たけお
2026-06-05 23:08:53
11612文字
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三リョ②


愛とか、恋とか、魔法とか。


「えー、そんなの、三井さんが悪いんじゃないっすか。絶対、そう。最低」
 酒の入った宮城は、陽気に笑いながら、表情とは合わない言葉を俺にぶつける。二人だけのテーブル席。残り少ない枝豆を口に放り込み、かみ砕くついでのように、また「最低」と罵られる。
 宮城はその言葉が気に入ったのか、「だって、マンションまで買った後にさあ」とさらに俺への攻撃を始めた。
「三井さんはもう引っ越しちゃってんでしょ?んで、あとは彼女が来るのを待ってたんだ?お互いの家族への挨拶とかも終わってるのに、婚姻届け出す直前でやっぱなしって言われるなんて、普通、そんな軽く終われるわけないって。そこまでしてたらさぁ。向こうの家族に謝罪?とかそういうの、行かなかったの?」
 今日の宮城はいつも以上によく喋る。まるで新しいおもちゃを見つけたガキと同じだ。何倍になって返ってくるのか、考えるだけでもうんざりしたから、首を横に振ることで答えた。宮城は口を大きく広げて笑った。半円のようだった。
「もうぜーんぶ終わったあとか。余計怖いって。いったいなにしたんすか?」
……知るかよ。大したこと言わなかったし、向こうも」
「向こうもってことは、三井さんも何も言わなかったんだ?」
「さすがに言ったって。でも、何言っても、聞いても、答えてくれなかったんだよ」
 ははは、と心底おかしそうに笑う宮城の声が響く。
「いやあ、良かったんじゃないんすか?そのまま結婚してたらもっと面倒なことになってそうだし。彼女の英断。むしろ感謝した方がいいね」
「でも、マンション買っちまった後に言うことないだろ?結婚がなかったら、まだ買うつもりなかったのに」
「そこが向こうの強かなところっすよね。かっこいいなぁ。俺も惚れそう」
 あって困るもんでもないんでしょ?と言う宮城は、完全に俺の彼女、いや、元カノ側の味方に付いている。件のマンションに一人で帰るのが嫌だったから、わざわざこの後輩を呼び出したというのに、元カノや両親より手ひどく傷を抉られ、胃のあたりが重くなってくる。だけれどそんなこと宮城にバレようものなら、傷ついていることまでバレてしまうので、宮城が手を伸ばした最後の焼き鳥を奪い、串のまま口に突っ込んだ。
「あ、何すんだ」
「頼めばいいだろ。次、何飲むんだよ?」
「そうだな。もっと三井さんに言ってやりたいことあるから、俺もハイボールにしとこ」
 どんなに強がったところで、一人になりたくないという隠しようもない本音が、どうしても隙を見せてしまう。わざとらしくため息をついてみても、宮城は気にした様子もなく、店員を呼ぶためのボタンを押していた。すぐに店員が俺たちの元へとやってくるだろう。もう今夜は仕方がないと諦め、俺もハイボールを頼むことにした。
 
 注文をとるついでに空いた皿を片付けていったおかげで、テーブルの上は何もなくなってしまった。宮城はおしぼりでひよこ(だと言い張っているもの)を作り、頭の部分に圧をかけて、テーブルに自立させている。不細工なそいつを見ていると、なんだか自分が宮城にいじめられているのだというように思えてならなかった。
「お前さぁ、少しは慰めようとかないわけ?仮にも婚約破棄になったんだぞ、俺は」
 「そこ威張るとこですか?だって三井さん、フラれたこと自体には傷ついてないじゃん。婚約破棄っていう事実がショックなんでしょ?あと、それまでに自分がかけた手間とか、これからが面倒で腹立ってるんだ」
 宮城の言葉は、まるで元カノとの別れの現場を見ていたかのようだった。そうして俺は、元カノにだって何も言い返せなかった。図星だったからだ。宮城は一層笑みを深くする。いい酒の肴があるからだろう、普段より酔っているようだった。
