ねぶくろ
2026-06-06 15:27:00
3376文字
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その門を越えていけ

『新生活応援キャンペーン2026』の番外編です。一行目から本編です。よろしくお願いします。

 憧れのカフェバイト。その初日を迎えて、立花たちばな翔太しょうたは気合を入れて制服に袖を通した。
 しっかりとアイロンをかけた真っ白なシャツに、黒くシックなカマーベスト。──制服のカッコよさも、このカフェでのバイトを志した理由の一つだ。高校生の頃からの『憧れの衣装』に身を包み、翔太は高揚する気持ちを押し殺せないまま、休憩室からフロアに出た。
 午前中は、指導役の先輩から一通りの説明を受ける手筈になっている。『研修中』のバッジを胸に、先輩の後ろにくっついて、翔太は伝票の書き方やおすすめメニューを説明するときのコツ、テーブル番号などを学んだ。一つひとつ丁寧にメモを取り、教えられた内容を頭に叩き込む。
 初日だから、と少し早めに設定された昼休憩を挟んで、客足の落ち着いた午後二時過ぎ。ようやく先輩から、「それじゃあ、次に来たお客さまを接客してみようか」とお許しが出た。
「私も見てるから、席に案内するところから一人でやってみよう。フォローするから、頑張ってみて」
「わかりました!」
 ようやく、カフェ店員として実際に業務に携わることができる。その興奮に、思わず心臓が高鳴る。大きな声で返事をして、翔太は次なるお客がドアベルを鳴らすのを、今か今かと待った。洗い終わった皿を所定の位置に戻したり、空いたテーブルを片付けたり、雑務をこなして時間を潰す。──そして、数分後。ようやくドアベルがリン、と澄んだ音を鳴らした。
 来た!
 嬉しさから、跳ねるように顔を上げる。翔太は思わず、「いらっしゃいませ!」と、シックな店内には似つかわしくない、勢いのある声を発した。入り口に佇んでいた二人組のうちの一人と目が合う。彼は猫を思わせる目を人懐っこく細めて、「二人です」と指で二を示して見せた。
 先輩がアイコンタクトで、「奥の席に案内して」と促すのを受け取って、翔太は「こちらのテーブル席へどうぞ」と二人を先導した。景色の良い窓際の席に二人を案内する。二人組の内のもう一人が、やけに威圧感のある男性だと気付いたのはその時だ。
 まず、背が高い。百七十七センチの翔太よりも頭一つは高い位置からこちらを見下ろす双眸は、肉食獣を思わせる獰猛さを湛えていた。そして次に、着ているものの質がいい。さしてファッションに明るくない翔太が見ても分かるほど、男性の纏うスーツは光沢があり、丁寧に手入れされている高価な品であると分かった。
 初めてのお客にしては、なんだか怖い人に当たっちゃったな。
 不安を感じて先輩を振り返れば、彼女は「がんばれ」とばかりにこぶしを握って頷いた。こちらも頷きを返して、先ほど教わった通りに本日のおすすめメニューが書かれたミニ黒板をテーブルに運ぶ。翔太は緊張に震える膝を無視して、息を吸い込んだ。
「ご来店ありがとうございます。こちら、本日のおすすめです。ご注文がお決まりになったら、お声がけください」
「ありがとうございます」
 二人組のうち、愛想のよい若い男性がにこやかに謝辞を述べる。彼に向けて会釈をし、ミニ黒板はテーブルに残したまま、翔太は踵を返した。そのまま、作業用のカウンターで二つ分のお冷を汲む。
 すすっと近づいてきた先輩が、「上手だよ。そのまま注文も取ってみようね」と励ましの言葉をくれる。翔太は頷いて、二つのコップを乗せたお盆を手に取った。
 お冷を給仕したら、注文を取って伝票を書く。伝票を厨房に運んで、料理やドリンクが完成したらテーブル番号を確認して給仕する。頭の中でこの先の手順を反芻しながら、「お冷です」と冷たいコップを手に取る。──机上に置くはずだったコップが指先を滑り、自由落下をしたのはその時だった。
 あ、と発された声が誰のものだったのか、定かではない。重力を受けて落下した水入りのコップは、見事に中身をまき散らして天板へと倒れた。
