払っている。
「秋の練習会で、チビなのにひと一倍負けん気が強くって、ちょうど今くらいの時期で、周りの田んぼでは稲刈りしてた」
「いや、ちょっと待って、それって中三のときってこと?」
「そう、あの、練習会という名のセレクションで」
山王に入る前の話だ。つまりはもう三十年も昔の話。
「よくそんな昔のこと覚えてるな。俺は松本を認識したの、入学してからだったけど」
「そりゃあ、あの時から一之倉のこと」
そこまで言うと、松本は視線をうろうろと彷徨わせ、ふにゃふにゃと言葉を濁しながらコップに口をつけた。
まだ大して呑んでもいないのに、一之倉の頬がかっと熱くなる。ひやおろしがなみなみと注がれたコップを支える左手には、松本と揃いの指輪が鈍く光っている。
相手のどんなところが好き?
がしゃん、という音とともにボールが落ちて、俺は恋に落ちた。
山王の体育館にはまだ冬の名残のような冷たい空気が満ちていて、新入生たちの隠しきれない熱気が、もわもわとした湯気になって立ち上っている。新入生を一軍と二軍に振り分けるための紅白戦。白いTシャツを着た松本は、強引なドライブからレイアップを試みて、赤いビブスを着けたセンターに完全にブロックされた、と思ったところからぐんと身体を丸めた。
それからもう一度長い腕を伸ばして、ボールをリングにねじ込んだ。相手センターの手が松本の手を叩き落として、ボールの軌道が逸れる。がしゃん、という音とともにボールが落ちて、ピッと短く笛が鳴る。松本は背中から床に落ちながら、ぐっと拳を突き上げた。
あのとき勝ち気そうに口角を上げた松本の顔を、たぶん俺は、一生忘れられないだろう。
相手は自分のどこを好いてくれていると思う?
「松本ってさあ、俺の尻好きだよね」
「は!?」
一之倉の口から飛び出した言葉に、松本は文字通り飛び上がって驚いた。これがベッドの上だとか、そうでなくても甘い雰囲気になっているときの発言であれば、ここまで驚かなかったかもしれない。
だが今、松本が一之倉と並んで観ているのは、先週末行われたインカレの準決勝のビデオだ。
松本は尻を座布団に据え直してから、一之倉の顔をまじまじと見つめた。問題発言の主は、何食わぬ顔でテレビ画面にかじりついている。
「
……
なあ、今俺たちが観てるのって、俺のチームと一之倉のチームが対戦してる貴重な試合だよな?」
「そうだね。進学先を決めたときはまさか対戦するまでに四年かかるとは思わなかったけど、でも、最後に間に合って良かったな」
そう、一之倉はどうしても松本とコート上で相対したいという理由で、大学を決めたらしい。そしてようやく大学四年目にして、松本と一之倉は初めてインカレで対戦した。その貴重な一戦で、松本が一之倉の尻ばかり追っていたと思われるとは心外である。
「じゃあなんで、俺が一之倉の尻が好きって話になるんだよ」
今度は一之倉が驚いたように目を見開いた。それでも視線はテレビ画面へ向いたままだ。なにしろ画面の中では、ワンポゼッションごとにリードが入れ替わる緊迫した戦いが続いている。尻の話なんてしている場合ではない。
「え、気付いてないの? 松本、試合中にベンチに下がってるときも、今みたいに試合のビデオ観てるときも、いっつも俺の尻を目で追ってるよ」
「は!?」
松本はまたしても飛び上がって驚いた。とたんに隣の部屋の住人から壁を叩かれて、口を噤む。バスケで鍛えられた大声は、学生向けのおんぼろ木造アパートには不向きだ。
「
……
それはディフェンスのときの身体の使い方を見ているんであって、べつに不純な気持ちで見てるわけじゃ
……
」
松本の声はどんどんか細くなっていった。一之倉がにやりと唇の端を上げた。
「えー、じゃあ、俺の尻、好きじゃないの?」
「
……
それは」
「そっか、俺の気のせいかぁ、残念だなぁ」
松本は盛大に溜息を吐いた。それから、蚊の鳴くような声で白状する。
「
……
もちろん、一之倉の尻も好きです」
一之倉がふはっと吹き出す。そしてようやく、猫みたいにいたずらな瞳が松本に向けられた。
「素直でよろしい。いい子にはごほうびをあげよう」
擦り切れた畳の上に、二人そろって転がる。せっかくの貴重な一戦を収めたビデオは、しばしBGMになってもらおう。
愛情を感じるのはどんなとき?
