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2026-06-06 23:43:54
10756文字
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せかいでいちばんすぎきさま2

世界一杉木AU
映画本篇沿いではあるものの好き勝手書いています。
2話

 二人で10ダンスに挑む、だけでは足りない。杉木と鈴木、二人だけの戦いに持っていく。杉木が零した弱音に対する鈴木の反応が正解かは分からないものの、少なくとも鈴木はあんなことを聞きたかったわけではなかった。杉木が世界一にケチがつくような不本意な力が動いたことは間違いではないのかもしれないが、世界一に辿り着くまでの杉木の努力さえ杉木が否定しようとしていたのは我慢ならなかった。死神のような男で、悪魔のような所業をした時にどこの誰に気に入られようが杉木は杉木だ。過程を丸ごと無駄だったと自嘲するようなことは鈴木には我慢ならなかった。杉木のダンスをパーフェクトだと思った鈴木のことまで否定された心地になり、浮かんだ言葉がつまらない、だった。紳士であることを何よりとして研鑽を続けてきたのに、死神の方が似合っていると納得したように振る舞う。名の付かない感情をぶつけ合うようなキスをして、死神になればいいと本心を告げて、憧れだと伝えられた。誰が、何をと問いただす暇もなく去っていった電車の余韻に浸ることもなく、すぐに告げられたのはイギリス、ブラックプールで開かれるワールドチャンピオンシップへの挑戦。いつも通りのようで「君を世界にお披露目」なんて、鈴木の知る杉木では使わないような言葉にまだ杉木も熱が冷めていないことを感じた。
 嘘をつかなくていいと杉木に伝えるにはどうすれば、と帰り道で考えたものの、やはり解決するのはダンスしかないという結論にしかならなかった。鈴木が上を目指す理由は杉木を倒したいから。最初に杉木の提案に首を縦に振った時から何も変わらない。ただその理由が杉木に目に物を見せてやりたいことに杉木を倒して、雁字搦めになっている杉木自身を解放したいことが追加されただけ。杉木のためではなく、自分がそうしたいから踊る。鈴木のダンスが常に自分起点であることも変わらない。叶えるためにすることもダンスが上手くなること、世界に殴り込みをかけることで何も変わらない。今の鈴木ではまだ何もかも足りない。実力も、人脈も。杉木に比べて何もかも足りないのは分かっている。杉木の横に並んで、抜く。つまりそれはラテンでも、10ダンスでも頂点に立つこと。どこの誰が見てもぐうの音も出ないほど、圧倒的に勝つ。鈴木ができることはそれしかなかった。
 次の合同練習時には既に杉木によって鈴木とアキのワールドチャンピオンシップへのエントリーは終わっていた。てっきりボールルームも試すものだと思っていたがエントリーはラテンだけ。何も聞いていないとくってかかるものの、杉木は涼しい顔をして鈴木を受け流す。

「は? ボールルーム試すんじゃないの?」
「あなたのボールルームは10ダンスのために隠しておいた方がいいので、今回はラテンだけです」
「そういうのってさぁ、普通俺らと相談して決めない? 出るのは俺らなんだけど」
「お二人とも世界戦は初めてですから。エントリーや細かいことは慣れてる人間に任せて、まずは自分たちのダンスを仕上げることに集中してください」
「だからさぁ、そうじゃなくて……もう変えられねえだろうから今回はいいけど、次はちゃんと相談しろよ」
「分かりました。では、まずはいつも通りベーシックから」

 絶対に分かっていない状態で受け流した杉木に思うところはあるものの、言ってもどうせ交わされると一つ息をついてから鏡の前で鈴木も構えた。鏡越しに見る杉木の顔は鈴木が知るいつも通りの顔と何も変わらない。クリスマスに息を乱して鈴木を追いかけたことも、鈴木に選択肢を与えたようで与えていなかった状態からしたキスをしたことも全て鈴木が見た幻覚だったと思えるくらい鈴木を見ても顔色一つ変えることがない。
 ただ、変化はあった。前よりもっと、杉木のコーチングが鈴木にチューンアップされて分かりやすくなった。話し方も最初の頃に比べれば柔らかい。そして。

「っん、ぁ、なに、たまってんの」
「お互い様では? この前はあなたからでしたよ」

 ふとした時にキスをすることが増えた。休憩中であったり、鈴木が煙草を吸いにスタジオの外に出ている時であったり。それこそいい感じにダンスが踊れた時であったり。鈴木の体感では杉木からのキスが多かったが、どうやら鈴木からもそこそこ仕掛けていたことを杉木の息がかかる距離で告げられて初めて知る。食事も、杉木の行きつけの店に行く回数も増えて、喧嘩腰になるような回数も減った。

