Hnyanko
2026-06-05 22:33:57
11040文字
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共に“生きる"ということ②

前回の続きです
🏹が近くにいなくても季節というのはまってくれないのです。
本になる頃には加筆されてるかも。



  二年目は、思っていたより静かに過ぎていった。

 恋が終わったあとの生活というものは、もっと劇的に崩れるのだと思っていた。食事が喉を通らなくなるとか、眠れない夜が続くとか、名前を聞くだけで胸が裂けるとか、そういう、誰が見てもわかるような形で自分が壊れてくれれば、周囲も、リンも、そしてアキラ自身も、これは傷なのだと納得できたかもしれない。

 けれど実際には、アキラは朝になれば起きたし、仕事へ行けばいつも通りに応対したし、必要な書類を整え、必要な連絡を返し、リンと食卓を囲み、時々は笑いもした。

 あまりにも普通だった。

 普通にできてしまう自分が、時々、ひどく薄情なもののように思えた。

 傷というものは、もっとわかりやすい形をしているはずだと思っていた。腕を切れば血が出るように、失ったものの分だけ、どこかがはっきりと欠けるはずだと。けれどアキラの内側にあるのは、そういう鋭さではなかった。むしろ、水に落とした角砂糖のようなものだった。形を保ったまま沈んでいるように見えて、実は少しずつ溶けて、気づけば輪郭を失っている。誰かに指摘されるまで、自分でもそれに気づけない種類の欠け方だった。

 悠真と別れても生活は続く。

 その事実を受け入れることは、悠真がいなくても自分は生きていけるのだと認めることに似ていた。認めたくないほど子どもではないのに、認めてしまうには、まだ少しだけ早すぎる気がした。

 仕事では、悠真と変わらず顔を合わせた。

 いや、変わらず、というのは正確ではない。

 外側から見れば変わらない、というだけだった。

 必要なときには会話をする。依頼があれば共有する。危険があれば声をかける。悠真が無茶をしそうになれば止めるし、アキラが抱え込みすぎれば悠真が軽口まじりに釘を刺す。そういうやり取りは、以前と同じ形をしていた。

 けれど、同じ形をしているだけだった。

 以前なら、その会話のあとに残るものがあった。視線がほんの少し長く重なるとか、帰り際に何か言いかけて笑うとか、仕事の話が終わったあとに、ではまた、と言うには近すぎる沈黙が落ちるとか。

 今は、何も残らない。

 会話は会話として終わり、仕事は仕事として閉じる。

 それはきっと、正しい距離だった。

 悠真が望み、アキラが受け入れた距離。

 正しいものは、ときどき残酷なくらい隙がない。

「アキラくん、これ」

 ある日の午後、悠真が資料を差し出してきた。

 アキラは端末から顔を上げる。悠真はいつものように片手をポケットに入れ、もう片方の手で薄いデータチップをひらひらさせていた。相変わらず、渡し方が雑だ。

「ありがとう。助かるよ」

「どういたしまして。いやぁ、僕って本当に働き者だよね」

「その言葉は、もう少し働いてから言った方が説得力があると思うよ」

「ひどい。今の僕の努力、見えてなかった?」

「見えていたから言っているんだ」

 悠真は大げさに肩を落とした。

「アキラくんってさぁ、僕にだけ厳しくない?」

 言ってから、悠真は一瞬だけ黙った。

 僕にだけ。

 以前なら何でもない言葉だった。

 むしろ、悠真がわざと選んで投げてくる甘えだった。アキラがそれに気づいて、呆れた顔で返してやれば、悠真は満足そうに笑った。君にだけ、という特別を、冗談の形で確かめるような言葉だった。

 今、その言葉はひどく扱いづらいものとして二人の間に落ちた。

 アキラはチップを受け取る。

 指先が触れないよう、ほんの少しだけ角度を変えた。

 その小さな調整に、自分でも驚くくらい神経を使っていることに気づく。触れないための動作は、触れるための動作よりずっと難しい。避けるということは、意識し続けるということだった。忘れられれば、そもそも避ける必要などない。

「仕事に関しては、誰に対しても同じだよ」

……だよねぇ」

 悠真は笑った。

 軽い声だった。

 けれどその笑いは、さっきより少しだけ遅れた。

 アキラは、それに気づかないふりをした。

 気づけば、また考えてしまう。悠真は今、何を思ったのだろう。自分の言葉に傷ついたのだろうか。傷つく資格があると思っているのだろうか。あるいは、何も思っていないのか。

