たけお
2026-06-05 23:08:12
12211文字
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三リョ①


リング・ア・ロング
 

別に言葉なんてなかった。それでも先輩と後輩から一歩はみ出してしまったことは分かっていた。ただ名前を付けなかっただけだ。

 インハイが終わってから世代交代をしたものの、三井さんの立ち位置は部長の斜め上くらいだった。まさに目の上のたんこぶだ。キャプテンになって体育館と部室の施錠をしなくてはいけなくなった俺を待っていたのか、単に長くその場にいたかっただけなのか、三井さんと二人で帰ることが多くなった。それはすぐにそういうもの、ということになった。
 たまに花道や流川が混じると、なんとなく変な気分だった。三井さんも同じだったのか、花道や流川と別れたあと、ぶつかった手の甲をそのまま緩くつなげたりした。触れている場所から伝わるぬるい熱を、俺は今でもきちんと覚えている。ちらりと横目で三井さんを見上げると、数秒後に目が合った。こういうときは何も言わなくても、言いたいことが分かる気がした。今ならいいから言葉に出せ、ちゃんと聞け、と怒鳴りつけてやりたいほどに臆病な仕草だ。
 高校生の俺たちにはあいまいさが大切だったのかもしれないけれど、過去を消化できるほどの経験もないやつらが、そういう気持ちになるのは、よくない。これは大人になった俺からの、伝えようもないアドバイスだ。
 
 雑多な店よりも静かな店を好む。三井さんの声は大きいけれど、こういう場ではきちんと抑えられ、心地よく俺にだけ届いた。これ美味そうだとか、いい酒だなとか、そんなことを言い合いながら、和やかに食事は進む。ほろ酔いで別れることもあれば、そのまま二軒目に行くこともあった。どちらかの家で飲み直すことは稀だ。今夜は前者だ。
「じゃあな」
 と駅の改札前で別れた。俺と三井さんとの間には、電車で一時間の距離がある。会えない距離ではないけれど、負担に思う日もある。あいまいさは高校生の時よりもはっきり、濃くなっていた。あいまいなのに。
 もしも誰かになにかを言われたのなら、高校生の俺たちだって、自分たちの関係をきちんと言葉にしようとしただろう。そんなことがなかったから、あいまいに先輩と後輩でもないまま別れ、先輩と後輩に戻った。
 三井さんは高校を卒業して大学に進学し、寮生活になった。俺は卒業後の進路としてアメリカ留学を選び、通常とは違うスケジュールだけれど受験生になった。無事に俺の進路が決まったとき、三井さんは「すげー」とバカみたいな言葉を繰り返して大口を開けて笑った。俺はそれを見て、ああこの人俺の先輩なのかと思い知った。ここであいまいなままの気持ちにはきちんと蓋をしたつもりだった。
 別に寂しがってほしかったわけでも、今更ながらに言葉がほしかったわけでもない。三井さんとはあいまいな始まりだったから、終わりもあいまいだった。終わりと言っていいのかもわからない。俺たちの唯一それらしい行為といえば、三井さんの部屋で一度か二度した、触れるだけのキスだった。そこからなにも進まなかったのは、タイミングがまったくなくなったからだ。
 言わなくても分かるでしょ、というのは、やっぱり、恋人同士だから成立することなんだと思う。たまに目線で会話するようなことがあっても、その中に熱を見つけても、俺たちが名前をつけなかったのだから、なににもなれていない。
 アメリカに渡って、言葉にしない文化を知った。それでもきちんと名前は付けるのだ。最初の約束をしないだけ。なるほどとは思ったけれど、遠く離れて三井さんの顔も朧気になれば、新しい恋はできた。一方的な好意の押し付けばかりしていたのに、大人になったような気がした。数年後一時帰国をしたとき、バスケ部のやつらと会って驚いた。三井さんのことを好きな気持ちは、まだ柔らかく俺のなかに残っていた。
