大きな家の玄関の土間で、ぷてさめは途方にくれていました。
周囲には、ニンゲンの履く靴が数足。目の前には、上がり框の段差が高い壁としてそびえ立っています。
「ぷ
……」
もうすぐおやつのじかん、ということは、ぷてさめにも分かっていました。はやく、もどらないと。
でも、どうすればここをのぼれるんだろう。
本体のニンゲンに、ここなら綿仲間もいる、と連れてこられて早数日。広々とした快適な家のリビングで、ぷてさめは暮らしていました。家の主の男性は、大きな体にさらさらの金髪、優しげな青い瞳の美丈夫で、何かとぷてさめを心配してはこまやかに世話をしてくれます。でも彼には、ぷてさめの言うことが半分ほどしか伝わらないのでした。
すぐに慣れる、とぷてさめの本体のニンゲン(むらさめ、という名前です)は言うし、ごめんな頑張るから、と家の主(ししがみ、と呼ばれています)も言ってくれます。綿の先輩たちとはきちんと話せるので、通訳も誰かがしてくれるのですが、先輩たちはみんな大きくて、楽しそうに広い家を走り回っていて、ぷてさめはなかなか一緒にいられません。今日こそは自分も、とリビングから歩き出したぷてさめでしたが、あろうことか玄関へ向かってしまい、足をすべらせて土間に落ちてしまったのでした。
ぷてさめは、小さな小さなぬいぐるみ。ちょっと落っこちても、布と綿の体は何ともありません。が、ニンゲンが軽々と踏み越えていくこの段差を、どうしても登ることができないのでした。
「ぷゅ
……ぷ
……」
小さな声で、ぷてさめは鳴きました。誰かが廊下を歩けば、その足音でかき消えてしまいそうです。でも、それが今のぷてさめが出せる、せいいっぱいの声なのでした。
本体のニンゲン達と一緒に練習していけば、たとえ大きな声が出なくても、心で言葉を伝えられるようになるのだと言います。でも、ニンゲンと暮らすようになったばかりのぷてさめは、まだ自分の意思をうまく飛ばせません。遥か高い上がり框を見上げて、震える声でぷゅ、ぷゅ、と鳴くことしかできないのでした。
「ぷ
……」
タイル張りの土間から、じんとつめたさが染みてきます。
ぷてさめは手近な靴のつま先につかまると、んしょ、と力をこめて体を持ち上げました。革製の靴はよくみがかれていて、つやつやです。つるりと滑り落ちそうになって、慌てて縁の出っぱりにつかまります。
「ぷゆゅ
……ぷ、ゅ
……っ」
革靴のつま先に顔を伏せ、ぷてさめはぷるぷると震えました。
どうしよう。だれもこなかったら。
よるになっても、あさになっても、だれもきづかなかったら。
こころぼそい。
かえりたい。あの、あったかいおへやに。
あぁ、ちゃんとことばがつたえられたら。
それか、ぴょーんとたかく、じゆうにとべたら。
おなじニンゲンのわたなのに、ずっとつよくて、じしんかで。
おおきなわたの、かれみたいに
——
『
——みつけたごろ』
頭に声が響いて、ぷてさめは顔を起こしました。
見上げた上がり框の縁から、俵型の綿がぷてさめを見つめています。燕脂と薄紅の糸で縫われた瞳が、きらりと光りました。
『まだひとりでであるくなごろ。ちいさなあなたにとって、リビングのそとはきけんがいっぱいだごろ』
「ぷゆ
……」
おこられた、と思ってぷてさめが震えていると、ごろさめがすたりと土間に飛び降りました。身軽なその動きに、ぷてさめは思わず見とれてしまいます。
ごろさめはそのまま、ぷてさめのいる靴の前まで来ると、くるりと回ってお尻を向けて止まりました。
「
……ぷゅ?」
『みてわからないかごろ。せなかにのるごろ』
「ぷゆ
……!」
『まったくせわがやけるごろ。はやくおやつたべにいくごろ』
「ぷ、ぷゆゅ」
ぷてさめは急いでごろさめの背中につかまりました。しっかりと綿のつまった体は、ふかふかで頼りがいがあります。ぺたりとお腹をつけて伏せると、じわっとあたたかさが伝わってきました。
「ぷゅぅ
……」
ぷてさめはせいいっぱいの声でお礼を言いました。やさしくて、つよい、偉大な綿の先輩に。
じぶんはちっちゃくて、まだいろいろなことがわからなくて。
でも、できるだけがんばっていこう。
ここでみんないっしょに、幸せにくらせるように。
『
……それでいいごろ』
ごろさめが頷く代わりに、たふ、と手で床を叩きました。
『あせることはないごろ。ししがみをしんぱいさせないよう、むりせずしょうじんするごろ』
「ぷゅ!」
『では、いくごろ』
たっ、とタイルの床を蹴って、ごろさめは駆け出しました。上がり框に向かって、まっすぐに突進してゆきます。高い高い壁がみるみるうちに迫ってきて、ぷてさめはどきどきして、ぎゅっとごろさめの背中の縫い目を握りしめました。
「
……!」
ふわっと体が浮かびました。
ごろさめが、跳ねたのです。
次の瞬間にはもう、ごろさめは楽々と上がり框に立っていました。背中の上で振り向いて、ぷてさめは玄関の土間を見下ろします。さっきまでいた革靴が、ずいぶん低いところに見えました。
「ぷ、ぷゆぅ〜」
『おどろいているひまはないごろ。はやくおやつたべにいくごろ』
リビングの扉に向かって、ごろさめは一心に走っていきます。頼もしいその背中につかまり、やわらかい風を感じながら、ぷてさめはもう一度ぷゅ、と鳴いて嬉しそうに笑ったのでした。
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