 そんなことを考える資格は、もう自分にはないはずだった。

 資格、という言葉が、いつの頃からかアキラの中に住み着いていた。

 聞く資格がない。

 触れる資格がない。

 踏み込む資格がない。

 心配する資格がない。

 権利、と呼んでいた頃もあった。今は資格、と呼んでいる。呼び方を変えても、意味はほとんど変わらない。ただ、資格という言葉には、権利にはない自責の響きがある。権利は誰かに奪われるものだが、資格は自分で失うものだ。アキラはたぶん、後者の方が近いと思っている。

 そうやって自分の手首を自分で押さえていないと、うっかり伸ばしてしまいそうになる。悠真の言葉の裏側へ、笑みの下へ、見えない傷のところへ。

 昔は、伸ばしてもよかった。

 今は、だめだ。

 アキラはデータを確認するふりで端末に視線を落とした。

「内容、確認しておくよ」

「よろしく。僕の仕事の素晴らしさに感動して泣いてもいいからね」

「必要があれば」

「そこは否定してよ」

「否定してほしかったのかい?」

 悠真は一瞬だけ目を丸くし、それから、やれやれと肩をすくめた。

「アキラくん、相変わらずそういうとこあるよね」

「そうかな」

「そうだよ」

 それだけ言って、悠真は離れていった。

 相変わらず。

 その言葉が、しばらく胸に残った。

 変わらないものがあるのだと、悠真は思っているのだろうか。あるいは、変わってしまったことを隠すために、相変わらずなんて言葉を選んだのだろうか。

 アキラは目を閉じた。

 考えすぎだ。

 そう思う。

 けれど、悠真が絡むと、アキラの思考はいつも少しだけ過剰になる。言葉の端を拾い、視線の向きを数え、笑うまでの間を測ってしまう。恋人だった頃からそうだった。違うのは、今はそれを本人に確かめられないことだけだ。

 確かめられないまま積もっていく推測は、いつまでも仮説のままだった。証明されることも、否定されることもなく、ただアキラの内側だけで静かに体積を増やしていく。誰にも見せられない部屋の中に、少しずつ荷物が積み上がっていくような感覚だった。

 その日、帰り際に雨が降った。

 予報にはなかった雨だった。細く、冷たく、傘を差すほどではないけれど、差さずに歩けばじわじわと肩を濡らすような雨。

 アキラは入口で少し足を止めた。

 傘は持っていない。

 この程度なら走ればいい。そう思って一歩出ようとしたとき、横から黒い傘が差し出された。

「はい」

 声を聞く前に、誰かわかった。

 悠真だった。

「君は?」

「僕はもう一本あるから」

 悠真は軽く言った。

 アキラは傘を見た。

 黒い、何の変哲もない傘。柄の部分に、小さな傷がある。見覚えがあった。何度か二人で使ったことがある傘だった。悠真は自分の傘だと言い張っていたけれど、アキラの部屋にも同じくらい自然に置かれていた時期がある。

 喉の奥が、少し詰まる。

「ありがとう。でも、すぐそこだから」

「風邪ひくよ」

「これくらいでひかないよ」

「アキラくん、そう言ってだいたい無理するじゃん」

 悠真は、何でもないように言った。

 何でもないように。

 その言い方が、かえって苦しかった。

 まだ覚えているのか、と思った。

 雨に濡れても平気だと言って、あとから微熱を出したこと。自分の体調を後回しにするアキラを、悠真が呆れたように叱ったこと。熱があるなら寝てなよ、と言いながら、結局ずっとそばにいたこと。

 覚えている。

 悠真は、覚えている。

 覚えているくせに、離れた。

 その事実が、アキラの胸の奥で音もなくねじれた。

 記憶というものは不公平だ、とアキラは思う。関係が終わっても、覚えていることまでは終わらない。悠真の中にも、アキラの好きな紅茶の銘柄や、無理をしたときの顔つきや、雨に濡れたときの言い訳の仕方が、消えずに残っている。それを知るたび、嬉しさと苦さが同時に胸を通り抜けていった。忘れられていないことは救いのはずなのに、忘れられていないからこそ、届かない距離がなおさら際立つ。