「わ、あれアンタと房ちゃんじゃん。こんな仕事もしてんの」
「あぁ。そういえばそろそろだと話が来ていました。僕も見たのは初めてです」

ある日は、店に行く途中で見かけた大きな看板には横にいる男が競技用の衣装でパートナーとホールドした状態だが笑顔で画角に収まっている。鈴木もよく知る企業名に驚きつつも、ともに載せられていたキャッチコピーを笑いながら読み上げれば、横に立つ杉木の眉間に皺が寄る。

「CMだったらアンタこのキャッチコピー言わされてたんだろうね」
「人の仕事を笑うのは悪趣味ですよ」
「なぁ、まだ予約の時間まで余裕あんだろ。写真撮ってよ」

 看板の前に立って大きく印刷された杉木の隣に立って杉木と同じポーズをすれば、夜の視界の中でも杉木があからさまに溜息を吐いたのが分かった。それでもじっと杉木を見つめ続ければ手元からスマートフォンを取り出して鈴木へと向ける。途中でフラッシュを数度焚かれて、杉木の元に戻れば画面を見せられる。

「キレーに撮ってんじゃん。ホラ、次アンタ。同じポーズ撮ってよ」
……はしゃぎすぎでは?」
「いいじゃんホラ、余裕あるけど飯には行くんだからさ」

 マスクを外させて肩を押せばまたも大きなため息を吐きつつ「一枚だけですよ」と鈴木に告げてから看板へと歩いていく。鈴木は携帯こそガラケーだが動画を見るときにはタブレットを使う。教室で生徒の動きの動画で撮って確認することもあるからスマートフォンが使えないわけではない。杉木の気が変わる前にカメラを構えて数枚写真を撮って近寄れば、マスクを戻した杉木がすっと自然に鈴木の腰を引き寄せて身体を寄せる。

「撮れました?」
「撮れた。というかアンタ何」
「こうした方が見やすいので……こうしてみると、面白いですね」
「だろ。アンタこんなのやりそうにないもんな……で? 店こっちでいーの?」
「えぇ。一応、そこまでマナーに厳しくない店にしましたよ」
「アンタの厳しくないは俺にとって厳しいなんだけど」

 ダンスの延長戦にある杉木との付き合いはひどく曖昧な関係性だった。友人の枠に収めるにはあまりに欲を孕んでいて、キスをしているのだから想いあった恋人なのかと言われてもそうではない、と鈴木も杉木も答えるはずだった。だからと言って、欲を満たすだけのちょうどいい存在なんて言われたらふざけるなと怒るだろうし、それならダンスを介した疑似恋愛か、というのもしっくりくるようで来ない。ホールドで感情はありありと伝わってくる。杉木からは友人に向けるにはあまりにも重い支配欲と独占欲が、そして鈴木からは杉木を受け入れ、代わりに杉木も鈴木だけを見ていろと思っているのが伝わっているはずだった。
 クリスマスの日、馴染みのバーの店員は鈴木に「他のヤツに寝取られてもいいなら引けばいい」と妙に真面目な顔をしてどこか体験談のようで、でもそうでなくただバーという場所で様々な人間を見てきたゆえのアドバイスのようなものをしてきた。あの場では笑い飛ばしたものの、他の誰かに杉木を渡せるものかと今は確かに思っている。例えどこの誰が相手でも、鈴木はとうに引くつもりはなくなっていた。

……またあなたはそんな薄着で、風邪を引きますよ。ベッドメイクくらいしてから起きてください」
「ここ俺んち。アンタが客で、しかも俺のベッド間借りしてんだけど」
「僕はソファでいいと最初に申し上げたはずですが?」
「俺がアンタの家で寝る時だってベッド借りてんのに、俺の家に泊まらせる時にソファに寝かせられるわけねーだろ」

 食事の後にまだ話し足りないとなればどちらかの家に行き、いつしか「世界大会が近いから」「身体が資本だから」とお互いに理由にならない言い訳を重ねて同じベッドに寝るようになった。杉木の家のソファは鈴木が横になっても足が飛び出ないほどの大きさであったし、鈴木の家のソファも眠るのには困らない大きさで、敢えて同じベッドに眠る理由はないが鈴木も杉木も指摘はしない。またキスをして、お互いの身体に触れてみて。少し前の鈴木ならこうして連れ込んだ相手などすることは一つしかなかったが、その何歩も手前で止まっている。相手が杉木なのが不思議なようでどこかしっくり来て、その先のことは敢えて考えなかった。