 そもそも俺に婚約者とも呼べる相手がいたことを、宮城は今夜まで知らなかった。同じバスケチームに所属しているので、彼女がいるということはなんとなく察していたかもしれないけれど、直接宮城に元カノのことを話したことはなかったし、まして、相談したこともなかった。
 それなのに、いっそ感心するほど、宮城は俺と元カノのことを言い当てる。
 元カノとは二年前に飲み会で出会い、どうやら俺目当てで開かれた飲み会だったらしく、周りからの雰囲気に流されるようにして付き合い始めた。顔は好みじゃなかったけれど、はっきりとした話し方が好きだった。その割に物わかりの良いところも気に入っていた。
 職業柄放置することも多かった俺に、それでも不満を言ってきたことはなかった。付かず離れずのような、まあ、俺にとってずいぶん都合のいい付き合い方をしていた。いつの間にか付き合い始めて二年経っていた。だから、向こうがしたいのなら、このまま結婚してもいいかなと思っていた。子どももできたら可愛いだろう。
 そんなことをぼんやりと思い始めていた矢先に、元カノから転勤の話が出ているのだと聞かされた。迷っているとはっきり口にした元カノが、何と何を天秤にかけているのかは、分かり切ったことだった。
「じゃあ結婚するか」
 と言った時、嬉しそうに笑った。可愛い、と確かに思った。結果的に転勤は雑談程度のことで、しばらくはまだ今のポジションに残ることになったそうだけれど、いずれは結婚しても良いと思っていたのだから、問題はなかった。
 いずれは、と思っていたことを、今から進めていくだけのことだ。住む場所だけは合わせてもらいたかったので、それ以外には文句を言わないと約束し、役割分担で結婚までの準備を進めることになった。実に効率的だ。
 結婚記念日は付き合い始めた日が良いというので、いつなのかははっきりと覚えていなかったけれど、「それでいい」と返事をした。その時も嬉しそうに笑っていた。
 楽しそうに準備を進めているのだと思っていた。俺が決めたマンションにも、特に文句や意見は言われなかった。俺だってきちんと元カノも使いやすいようにと考え、多少の妥協はしていたので、当然だ。
 少しでも違和感に気づいていたのなら、せめて話し合いができていたんだろうか。気づけばどうしようもないところまで来ていた。二人で進むはずだった道は、すでに元カノが埋めた後だった。
 今思い返してみても、俺が何を失敗したのか、よく分からない。お互いの両親への挨拶も特に問題はなかったと思う。向こうの両親はそりゃあ、俺の職業に良い顔はしなかっただろうけれど、それは元カノが早々に押し切っていたようだった。
 特に元カノの兄がスポーツ観戦を趣味としていたおかげで、味方になってくれたのだそうだ。俺の両親だって、元カノのことを大歓迎していた。
「あんたにしては珍しいタイプね」
 と、歴代の彼女を何人か見たことのある母親は、俺にだけ聞こえるよう、こっそりと耳打ちしてきた。その言葉が聞こえていたとも思えないし、聞こえていたとしても、別に悪い話でもないだろう。
 母親だってそんなつもりで言ったのではない。俺よりもむしろ母親の好みだったらしく、あれこれと楽しそうに話をしていた。俺にとって都合の良い相手が、母親にとっては好みの嫁になるのだから、これもまた都合が良いと思った。
 挨拶の後もたまに彼女の家に行ってはいたし、試合に招待したこともあった。そのころにはすっかり打ち解け、父親や兄なんかは、俺のことを寿と呼び捨てにしていた。母親は場に慣れないのか、少し距離を取り元カノと何やら話していることが多かったけれど、それだって、まんざらでもなさそうだった。
 俺の両親とだって、遠慮はありつつも楽しそうに話をしていた。
 挨拶が終わってから本格的に始めた物件探しでも、特につまずくことはなかった。値段は希望より多少はみ出たけれど、すぐに気に入る物件を見つけることができ、即決した。はみ出た分はどこかで補填すればいい。順調なことがすべての答えなんだと、信じて疑っていなかった。
