みずあめ
2026-06-06 23:15:10
2577文字
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ゆづあい

ワンライお題「はじめて」

椅子に座った逢さんが、俺のことをじっと見上げていた。心臓が飛び出しそうなほどドキドキしていて呼吸すらままならない。そんな俺の様子に気がついた逢さんがふっと優しく笑みをこぼした。
「緊張しすぎだ」
……すみません。はぁ、心臓が飛び出しそう」
……ふ、本当だ」
「っ!」
逢さんが俺の胸に手を当てて笑う。バカみたいにうるさい鼓動が逢さんに筒抜けだと思うと余計に緊張して、俺は情けない声で「触らないでください……」と呟いた。
パッと手を離した逢さんは、影の中で俺の顔を覗き込んだ。いつも仕事の場で見る時よりも緩んだ表情はきっと俺にだけ向けられるものだ。近い距離で見つめあって、逢さんが首を伸ばして俺の唇にキスをする。触れるだけですぐに離れ、逢さんが俺の頬をちょんとつついた。
「悪い。可愛い顔をしていたから、つい。今日はお前からするんだったな?」
……うん、でも、もう一回」
「もう一回?」
……見本を」
「ふ、了解。ちゃんと見ておけ」
逢さんが俺の首に手を回し、ぐいっと引き寄せて顔が近づく。いつもは咄嗟に瞑ってしまう目を開けたまま近くなる逢さんの瞳を見つめていれば、気がついたら唇が重なっていた。ハッと目を見開く俺と対照的に、逢さんは楽しそうに目を細める。
「見本になったか?」
……すみません、逢さんに見惚れていて」
……正直者。もう一回?」
「よろしければ」
「もちろん」
今度はさっきよりも角度をつけて、やっぱり目を開けたままキスをする。逢さんのやわらかな唇に食まれ、慣れないそれに心臓が跳ねた。逢さんからのキスにすらまだ緊張してこんなにドキドキするのに、自分からするなんて無理かもしれない。
唇を離して、でもまたすぐに触れられそうな距離で、逢さんが俺のことをじっと見つめていた。「由鶴」と名前を呼ばれて反射的に返事をする。
「次は由鶴の番だ」
「はい……えっと、このまま?」
「その方が簡単だろう。それとも、一度リセットするか?」
「ううん……じゃあ、リハーサルで」
「リハーサル? ふ、ああ、じゃあまずはリハーサルで。その後本番だな?」
「はい……目を閉じてもらえますか?」
小さく震えた声に、逢さんは微笑んだままぱちんと瞼を閉じた。ほんの少し顔を動かすだけでぶつかる距離感。それでも緊張は解けなくて、覚悟を決めるため数秒固まっていれば、逢さんが「はやく」と甘い声で囁いた。
背中を押されたように顔を寄せ、ふにっ、と唇同士が触れ合う。すぐに離れてしまって、今のじゃリハーサルにもならないと慌ててもう一度唇を重ねる。今度はしっかり、だけどたぶん今の俺にとっての数秒はほんの一秒程度で、顔を離し、そのまま逢さんの腕の中からも抜け出して後ずさった。
目を開いた逢さんは離れた場所にいる俺を見て目を丸くした。それから優しく笑って手招きをしてくれる。
「なんでそんな遠くにいるんだ」
……心臓が爆発しそうで」
「しないから、おいで。由鶴からもキスができたな?」
「逢さんが場を整えてくれたからです……
「それじゃあ次は、本番だったか」
「う……いったん、休憩を」
「休憩はなし。今は由鶴とキスがしたい」
俺の名前の形に動く唇がずっと大好きで、触れたいと思っていた。だけどいざ触れていい関係になると、今度は好きすぎて触れられなくなる。
キスは好きだ。逢さんも俺とのキスを好きだと言ってくれるし、実際隙さえあればキスをしてくる。それを嫌だなんて全く思わないけれど、由鶴からもしてほしい、とねだられて、俺はただどうしようもなく騒ぐ心臓とともに立ち尽くしかなかった。こんなに好きな人に、どうやってキスをするのか、俺には分からなかったから。
「リハーサルはうまくいったな?」
……うまく、いってましたか……
「もちろん。ちゃんと唇から外れていなかっただろう。そもそもお前はキスが下手なわけじゃないんだから、ただ自分からできればそれで百点なんだぞ」
……あの、一個、お願いを」
「うん?」
「逢さんが上にいてほしいです」
……由鶴が、座る?」
「あ、えっと、そう、ですね。どうしよう、しゃがもうかな……
「場所を交換すればいい。が、……見てるとキスをしたくなる」
俺を引っ張って椅子に座らせ、交代で俺の前に立った逢さんは、そう言って眉間に皺を寄せた。明かりを背にした逢さんに見下ろされ、さっきまでとは違うふうに心臓が鳴り出す。
「目を瞑っていてもいいか」
「あはは、はい。触ってもいいですか?」
「ああ、好きにしろ」
さっきの逢さんと同じように、首に手を回してそっと引き寄せる。目を瞑った逢さんの顔が近付いて、やっぱりドキドキするけれど、さっきよりもどこか冷静だった。
見下ろされるのが好き、とかそういう性癖はないはずなんだけど……逢さんに見上げられるのは慣れないからかな? いつも同じ目線で隣にいてくれることを思い出して、呼吸が落ち着く。
何度も触れたことのある唇に自分から触れるだけがどうしてこんなに難しいんだろうと考えながら、俺はすっと息を吸って、狙いが逸れないように目を開けたまま首を伸ばした。
ちゅ、と触れて、ゆっくり離す。逢さんが目を開けて、視線が絡むのと同時にもう一度唇が重なった。そのまま舌が伸びてきて熱が絡まる。
「あいさん」
……うまくできたな?」
……そうですかね?」
「邪魔して悪い。もう一回、頼めるか」
「邪魔ではないですけど……もう一回?」
「今度はじっとしてる」
「ふふ、いいですよ、好きにしてもらって。でも、一回できたから、もう一回もできるかもしれません。なんかいける気がする」
「もう慣れたか」
「さすがに慣れはしないですよ。でも、キスはもういっぱいしてるし、……逢さんからキスしてもらえるの嬉しいから、逢さんも俺からしたら嬉しいのかなって」
「ああ、すごく」
「ふふ、じゃあ、もう一回」
逢さんが身をかがめ、俺に顔を近づける。俺は逢さんの両頬を手で挟んでふふっと笑い声をこぼした。笑った目で見つめ合って、どちらからともなく唇を重ねる。ねえ、俺からするって話だったのに? すぐに離して逢さんをじっと見つめれば、逢さんはぴたっと動きを止めて目を伏せた。笑い声を小さくこぼして、もう一度、今度は俺から。