「そういえば鈴木先生、タキシードはお持ちですか。折角です、この機会に新調しましょう。僕が見立てますから」
「は? 一応持ってるからいいよ別に」
「これから先あなたもあちこちに呼ばれるわけですから、しっかりとしたものを持っていて損はありません。フルオーダーは間に合いませんが、僕が使う店がありますから一緒に行きましょう」
「や、だからさぁ」
「今回に関しては僕の言うことを聞いてください。予約取りますから、空いている日はいつです?」

 半ば強引な誘いを結局断り切れずに杉木が使っているテーラーに連れていかれてあれやこれやとタキシードを合わせられ、着せ替え人形のように脱いでは着てを繰り返す。聞こえてくる言葉に絶対に予算を超えると試着室から顔を出せば、杉木が店員と何か話し込んでいた。
「腰が細く足が長いので、もう少し腰は絞った方が美しいかと」
「そうですね、そのように。申し訳ないですが大会が近いので、なるべく急いでいただけると助かります」
「かしこまりました。こちらの日付までには間に合うかと」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 鈴木の服を買うために来ているはずがなぜか鈴木を除いた状態で話が進んでいる。いや、お願いしますじゃなくて。と杉木に向けて発した声は明らかに不満と困惑の色がのっていたが、杉木は鈴木の表情も声色も意にも返さないのか、涼しげな顔で振り返る。

「ねえってば」
「はい? あぁ、もちろん靴も用意していますよ。今持ってきますので、少し待っていただけますか」
「そうじゃなくてさぁ。これ払うのも着るのも俺なんだけど。俺の意見アンタ聞く気ないわけ?」
「あなたに一番似合うものを仕立てますし、僕の要望を入れてもらいますから贈らせていただきますよ」
「そうじゃなくて! アンタに一式買ってもらう理由もねえし、いらねえから落ち着け! それよりさぁ、なんかアンタを連想させるような小物ない? そっちつけときたいんだけど」

 イギリス、ブラックプールの場で杉木信也の名を知らない者がいるわけがない。当日は同じ車で向かうことが決まっているものの、声をかけられる人数を考えても常に鈴木の近くに杉木がいるわけではないはずだ。心細いわけではないが、杉木と知り合いであることが何かしら分かれば変な絡まれ方はしないだろうという打算もあった。杉木には悪いと思うものの、海外挑戦のきっかけは杉木だ。このくらい利用したところで構わないだろうと思いつつ少しだけ目を逸らしてからチラリと杉木を見れば、杉木はこれまで見たことないような顔をしていた。

「え、顔怖いんだけど。いや、気分悪くさせたなら悪かった」
「いえ、そういうことではないのですが……すみません、オニキスで何かありますか。できれば目立つ、一目でその価値が分かるものを」
……や、待って。アンタから贈ってほしいってことじゃなくてさ、アンタっぽいもんなんか見せてって言ってんの」
「そういうことでしょう。僕の手がついていると周囲に見せつけるということでしたら、それこそ中途半端なものはつけさせませんよ」
「高い安いの話はしてねえから」
「ここで揉めるのも格好がつかないでしょう? どうでしょう。僕が選んで、あなたの出世払いということで」
……どさくさに紛れてタキシード代も払おうとしてんのかもしれねえけど、アンタに貢がれる気は俺にはねえよ」

 そこまで出したら、俺は絶対受け取らねえしブラックプールにもタキシード持っていかねえ、と眉を顰めて伝えれば鈴木が本気だということが杉木にも伝わったらしい。なぜだか杉木が譲歩したようになっていて鈴木としては気に食わないものの、最終的には鈴木がやはり少し予算を超えたタキシードの代金を支払い、杉木が見立てたオニキスを設え、デザインをあれこれと指定していたリングの代金は杉木が支払った。

「仕上がりましたら、鈴木様にご連絡いたします」
「うん、よろしく」
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」