 それが、こうなったわけで。
 新居に引っ越して二か月ほど経った頃のことだ。仕事の都合だとかでほとんど顔を出すことのなかった元カノが、珍しく俺の帰りを待っていた。部屋にともる明かりに気づいた時、結婚っていいものなのかも、と初めて思えた。ただいま、と言えば、おかえりと迎えてくれるあたたかな場所がある。
 彼女が作ってくれていた夕飯を食べ、今夜は泊っていくのかと尋ねたところで、
「もう帰るよ。ていうか、二度とここには来ない」
 ときれいな笑顔で言われた。
 それからは何を言っても、何を聞いても無駄だった。彼女の意思は岩のように固く、別れはどうあっても覆せそうにはなかった。
 彼女は俺との結婚に向けて仕事を辞め、なんだかよく分からないけれど料理の資格を取り、引っ越しの準備を進めているはずだった。何一つ達成されておらず、仕事は辞めていないどころか地方に転勤するそうで、しかも、自分から人事に働きかけたのだという。雑談程度で立ち消えていた転勤。新規事務所の立ち上げに携わるのだという、理由まで同じだった。
「別に仕事が婚約破棄の原因じゃないからね?あんたよ、あんた。ぜーんぶ寿が悪い。わかってる?わかってないでしょ。でももう言うのも嫌だから、聞かないでよ。私、愛されてないのに結婚とかする気ないから。それじゃあバイバイ。元気でね」
 呆気に取られている間に玄関のドアは閉められた。
 すぐに追わなかったのは失敗だった。今ならはっきりとそうわかるけれど、全部悪いだなんて子どもじみた挑発に乗ってやれるほど、物わかりのいい方ではなかった。
 次の日になってようやく彼女に電話をした。もちろん無視だった。「とりあえず話そうぜ」とメッセージを送り、半日放置していたところで連絡が入った。元カノからではなく、兄からだった。
 罪悪感を持っていたのは元カノではなく彼だったようで、「こっちでは全部了解済みだから、顔は出さないほうがいい」と、次の日の予定に先手を打たれた。頑固な妹で申し訳ない、と謝罪をしつつも、彼にも俺を庇う様子はなかった。まあ、そりゃあ、実の妹のほうが大事だろう。
 一応一週間ほど期間を置いてみたけれど、それ以降、元カノから連絡が入ることはなかった。どうやら本当に全部俺が悪いらしい。
 猶予期間を終えたところで両親にも報告をしたけれど、こちらもすでに彼女がことを終えた後だった。なんて抜け目のない。俺の両親がどちらの味方につくかなんて、すでに分かり切っていたのだ。
「あんた、誰かを本気で好きになったこと、ある?」
 と、母親は呆れと同情が混ざり合った、見たことのない表情で俺を見た。
 それは、ないといけないものなんだろうか。
 俺は別に不貞を働いたわけでもないし、そんな面倒くさいこと、これから先もするつもりはなかった。不誠実なわけでもないのに、なんだって気持ちの重さを量るようなことを言われなくてはいけないんだ。
 好きだったよ、俺だって。どの程度かなんて知らないけれど、結婚してもいいと思えるくらいには、ちょうどいいと思っていた。そうしてそれの何が失敗だったのか、誰も教えてはくれない。
 元カノの最後の言葉は、宮城の言葉と重なる。
 三井さんが悪いんすよ。
 事情だけを話せば、俺に近しい人間は同情してくれた。それで忘れかけていたのに、宮城のせいで、思い出してしまった。
「俺はさあ、あんま三井さんのこれまでの彼女たちのことは知らないけど、」
 宮城が話しかけたところで、タイミングよくハイボールが運ばれてきた。宮城は愛想よくグラスを受け取り、ひとつを俺に手渡す。「はい、乾杯。愛を知らない三井さんに」とにやにや笑いながら、グラスをぶつけてきた。
「あんたは誰のことも特別じゃないんだよ。三井さんの話聞いてると、都合がよかったとか、ちょうどよかったとか、そんくらいにしか思ってなさそう。マジ、最低」
「ずいぶんな言い方だけど、じゃあ、お前は分かるのか?好きとか愛とか、ちゃんと説明できんのかよ」