「松本ってさあ、ちゃんとメシ食ってんの?」
「えっ」
一之倉が発した言葉に、松本は目を泳がせた。一之倉の予感どおり、どうやら松本はろくなものを食っていないらしい。
「前に米炊いたの、いつ?」
一之倉は狭い台所に据えられた小さい炊飯器を見つめた。蓋は開けっ放しで内釜がカピカピに乾いているし、内蓋に付いた米粒に至っては茶色く変色している。これは最低でも三日は使われていない炊飯器だ。
「ええっと
……
」
松本の目が泳ぐ。表情豊かな大きな目は、嘘をつけない。
たっぷり三十秒は沈黙してから、一之倉が口を開いた。もとより、険悪になりたくて松本のズボラを指摘したわけではない。
「
……
まあ、松本が食トレ苦手なのは高校のときからだし、一人暮らしで自炊は面倒だとは思うけど」
「そうなんだよ。練習終わってからメシ作る気力が残ってなくて
……
あ、でも昼は学食でちゃんと食ってるぞ」
「朝晩は?」
一之倉がツッコむと、松本はぐっと黙り込んだ。前言撤回。目だけじゃなく、松本は嘘をつけない。
はあぁっとわざとらしくため息をついてから、一之倉はリュックサックに詰め込んだとっておきを取り出した。形のバラバラなタッパーが五つ、絶妙なバランスで重ねられ、さらにビニール袋で厳重に包まれている。
「これ、うちの母さんに作ってもらってきた」
ビニール袋から取り出したタッパーを、一つ一つローテーブルに並べる。半透明の蓋から見える中身はどれも茶色くて、いかにも食が進みそうなおかずたちだ。
「とりあえず米だけは炊いてね、身体に気をつけて、また試合観にいくね、だそうです」
「お、おかあさま
……
」
松本はほとんど平伏せんばかりに、タッパーに向かって頭を下げた。しばらくそうしてから顔を上げ、一之倉の手を取る。
「ありがとう。俺って愛されてるんだな」
「いや、俺はただの運び屋だし。むしろうちの母さんの愛じゃない?」
「一之倉が俺を見て、ちゃんと食ってないって気付いて、どうしたらいいか考えてくれたんだろ?」
「まあそうだけど」
「愛だよ、それは」
どうやら松本は、想定以上に弱っていたらしい。あの夏の敗戦でも泣かなかった男の目に、うっすらと涙が浮かんでいる。
自分にだけこんな姿を見せるんだ、と思うと、一之倉の胸はぎゅうぎゅうと締め付けられた。その甘い痛みを分け合いたくて、一之倉は松本の手をぎゅうぎゅうと握り返した。
付き合い始めてから知った相手の意外な一面は?
松本がある試合のあとに心底嫌そうにこぼした言葉を、一之倉は鮮明に覚えている。
「仕方ないのはわかってるんだけどさ、お互い汗だくの腕と腕が接触したりするの、気持ち悪くねえか?」
バスケは接触の多いスポーツだ。ディフェンスでは相手に身体を密着させて動きを封じることもあるし、オフェンスでは相手にぶつかるのを覚悟で突破しなければいけないこともある。そして接触が多い割に、ユニフォームの面積が小さい。だからどうしたって、肌と肌が直接触れ合うことになる。
松本の言葉に自分がどう返したのだったか、今となっては記憶が曖昧だ。でもたぶん「仕方ないじゃん」とか「そんなこと考えてる間に足動かせ」とか、そんな感じのことを言った気がする。ただ頭の中で「じゃあ松本と付き合ったとしても、身体の触れ合いはないんだろうな」と思ったことははっきり覚えている。そもそも自分が松本と付き合える可能性なんて万に一つもないのに、結構ショックを受けたのだ。
それだというのに、なんだ今のこの状況は。
かつて一之倉の心をかき乱した言葉なんてすっかり忘れたように、松本は今やどこでもべったりと身体を寄せてくる。二人でテレビを見ているときは一之倉を背中から抱え込むし、食事のときは向かい合わせではなく隣に座りたがるし、風呂は一緒に入りたがるし、寝るときだってもちろん狭い布団に二人でぎゅうぎゅう詰めだ。話が違う。
そして何より意外なのは、そんな状況を心底嬉しく思っている自分自身なのだった。
キスはどっちからが多い?