 蓋をしたと思っていたのに、丁寧に布で包まれていたその恋は甘く、光り輝く。湘南の地と三井さんがそうさせた。元気か、アメリカってどうだ、と聞いてくる三井さんに、俺は高校時代と変わらないノリで返した。それがとても心地よかった。ホームシックってやつなのかと思ったけれど、泣く泣くアメリカに帰ったあとも、三井さんへの恋はぴかぴか毎日光っていた。おかげでバスケに集中できた。忘れていないと寂しくなるのだ。会いたくて、会いたくて、電話を掛けそうになるのをこらえたのは両掌を使っても足りないほどだった。我慢できないことのほうが多かった。たった一度帰国しただけでこれだ。
 俺は思い込みが激しいほうだし、一度成功体験のようなものをしてしまったから、余計に気持ちが募った。好きだ好きだと枕に向けてつぶやく夜を何度越えて来ただろう。
 本格的な帰国を決めたとき、悔しさと寂しさと、それから少しだけ安心した。ああ、これで会いたいときに会えるようになるのか、と。実際帰国をしてから距離はありつつも会う時間は格段に増えた。会おうという意思はお互いにあった。だというのに、俺と三井さんはいまだに先輩と後輩のままだった。
 俺が悪い、のかもしれない。最初の約束はいらないのだと留学中に学んだものの、それが三井さん相手にも通用するのかとは、考えていなかった。ここは日本だというのに。
 何度か食事に出かけるうち、俺はそれをデートだと考えていたけれど、三井さんはそうでなかったと知った。毎回服を選んで、店を選んで、時間を合わせて。そういう相手って、もう恋人しかいないじゃん。話す内容はバスケのことばかりで、色気はなかったと思う。でもそれは高校時代から変わらない。
 その日は肉が食いたい、と三井さんが言ったので鉄板焼きの店を選んだ。駅からは少し離れるけれど、静かで雰囲気のいい店だった。誰かがSNSに投稿していた写真を見てから、三井さんと一緒に行きたいなと思っていた。
 少し迷いながら店にたどり着くと、三井さんが世話になったとかいう大学の先輩が、彼女と一緒に来ていて、偶然入り口ですれ違った。予約時間にはまだ余裕があったから、立ち話をする中で、三井さんは俺のことをその先輩に紹介した。「高校んときの後輩です」と律儀に敬語を使っている三井さんがおかしかった。先輩は俺の話を三井さんから聞いていたらしく、「ああ、留学してたっていう」と好意的に笑った。
「こういう店に連れてくるって、お前、相当可愛がってるんだな」
 先輩に言われ、三井さんは首を傾げた。三井さんは静かな店を好むけれど、肉が食べたいのなら間違いなく焼肉を選ぶ。三井さんの態度を照れだと解釈したのか、「たまには彼女連れてきてやれよ」と言って、先輩は帰って行った。
「三井さん、彼女いんの?」
 いないことを知っていたから聞いた。当然答えは「いねーよ」だった。三井さんは横目で俺を見た。いっそ腹が立ちそうなほどなにも考えていないような顔で、「入ろうぜ」と何気なく俺をエスコートした。
 なんだかすっきりしない、もやもやした気持ちだった。肉は美味しかったのに、損したな。当然二軒目に行く気にはなれず、早々に駅前で解散した。三井さんは俺とは反対方向の電車に乗り込んで、あっという間に見えなくなった。
 三井さんが姿を消してから五分後に滑り込んできた電車に乗り込む。帰るには半端な時間だったからか、車内にはあまり人がいなかった。座席も選びたい放題だ。数えるほどしか人のいない車両に移動し、横長の座席の端っこに座った。電車はすぐに動き始める。胃袋の中の肉まで揺れるようだった。店の中で三井さんは楽しそうにしていたけれど、俺はもやもやを抱えたまま、どんよりした顔をしていたと思う。
 次の駅はそれなりに大きいので、それなりの人数が乗り込んできた。座席が埋まってしまったからか、真横にカップルが座った。電車の揺れなんて気にすることもなく楽しそうに話していたかと思うと、「眠いの?」とささやき合いはじめた。
「起こしてやるから、寝とけば?」
「大丈夫だよ、次の駅だし。今更言わないでよねー」
「悪いって、話に夢中になってた」
 もー、という作ったような不機嫌そうな声。ちらりと目線を向けると、彼氏のほうを向いていた彼女と、ばっちり目があってしまった。彼女は身をすくめるようにして、彼氏の二の腕あたりに寄り添う。くすくすと潜めるような笑い声が、なんだか眩しかった。大学生くらいだろうか。若いな、という雑な感想が浮かんだ。どこにいても二人の世界に入り込めるその甘さは、俺たちにないものだ。もう一度ちらりと横目で隣をうかがえば、二人はぴったりくっついたまま目を閉じていた。次の駅で降りると話していたのに。起きてはいるようで、潜めるような息はそのままだった。
