kanaco
2026-06-06 21:01:49
2631文字
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キャラメリゼの向こう側

【四信】このまま成立するでしょ!な四信。甘い香りと気遣いのおはなし。キャラメリゼの向こう側にあるもの。

「よぉ、四仔。仕事終った?」

 最後の患者が診療所から去って一時間後。

 片付けや明日の準備を終え、そろそろ診療所を閉めようかと考えていた四仔は、名を呼ばれて入口の方へ顔を向けた。本当は、確認などしなくとも正体は分かっている。それほど馴染みとなった信一が、戸枠にもたれかかっていた。

 信一の方も仕事を終えているのだろう。幾分かスッキリした表情で気楽そうに、四仔に視線を寄こしていた。

 おそらく、彼の機嫌はいい。ところが不審な点として、いつもは遠慮など知らぬ顔でズカズカと診療所に入ってくるくせに、どうしてかドアの敷居を超えてこない。

 四仔はマスクから覗いた瞳を不思議そうに細めた。清潔にした医療器具を棚にしまい終わると、相変わらず大人しくしている信一に声をかけた。

「どうした?」
「仕事、終わったんだろ?」
「もう、閉めるつもりだ」
「そうか」

 
 じゃぁ、デートしよ。

 
 老若男女問わず惹きつける甘い顔立ちに、愛らしい笑顔がほころぶ。

 四仔は僅かに目を見開いたが、ほんの少しの動揺さえ悟らせないように、いつもの調子で浅く息をついた。

 信一の突拍子もない提案はいつものことである。フットワークと口ぶりの軽さもトレードマークのようなものだ。それなりの付き合いを重ねたことで、信一自身の性格は実は真面目で堅い一面もあることを四仔は知っていた。そのパフォーマンス染みた言動は、信一にとってただのツールであったり鎧であったりする。

 ただ……
 
 そうは言ってもこの軽薄さを誰にでも振りまいていると思うと、四仔は辟易するのだ。

「あ、なんだよ。ため息つくなって」
「お前、そんな言葉ばかり言って、トラブルにならないのか」
「痴情のもつれで、あわやサスペンスとか?」
……
「冗談!そうヘタじゃないさ」

 信一は「おいおい、そんな厄介そうな目で俺を見つめんなよ」とぼやき、やはりオーバーな仕草で肩を竦めた。それからやっと診療所の中へと入ってきた。その背でゆっくりとドアが閉まる。信一はそのままトコトコと四仔の場所まで歩いてくると、目を細めて無邪気に笑い、小首をコトリと傾げた。

 ふわり。
 信一から匂いがする。
 その微笑みと同じくらい、甘い香りだ。

 なんだったか、と四仔は思った。
 
 芳ばしい、焦がしたキャラメリゼ。
 バニラビーンズが効いた、優しいカスタード。

 少しクセになるようなビターさと、幸せなひとときを思わせる上品な甘さ。
 
 
 クリームブリュレ。

 
 癒されたい。幸福感に包まれたい。それを満たしてくれるような、美味しそうなグルマン香水。
 
 思わず、四仔は静かにその良い香りを吸いこんだ。甘ったるいのに、ホッとするような気持ちにもなる。

 そう気がついた四仔は、少しだけ思案すると信一の顎先へと指をのばした。信一が「へ?」と間の抜けた顔をしたが、それを無視して顎を親指と人差し指で掴み、クイっと上へ持ち上げる。

 それから四仔は何も言わずに、しげしげと顔を見つめてから手を離した。恥ずかしいのか、信一が次第に顔を赤らめはじめ「ちょちょちょ」と意味不明な言葉を出す。やがて情けない顔をして聞いた。
 
「え、何してんの四仔」
「珍しく甘い匂いをつけているから、疲れているのかと思って」
「は?」
「脳は疲れていると、甘いものを求める」

 目の隈がいつもより濃いな。
 そういえば、昨日は月末か。
 
 四仔が信一の目元を触った。繊細に優しく、薄っすらと隈になっている場所をなぞる。それから「漢方でも出すか……」と独り言を言い、視線を棚の方へ動かそうとした。

 目を丸くしていた信一は、四仔の様子を唖然とした表情で見ていたが、やがて突然ケラケラと笑い始めた。四仔が「人の親切心をなんだと思ってる」と動きを止めた。マスクを被っていても、伝わるほどの憮然とした顔。信一は「悪い、悪い」と謝りながらも、笑い過ぎて目尻に少しだけ滲んだ涙を、人差し指で拭きながら弁明した。

「いや、マジ四仔って四仔だよなって思って」
「何がだ」
「表向きは、カチコチクールな堅物に見えるけど、割った中身はマジ優しくて親切」
……
「今月、凄くてさ。あの兄貴が領収書を事前に全部出したわけ」

 マジで奇跡。拍手喝采。
 スタンディングオベーションものだったね!

「だから、俺はいつもの月よりは疲れてないわけ」

 信一は一度、言葉を切った。ふふん、とちょっと生意気なように鼻を鳴らす。

「それに、疲れているのは先生の方だろ」
……俺?」
「連日、診療所が繁盛で夜遅くまでやってたって聞いたぜ?」

 今度は四仔が驚く番だった。「確かにそうだが……」と言うと、信一が「だからさ」とニヤっと笑う。

「甘いの欲しいかと思って。四仔は医者だし、診療中に香水なんてつけられないだろ。だから診療時間が終わって、夜に残り香が少し移るくらいなら、気分転換にいいかと思って」
……俺のためか?」
「そうだけど?」

 お澄まし顔の信一を静かに見つめながら、四仔は再び思案した。信一は首を先ほどとは反対に傾げる。四仔のためにつけてきたらしい香水が、またフワリと漂う。

 甘ったるいはずなのに、不思議と心がほどけていく。四仔はその匂いを静かに吸い込みながら、改めて注意深く信一を観察した。
 
 どんな人間だって惹きこんでしまう、妖しい黒社会の青年。でも本当は一途で献身的な性分であることを、自分は知っている。
 
 四仔はゆっくりとした仕草で、信一の腰に手を回した。信一は少しも抵抗せず、引き寄せられる。
 
 さらに強くなった、信一の香り。

 華やかな容姿と笑みに隠れる、瞳の奥底に覗く緊張が見て取れる。診療所へすぐには入ってこなかった理由。パフォーマンス染みた言動は、信一にとってただのツールか鎧なのだ。

 四仔はふいに可笑しくなって、クスリと小さく笑った。
 
 そんな四仔を見て、嬉しそうにする目の前の男もまた。

 大人びて手馴れているフリをするカラメリゼをトントンと砕けば、中にはとろけるように濃厚な、なめらかクリーム。

「俺、好意があるかないかは、けっこう分かりやすいタイプだと思うけど」
 
 誰にも彼にもなんてしない、と信一がまるでイタズラが見つかった子供のように笑った。