松本が河田家の苗作りに駆り出されるのは今年で三回目だ。苗作りは人手がかかる割に、待ち時間が長い。とくに苗箱を機械にセットする者、機械から出てきた苗箱を軽トラに乗せる者は、のんびり喋る余裕もある。手伝いにきた山王の同期たちには、暇すぎてかえって不人気な役回りだ。日本一走れるバスケ部で鍛えられた身体と心は、ただ待つだけ、ということにかえってストレスを感じるらしい。
そんなわけで、じゃんけんで一番に負けた深津が苗箱を機械にセットし、二番目に負けた松本が機械から出てきた苗箱を軽トラに乗せているのである。ちなみに軽トラの荷台の上では一之倉が苗箱をきれいに並べるためにせっせと立ったりしゃがんだりしているので、のんびりしている松本はちょっと申し訳なくなってきた。
そろそろ交代しないか、と一之倉に声をかけようとした松本を遮るように、深津が口を開いた。
「お前ら、キスするときはどっちからするビョン?」
「おい深津」
間髪入れずに深津の頭をはたいたのは、機械に種籾や土を補充するためこまごまと動き回っていた河田だ。高校生のころより一層たくましくなった河田のツッコミに、深津が首をすくめる。
「だって暇すぎて恋バナの一つでもしないと寝そうだビョン」
「こんなおっさんになってまで恋バナで暇つぶしか」
「おっさんだからこそビョン。日常生活に潤いが足りないビョン」
当の松本と一之倉を無視して、話はころころと転がっていく。その間、深津も河田も手は動かし続けているのだから、やはり日本一走れるバスケ部で鍛えられた身体と心は動き続けていないとダメらしい。
ああだこうだ言っている深津と河田に向かって、軽トラの荷台の上から低い声が落ちる。
「それは秘密。松本のかわいさが世間にバレちゃまずいからね」
「うわー! 恋バナ! 潤い! 恵みの雨だビョン!」
「ほとんど答え言ってるようなもんでねが?」
松本は一之倉を見上げた。いつも見下ろしている一之倉の顔が、今日はずいぶん上にある。
これではこちらからキスを仕掛けるのは難しいな、という松本の考えを見透かしたように、一之倉がふふんと笑った。
目が合うと先にそらすのはどっち?
深津と河田は賭けをしていた。もちろんバスケに明け暮れる高校生に多額の金を賭けることなどできるはずがなく、博打のコマは夕飯のデザート(今日はみかんの予定)だ。
今のところ、勝負は五対五で互角。次の一手で勝者が決まる。
「次は絶対、松本が決めきるピニョン」
「いや、イチノが止めんべ」
ドリブルで突破しようと試みる松本と、絶妙に身体を寄せたり離したりしてその進路を塞ぐ一之倉の攻防は、賭けの対象でなくとも見応え十分の好勝負だ。
二人は至近距離で見つめ合いながら、相手を出し抜く機会を伺っている。
「お熱いな」
「ひゅーひゅーだピニョン」
先に視線を逸らしたほうが負ける。そのひりひりとした緊迫感の中で、松本の口元にも一之倉の口元にも、うっすら笑みが浮かんでいた。
日常の中で触りたいと思ったらどこを触る?
十四センチというのは、世間一般ではカップルの理想的な身長差だと言われているらしい。彼氏が彼女の肩に腕を回しやすいとか、キスがしやすいとか。
確かに松本はよく、一之倉の肩に腕を回してくる。練習で疲れて支えが欲しいだけかと思っていたけれど、どうやらあれは松本にとって、スキンシップの一環だったらしい。それに気付いたのは、バスケとは関係なく二人で出かける仲になってからのことだ。
今日は松本が引っ越し先で使う家電の下見に、二人で電器屋まで繰り出した。高校大学は寮生活で家電も共用だったけれど、社会人ともなれば自前で用意しなければならない。ろくにバイトもできないバスケ漬けの大学生活を送ってきた身には厳しい出費だが、下手に中古品を使って漏電などしたらオオゴトである。
そう思って真剣に冷蔵庫を吟味している一之倉の肩に、今日も松本はするりと腕を伸ばしてきた。
「
……
ちょっと、松本が使うんだから、松本も真剣に選べよ」
「いやいや、真剣だぞ。でもほら、なんか、二人で家電を選ぶって、ちょっと、新婚さんみたいじゃないか?」
にやけた顔でそう言う松本の脇腹に肘鉄でも入れてやろうかと思ったけれど、ふと思い立って、一之倉も腕を伸ばした。松本の肩には届かないから、腰のあたりに。
ピカピカに磨き上げられた黒い冷蔵庫の扉に、その姿が映っている。
「うーん
……
これは新婚さんというより、ハドルだな」
一之倉の言葉に、松本が吹き出す。
「じゃあ、これからはずっとハドル組みながら歩こうぜ」
「腕乗せられてる方は結構重いんだけど」
松本につられて一之倉も笑った。十四センチは確かに、カップルの理想的な身長差のようだ。なにしろ、肩に腕を回しやすいし、キスがしやすいし、それから、ハドルだって組みやすい。
相手が自分よりも優先しても許せるものは?逆に許せないものは?