 鈴木の腰にいつの間にか腰を添えて店を出る杉木に外せと目で訴えるもののどこ吹く風といった形で、あまつさえ器用に片頬を上げてほほ笑んでくる。その顔はラテン踊ってる時にするんだよ、とここ2ヶ月ほどで改善傾向にはあるもののまだまだラテンを踊るには上品な顔しか作れない男を見る。見るからに上機嫌で歩く杉木に悪態をつくのはやめてやったものの、溜まったフラストレーションは発散できていない。
「なぁ、アンタのスタジオ今日行ったら踊れんの?」
「えぇ。今から軽く食事をとった後くらいの時間なら、もうレッスンは入っていないはずです。……いらっしゃいます?」
「アンタのその顔腹立つから、きっちり仕込んでやるよ」
「おや、よろしくお願いしますね。鈴木先生?」



「うん、パーフェクトです。苦しいところは」
「どこもかしこもキュークツ。サイズ失敗してんじゃないの」
「あなたの普段着と比べたら窮屈に決まってるでしょう。十分素敵ですよ」

 あとは髪の毛ですね、ハーフアップがいいですとわざわざパーティー前に鈴木のところまでやってきてあれこれ指示を出し、着こなしを確認して満足げな表情を見せつけている。

「指輪、ブラックプールで杉木信也の威光を借りたくて頼んだのに間に合わねえって。アンタがあれこれ注文つけたからだろ」
「言ったはずですよ、中途半端なものはお渡ししないと。戻ってきたら着けていただければ僕は構いませんから」
「それじゃあ意味ねえのにさぁ」
「そもそも、あなたが僕の傍から離れなければいいだけの話です。紹介したい人も何人かいますから、大人しく横にいてください」

 タキシードができたと鈴木に電話がかかってきた時、対応してくれた男は申し訳なさそうにリングは鈴木の渡英までには間に合わないと告げられた。本末転倒、とはこのことかと思ったものの店が悪いわけでもない。また着ける機会がきっとあるだろうとタキシードを受け取った。
 黒いオニキスの代わりにお気に入りのリングを着けた指を見つめてから分かった、とめんどくささを隠そうともせず、鈴木はとりあえず杉木に言われた通りに髪の毛をハーフアップにして整えた。言うことを素直にご褒美といわんばかりに鈴木の両の目元と頬に杉木がキスをする。いちいち気障ったらしいが杉木の機嫌が上向きであることを感じ取って何も言わずにもう一度鏡で確認する。癪ではあるもののここは杉木のホームだ。言われた通り、今日は大人しく杉木に付き従ってやろうと、そう思っていた。事実、杉木が現れた途端にざわついた空気を感じても、杉木のヨーロッパでのサポートメンバーに紹介されても、鈴木は大人しく、お行儀よく笑顔でその場で立っていた。
 だが、鈴木のことを頭のどこかに追いやってジュリオと話すのはいただけない。かつて世界一だった男。今は杉木の隣、一段低いところにいる、世界二位のダンサー。ただ、ジュリオに向けられるものはかつて同じ位置にいた杉木が向けられていたものではないことは「大人しく」横にいた鈴木には伝わっていた。房子から、ジュリオの今のパートナーであるリアナはかつての杉木と組んでいて、かつ恋人だったと聞いた。そして今、わざわざ結婚の報告を伝えてきて杉木の意識をジュリオに向けさせている。
 杉木と別れてジュリオと組み、世界一の座を手に入れて、すぐにかつてパートナーだった杉木にその座を奪われた。だが、その杉木の王座にはケチがついている。リアナの気持ちなど鈴木には分からないが、杉木が今回鈴木をボールルームに出場させなかった理由がうっすらと透けたような気がして、腹の奥にどんどんと澱みが溜まっていく。鈴木のためではなく杉木のため。ただ、杉木が直接決着を着けたくて、そのために鈴木は蔑ろにされたのだと思えば怒りが湧く。横を離れるなと言うなら杉木だって鈴木だけを見ていろとジュリオに騒ぎにならない程度に食って掛かれば、杉木の視線はジュリオから鈴木へと向いた。それでいいと、上機嫌に進み、明日の確認をアキとしてから別れ、宿泊に選んだ部屋の前で鈴木は「Mr.」と声をかけられる。「あとで向かいますね」と杉木に声をかけられていたが、杉木の声ではないし一度杉木が宿泊している部屋に戻ると言っていたからあまりにも早い。鈴木にこの地で知り合いは杉木と房子しかいない。つまり知り合いではない人間が鈴木の後をつけてきたことになる。警戒してし過ぎることはないと身なりのいい男を睨みつける。疑念と敵対心を隠しもしない鈴木に対し相手は表情を変えることなく、一枚のカードを鈴木へと手渡した。

