鳴上
2026-06-07 21:55:27
8647文字
Public ナツシン
 

奥手の奥の手

シンくん誕生日おめでとうの気持ちで書きました。
25歳×28歳から40歳×43歳になってます。中年感をもっと出したかったけど断念。夏生目線の話は夏生誕で出したいと思ってます。

 その日はやけに酒の回りが早かったことを覚えている。

「お互い三十になっても相手いなかったら結婚するってどう思う?」
「んだよ急に」
「いやふとそう思って」

 そう言って夏生は、ロング缶をぐいと呷った。喉仏が数度上下に動き、中身を全て飲み切った夏生は、ぐしゃりと缶を潰した。

「あ、おい。潰すなって言ったろ。洗いにくいんだから」
「わりー、クセで」
「どんなクセだよ。ったく」

 ローテーブルの上にはいくつも空き缶が転がっていて、食べかけのポテチはあと数枚しか残っていない。夏生が手際よく作ってくれたおつまみはもう食い尽くしてしまっている。宅飲みをする時はいつも何かしら作ったり持参してくれたりするので、シンの密かな楽しみなのだ。
 夏生がシンの部屋に来てから既に五時間ほどが経過している。なんだかんだと縁が続く夏生との会合はいつも楽しくて、つい飲みすぎてしまうから、最近は専ら家でしか飲んでいない。自宅ならどれだけ酔おうが潰れようが関係ないし、夏生も気にせず飲んで、それから次の日の朝二日酔いのまま帰って行くのが二人のルーティンだった。

「んで、どーなの。三十で結婚って」
「あー……三十は早くね? あと数年じゃん」
「んじゃ三十五は?」

 夏生が冷蔵庫から勝手知ったる様子で新しい酒を持ってくる。こいつずっとビール飲んでんな。プシュッと炭酸が抜ける音がして、釣られてシンも残っていた酒を空にした。ごくり、炭酸が喉を突き抜けていって、それから言葉を返す。

「えー……なんかキリ悪いしな〜。ビミョー」
「ふーん、じゃ、四十は?」
「四十か〜」

 そう言いながら立ち上がって、冷蔵庫から追加の缶を出す。適当に手に取ったそれの度数を見ようとするけど、視線が定まらず何パーセントか分からない。まあ缶チューハイなんてそんな高くないだろ。シンの部屋は一人暮らしするには充分な小さな部屋だから、冷蔵庫からローテーブルまでは数歩で事足りる。転ばないようゆっくり歩いて、ゆらゆらと揺れる視界に心地よくなって小さく笑ってしまった。
 シンは今二十八歳だから、四十歳まではあと十二年。干支が一周する年齢。今年生まれた子供が小学校を卒業してしまう年齢。うん、キリが良いな。

「まあちょうどいーんじゃね?」
「あっそ。じゃあ俺らが四十になってもお互いに相手がいなかったら結婚しようぜ」

 カーテンの向こうから、雨粒が窓を叩く音が聞こえた。
 シンは今もずっと坂本商店で働いている。数年前に二号店ができてからは店長を任され、坂本商店の名を全国に轟かせるために毎日懸命に仕事に励んでいるのだ。信頼する坂本から、「シン、お前ならできる」と言ってもらえたことは昨日のことのように覚えていて、その期待に応えるためにはなんだってやる覚悟である。
 そのタイミングで家を出て、隣の市で暮らしている。月に一度は報告がてら憩来坂に戻り、坂本家や平助、ルーといったいつものメンバーに会って食事をするのが毎月の楽しみだ。
 夏生はJCCの研究室を卒業したあと、東京の武器製作会社に就職したと聞いた。じゃあまた機会があれば遊ぼうぜーなんて軽く約束して、お互いマメに連絡するタイプではなかったせいでその約束は果たされることはなかった。
 だから驚いたんだ。月一の坂本商店からの帰り道、最寄駅でばったりと会うことになるとは思ってもみなかった。向こうもまさかって顔でシンを見ていて、シンは思わず笑ってしまった。数年越しに会ったとは思えないくらいに距離を縮めた二人は、今では月に一度ほど宅飲みをする仲になっている。
 確かに仲は良い。昔よりもよっぽど。だけど、結婚って。

……え、俺とセバが?」
「うん」
「こういうのって普通、幼馴染みの男女とかがする会話じゃね?」
……俺とお前だってだいぶ付き合い長いだろ、知り合ってからかれこれ七、八年くらい経つし」