……じゃあ、借りるよ」

「うん。返すのはいつでもいいから」

 いつでも。

 その言葉に、また少しだけ期待しそうになった。

 いつか返す機会がある。

 また会う理由がある。

 そんな、取るに足りない言葉にまで意味を探してしまう自分が嫌だった。

「ありがとう、悠真」

 アキラがそう言うと、悠真は少しだけ笑った。

「どういたしまして、アキラくん」

 名前の呼び方だけは、何も変わらない。

 それが残酷だった。

 傘を差して歩き出すと、雨粒が布を叩く音が頭上で小さく響いた。アキラは振り返らなかった。振り返れば、悠真が本当にもう一本傘を持っているか確かめたくなる。もし持っていなかったらどうするのだろう。戻って、傘を返して、結局一緒に歩くのだろうか。

 昔なら、そうした。

 今はしない。

 アキラはまっすぐ歩いた。

 傘の内側には、小さな空間ができる。雨の音がその薄い布一枚で遠ざかり、代わりに自分の呼吸だけが近く聞こえるようになる。アキラはその狭さの中を歩きながら、これは悠真がいつも見ていた景色なのだろうか、とぼんやり考えた。同じ傘の下から見る雨は、いつも少しだけ違う色をしていた気がする。今日の雨は、あの頃より少しだけ暗い色をしていた。

 家に着くと、傘の先から水滴が落ちた。玄関に置いた瞬間、リンが奥から顔を出す。

「おかえり。あれ、その傘」

 アキラは少しだけ遅れて答えた。

「借りたんだ」

「悠真に?」

「うん」

 リンは何か言いたそうな顔をした。

 けれど、珍しく何も言わなかった。

 アキラは傘を開いたまま玄関に立てかける。布に残った雨の匂いがした。悠真のものなのに、アキラの部屋にも馴染んでいた匂いだった。

「返すの?」

「返すよ」

「いつ?」

……次に会ったときに」

 次に会ったとき。

 自分の声が、その言葉だけ少し柔らかくなった気がして、アキラはすぐに靴を脱いだ。

 リンはそれを見逃さなかっただろう。

 でもやはり、何も言わなかった。

 次に悠真に会ったのは、三日後だった。

 アキラは傘を返した。丁寧に乾かして、畳んで、いつもより少しだけ綺麗にして。

「助かったよ。ありがとう」

「はいはい。これで貸し一つね」

「そういうことになるのかい?」

「なるでしょ。傘の恩は重いよ」

 重い。

 その言葉が出た瞬間、悠真自身が一瞬だけ固まった。

 アキラも、たぶん同じように固まった。

 言葉は、思ったよりしつこい。

 一度傷になった言葉は、何気ない会話の中でも簡単に顔を出す。使うつもりがなくても、そこに落ちてきてしまう。そして二人とも、それを踏まないように立ち止まる。

 悠真はすぐに笑った。

「まあ、冗談だけどね」

「うん」

 アキラも笑った。

「助かったのは本当だよ」

 悠真は少しだけ目を伏せた。

「ならよかった」

 それだけで終わった。

 それだけで終わらせた。

 傘は悠真の手に戻った。

 アキラの手から、なくなった。

 その夜、玄関が少し広く見えた。

 傘立てには、アキラの傘が一本、いつも通りに立っている。それだけなのに、隣にあるべき何かが欠けているような気がして、アキラはしばらくそこに立ち尽くした。物ひとつが増えるだけで部屋は狭く感じるのに、物ひとつが減っただけで、こんなにも広く感じるものなのかと思った。

 二年目の夏、悠真が休暇を取った。

 珍しいことだった。

 いや、本人はいつも休みたいと言っている。サボりたい、帰りたい、今日は働きたくない。そう言っている姿なら、嫌というほど見慣れている。けれど実際にまとまった休みを取ることは少なかった。病気があった頃は特に、自分の身体に猶予がないことを知っているくせに、いや、知っているからこそなのか、悠真は妙なところで仕事を放り出さなかった。