「三井さんとこんな話すんの、嫌だなぁ」
 宮城は顔の前でひらひらと手を振る。
「あ、お前、ごまかすなよ」
 話の終わりを意味しているようだったので、グラスを持っていた宮城の手を、思わずつかんだ。宮城は少しだけ驚いたように口を閉じる。俺の行動を意外に思ったのか、手を振り払うこともせず、「恋ってさ」と普段聞くことのない、柔らかな声を出した。俺はこの柔らかさを知っている。
「恋って、魔法みたいなもんだと思うんだよね。良い自分に変えてくれるっていうか。その人のことを好きな自分のこと、いつもよりいいじゃんって思える感じ。そういうの、これまであった?」
「ねぇな。誰とどうなろうが、俺は俺だし。てか、そういうのなら、バスケを好きなのと同じじゃねぇか?好きだからうまくなりたいだろ」
「まあ、三井さんにとってそれがわかりやすいんなら、バスケでもいいけどさ」
「なんだよ。あからさまに間違ってますって言い方すんな」
「もー、うるさい。さみしいからって絡まないでよね。大体、こんな話三井さんとしたくないんだってば。他の人に相手してもらいなよ」
 宮城はするりと俺の手から抜け出し、今度こそ恋だの愛だのの話は終わりになった。後にどんな処理が残っているのかと聞かれたけれど、正直、マンションを買った以外のことを俺がしていないので、何もなかった。一人きりの部屋に慣れるだけだ。
「あんま自棄起こすなよ」
 ハイボールを飲み干す直前、初めて心配される。俺は調子に乗りやすい上に、今は隙だらけなので、その言葉に全力で寄り掛かることにした。
「なあ、今日泊って行けよ。てかしばらく泊ってけ。部屋広すぎて持て余す」
「やだよ。それが目当てだったなら、俺、今日呼び出されても来てなかったからね」
「頼むよ。一人寂しい」
「ぜんっぜん可愛くねぇから」
 店を出てからもまとわりついて腕を引っ張れば、観念したのか連れ込むことには成功した。この部屋に人が入るのは、業者の人間を除けば宮城で二人目だ。一人目は元カノ。
 誰を誘っても来たがらなかった。そりゃあ、婚約破棄された男のマンションなんて、そこいらの心霊スポットよりも怖いだろう。途中宮城が逃げ出さないように、がっちりと肩を組み、引きずるようにしてマンションまでの道を歩いた。
 嫌そうにしていた割に、途中のコンビニで買った酒とつまみをキッチンカウンタに置くと、宮城は探検だと言ってあちこちのドアを開けて回った。別に見られて困るものもないので好きにさせていると、「なんにもない」と文句を言いながら、すぐにリビングに戻ってきた。
「そりゃあそうだろ。俺以外の荷物が入る予定だったんだから」
「三井さんの寝室だって、ベッドしかないじゃん」
「寝室にベッド以外っているか?」
「それ、彼女に言わない方がいいっすよ。変な意味にとらえられかねない」
「どんな意味だよ。寝る以外することねーだろ」
「うーん、さすが婚約破棄されるだけのことはある。やっぱ最低」
 俺が買ってきた缶ビールを飲んでいるのを見て、宮城もコンビニのビニール袋から缶ビールを取り出し、飲み始めた。リビングをぐるりと見まわし、ソファに向かって歩いて行く。一人で使うには、でかくて持て余すソファ。宮城が沈むように座りこんでも、まだまだ余裕がある。
「間接照明とか、観葉植物とか買えば?」
「どれが良いか分かんねぇから、宮城が選んで」
「あんま甘えてこないでって。気持ち悪い」
「良いだろ。甘えさせてくれる奴、あんまいないから」
「嘘つけ」
 そうは言いつつも、宮城はソファに足を乗せ、体ごと俺に向き合う。でかいソファの上にそうしていると、いつもより小さく見えた。高校を卒業してから背も伸びていたし、体つきも変わっている。だけど周りにでかい奴が多いから、宮城は今でもチーム内ではチビと言われていた。街中で出会った時なんかは、思っているより大きく、大人びた表情をするので、俺たちの中にいるから、宮城はいつまでも宮城のままなんだろうと思う。
「三井さんならすぐにまた彼女できるよ」