 夏生がまたしても、飲み終わった缶をぐしゃりと潰す。だから潰すなって言ってんだろ。てか何本目だ、それ。そうツッコミできるほど、シンも酔っ払っていないわけではないので何も言わなかった。ふわふわする頭で考える。結婚、けっこん、結婚、か〜。

……まあいーけど」
「良いんだ」
「その頃には同性婚できるようになってっかなー?」
「結婚じゃなくても一緒に暮らすとかでもいーぜ」
「あー、いいな。お前といるの楽しいし、気楽に男同士過ごすのもあり」
「忘れんなよ」

 そう言って夏生は目線を合わさないまま、机の上に置いていたビールのプルタブを開けた。温くなっていたのだろう、少し顔を顰めて、それから何かを流し込むみたいにぐびぐびと呷った。ただの酔っ払いの戯言。飲み会の場での冗談。だけど確かに交わした約束だった。
 その後特にその話題に触れることなく飲み会は進み、日付を二時間ほど越えたところで終わりを迎える。単に夏生が床で眠り始めただけであるが、どちらかが眠った時点でもう一人が軽く片付けをするのがなんとなくの流れだった。だけどシンもどうにも面倒臭くて、空き缶を適当に端に寄せ、それから同じように床に寝転がった。湿気に負けてくるくるの黒髪が目に入る。柔らかそうなその髪に触れてみたくて、だけど指先はぴくりとも動かなかった。
 まだ夏と呼ぶには早い季節。フローリングから伝わるひんやりとした心地を感じながら、シンも目を閉じた。

 淹れたての珈琲の香りで目が覚める。起き上がると、眠る前寄せただけの空き缶は綺麗に袋に入れられていた。雨は引き続き降っているようで、静かな雨音が相変わらず窓を叩いていた。

「お、起きた。おはよ」
「ん……おはよ。セバ早いな」
「早くはないし、床で寝たらさすがに目覚めるわ。つかお前の部屋なんだからベッドで寝ろよ」
「ほんとそれだよ。身体いてー」
「はは、じじくせー。はいこれ、いつもの」

 渡された珈琲に礼を言い、音を立てながら一口飲み込んだ。じんわりと伝わる温かさに身体の力が抜けた。夏生も隣に座って珈琲を飲んでいる。夏生が早く起きた時だけ淹れてくれるインスタントの味は、いつも飲んでいるものと何も変わりはしない。それなのに指先から温まっていくその体温に、込み上げてくる何かを誤魔化すように飲み込んだ。
 珈琲を飲み終えた夏生は、「じゃあ帰るわ」と軽く言って、そのまま部屋を出て行った。「気ぃつけろよ」と声をかけたのは、二日酔いであろう夏生が無事に帰れるようにという一種の願掛けだ。
 カンカンと安っぽい音を立てて夏生が階段を降りていく。古いアパートは扉も壁も薄くて、外の音がよく聞こえる。その音が聞こえなくなってから、シンは玄関の扉を開けた。
 雨の勢いはそこまでないものの風が吹いているようで、頬に雨粒が当たって跳ねた。ここ最近降り続いている雨はいまだに止みそうにない。手すりにもたれて、透明な傘をさして歩く夏生の後ろ姿を目で追った。ゆらりと揺れて、夏生の姿が透明スーツを着ているみたいに見えなくなっていく。雨足が強まって、徐々にその場を支配されていく気がした。
 四十になったら結婚する。そんな突拍子もないことを言い出した男は、だけど朝起きた時にはいつも通りで、何事もなかったみたいに帰って行った。思考は読んでいない。別に読んでも良かったけど、読んでほしくなさそうな顔をしていたから。
 それから数ヶ月後。夏生は「真冬も大きくなったし、海外で働くわ」と言い残して日本を発った。

 ──それっきり、シンは夏生の姿を見ていない。



 もう少しで日付を回るくらいの深夜、住宅街を一人の酔っ払いが歩いていた。街灯に照らされる金髪は少し傷んでいるが、地毛であるから昔とあまり遜色ない。今もなお続く月一の坂本商店からの帰り道、シンは増えた小皺を気にすることなく深くため息を吐いた。
 今日は食事の途中で花ちゃんに彼氏ができたことが発覚し、坂本さんのメガネが割れた。脳内では見知らぬ男をあらゆる方法でシメており、それを読んだシンだけが深くダメージを追った。坂本さん、執拗過ぎる。今にも家を飛び出そうとする坂本をみんなでなんとか宥めたあと、いつもより早く解散になってしまった。時間を持て余したシンは散歩がてらゆったり歩いていたところだ。