 その悠真が、休む。

 数日ではなく、少し長めに。

 それを聞いたとき、アキラは素直にいいことだと思った。

 病気が治ったのだから、休むことも、遊ぶことも、遠くへ行くことも、全部していい。悠真が自分のために時間を使えることは、喜ばしいことのはずだった。

「旅行らしいよ」

 誰かがそう言った。

 アキラは端末を操作していた手を止めなかった。

「そうなんだ」

「しかも女の子と一緒っぽいって」

 指が止まった。

 ほんの一瞬。

 けれど隣にいたリンには気づかれた。

 その場では何も言われなかったが、あとで思いきり見られた。見られただけだった。何か言われるより、よほど逃げ場がなかった。

「仕事の付き合いかもしれないよ」

 アキラは自分から言った。

 リンはソファの上で脚を組んだまま、じっとこちらを見ている。

「私、何も言ってないけど」

「顔が言っていたから」

「じゃあ言うけど、付き合いじゃなかったら?」

「それは、悠真の自由だよ」

「お兄ちゃんのそういう答え、もう聞き飽きた」

 リンはクッションを膝に置いた。

「嫌なら嫌って言えばいいのに」

「本人に?」

「まず私に」

 アキラは少し笑った。

 リンは笑わなかった。

 だから、アキラも笑うのをやめた。

……嫌だよ」

 小さく言う。

 それでも、言った。

「すごく嫌だ」

 口にした瞬間、胸の奥で固まっていたものが、じわりと溶けるように痛んだ。感情は、言葉にすると形を持つ。形を持つと、触れられる。触れられると、痛い。

「悠真が誰とどこへ行っても、僕には何も言えない。それはわかっている。わかっているけど、嫌だと思うよ。知らないところで、知らない誰かと、僕の知らない顔で笑っているのかもしれないと思うと、嫌だ」

 リンは黙って聞いていた。

 茶化さなかった。

 アキラは続けた。

「でも、それを悠真に言うつもりはない」

「なんで」

「言われても困るだろうから」

「困ればいいのに」

「リン」

「困ればいいじゃん。お兄ちゃんだけ困ってるのおかしいもん」

 その言い方があまりにもまっすぐで、アキラは少しだけ目を伏せた。

 困ればいい。

 そんなふうに思ったことがないわけではない。

 悠真にも困ってほしかった。自分だけで決めたことを後悔してほしかった。アキラが平気ではないと知って、少しくらい動揺してほしかった。そう思う自分が、確かにいた。

 けれどそれは、あまりにも子どもじみていて、みっともなくて、口にしてはいけないもののように思えた。

「困らせたいよ」

 だから、口にした自分に少し驚いた。

 リンも驚いた顔をした。

 アキラは膝の上で手を組む。

「少しだけね」

「少しじゃなさそう」

……そうかもしれない」

 リンは、ふっと表情を緩めた。

「いいじゃん。人間ぽい」

「僕はずっと人間だよ」

「たまに怪しいよ」

「ひどいな」

「お兄ちゃんがすぐ完璧なお兄ちゃんやるからでしょ」

 リンはそう言って、少しだけ身を乗り出した。

「でも、今のはよかった。悠真に言うかどうかは置いといて、お兄ちゃんはもっと私に言っていいよ。嫌だったとか、ムカつくとか、寂しいとか」

「リンに負担をかけるよ」

「家族でしょ」

 その言葉は、短くて強かった。

 家族。

 アキラは、何度もその言葉に救われてきた。リンを守らなければならないと思って生きてきた。リンがいたから、アキラは自分を保てた。自分が崩れたらリンも崩れると思って、だから何度も踏みとどまった。

 けれどリンはもう、守られるだけの子どもではない。

 そのことを知っているのに、アキラは時々忘れる。

 妹の手を引いていたはずの記憶が、いつの間にか逆転している。今、手を引かれているのは自分の方だった。リンの背丈はいつか追い越していったし、リンの言葉はいつからか、アキラの知らない強さを持つようになった。守ってきたつもりの時間の中で、育っていたのは自分の方だったのかもしれない、とアキラはぼんやり思う。

……ありがとう」

「またありがとうって言った」

「だめかな」

「だめじゃないけど、次は“ムカつく”って言って」

 アキラは少し考えてから、言った。

「悠真が旅行に行くのは、少しムカつく」

「少し?」

「かなり」

「よし」

 リンは満足そうに頷いた。

「その調子」

 その夜、アキラは久しぶりに少し眠れた。

 夢は見なかった。

 それがありがたかった。

 悠真の休暇中、彼から連絡が来ることはなかった。

 当然だ。

 別れている。

 私的な連絡はしないと決めた。

 アキラはそう何度も自分に言い聞かせた。言い聞かせる必要がある時点で、まだ全然平気ではないのだとわかってしまう。

 悠真が戻ってきた日、職場は少しだけ賑やかだった。

 土産があったからだ。

 悠真は面倒くさそうな顔で紙袋を置き、適当に持っていって、と言った。そういうところは相変わらずだった。選んできたものは妙に気が利いているくせに、渡すときだけ雑にする。