「結婚できるとは限らないだろ。なにせ俺は愛も恋もない男らしいから」
「それでもしたいなら、できるんじゃない?結婚なんて運とタイミングだよ」
「知ったようなクチ聞くな。宮城って彼女いたっけ?」
「今はいない」
「ふうん。じゃあ、存分に俺のために時間割けるな」
「だから、甘えてくんなって。マジで」
 そんなつもりはなかったけれど、なんだか異様に甘ったるい空気が満ちている。宮城も居酒屋での態度とは違い、口数少なく俺を見ていた。その目がどろりと斜めに動く。
 あ、こいつ、寝るな。
 そう思った瞬間、宮城は目を閉じ、眠ってしまった。宮城は酒に強いけれど、酔いがすべて眠気にくるようで、一瞬眠ってまた飲み始める、ということがたまにあった。
 立てた膝に腕を組み、その上に小さな頭を乗せる。子どものような寝顔をしていた。 
 このまま帰る理由をなくすため、部屋にぶち込んでおこう。
 何もないと文句を言われた寝室まで宮城を運び、ベッドに放り投げた。宮城は目を覚ましたけれど、文句を言っているうちにまた眠ってしまった。今度は深い深い眠りだった。
 せっかく宮城を捕まえたのに一人でいるのは嫌だったから、買ったものを寝室に持ち込み、ベッドのすぐ下、床の上に腰を下ろして、酒を飲んだ。我ながらなんともセンチメンタルだけれど、頭に浮かぶことなんて、バスケのことだけだった。
 宮城の寝姿は静かで、時々、生きているのか確かめるために寝息を聞いた。普段あれだけ口が回るのに、眠っている宮城はおとなしい。おとなしくこのまま、俺のわがままに付き合っていればいい。
 買ってきたビールをすべて飲み終え、シャワーを浴びた。宮城を壁際に転がし、隣に寝転ぶ。本当はこの部屋の隣が元カノの寝室になる予定だった。毎日一緒に寝るなんて無理だと思ったから、部屋数もわざわざ、三部屋にしていた。子どもは二人だね、と笑っていた元カノ。出来たら可愛かったかもしれないけれど、欲しいとは思っていなかった。結果が答えで、もしできたのなら、俺に必要なんだろうと、そう思っていた。
 そういうものが全部、最低だったんだろうか。
 目を閉じると、思っていた以上に酔っていたらしく、脳みそがぐるぐる回る。明日残るかもな、と思っているうちに眠っていた。

 目を覚ました宮城は、開口一番
「最悪だ」
 と、両手で顔を覆った。
 スプリングの軋む感触で目を覚ました俺だって、寝起きからそんな言葉を聞けば、目覚めとしては最悪だ。
「簡単に連れ込まれたくせに。自業自得だ」
「ソファに転がしといてくれれば良かったのに」
「体は大事だろ。このマットレス、高かったんだぜ」
 宮城は確かめるようにマットレスに手を沈み込ませた後、起き上がった。シャワーを浴びるというので風呂場に案内し、一人分のコーヒーを淹れる。リビングのカーテンを開け、ついでになんだか甘ったるい匂いを外に逃がすため、窓を開けた。風が部屋の中に入りこむ。
「あ、何一人で良いもん飲んですか。俺にも淹れてよ」
 コーヒーを半分飲み終えたところで、シャワーを終えた宮城がリビングに入ってくる。
「そこにドリップ置いてある。湯もまだ残ってるし」
「ケチー」
 ここに立ったこともないのに、宮城はなんとなくで、コーヒーを淹れるために必要なものの場所を当ててしまったらしい。マグカップにたっぷりとコーヒーを淹れ、俺の隣までやってきた。逃がしたはずの甘ったるい匂いが、また、香ってくる。そうか、こいつの匂いだったのか。
「香水とか使ってる?」
「いや、今はつけてないけど」
「ふうん。なんかお前、良い匂いするよな」
「え?口説いてる?」
「なんでだよ。やめろ、人を節操なしみたいに」
 喉を鳴らすようにして笑った宮城は、「出ていい?」とベランダを指差した。
それなりに広いベランダも、決め手の一つだった。春には桜が、夏には花火が、晴れていれば富士山が見えるらしい。そう言えば、引っ越してきてから、まともに景色を見ていなかった。気に入ったはずなのに。