 次の駅への到着を告げる車内アナウンスが流れる。二人は緩慢な動作で起き上がり、寄り添いあって電車を降りて行った。俺の隣にできた二つの空席には、誰も座らなかった。
 三井さんの目を思い出す。あの中にあったはずの熱は、慣れではなく、どこかへ消えてしまっていた。三井さんが俺のことを、先輩に言われたように、可愛がっているのだとしても。俺と同じ意味は、もうないんじゃないだろうか。これに失恋という名前をつけていいものかどうかも分からなかった。それほどあいまいだ。関係の前に、気持ちがあいまいだなんて。
 ポケットに手をつっこみ、深く背もたれに沈み込む。さっきの駅で何人か下りたから、車内には足を投げ出すスペースができていた。マナー違反だと分かっていても、投げやりに足をいつもより広げた。隣は空いたままだし、なんなら今この車両には俺を含めて十人程度しか乗っていない。そういうローカルな路線に乗って、わざわざ会いに行ってるんですけどね。三井さんへの文句が湧き上がってくる。
 さてどうしようか、と考え、これが恋だったのなら答えはひとつだ。一歩踏み込むしかない。なぜなら好きだから。付き合いたいから。えー、そうか。俺、付き合いたいのか。今更な気持ちに、口元をもごりと動かした。飲み込むものはなにもない。
 ポケットの中で掴んでいたスマホを取り出す。三井さんの連絡先はいつでも真っ先に出てくる。いつからそうなのかは思い出せないけれど、どうでもいいようなメッセージを送り合っていた。間が空くことはあっても、途切れたことはなかった。俺も三井さんも、共通の話題が多い。これは結構重要な武器だ。
 ぽちぽちとメッセージを打ち込んでいると、ぽこりと画面にふくだしが現れた。三井さんからのメッセージだった。このタイミングで期待しないほうが難しい。だけれどいつも通り、明日早いから朝電話して、という、なんとも他力本願でしょうもないメッセージだった。仕方がないなと返す。ついでに三井さんの部屋に遊びに行く約束をとりつけた。配信されたばかりの映画を一緒に見ようという誘いだ。これは、一緒に映画館に見に行ったやつ。予想通りに見ただろ、と三井さんからは返ってきた。何度だって見たいのだ。なぞりたいのだ、隣で見たあの映画を。気持ちの分からない人だ。
 日にちだけ決めると、三井さんからの返信は途切れた。三井さんはすでに部屋に着いているだろうから、風呂にでも入ったのかな。あいまいなくせに、あいまいじゃない関係の人が知っていることを、俺もきちんと把握している。予想通り風呂に入っていたようで、三井さんからは一時間後、ストレッチも済ませたであろう時間にスタンプ一つの返信がきた。俺が勝手に三井さんのスマホで購入した、なにか物わかりのいいことを言っている犬のスタンプ。これを使う三井さんは可愛い。三井さんの返信を見てから、ようやく俺も風呂に入った。

 進む方向だけは明確なのに、戻れもしない場所まで行ったり来たりしている俺のことを、不毛なやつだ、と言ったのは、大学時代のルームメイトだ。アメリカ生まれ、アメリカ育ちの日本人だったそいつは、英語と日本語を器用に使いこなしていた。不毛、と言われ、俺の頭に浮かんだのは畑だった。
「一度でも声に出してたら、今頃お前たちはきっと違う言葉をささやき合っていただろうに」
 大げさなほどのため息にも、怒る気は起きなかった。ただ、難解だと思った。
「そんなこと言うためにわざわざ呼び出したのか?」
「なんだよ、お前が聞いてほしそうにしてたから、先輩との話をふってやったんだろ」
「はいはい、ありがとありがと」
「二回続けて同じ言葉を言うのは良くないって、聞いたことあるぞ」
 そういうところだけしっかりしているのも、よくない。どうやら今度両親の里帰りにくっついて日本に来ることになったので、それを知らせたかっただけのようだった。
「久しぶりに会うから、いい話が聞けるかと思ったのに」
