ヨハンは個人研究室に入室すると、当然のように部屋の隅にある丸椅子を引っ張ってきた。勝手に持ち込んだ定位置に、ホーエンハイムが何も言わないうちから「ちょっと顔を出そうと思って」と言って腰を下ろす。ホーエンハイムは何気なくその顔を一瞥し、そして眉をひそめた。
「……収容室からかね。作業の帰りだろう」
「え」ヨハンは瞠目した。「分かります?」
口元だけ笑みを絶やさずに首を傾げてみせるが、しかし疲れた様子は隠せていなかった。見て分かるような外傷や動作におかしなところは無いが、精神的に疲弊する作業だったのだろう。
「ここで油を売っている時間があるならメインルームに、」
戻るよう言いかけたその言葉は、ファーストトランペットに掻き消された。
非常事態の始まりを告げる合図が鳴り響いた瞬間、ホーエンハイムは即座にリモコンを手に取った。部屋に設置されているモニターを消すためだった。施設内をくまなく監視するCCTVの末端は、順繰りに収容室やそれらが並ぶ廊下を映し出している。
顔を上げた瞬間、ホーエンハイムは遅かったことを悟った。モニターには血溜まりが映し出されている。赤色の中心にあるものは、原型を留めていないが、肉片と混ざった残骸からしてオフィサーだったのだろう。画面の上端で異形のものが蠢いていたが、すぐに見えなくなった。
ヨハンが椅子を蹴立てて立ち上がる。モニターの電源が落ち、スピーカーの電源が落ちた。どちらも一瞬遅かった。
「ここに居たまえ」
丸椅子から立ち上がりドアへ向かいかけた姿勢のまま、ヨハンはぴたりと足を止めた。制止が間に合ったことに安堵しつつ、そんなことはおくびにも出さない表情でホーエンハイムはヨハンを観察する。
傾いた丸椅子はしかし倒れずに、ヨハンの背後でぐらぐらと揺れている。警報も映像も、ヨハンの精神を削り取るには充分だった。それでも彼は足を止め、ホーエンハイムの言葉を聞いている。迫り上がる焦燥感と強迫観念とを、水際で抑えている。
ホーエンハイムは自らの腰掛ける椅子を回し、体の正面をヨハンに向けた。「座りたまえ、ヨハン」
「……でも、行かないと……」
でなきゃ私は、と続くうわごとを断ち切るために、ホーエンハイムはぴしゃりと言った。
「行く必要はない」
研究室のドアを向いていた視線がホーエンハイムを見た。どこか焦点が合っていない明るい色の瞳は、それでもホーエンハイムを見ていた。
「君に鎮圧命令は出ていない」
他支部で起きた事例報告に、似たようなケースがあったことを思い起こす。鎮圧命令を受けていない職員が鎮圧に参加しようとした。大抵は周囲の職員が制止して何事もなく終わっている。しかし制止が間に合わなかった場合、職員の末路は例外なく悲惨なものだった。
「今脱走している幻想体は、鎮圧されるか時間経過で興奮状態が収まると収容室に戻ることが確認されている。付け加えるなら現在の君の装備は脱走している幻想体には有効でない」
遠くで警報が鳴り続けている。視線は合っているが、反応はない。ただ瞳孔が不安定に揺らめいている。
「ヨハン」
もう一度。呼吸するくらいの余裕は忘れないように、努めて冷静に。目の前の部下から視線を逸らさないまま、ホーエンハイムは無意識に己の呼吸を深くしていた。
「座りたまえ」
ある種の人間は、己を省みない行動を取ることで集団に貢献しようとする。ロボトミー社でも、数は少ないがそうした事例は存在する。
しかし、ホーエンハイムの所感において、ヨハンはそうした人間ではなかった。
ホーエンハイムという人間はおよそ他人が寄り付かない性格をしている。彼自身その自覚がある。ヨハンはそんな自分に近付き、頼んでもいない小間使いの真似事をしている。その理由を彼は『可能性』だと言った。
最初に聞いた時はずいぶんと曖昧な理由だと思った。
羽として働き、自分を取り巻く環境をより良いものに変えていく。夢物語に近い将来像を彼が本気で抱いていると分かったのは、その振舞いからだった。多少突発的な部分があり、他人に情を示すことに躊躇いが無い。その一方で時折、意外なほどの冷酷さを見せることがあった。それはきっと、自己を生き残らせるために自然と身に付いた振舞いだろう。ホーエンハイムはそう推測を立てた。自分自身が生き残らなければ、抱いた夢も可能性も意味を持たなくなるのだから。
だから、このような場合に表面だけは英雄的な自殺行為に走る人間ではないのだと、もっと地に足を付けた打算的な人間だと、ホーエンハイムはヨハンをそう評価していた。