 ああ、ちゃんと、ここで二人暮らしをする予定だったのか。
 一足だけ置いていたサンダルを履き、宮城はベランダに出て行く。「おお、いい景色」とはしゃいだような声が聞こえた。思わず裸足で後を追いかけた。
 俺が隣に来たことに気づいた宮城は、「富士山見える」と家主である俺に言う。そんなこと、当然知っている。
「てか、裸足じゃん。サンダル片っぽ貸してあげるよ」
 宮城は器用に右足のサンダルを俺の方へと投げて寄越した。そうして左のサンダルの上に、裸足の右足を乗せている。俺も宮城の真似をした。ベランダの手すりに寄り掛かり、コーヒーを啜る。
「良い部屋じゃん。三井さんが選んだんだっけ?」
 宮城が素直に褒めてくれたことが嬉しかった。
「おー、だろ?本当ならこの部屋見つけたこと、元カノにも喜んでほしかったけどな」
「喜んでくれなかったんすか?」
「さあ?顔は笑ってたけど、別れる手前も同じ顔して笑ってたし、分かんねぇわ」
 ふうん、と宮城は吐き出すように言った。そうしてしばらくコーヒーを啜っていたかと思えば、突然笑い始めた。隣を見ると、宮城は苦しそうに腹を抱えていた。それでも器用に右足は左足に乗せたままだった。
「三井さんって、最低だけど、一応ちゃんと傷ついてたんだ」
 本当は隠していたかったけれど、一晩過ごして勝手に絆されていたので、「おー」と昨日よりも素直な声が出た。
「だから慰めろって言っただろ」
「嫌だって言ったでしょ。でもさ、もしちゃんと理由を教えてもらえてたら、三井さん、どうしてた?」
「悪いと思ったら謝るし、悪いと思えなかったらそのまま別れる。納得できるから」
「これだもんなぁ。悪い男」
 宮城は昨日から、自信ありげに俺が悪いのだと繰り返す。多分答えのようなものは宮城との会話の端々にあったんだろうけれど、未だに俺が悪い理由が分からないままだから、きっと元カノから直接聞いても、納得できずに別れたんだろう。どろどろのぐちゃぐちゃになる前に別れて良かったのかも。想像すると怖くなった。恋も愛も知らなくて良かった。
「三井さんって、好きになりがいがないよね」
「なんだよそれ」
「納得とかちょうどいいとか、そんなんばっかり。俺じゃなくてもいいんじゃんって、むなしくなりそう。あ、これ、別に俺が三井さんのこと好きとかじゃないからね。元カノさんの気持ち想像したらってこと」
「別にそこ勘違いしねーよ」
「どうかな。ちょうどよかったら俺でもいいとか言いそうで怖いっすよ」
「宮城とちゅーできっかなぁ」
 視線を空から宮城に移す。宮城はあからさまに嫌そうな顔をして、手のひらで俺の両目をふさいだ。「嫌らしい目で見ないでよね」なんて、いつもより高い声で言われる。目隠しをされたまま笑った。意味がないようで、あるような会話は続く。
「大事なことだろ。触りたいとか、そういう欲求」
 さすがにそこまで純粋でもない宮城も、細い声で「まあね」と認めた。
「それもまあ、重要ですけど。他の人が知らないところ見せてもらえるのって、やっぱり特別ですし」
「やらしいな」
「そりゃあね、人並みには。でも、そういうことばっかじゃなくてさ、弱いとことか見せてもらえると、俺は嬉しいかも。気を許してもらえてるとか、信頼とか、そんな感じ。かっこよく見せようとされるより、嬉しいかな」
「かっこよく、ねぇ。そんなつもりなかったけど」
「あと、もっと二人のことは二人で決めたかったとか」
「決めてたつもりだけど」
「ほら、じゃあ、価値観の違いだ。離婚理由でよくあるやつ。手続きする前で良かったっすね。やっぱり元カノさんの英断っすよ」
 目隠しが外される。隙間から光は差し込んでいたはずなのに、急に世界が明るくなったようで、二、三度瞬きをした。
「もっと頼っても良かったんじゃない?バスケみたいにさ」
「結局バスケじゃねーか」
「三井さんにとっては分かりやすいんでしょ?」