「会うって約束したっけ?」
「リョータのそういうところだと思う」
 確かに。会う約束だけは途切れさせないくせに、それを俺たちの関係の答えにしようとするのは意気地がない。高校時代からそこが変わらないのか。背もたれにしていたソファに向け、思い切り腕を伸ばす。画面から俺の顔が消えたようで、「おーい」と間延びした声が聞こえた。これがアメリカとつながっているのは、何度試しても不思議だった。たとえ日本語で話していたとしても。
「これからデートなんだろ?なにするんだ?」
「あの人の家で映画みる」
「リョータらしいチョイスだ」
 にやにやと笑うそいつの後ろから、突然大きな声が響いた。画面越しにも分かる大男が近寄ってくる。沢北だ。
「あれ、リョータだ!なんで⁉」
「わあ、もううるさいから切るね。日にち決まったら連絡するから」
 まだわあわあ言っている沢北の声と映像がぶつりと途切れた。時計を見ると思ったよりも時間が経っていた。出発予定時刻を十分すぎている。遅れたところでなにということもないけれど。
 昨日の夜に決めた上着を羽織り、部屋を出る。俺たちの間にある一時間の距離を、今日も揺られる。

 二回も同じ映画をみるのか、と言っていたわりに、三井さんは俺よりも画面に集中していた。ソファに並んで座り、どうしてこんなサイズを買ったのかと不思議になるほど大きなテレビに視線を向けている三井さんは、クッションを顎置き代わりにしている。片腕で抱きしめられているそれは、俺が選んで三井さんが買ったもののひとつだ。この部屋にはそういうものがたくさんある。
 一度俺のセンスで家具を選んでしまうと、部屋の中で物同士のけんかを起こさないためにか、なにか欲しいと思ったときには声をかけられるようになった。別に一緒に暮らすわけでも、頻繁に出入りしているわけでもないのに、三井さんの部屋に置くものは俺が選ぶ。なので、必然的に俺の部屋と三井さんの部屋は雰囲気が似てしまう。匂いまで同じにするとどうしようもなくなるのでは、と思っていたのに、三井さんはそれすらあっさり俺と同じものにしてしまった。これ、いい匂いだから好き。たった一言俺がそうつぶやいただけで。
 画面に集中している三井さんの、クッションに囚われていない左腕に頭を寄せる。三井さんはちらりとも俺を見なかったので、俺も画面に目線を向けた。
「良いもんは何度見ても良いな」
 自分が過去になにを言ったかなんて、まるで記憶になさそうなきれいな手のひら返しだ。エンドロールの画面を見守っている三井さんは満足そうに笑った。テーブルのペットボトルをとるために左腕が伸ばされ、俺の頭とは簡単にさよならしてしまった。
「次、なんか見ます?」
「いや、連続で見るほどの集中力はない」
「ああ、そう」
 部屋に着いてすぐに映画を見はじめ、二時間弱。窓の外はまだまだ日が高い。腹も減っていない。酒を飲みたいわけでもない。
 これはチャンスってやつなのかもしれない。これまでにもこういうタイミングはいくつもあっただろうに、出かけにした通話を思い出し、ソファの上で体の向きを変えた。俺が話し出そうと口を開いたのとほとんど同時に、三井さんが「そういえば」と俺を見ることもなく、言った。こないだ鉄板焼きの店の前で会った先輩の話だった。
「あの後すぐに連絡入ってさ。結婚するんだって」
「へえ。まさかあの店でプロポーズしたとか?」
「そうらしい。彼女が気に入ってて、何度も来てるって言ってたからな。思い出の店ってやつなんかな」
 そうだと思えば、三井さんへのあの絡み方の理由も分かる気がする。プロポーズがうまくいって嬉しかったんだ。あの日店で感じたもやもやをまた思い出し、三井さんが先輩の話を続けようとするのを、わざとらしく遮った。
「出掛けに、沢北と少し話した」
「沢北?あいつ、今もアメリカだろ?」
「そう。本当は大学時代のルームメイトと通話してたんだけど、突然沢北が画面に入り込んできたんすよね」
「沢北って、宮城から話聞くとイメージ変わるんだよな。もっと俺様みたいな感じだと思ってた」
「バスケしてる時はそんな感じっすよ」