「あ゛ー、坂本さん、手加減してくれよ……

 宥める際、なぜかかけられた技の影響か、首が少し痛む。自分はただでさえ歳を重ねるとともに思うように身体が動かなくなっていっているというのに、現役の頃と変わらないその強さは憧れていた時のままで、隣に立てるようになった今でも、尊敬の念は深まっていくばかりだ。そんな坂本さんも、やはり大切な娘に彼氏ができたら大いに取り乱してしまうらしい。あまり見たことないその姿は少し面白い気もして、シンはクスリと笑った。
 それから遠い昔、自分がかけられた言葉を思い出した。
 もう何度、その言葉を頭の中で反芻したか分からない。商店街のおっちゃんと話している時も、一人でご飯を食べている時も、テレビを見ている時も、坂本達と会っている時も、ふとした瞬間に頭をよぎる。最初はその度に鼓動が早まり、一瞬だけ立ち止まってしまっていた。だけどそれは次第になくなっていって、いつの間にかただの日常になっていた。だからといって思い出さなくなることはなくて、シンはあの日からずっと捕らわれ続けているままだ。

"じゃあ俺らが四十になってもお互いに相手がいなかったら結婚しようぜ"

「なーんて言ってたのに。俺もうとっくに四十過ぎちゃったよ」

 四十の誕生日は三年前。今年の誕生日は先月。シンは今年、四十三歳になった。立派な中年男性になり、肌のハリもやや衰え、下っ腹が少し出てきた。荒事には未だ対応できるけど、あの頃みたいな動きはもうとっくの昔にできなくなっている。それだけの時間が経った。夏生とはあれきり会っていない。
 三年前の誕生日、もしかしたら連絡が来るかもしれないと思って、丸一日起きていた。だけど震えるスマホが示す名前は別の羅列で、鳴ったチャイムは親友のスナイパーとチャイナ娘のものだった。そもそも夏生とはもう何年も連絡をとっていないのだ。いや何年どころではないか。もう十年ほど、顔を見ていないしその声を聞いてすらいない。あの朝見た後ろ姿が最後だ。いまさら来るわけないか、と落胆したのを覚えている。
 それでも元気に生きているということは真冬から聞いていた。気をつかってなのか、ただの世間話なのか、真冬は時折思い出したように夏生の話をした。今はあの国にいるらしい、こんな武器を作っているらしい、料理の腕が上達したらしい、エトセトラエトセトラ。大切な弟には連絡するのに、シンには連絡してこない。ムカついてメッセージアプリをブロックしてやった。まあその数日後、耐えられなくなって解除をしてしまったが。それでも、どうしても自分からはメッセージを送れなかった。
 あの日。夏生が「四十歳になったら」と言ってきたあの日の朝、シンは夏生の思考を読まなかった。読んでほしくなさそうだったから読まなかった、なんてのは言い訳で、ただシンは読めなかったのだ。だってシンはずっと、やんわりと逃げ続けていた。セバにはもっと良い人がいる。自分なんかに縛られてほしくない。そう思っていたことを、夏生が気づいていたことにも気づいていた。
 メッセージを送れなかったのは、怖かったからだ。自分から手放そうとしていたくせに、いざ自分が手放されたら、怖気付いた。連絡して、「結婚したんだ」なんて連絡が来たら。そんな想像さえできなかった。したくなかった。
 馬鹿だよな。区切られた十二年という歳月は、持て余していた様々なものを平坦にさせた。そうして残ったのは、分かりきっていた単純な答え。まあそれも、もう三年も前のことだけど。

 しばらく歩いて、暗闇の先に見覚えのある建物が現れた。ずっと住み続けている部屋はついに隙間風が吹くようになったし、ベランダの手摺りは錆びてしまっていつ崩れるか分からない。そんな安っぽいアパートは、ついに引っ越せなかった。
 抜けそうな階段を登り、部屋の前で鍵を探す。鞄に入れたと思っていたのに見つからなくて、焦りながらポケットを探ると指先に硬い感触がした。良かった、と安心して鍵を開ける。鍵穴から引き抜いた時、なぜか指が震えた。カシャン、無機質な音が響く。落ちてしまったそれを拾おうと腰を屈めた瞬間、カン、カン、と安っぽい音が階段から響いた。