 たまたま六課に用事があったアキラのところにも、小さな箱が回ってきた。

「アキラくんにはこっち」

 悠真がそう言って、別の包みを差し出した。

 周囲にいた誰かが、あ、と声を上げる。

「ハルマサ、特別扱い〜?」

「いやいや、アキラくん味にうるさいからさぁ。合わないもの渡して文句言われたら怖いし」

「僕はそんなに文句を言った覚えはないよ」

「無言で顔に出るんだよね」

 悠真は軽く笑った。

 アキラも笑った。

 包みを受け取る。

 指先は触れなかった。

 中身は、紅茶だった。

 アキラが好きな系統の香り。

 甘すぎず、癖が強すぎず、けれど少しだけ特別な味のするもの。

 悠真は、まだ覚えている。

 覚えているくせに、何も言わない。

「ありがとう」

「どういたしまして。まあ、たまたま見つけただけだけど」

 たまたま。

 そんなはずがない。

 この味を選ぶには、記憶がいる。何十種類もある茶葉の中から、これだ、と迷わず選び取るには、以前アキラが何気なく零した好みを、どこかに留めておかなければならない。たまたまという言葉の中に、悠真の丁寧さが隠れている。それに気づくたび、アキラは少しだけ息苦しくなる。丁寧さは、無関心からは生まれない。

 そう思ってしまう自分が嫌だった。

 悠真は本当にたまたま見つけたのかもしれない。ただ、アキラが好きそうだから買っただけかもしれない。それ以上の意味などないのかもしれない。

 意味を持たせたがっているのは、自分の方だ。

「あとでいただくよ」

「うん。感想は別にいいから」

「そう?」

「うん」

 悠真は少しだけ視線を逸らした。

「聞いたら、また調子に乗っちゃうし」

 冗談の形をしていた。

 けれど、その奥に何があったのか、アキラにはわからなかった。

 わからないまま、微笑むしかなかった。

「それは困るね」

「でしょ」

 悠真は笑って、離れていった。

 その夜、アキラは紅茶を淹れた。

 リンが向かいに座っている。

「それ、悠真のお土産?」

「うん」

「飲むんだ」

「もらったものだからね」

「ふーん」

 リンは何か言いたそうだったが、言わなかった。

 湯気が立つ。

 香りが広がる。

 好きな香りだった。

 腹が立つほど。

 カップの縁に唇を寄せると、湯気が頬をかすめた。温かさが先に伝わり、香りが少し遅れて追いかけてくる。舌の上に広がる味は、記憶の中の味とほとんど変わらなかった。あの頃、悠真が淹れてくれた紅茶と、今、自分で淹れた紅茶は、同じ茶葉なのだから当たり前のように同じ味がする。それなのに、味そのものよりも、その味に付随する景色の方が、鮮明に蘇ってくる。

 アキラはカップを持ち上げ、ゆっくり口をつけた。温かさが唇に触れ、舌の上に香りが残る。悠真が選んだものだと意識しなければ、ただ美味しい紅茶だった。意識してしまうから、味の中に余計なものが混ざる。

「美味しい?」

 リンが聞いた。

 アキラは少し黙ってから答えた。

「美味しいよ」

「そっか」

「うん」

「ムカつく?」

 アキラはカップを置いた。

 それから、小さく笑った。

「かなり」

 リンも笑った。

「よし」

 そのころから、アキラは少しずつ、リンの前では本音を言うようになった。

 ほんの少しだけ。

 悠真の何気ない言葉に傷ついたこと。

 悠真が誰かと親しげに話しているのを見て嫌だったこと。

 悠真が自分の好みをまだ覚えていることが嬉しくて、同時に腹立たしかったこと。

 口にするたびに、感情は少しずつ輪郭を持った。

 それは楽になることとは違った。

 むしろ痛みははっきりした。

 けれど、何に傷ついているのかわからないまま薄く凍っていくよりは、ずっとましだった。

 感情に名前をつける作業は、傷口を確認する作業に似ている。触れれば痛いとわかっていても、放置して膿ませるよりはいい。リンという聞き手がいたから、アキラは少しずつその作業を覚えていった。ひとりでは、きっとどこまでも先延ばしにしていた。

 二年目の終わり、悠真とアキラは一度だけ大きな仕事で組んだ。

 危険度の高い案件だった。

 久しぶりに、互いの呼吸を正確に読まなければならない状況だった。言葉にするより早く判断し、相手の動きを見て次を決める。距離を取りすぎれば危険で、踏み込みすぎても危険になる。