 ふうん、と三井さんはそっぽを向いてつぶやいた。なぜだか通話相手だった元ルームメイトの話をするときは、いつもこんな反応だった。そのくせ話した内容だとかは聞きたがるから、話をそらしたい時には好都合なのだ。
「なんだって?そいつ。沢北じゃないほう」
「あ、今度日本来るって。会おうって話してたら、急に沢北がわあわあ言いながら飛び込んできた」
「会うのか?てか、なんで日本来るんだ?」
「あいつの両親日本人だもん。里帰りくらいさせてあげてよ」
「だって、アメリカ生まれでアメリカ育ちだって言ってただろ」
 さらには日本人だとも付け加えていたはずなのに、三井さんの知識はどうも半端だ。そのくせ俺と沢北の大学の練習試合を観に来たことだとか、そのときに日本語での会話に飢えていた沢北に紹介して、今も二人が仲良くしていることだとかは、よく覚えている。
「いつ来るって?」
「さあ。決まったら教えるって言ってた」
 ふうん、とだけ答えて、三井さんは話をやめてしまった。リモコンに手を伸ばし、つけっぱなしだったテレビ画面を操作し始める。流れたのはいつのものか分からない試合映像だった。契約している専門チャンネルに合わせたのだろう。
「どこの試合?」
「さあ?」
 興味がなさそうなのに、流れていれば見入ってしまう。すぐに知り合いの名前と顔がアップで映し出されたので、どのチームが試合をしているのかだけは分かった。
 映画を見るだけの集中力がなくても、バスケの映像が流れれば、自然と頭が切り替わる。ああだこうだと言いながらいくつかの試合映像を流しているうちに、夜になっていた。いつ帰るだとかは決めていなかったけれど、飯に行く流れになるだろう。立ち上がった三井さんは、尻ポケットに財布を突っ込み、上着を羽織った。俺も三井さんに倣って外に出る準備をする。
 ちょっとそこまで、のつもりで歩いてたどり着いたのは、思惑にふさわしいラーメン屋だった。
「ここ、初めて入る。何回か通りかかったことはあったけど」
「俺も今日初めて」
 とても初めてとは思えない軽さで、三井さんは店のドアを開けた。金も持っているのだし、緊張をする必要もないけれど、見かけただけの店に入っていくのはどこか冒険のようでいつもと心地が違う。民家のような外観だけれど、中はよくあるラーメン屋だった。ドアに貼られた「煮干し」の文字だけは覚えていたので、きっとスープには煮干しが使われているんだろう。
 壁に貼られたメニューを一通り見て、一番大きな紙に書かれた店名とラーメンを組み合わせたものを注文した。きっと看板メニューというやつだから、初見はまず、ここから入るべきだ。三井さんは俺のようにメニューを見るそぶりを見せず、「同じの」とだけ注文した。ラーメン二つ、と厨房に向け注文が通る。
 待っている間にさっき見た試合の話や、今後のお互いの予定について話した。全部バスケのことだ。店が熱いからか、三井さんの前に置かれたコップは、すぐに中身がなくなってしまった。はじめの一杯以外はセルフサービスになっているらしく、テーブルに水が入っているだろうポットが置かれている。緑色というのか、カーキというのか、不思議な色をしていた。こういうのは大体透明だと思っていた。持ち上げると、中で氷のぶつかる音がした。勝手にジャバジャバと三井さんのコップに水を注いでいく。表面張力でコップの縁ぎりぎりを狙ったつもりなのに、水はコップから飛び出し、周囲に水たまりを作った。
「なにしてんだよ」
 鉄板焼きの店で見たような、さわやかな顔で三井さんが笑った。ああ、こういう顔をしているときの三井さんって、なに考えてるのか分からないんだ。壁を作られているわけでもなく、多分、俺にはない考えをしているからだろう。三井さんはおしぼりで水たまりを丁寧に拭ったあと、「俺も行こうかな」と染み込ませた水のように、笑顔のまま言った。
「どこに?」
「宮城の元ルームメイトに会いに」
「えー、別にいいっすけど、なんで?」
「なんでって、どうせ相手も俺のこと知ってるんだろう。それなら会ってみてもいいかと思って」
「なんで上から目線なんすか。それに、三井さんの話なんて、してないっすよ」
 嘘をついてしまった。留学中に「三井さんに会いたいよー」と時々泣き言を言う俺のことを、笑いながら見ていたのは元ルームメイトだし、俺が三井さんを好きなことなんて、三井さんよりも知っている。