 その音を聞いた途端、体がぴくりとも動かなくなった。ドッと急激に身体中の血液が巡り始める。
 この音を知っている。だって何度も聞いた。一緒になった帰り道でも、喧嘩して足早に出て行く日も、楽しくなって肩を組んだ日も、去っていくあの日の、朝も。
 その音はどんどん大きくなっていって、シンに近づいてきている。どうにかしたいのに身体は動かなくて、どうにかして欲しいのに逃げる勇気もなかった。
 カン、と革靴が、薄っぺらい階段のてっぺんを叩いた。視線を感じてようやく、シンの身体は動き始める。

 誰かが立っている。切れかかっている共用部の電灯がジジ、と弾けた。随分前から切れたり点いたりを繰り返しているそれを、いつまで経っても大家は取り替えてくれない。アパートの住民は誰も何も言っていないのだろう。シンも夜目が効かないわけではないから、特に問題はなくて放っている。だけど今は、電灯を替えるよう強く言っておくべきだったと思った。だって、暗くて、奥に立っているのが誰か分からない。スーツを着た、シンよりも少しだけ背の高い男。分かるけど、分からないのだ。

「よお、くそエスパー」
「セ、バ……

 震えた空気に、胸がぐうっと唸った。十数年ぶりに聞く声は昔となんら変わっていなくて、夏生が目の前にいる理由を、おそらくシンだけが理解できていなかった。
 夏生が数歩歩みを進め、シンに近づいた。同じ分だけ後ろに下がったシンにムッとしたが、気にしていないような素振りで言葉を続けた。

「久しぶり。元気?」
「元気、だけど……
「そっか、よかった。俺も元気」
……肌、焼けたな」
「おー、昨日まで南アジアの方いたから。日差しが強いのなんのって」
「なんで、今さら会いにきたんだよ」

 三年経った。それだけの期間何もなければ、ああ、あの約束はただの酔っ払いの戯言だったのだな、と嫌でも分かる。どうにかそれを飲み込んで、遠い地でもしかしたら家族を持ったかもしれないどこかの武器科のエースの顔を、頭の中から消そうとした。とにかく夏生にとっては大したことない、覚えてもいないものなのだ、と思っていた。消そうとしても消えないから、今もシンはあの言葉を反芻して生きていた。しまい込んでもひょっこり顔を出してくるそれに、生かされていた。それで良いとさえ思った。シンがどう生きるかは、シンの勝手だから。
 夏生をキツく睨む。だけどあの頃よりも格段に皺の増えた顔を、見ていられなくてすぐに逸らした。

「なあくそエスパー。お前今独身?」
……そーだけど」
「へえ、俺も同じ。……ちなみに恋人とかは?」
……いねーよ。あの頃から、ずっと」
「そっか。ところで、俺も付き合ってる人とかいないんだけどよ〜」

 そこで言葉を区切った夏生は、大股でシンに近づいた。突然の動きにシンは何もできなくて、ただ目の前に立つ夏生を見上げた。じわり、何かが滲む。久しぶりに見たその顔は、やっぱり皺があって少しシミがあって、十数年という歳月を感じさせた。それは同じだけ歳を重ねたシンも同じだ。

「なあ、あの約束。まだ有効?」

 目の前が真っ赤になる。当たり前のように紡がれるその言葉に、込み上げてきたのは正しく激情だった。

「いまさら……! 無効に決まってんだろ、四十になっても来なかったくせにっ」

 ドン、と目の前の肩に拳をぶつけた。内側から溢れ出る感情に押しつぶされそうで、堪らなくなった。都合の良い現実は弾けて消えそうな夢のようで、訳が分からなくなりそうだった。
 震える拳を夏生の手のひらが包み込んだ。カサついていて、皮膚が硬い職人の指だった。シンの知らない、夏生の人生だった。そんな当たり前のことに、なぜか泣いてしまいたい気持ちになる。

「だから、俺今年四十になったから迎えに来たんだけど」
……………え?」
……………ん?」

 何を言ってんだ、と夏生が頭を傾げる。つられてシンも同じ角度に頭を傾けた。張り詰めていた空気が、妙な空気に変わる。

 そうして思い至った可能性に、声をあげて笑いたくなった。だけど実際は笑うことはなくてただただ肩の力が抜けた。そのまま夏生の胸に、コツンとおでこをぶつけた。思っていたよりも体温が高くて、じんわりと伝わる熱に肩が震えた。