松本は月曜の朝六時、清潔な朝日の射し込むリビングの床で、きっちり膝を揃えて正座をしていた。いや、正座というより、これはほぼ土下座だ。
深く頭を下げた松本のはるか上から、一之倉のひときわ低い声が降ってくる。
「あのさぁ、俺、何度も言ってるよね?」
「はい
……
」
「俺よりバスケを優先するのは当然。チームでの飲み会だっていくら行ったっていい。午前様くらいなら別に何とも思わない」
「はい
……
」
「でも、夜中の二時に電話してきて延々と喋るのはまた違うでしょ。飲むなら量を考えろって言ってるの」
もはやぐうの音も出なくて、松本はただ額をフローリングの床にめり込ませた。
「で、俺は今日、これから仕事なんですけど? 週の始まり月曜日なんですけど?」
実のところ、松本は一之倉に電話をかけた記憶がなかった。だがしかし、携帯には確かに発信記録が残っている。しかもチームメイトからのメールを読む限り、どうやら一之倉はわざわざ車を出して松本を迎えに来てくれたらしいのだ。
松本はでかい図体をできる限り小さくして縮こまった。バスケに有利な身長は、謝罪には不向きだ。
一之倉のため息が床を這う。
「だいたい、現役選手が酔いつぶれるまで飲むなんて、信じられない」
昨日は引退する先輩の送別会で特別だったのだ、と弁解したいところだが、もちろん口にはしなかった。それにしたって飲み過ぎである。
「帰り道に怪我でもしたらどうするつもり? そんなに恵まれた身体を無駄にするようなこと、許せない」
はっとして、松本は顔を上げた。一之倉の顔は怒っているというより、泣くのをこらえるように歪んでいる。
「俺だって、それくらい身長があったら」
そこまで言って、一之倉は口をつぐんだ。無言のまま部屋のカギを握って、玄関へ向かう。
松本は追いかけようとして、すてんと転んだ。脚が痺れているうえに、頭がガンガンと痛む。リビングの床に無様に転がりながら、重たいドアが閉まる音を聞いた。
一之倉は大学を卒業するとともにバスケから離れた。実業団から声がかからなかったからだ。
松本が実業団へ入ることが決まったとき「おめでとう」と言った一之倉の顔と、さきほどの一之倉の顔が重なって脳裏に浮かぶ。
ふたりきりになると雰囲気が変わるのはどっち?
一之倉は重い足取りで帰路を辿った。最寄り駅から自宅までの距離は、普段なら徒歩八分。今日は特に用事のないコンビニに立ち寄って特に食べたいわけでもない惣菜を吟味したせいもあって、マンションのエントランスに到着したときには電車を降りて二十分が経っていた。
一之倉と松本が暮らす部屋は三階で、これも普段ならちゃっちゃと階段を昇る。けれど今日はどうしても気が乗らなくて、ため息とともにエレベーターのボタンを押した。
三階です、というアナウンスとともに開いたドアを出れば、もうどうあがいたって帰宅を先延ばしにはできない。一之倉は意を決して玄関のドアを開けた。
部屋が真っ暗なことにほっとする。今、松本と顔をあわせても、どんな顔をすれば良いのか分からない。
今朝の喧嘩(というより一之倉の一方的な説教)は九割九分こちらに理があったが、ほんのちょっとだけ、一分にも満たない一厘くらいだけ、嫉妬が混じっていた。俺が実業団に入れていたら、酒なんて飲まずもっとがむしゃらにバスケをするのに。
昨日(というより今日の未明)、松本を迎えに居酒屋に行ったときに、引退する先輩に酌をされた松本がそれを断れずに酒を過ごしたことはなんとなくわかっていた。それでもやっぱり俺だったら、という考えが止められなかった。
職場では冷静で頼り甲斐があるなどと言われているくせに、松本に対してはどうしたって気持ちのタガが外れてしまう。
とりあえず買ってきた惣菜を冷蔵庫に入れてしまおうと、もう何度目かわからないため息とともにキッチンの電気を点ける。すると黒い冷蔵庫のドアに、メモが貼り付けてあった。
『今日は本当にごめんなさい。すべて一之倉の言うとおりです。午後からミーティングとトレーニングがあるので、行ってきます。夕飯の仕込みをしてあります。帰ったら一緒に食べたいです。松本』
交際を始めて自分が変わったと思うところはある?