 デートには誘えるくせに、肝心な言葉を避けるのは、きっと、俺に勇気がないからだ。こんなラーメン屋で逃げ続けた気持ちに向き合うとは思ってもいなかった。俺は三井さんから告白してもらいたい。優越感だといかそういうことではなく、俺が好きだと言ったときに、三井さんがどんな言葉を返してくるのか分からないからだ。勝率百パーセントの恋なんてありはしないけれど、会いたいというほとんど呪いのような言葉を枕に向けていた楽で楽しい時間が長かった俺には、高すぎるハードルだった。でも、三井さんから俺への矢印なら、百パーセントだと分かり切っている。あいまいにいつまでも甘えていたのは俺のほうだ。三井さんは俺ではないから。恋になり得そうな要素を見つけて一喜一憂しているのは安心できるけれど、成果が得られないのもバカらしいな。
 バスケ選手なんて職業を選ぶくらいだから、思考より体を動かしているほうが、本当は性に合っている。ここまでずるずる引きずったのだから、もう、勝率なんて言ってられないな。当たって砕けるときの言い分のようで、それにはまだ、指先がかすかにふるえそうだった。でも俺この人のことが好きだ。ちゃんと言葉にしてやらなきゃ、俺の流した涙がかわいそうだし、適当にその辺の布巾で拭われちゃたまらない。勢いがなにより大事だろう。
 意を決して顔を上げると、三井さんは頬杖をついて俺を見ていた。多分ずっと。いつの間にか止まっていた会話。腹をくくったつもりでも、三井さんの視線にまともにぶつかると、ひるんで「なに?」とそっけない言葉が出た。
「お待たせしましたー」
 間延びした声が俺たちの間に割り込んでくる。湯気を立てたどんぶりが二つ、俺たちの前に置かれ、伝票をテーブルに伏せると、店員はさっさと厨房に戻って行った。店内はそれなりに客が多く、忙しそうだった。
 三井さんが割りばしを差し出してくるので、無言で受け取り、無言で食べ始めた。二人の間に流れる、麺を啜る音。味なんてひとつも分からない。多分うまいのに、もったいない。体が熱くなってくるのは、三井さんの視線が、ここ数年では見たことのないものだったからだ。だけど俺はあれをちゃんと知っている。三井さんの部屋だったり、バスケ部の部室や、帰り道で見た。俺とあいまいに恋をしていたときの、三井さんの目。
 恋はハプニングとタイミングだと聞いたことがある。俺と三井さんじゃあ、故意に用意しなけりゃいけないもの。まさかこんなところに転がっているとは。元チームメイトに頭の中で拝み倒し、ひたすらにラーメンを啜った。三井さんも同じく、無言でラーメンを啜っていた。食べ終わると水を一気に飲み干して、さっさと立ち上がる。支払いを済ませた三井さんの後に続き店を出ると、外は暗くなってきた。ここに歩いてきたときにはまだ、雲に重なるようにオレンジ色が見えていたのに、すっかり夜だった。
 歩道もない道を歩く。マンションに帰るのだと思っていたけれど、そうじゃなくて、どこかに寄り道したいな、と思った。部活の帰り道のようだった。まだ話していたい。今日を終わらせるのがもったいない。あの頃隣を歩いていた三井さんには、声に出さなくても、それが伝わっていた。いや、たまたま同じ気持ちだっただけで、俺たちがそれを通じ合えたのだと勘違いしていただけだ。だって、あいまいなままでここまで来てしまった。それでもあいまいだったから、ここまで来た。あんたのこと手離すのは心底もったいないから。
「三井さん、どっか寄って行かない?」
 振り向いた三井さんは、何か言いたげに口をもごりと動かした。
「どこでもいいから、まだ三井さんと一緒にいたい」
……今から俺んち帰るだろ」
「可愛くないこと言いますね」
「可愛かったことなんて、生まれて十年くらいしかなかったっての」
「十歳までは可愛かったんだ」
 冗談を言ったつもりはないらしく、俺が笑っても、三井さんは笑わなかった。拗ねたような顔のまま、半歩ずれて俺と並ぶ。
「つっても、この辺、なんもないぞ」