……マーサ・ミルトン様からになります。明日会場で本人より直接声をかけると申しておりましたが、まずはご予定の確認を、と。Mrスズキと二人で、内密に話をしたいとのことで」
 出てきたビッグネームに鈴木は目を見開いた。競技ダンス界の大御所で、この地で共に暮らし杉木にダンスを教えた相手の名。だが当然鈴木と面識があるわけでもなければ、手にしたカードがマーサ本人からのものであると確証できるものもない。これから来る杉木に見せれば筆跡で分かるかもしれないが「内密に」ということはその方法も使えない。
 恐らく「内密な話」の内容は杉木のことなのだとすぐに当たりがつく。明日は大会で、鈴木は日中はブラックプールにい続けることになる。マーサ本人が鈴木にコンタクトを取りに来るというのなら、それを待てば目の前の男の真偽はどちらにせよ分かる。

「とりあえず、この日付は空いているけど。俺はマーサ・ミルトンが不快に思わないほどのマナーを身につけていないと伝えておいてもらっても? どこかの店に入るためのドレスコードを満たす服なんてこのタキシードだけともね」
「承知いたしました」

 去っていった男をぼんやりと見つめてから鈴木も部屋へと戻る。気にならないわけではないが、まずは明日の試合に集中する必要がある。具体的なスケジュールは聞いておらず、杉木に確認することもできたが余計なことを口走りそうで結局メールを打つことはしなかった。だからまさか、やってきた杉木の態度に腹を立てて「余計なことを口走り」、結果言い争いになって杉木と険悪なムードになるなど、この時の鈴木は想像すらしていなかった。


「Thank you.」
 怒鳴り散らしてからフロアを後にしてすぐ、全く感情の整理がついていない中でマーサは鈴木に声をかけてきた。今の鈴木はマーサに感謝されることなど何もしていないどころか初対面で、言葉の意味が分からない。何か皮肉か、遠回しに滑稽だと馬鹿にされているのかとも思ったがマーサの目や表情からはそうとは読み取れなかった。
 鈴木とアキにとって初めての世界大会は、ファイナルに行くのが精一杯だった鈴木とアキに比べて、ファイナルのフロアの上でも杉木と房子は場を支配していた。周囲から見れば国際大会初出場でファイナルまで行けているのが凄いと言われるかもしれないが、目標はそこではない。そしてこの結果に、アジア人スポンサーへの諂いが関わっていないと言い切れるだけのものもない。
 ただ、最初に杉木と房子の名前が呼ばれた時の拍手は次に名前を呼ばれたジュリオとリアナのペアよりも確実に少なかった。それだけならまだ鈴木だって耐えることができたものの、その後の妙案とばかりに行われたパートナー交代はどう考えても悪趣味極まりないものだった。
 杉木という人間を頂点を得た代わりに愛を失った哀れな男に仕立て上げたいのか、それとも愛を捨てたことを後悔し続けているがゆえに未練が残るかつての恋人との束の間のひと時に浸り、縋る男にしたいのか。ジュリオを世界一の座を捨ててでも愛に生きた男として対比させたいのか。房子をあくまで杉木の手駒でしかないとリアナと比べさせて可哀想な女にしたいのか。どちらにせよ、杉木にも房子にも侮辱とだって言える仕打ちの中で、それでも杉木はその役を嫌な顔どころか気持ちの揺れの一つも見せずに全うして見せた。

そうじゃない、怒っていいはずだ。アンタが世界一だろ、もっと怒れよ。

 杉木のサポートメンバーまでもが杉木の世界一が仮初のものだと言わんばかりの発言をしていたことも気に食わなかった。この観客たちは、いつか来る杉木の凋落を楽しみにしているらしい。そしてまた頂点に挑むであろう杉木が負ける姿を見たいのだと。ふざけるなと騒ぎ、喚き散らしてフロアを後にする。鈴木がもっと早くこの場から立ち去ったところで誰も困らなかったはずで、そうすべきだったとは鈴木だって分かっている。だが、杉木のダンスに目も足も釘付けになったことで叶わなかった。見ていたくないのに目が引きつけられる、追ってしまう。腰砕けになるほど美しいステップにお互いを支え合うダンス。あまりにも美しかった杉木とリアナのダンスが脳裏から離れない。杉木とリアナのタンゴは、杉木がリアナに夢中なのが目にとれたから見ものだったらしい。鈴木との、息が合わずにつっかえて止まってしまい舌打ちを杉木がするようなタンゴとはものが違うのだろうと思うと胸を掻きむしりたくなるほど苦しい。
 ただそれでも、どうして杉木の味方がいないのか。杉木信也のダンスの価値さえ貶めるような言葉を紡ぎ、ぶつけることができるのか。どうして赤の他人は悪意に満ちた言葉をそのまま真に受けることができるのか。
 叫んだのは鈴木のためだ。間違っても杉木のためじゃない。感情を抑え込むことも、隠し切ることもできないために叫ぶことしかできずに今度こそアキを置き去りにフロアを後にして、控室に戻るために足音を響かせながら廊下を歩いていたところにいたのがマーサ・ミルトンだった。