 中身のなくなったコップ。テーブルから滴る水。黒く染みになった、上質なスラックスへと視線が動いて、翔太は目を瞬いた。
 高価そうなスーツを着た、威圧感のある男性が、静かな表情で自身の服へ視線を向けている。相対する連れの男性もまた、濡れてしまった彼の服を眺めて、「藤原ふじわらさん、おしぼりどうぞ」と手元のおしぼりを差し出した。その動作を認識してようやく、金縛りのように硬直していた体と思考が動き出す。
「し、失礼いたしました!」
 大きな声と共に頭を下げれば、同じく硬直していた先輩も駆けつけてきた。「失礼いたしました。こちらをお使いください」と、彼女が未使用のおしぼりを差し出す。男性は「どうも」と静かな声でそれを受け取り、濡れてしまったスラックスをトントンと叩いた。その手付きを眺めながら、為すすべもなく、ただ「すみません」と繰り返す。
 どうしよう。頭が真っ白に染まって、うまく思考が働かない。初日からいきなりミスをしてしまった。しかも、よりにもよってこんなに高そうな服を濡らしてしまうなんて!
 自分は、クビになるのだろうか。この服を弁償しなければならないのだろうか。──どうしよう、今から挽回するにはどうしたらいい?
 翔太がパニックに陥っていれば、一部始終を眺めていた連れ合いの男性が、翔太に目を向けた。猫を思わせる双眸がこちらを捉えて、「君、」と呼びかける。
 怒られる、と咄嗟に身が竦んだ。「はい」と応じた声は、自分でもわかるほどにか細い。委縮し、怯えが滲んだ声を受けてか、彼は安堵させるような笑みを浮かべて、「あ、身構えなくて大丈夫。クレームとかじゃないから」と、ひらりと手を振った。
「君、研修中でしょ? バッジ付けてる」
「あ、……はい、今日が初日です」
「そっか。初日にトラブル対応なんてできないよなぁ」
 間延びした声と共に頷いて、彼がこちらを見上げる。その目には、どこかいたずらっ子を思わせる光が揺れていた。
「このおじさん、ちょっと怖い雰囲気だけど優しい人だから。零したのも水だし、大したことじゃないから気に病まないでね」
 安堵させるような言葉に、思わず頷く。すると、トントンと濡れた箇所を叩いていた『ちょっと怖い雰囲気のおじさん』が顔を上げた。怒られるかも、と身構えるも、その視線は翔太には注がれない。『おじさん』は、あまり感情を感じさせない抑揚の薄い声で、「高椋たかくら、」と若い男性を呼ばわった。
「私はブレンドコーヒーにする」
……藤原さんってマイペースって言われません?」
 呆れたように苦笑して、高椋と呼ばれた彼が再びこちらへ視線を向ける。彼は、「注文良いですか?」と礼儀正しく翔太へと問いかけた。──店員として、挽回の機会を与えられている。
 それとなく差し出された彼の優しさに気付いて、思わず唇を引き結ぶ。気を抜くと潤んでしまいそうな目元に力を込めて、翔太はベストのポケットからメモ帳を取り出した。ペンを片手に、精一杯の営業スマイルを浮かべる。
「もちろんです。ご注文をお伺いいたします」




【あとがきのようなもの】

 新生活応援キャンペーンでリクエストをいただいた、『現パロの時仁さんと、高椋あやめの話』です。
 だいぶ時間があいてしまったのですが、書く機会を窺っていたので、書きました。
 シチュエーションはおまかせ、とのことだったので、最初は「転職時の最終面接で時仁さんが出てきて圧倒されちゃう高椋あやめ」とか、そういうのを書こうかな~と思ったのですが、個人的にこの二人は外回りの帰りにお茶をする習慣があったら可愛いな~と思っているので、そんな感じで書きました。
 時仁さん、威圧感はあるものの、感情の起伏がほぼないため店員さんのミスで水とかかけられても怒らなさそうでいいですよね。しかも合理的を極めているので、濡れた服を拭きながらメニューを見て、「これにする」とか決めてそうで可愛い。本人的には何も矛盾したことはしていないのに、周囲からは「何だろうこの人……」って思われる瞬間がありそう(偏見)。
 ちなみに、タイトルは登竜門からとりました。その門を越えて、龍になれ。そんな感じです。

 ずいぶん時間が経ってしまいましたが、企画へご参加くださりありがとうございました。
 楽しんでいただければ幸いです。