「最近の松本、いい感じだポン」
深津が真っ赤な顔をしてそう言ったのは、河田家の苗作りを初めて手伝った日の夜のことだった。苗箱を持ち上げたり下ろしたり、一日中スクワットをしていたようなものだから、松本は疲労困憊だった。バスケを引退してはや一年、トレーニングを怠っていたツケを一気に払わされた気分だ。
ヘロヘロに疲れた身体に酒を入れたものだから、乾杯のビール一杯で既に酔いが回っている。鏡を見れば、深津より松本のほうがよっぽど赤い顔をしているだろう。
けれど酔い以上に深津の真意を知りたい気持ちが上回って、松本はなんとか口を開いた。
「
……
いい感じって、何が」
「なんとなくだポン」
深津はにやりと唇の端を歪めて、そのまま座卓に顔をうずめた。深津だって、現役を退いて三年になる。体力の限界だったのだろう。
「なんだ深津、だらしねの」
ガハハと笑った河田は、まだ現役バリバリのバスケ選手だ。シーズン終盤の忙しい中、苗作りのために一日だけ実家に戻っている。手伝いに呼びつけた同期たちに酒を振る舞いながら、自身はウーロン茶ばかり飲んでいる。このストイックさこそ、長く現役を続けられる秘訣なのだろう。
河田は深津の周りからグラスや皿を遠ざけながら、松本へちらりと視線を寄越した。
「まあでも、松本がいい感じなのは確かだの」
「河田まで、なに言ってんだ」
松本は河田のウーロン茶のグラスを奪ってゴクゴクと飲み干した。酔っぱらいの舌にはウーロン茶なのかウーロンハイなのかもわからなかったが、河田が飲んでいたのだからウーロン茶なのだろう。
「肩の力が抜けた
……
ってのも違うな。むしろ覚悟が決まった? まあ、自分の道を見つけたってことでねが」
「自分の道
……
」
河田にウーロン茶のおかわりを注いでもらいながら、松本の視線は自然と一之倉に向かっていた。一之倉はミキオにあれこれ肴を勧めながら、自身はマイペースに酒を飲んでいる。
「そうだな。うん、恥ずかしくない生き方をしたい、とは思ってる」
正確に言えば、一之倉に対して恥ずかしくない生き方をしたいと思っている。
パアンッというかん高い音と共に、松本の左肩に激痛が走る。河田の渾身の平手が入ったのだ。あまりの痛みにうめき声も漏らせない松本に、河田はにやりと唇の端を歪めた。先ほどの深津とそっくりの形だ。
「おめ、やっぱりいい感じだの」
ここは他のカップルには負けないと自負しているところは?
夏合宿の最終日は憂鬱だった。この日はOBが大挙してやってきて、現役生チームとOBチームが試合をする。大学や実業団、果ては日本代表として活躍するOBたちを向こうに回し、現役生が勝つまで終われない試合だ。山王工業の夏合宿名物、地獄のOB戦とも呼ばれる。こいつのせいで何人の部員が合宿から逃げたことか。
しかしOBチームの一員となった今、その地獄のOB戦がものすごく楽しい。
絶対に勝たなければ、というプレッシャーから解放され、レベルの高いチームメイトとレベルの高い対戦相手とに恵まれた試合。それぞれ別の所属チームで腕を磨いてきたチームメイトと、まるで何年も毎日を共に過ごしてきたようにスムーズに意思疎通ができる快感。
それでも、この中で一之倉の負けん気の強さを誰よりも知っているのは自分だと、松本は思う。
それでも、この中で松本の勝ち気の強さを誰よりも知っているのは自分だと、一之倉は思う。
OBチームのビブスを着た松本と一之倉は、コートの真ん中で視線を交わし、ほんの少しだけ目を細めた。
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