「はは、なんだ、そーいうこと……
「俺ちゃんと言ったじゃん、お互い四十になったらって」
「分かりにくいんだよ。ちゃんと言えよちゃんと……

 馬鹿な話だ。シンも夏生も、自分が四十になった時がタイムリミットだと思っていた。これは夏生から逃げていたツケだ。勝手に約束して勝手に去っていった夏生に、勝手に距離を覚えたのはシンの方だった。夏生は多分、待っていてくれたのだろう。シンのどうしようもない不安と、ゆらゆら揺れる気持ちが、無くなるまで。四十歳を指定したのはシンだけど、五十だって六十だって、夏生は待ってくれたのだろう。

「てか海外行く必要あったか?」
「それは、まあ……。もしお前が四十までに他の奴と結婚とかしたら耐えらんねーし」
「そうなる前に言ってくれたら良かったじゃん」
「そしたらお前頷かなかったろ。少なくとも十五年前のあの時は」
「ゔっ」

 それはそうだ。今こうして夏生に触れることができたのもそれだけ歳月が流れて折り合いをつけることができたからで、ぐるぐると悩んでいた二十代後半の自分がすんなり頷くとは思えない。

「遠回りだったし、奥手すぎたかもだけど。必要な時間だったんだろ、俺らには」
「セバはさ、覚悟決まってんだ?」
……そりゃずっと前から。じゃないとあの時あんなこと言わないし、今ここにもいねーよ」
「そっか」

 誰かの人生の選択肢を狭めてしまうのが怖かった。その勇気を持たないシンに、夏生は期間を設けてくれた。別の選択肢を用意してくれた。
 きっとシンと夏生は同じだ。選択肢が用意されたからといって、あの時から選ぶ答えはたった一つと決まっていたのだ。そのことに、長い時間をかけてようやく気づけた。だから、

「俺、誰かの隣で生きるなら、お前が良い」
……うん。俺も、お前と一緒に生きていきたい。……なあ、あの約束、ほんとに無効なの?」

 分かっていて聞いてくるその態度に、こいつ変わんねーなって気持ちになって、シンは夏生の腕を掴むとぐいと引っ張った。

「ちょ、」

 ガチャン、バタン。

 無機質な音が静かになった廊下に響いた。暗い室内で、扉に夏生を押し付けて、そのまま唇を奪う。抵抗しようとした指先に自分の指を絡めて、隙間を埋めるように夏生の吐息を自分だけのものにした。
 安いアパートは外の音が丸聞こえだから、きっと隣の部屋に二人の会話は筒抜けだった。別にそれはどうでもいい。今は二人きりで、誰もいない。この熱を、どうしても離したくなかった。
 初めて触れた夏生の唇はカサついていて、剥けた皮が当たって少し痛い。慰めるようにそこを舐めとって、それから閉じられた唇の隙間に舌を差し込んだ。今度は抵抗なく開いた隙間に、いい気分になって好き勝手貪る。他人の口の中なんて甘いはずないのに、甘ったるい気持ちになってたまらなかった。
 頬を撫でる。あの頃の夏生の肌に触れたことがないことに少しだけ口惜しさを感じた。
 髪の毛を撫でる。あの時触ってみたかった髪の毛は思っていたとおり柔らかくて、少しの寂しさといっぱいの充足感を覚えた。
 全てが愛おしくなって、シンはゆっくりと唇を離すと、夏生を思い切り抱きしめた。されるがままだった夏生もすぐに背中に腕を回してきた。キツく力を入れられて、ああ、今同じ気持ちなんだなと口角が上がった。

「無効なわけねーだろ、いまさら」
「撤回させねーからな」
「しないよ、バカ」
……ここ玄関だし、早くベッド行こうぜ」
「おっまえ……! 情緒とかねーの!?」
「あるから言ってんだろ、我慢できねーよあんなキスされて」

 そう言った夏生の瞳には、明らかに別の欲が灯っていて、シンはごくりと喉を動かした。
 勝手知ったる顔して、夏生がシンの腕を引っ張ったまま短い廊下を進んだ。過去に何度も見た光景なのに、あの時とは丸っきり変わってしまった自分たちに、シンは思わず笑った。
 何笑ってんの、と怪訝そうにする夏生を無視して、今度はシンが夏生を引っ張った。いい歳したおっさん二人が夜中に抱き合ってキスをして、何やってんだか。そう思いながら、これから始まる別のことを想像して、シンは強く、夏生の手を握った。