「衝動的な自己犠牲は自棄となんら変わりはない」
席を立つ。稀有なパニック症状と思われるケースをより近くで観察する必要があった、だとか、説明はあとからいくらでも付け加えられる。だがこの瞬間に立ち上がったホーエンハイムの行動は衝動的なものだった。
「君は今、この非常事態において何か行動を取らない場合、自己の価値が下がる、或いは無くなると思い込んでいる。だが指摘しよう、それは間違いだ。君の存在の有無で何かが変わることはない」
ヨハンの目の前に立ち、目を覗き込んだ。いつの間にか静止していた丸椅子を、視線はそらさずに指だけで指す。
「今、君が行くことに価値は無い。故に、君はここにいるべきだ」
ヨハンの、金に近い琥珀の焦点を捉えようとするように、ホーエンハイムはその瞳の中心を凝視した。
「座りたまえ、ヨハン」
小さく息を吸い込む音が聞こえた。
「……はい」
ヨハンは素直に、丸椅子の上に腰を下ろした。既に警報は鳴り止んでおり、今はコンピュータや施設機構の稼働音くらいしか聞こえない。辺りは静かだった。
ホーエンハイムの見下ろす先で、ヨハンは顔を手で覆って深呼吸をしていた。
「落ち着いたら福祉部門へ行くといい」
背を丸め、椅子の上で小さくなったヨハンは、無言のまま首を縦に振った。ホーエンハイムはただ彼を見つめ、その肩が上下するのを見守った。耳を澄ませ、微かに震える呼吸の音が落ち着くのを待っていた。
福祉部門へ行ったヨハンはすぐに帰ってきた。肉体の損傷はまったく無く、精神的な影響もほぼ見られない状態であったためだという。ほとんど門前払いだったと聞かされて、ホーエンハイムは深い溜息を吐くことで遺憾の意を示した。
「似た事例に関する報告は存在しているとはいえ、斯様に希少なケースをそのように軽く扱うとは……まあいい。対応マニュアルの作成を上層部に提言するとしよう」
「そうですね。福祉チームとの提携が必要になるでしょう」
「何故かね?」
早速書類に取り掛かろうとした手を止めてまでホーエンハイムが振り返る。不機嫌を隠さない声音にヨハンが苦笑いすると、ホーエンハイムは不満げに言い募った。
「本事例は管理チームメンバーに起こったものであるのだから、我々で扱うべきではないか」
「えーっと……。言いにくいんですけど、パニックになっていた私に貴方が掛けた言葉。あれ多分、対応としては最悪の部類だったと思うんです」
あれ、全部否定語じゃなかったですか?
ホーエンハイムは一度口を開きかけたものの、結局閉じてしまった。そのまま書類へと向き直った背中へ、ヨハンは構わず話し掛ける。
「さっきの脱走の直後で、福祉部門もてんてこ舞いだったんです。手順を踏んで説明すれば事例の検討の必要性も分かってもらえると思います。福祉部門と連携することで、より専門的なカウンセリングの知識も活かせるかもしれません」
相変わらず返事はなかった。ヨハンは立ち上がり、それ以上何も言わずに机の端に置かれた空っぽのマグカップを手に取った。「コーヒー、お持ちしますね」
ドアへと向かいかけながら、ヨハンは福祉部門に勤める知り合いたちの顔を順繰りに思い浮かべる。献言がホーエンハイムに退けられるかもしれないという考えは、ヨハンの中にはひとかけらも存在しなかった。近々福祉部門に顔を出そうかと考え始めた時、ヨハン、と名前を呼ぶ声が耳に届いた。
「……君が最初に、私に会いに来た時。君は『もう少し貴方のそばにいようと思います』と言った」
覚えていないだろうが。付け足しながら、ホーエンハイムは肩越しにヨハンの方へ視線をやった。まさに「そうだったっけ」と思いながらその顔を見ていたヨハンは、片頬を吊り上げた苦笑でそれを誤魔化した。
「そして私は結果を出した。優秀さを証明し、それに見合った評価を得た。そうした結果を出す過程において、君の協力が必要であったことは認めねばならない。ならば、それが君の価値ということになるであろう。犬死にすることではなく」
ヨハンはゆっくりと目を瞬かせ、それからそっと瞼を閉じた。ホーエンハイムの言葉を反芻しているようだった。それから、柔らかい声で返事をした。
「はい……。そうですね」
彼は微笑んでいた。今日初めてこの部屋に入った時の虚勢を張った表情よりも、ずっと弱々しく笑った。しかし、どこか安心したような笑顔でもあった。
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