 そう言われ、バスケに当てはめてみると、確かに分かりやすくなった。ようは俺は元カノのことを信頼していなかったということだ。たまたま出会ったのが元カノだっただけで、それを運命にできるほど、元カノのことを理解していなかった。別れて初めて、ここまで手回しができるのかとその鮮やかさに感心したくらいだ。そもそも普通に働いているということの立派さすらうまく理解できないでいる。
 視野が狭かったんだな。
 次に生かせるのかは分からないけれど、ようやく元カノとの別れに納得することができた。隣にいないことにも、ようやく。これで良かったのか。それじゃあどこかで幸せになってくれれば良いかな。そんなこと、殴られそうだから絶対に言えないけれど。
 コーヒーを飲み干したのか、宮城は片足で跳ねながら、リビングへと戻っていく。
「そろそろ帰るね」
左足用のサンダルが、俺の足元に投げて寄越された。
「もう帰るのか?」
「うん。十分笑わせてもらったから、もう満足。しばらくはこの話したくないくらい」
「飽きてんじゃねーか」
 部屋の中から笑い声が聞こえる。甘い匂いは風にさらわれて、どこかへ行ってしまっていた。
「昼飯食っていけよ」
「三井さんが作ってくれんの?」
「いや、コンビニ」
「それなら一人で食うって。甘えんなって言ってんでしょ」
「甘えさせろよ」
「やだよ」
 ジャージャーとキッチンから水音がする。宮城は律儀にマグカップを洗っていた。俺が隣に並ぶと、俺のカップも出せと手を広げる。色違いのマグカップは、別々に暮らしていた時に、元カノが買ってきたものだった。他にもカップはあっただろうに、これを見つけてきたのか。しまい込んだつもりもなかったけれど、元カノが使っていた方は、どこに置いたのか俺ですら覚えていなかった。
「もうやめときなよ、三井さん。恋にしか埋められないものもあるんだよ」
 そう言われてしまうと何も言い返せなかった。一人になるのが嫌なのは俺の都合なので、これ以上宮城を付き合わせるのも、確かに迷惑なんだろう。後輩という存在にその迷惑を押し付けるのは、ここまでかもしれない。
 宮城はソファに放っていたリュックを背負うと、さっさと玄関まで歩いて行く。じゃあね、とこの部屋を出て行くのは、宮城で二人目。一人目に与えられた衝撃があまりに大きかったから、玄関に立って宮城の後ろ姿を見ていると、腹の底がじくじくと痛んだ。
「それじゃ、また練習で会いましょう」
 わざとらしい堅い言い方に、敬礼をした宮城。直後にへらりと笑うものだから、また戻ってきてくれるような気になった。だけどきっと、宮城は自発的にここには来ない。帰る場所にもならない。
「なあ、やっぱり嫌なんだけど」
 どうしてそんなことを言ったのかは、自分でもわからなかった。傷ついた心を丁寧に丁寧に抉ってきたのが、宮城だったからかもしれない。慰めてほしかったのに。宮城は俺が悪いと言って笑った。そうして答えを教えてしまった。納得をした俺に残されたものは、空っぽの部屋だけだ。
「なにが?」
「帰るなよ。ここにいて」
 宮城は少し黙った後、「それを元カノに言えばよかったでしょ」と言った。
「相手間違えてるよ。今更だけど」
 でも、多分、俺は元カノ相手には言わなかった。もしも元カノがこの部屋に戻ってきたとして。俺はもう迎え入れることはしないと思う。だって、宮城が気づかせてしまった。
 さんざん弱みを見せた相手がここを去ってしまうのには、今はまだ耐えられない。それに、弱みを見せられた方がどうなるのか、お前は知っているんじゃないのか?
 弱みに付け込んでいるは俺の方だ。立場としては逆な気がしておかしかった。宮城はどうしても俺を突き離せない。それは俺の弱みを知っているからで、かっこ悪いところに笑うからだ。
 バカで可愛い宮城は、昨日の夜からずいぶん俺に良いようにされている。お前がそんなだからさ、俺はいつまでも愛も恋も知らないままで、それなのに甘い匂いの見つけ方だけが上手い。
 宮城はまたしばらく黙った。
 こいつが魔法使いならいいのに、と思いながら、歪んだ眉毛を見ていた。