 言いながら歩き始めた。住宅街の中の小さな公園。暗くて用途の分からない公共施設。外飼いの犬がいる一軒家。適当に足を動かしているらしく、「この辺見覚え無いな」と怖いことを言い始めたけれど、俺はなんだか楽しくなってきていた。告白ハイだ。まだしてもいないのに。三井さんは相変わらず拗ねた顔のまま。塀の上に猫がいた。漫画みたいだ。
 一本向こうの道に出れば、それなりに人も車も明かりもある。カフェもあるし、本屋もある。ああ、この道かと分かったところで、三井さんが立ち止まった。横にマンションが建っている。入り口からはなぜか陽気な音楽が流れていた。聞き間違いかと思ったくらいには、場違いだった。なにもない道。誰もいない道。そういうものだけで良かった。
 飛び越えようかと思う瞬間は唐突だ。今なら言えるかも、じゃなくて、今言いたい。ぐるぐる頭で考え続けたわりに、すんなりと「好きです」と愛の告白が口から飛び出した。
 三井さんは赤くなったり白くなったりしたあと、「あー!」と大きな声を出して頭を抱えた。そのままうずくまる勢いで、小さく小さくなっていく。でも普通の人よりはでかいので、狭い道でそんなことをされるとちょっと邪魔だ。誰も来ないことを確かめたあとに、三井さんの隣にしゃがんだ。隠れてしまった三井さんの顔。いつもより断然近い位置にあるつむじを人差し指で押した。固い髪。熱い頭皮。
「俺、めちゃくちゃカッコ悪い。こんなはずじゃなかったのに」
「俺もこんなはずじゃなかったこといっぱいありますけど。特に三井さんに関しては。三井さんはどのあたりがこんなはずじゃなかったの?」
……お前の元ルームメイトに嫉妬してなし崩しみたいな告白してもらったこと」
「なし崩しではないでしょ」
「じゃあ、慰めるみたいな。いや、ガキをなだめるとか、あやすみたいな」
「あのさ、それができるんなら、俺たちとっくに付き合ってたと思わない?」
 ようやく三井さんが顔を上げる。真っ赤な頬に少し潤んだ瞳と情けなく下がった眉。その全部が俺によってつくられたんなら、今三井さんが言ったことは、チャラにしてあげてもいい。いい気分でヒヒっと笑った。
「なんで今なんだよ」
「今言いたくなったから。なーんかいろいろ考えてたの、ばからしくなったんすよね。言わないでいるのも、俺の気持ちがかわいそうかなって。あと、嫉妬してたのは気づきませんでした。分かりづらい」
「そんなことないだろ。自分で言うのもあれだけど、俺、かなり分かりやすいほうだと思う。てか言われる。顔に出すぎとか」
「そっすかね」
 思い返してみるけれど、大人になった三井さんは、俺への感情が読みにくかった。
「宮城といると楽しいから、今日言うぞとか、ちゃんとするぞって思ってても、楽しかったーで一日終わって、気づいたら帰りの電車に乗ってるんだよ」
「なにそれ、可愛いっすね」
「くそ、俺の可愛い全盛期は十歳までなのに、お前に言われるとちょっとうれしい。悔しい」
「悔しいのかよ。ねえ、寄り道楽しかったけど、ここでする話でもないから、そろそろ帰ります?」
 途端に三井さんはがばりと立ち上がった。勢いに押されてよろけかけたけれど、そこはバスケ選手の体幹で耐えた。俺はまだ勝率百パーセントではない。
「三井さん、やっぱり、返事は今ここでほしい」
 ここまで話して、あの顔を見て、なんだと言われそうだけれど、世の中に絶対なんてないから。はじまりの約束だけは、きちんと聞きたい。はじまったら終わるのだろうか。終わらせたくないから、始まらなかったのかもしれない。とんでもなく臆病で幼い考えに笑った。そこまで考えていたのなら、やっぱり、俺たちは高校生の頃に付き合っていたと思う。
 下から見上げてばかりじゃ首が痛いので、俺も立ち上がった。三井さんは一歩引きそうになる足を、なんとか踏みとどまらせて、俺のほうへと体を近づけた。眉間にしわが寄っている。どういう感情だよ、と思ったけれど、突然握られた手のひらに湿り気が伝わってきたので、緊張しているんだと分かった。言ってしまったほうは気楽だ。心臓の音さえ聞こえてきそうなほど張りつめた空気がなんだかおかしくて笑った。三井さんはぷいと一瞬横を向き、それから思い直したのか、また俺を見た。
 宮城が好きだって言われて、頭の中で結婚式のような鐘の音が響いた気がした。リン、ゴーンってやつ。