……感謝を言われるようなことを、私は何もしていませんよ。ミズ・マーサ。むしろ場を乱したと非難されてもいい行いでした」
「いいの、言いたかっただけよ。明日、私と会ってくれるのなら午後にあなたが泊まっている部屋に彼らが迎えに行くわ。場所は私の家にするから、ラフな格好で来てちょうだい」

 マーサからの言葉に、そういえば招待を受けていたなと鈴木は思い出す。マーサとの約束を忘れるなんて、と頭の中で杉木に窘められたような気がしたが今はそれすらも鈴木の心をマイナスの方向にかき乱す。いなくなれ、消えてくれと緩く頭を振ってから、鈴木は少し下にあるマーサの顔をじっと見つめ返した。

「私でよければ喜んで。楽しみにしています、ミズ・マーサ」

 断る理由も特に思い浮かばない。時間を聞けば朝から動けば手土産の一つは用意できるはずだ。杉木に、と思ってやめて房子に手近な店を聞こうと決めた。理由は、大枠をぼかして土産とだけ伝えればいいと算段を立てる。
 マーサの前ではなんとか笑顔を作ったものの、結局根本は何も解決しないまま鈴木はさっさと泊まっている部屋に戻った。酒を飲んで、寝て、そうして少しずつ消化すればいい。杉木の顔を見て、ちゃんと防衛おめでとうと伝えられるように。それから、嫌なら嫌と言うべきだってことも、悔しいくらいにダンスが綺麗だったことも。ガラはないものの世界一を防衛することがどれだけ大変か、鈴木が分かるのはそのほんの一部でしかない。だが、杉木が出した結果に対する称賛はすべきで、ただ正直に伝えられるように今は時間が必要だと、誰でもない鈴木が分かっていた。

 だから。

 何が素晴らしいデビュー戦だ、何がアキがどこに行っただといつも通りの顔で鈴木に話しかけてくる杉木にムカムカと酒と煙草で収めていたはずのムカつきが徐々に沸き立ってくる。鈴木のことだけ見ているのはそれでいい。でも杉木の心はまだ傷ついているはずだ。

「今日は嫌な目に遭ったんじゃない?」

 鈴木が何を言ったところで、割り切ったふりをする杉木の本心は何も鈴木には分からなかった。あまつさえ鈴木を煽るような言葉に苛立ちだけが増していく。そんな真似しなくていい、あんな扱いをされることに慣れなくていい。辛いと言っていい。
鈴木の言葉では何も杉木には響かない。じゃあどうすればいい、鈴木は杉木に何ができる。どうすれば杉木に認めさせることができる。

「何があったところで一番だって認めさせたい。そうじゃなきゃ、嫌なんじゃなかったの?」

 これしか思いつかなかった、と酒の入ったグラスを持ったままの杉木を押し倒して、それで。ようやく少しだけ見えた綻びを突こうとして、失敗して。結局交われないと、杉木から勝手に近寄ってきてたくせに、鈴木が心を開けば杉木の心も開かせようとすれば勝手に拒絶した。そのくせ、杉木の去り際の手も目も忘れてくれるなと鈴木に訴えかける。ぼんやりと、ベッドサイドに座り込む。まだ首元に杉木の大きな手があるようで、息がしづらい。鈴木は、何を考えていたかも考えていなかったも分からぬまま、外が明るくなるまでずっと動くことができなかった。動いたところで待っていたのは割れたグラスで足裏を傷つける嫌な偶然だ。……鈴木が壊した杉木の壁の一部が、逆に鈴木をズタズタに傷つけようとしているのかもしれないと、自分が投げつけ割ったグラスの破片をぼんやりと眺める。何もしたくなかったが、午後からはマーサとの約束がある。ラフな格好と言えどまさかこんな格好で行くわけにはいかないと、あれこれ理由をつけ、やっとのことで鈴木はふらりと動き出し、シャワールームへと歩を進めた。