 昔なら、何も考えなくてもできた。

 今は、考えないようにする方が難しかった。

「アキラくん、左はもう行ける?」

「あと少し待ってくれ。君は前に出すぎないで」

「はいはい、過保護」

「必要な指示だよ」

「そういうことにしとく」

 悠真は笑った。

 その目はもう、逃げていなかった。

 仕事中の悠真は、いつだってよく見ている。危険の位置、仲間の動き、自分の身体の限界、敵の癖。ふざけた口調のまま、頭の奥では冷静にすべてを計算している。

 その目が、アキラを一瞬だけ見た。

 信頼の目だった。

 任せる、と言っている目。

 それが嬉しかった。

 嬉しいと思ってしまうのが、悔しかった。

 案件が片づいたあと、二人はしばらく無言で立っていた。周囲は後処理に動いていて、ざわついている。けれど二人の間だけは、またあの水の底のような静けさがあった。

「助かったよ」

 悠真が言った。

「こちらこそ」

「やっぱり、アキラくんとだとやりやすいね」

 何気ない言葉だったのだろう。

 少なくとも、悠真はそういうふうに言った。

 アキラは少しだけ息を止めた。

 やりやすい。

 それは仕事上の相性の話だ。

 ただそれだけ。

 それだけなのに、胸の奥がひどく柔らかく揺れた。

……そうだね」

 アキラは答えた。

「僕も、君とだとやりやすいよ」

 悠真の目が、ほんの少しだけ見開かれた。

 アキラはそれ以上何も言わなかった。

 悠真も何も言わなかった。

 ただ、しばらくしてから、少しだけ困ったように笑った。

「そっか」

「うん」

……そっかぁ」

 その二度目の声が、妙に幼く聞こえた。

 アキラは胸の奥が痛んだ。

 悠真はすぐにいつもの顔に戻り、じゃ、僕はそろそろサボ……じゃなくて報告に行ってくるね、と軽口を言って去っていった。

 アキラはその背中を、今度は少しだけ見送った。

 黒い髪。

 まっすぐな背中。

 病気が治って、以前より少しだけ身体に余裕があるように見える歩き方。

 生きている。

 悠真は生きている。

 それは、本当に嬉しい。

 嬉しいのに。

 アキラは目を伏せた。

 人は、相反する感情を同時に抱えたままでも、立っていられるらしい。

 それを最初に知ったときは、少し怖かった。矛盾した気持ちは、どちらかが偽物でなければおかしいと思っていた。けれど今のアキラは知っている。両方とも本物のまま、同じ胸の中に収まることがあるのだと。むしろ、片方だけを選んで綺麗になろうとする方が、よほど嘘に近いのかもしれない。

 嬉しい。

 悲しい。

 悔しい。

 好きだ。

 もう戻れない。

 戻りたい。

 全部が同じ場所にあって、それでも身体は倒れない。

 人間の身体というのは、思っていたよりずっと頑丈にできているらしい。心の中でどれだけのものを抱え込んでいても、朝が来れば目を開けるし、水を飲めば喉は通るし、名前を呼ばれれば振り向く。壊れそうで壊れない。壊れないから、余計に苦しい日もある。

 二年目の終わり、アキラはようやく、そのことに慣れ始めていた。

 慣れ始めていたからこそ、三年目の春にリンが悠真を呼び出したことを、アキラは知らなかった。

 その日、リンはいつもより少しだけ丁寧にショートの髪をアレンジしていた。

 出かけるのかい、とアキラが聞くと、うん、ちょっと、とだけ答えた。

「友達と?」

「そんな感じ」

 リンは靴を履きながら言った。

 嘘ではないのだろう。

 でも全部でもない。

 その言い方を、アキラは知っていた。

 誰かに似ている、と思って、すぐに考えるのをやめた。

「遅くならないようにね」

「わかってる。お兄ちゃんこそ、ちゃんとご飯食べてね」

「僕は子どもじゃないよ」

「知ってる。だから言ってるの」

 リンはそう言って出ていった。

 アキラはその背中を見送りながら、少しだけ首を傾げた。

 けれど、深くは聞かなかった。

 その頃のアキラは、相手が話したくないことを無理に聞かないことが優しさだと、まだどこかで信じていた。

 その優しさが、時に真実から自分を遠ざけることもあるのだと、この時のアキラはまだ知らない。

 リンが向かった先に悠真がいることを、アキラは知らなかった。

 そして、そこでリンが悠真に何を言うのかも。

 それを知るのは、まだ少し先のことだった。