ミズクラゲ
2026-06-05 20:11:53
5149文字
Public ウデ
 

まだ、もう少し

今は昔、めかぶ様から「小話をつけてもいいよ!」とのお言葉をいただいた御作品に、今更ながら恐れ多くも小話をつけさせていただきました。あまりに顔の良いロと、あまりに反応の可愛らしいウェ、それにあまりにもいい味を出しているメリたんの、三者三様のお味を出せていたら幸いです。


今は昔がどれくらい前かと遡ったら、昨年の9月でした。大変長らくお待たせいたしました……!
https://x.com/i/status/1968217287204417607

 ウェイドは焦っていた。
 例えるなら、家を出てから往来のど真ん中でパンツを履き忘れていたことに気が付いたときの焦燥に近い。さすがに下半身裸ってわけじゃなくて、言いたいのはノーパンのこと。気分によってトランクスだったりボクサーパンツだったりTバックだったりGストリングだったりCストリングだったりするが、ウェイドは基本的に下着自体は履いていたい主義だ。それが、出かけてから、ふと下半身の風通しの良さに気付いた時の、あの感覚。今更どうにもならない状況を何とかしようと頭が高速で空回りを始め、すれ違う人の誰もに自分の秘密を見透かされているのではないかと疑心暗鬼になり、脇目も振らずにその場から消え失せたくなるような、そんな心境に陥りながら、ウェイドは懸命に平静を装っていた。
 原因は、隣に座っている男だ。非の打ち所のない精悍な顔に、とんでもなくセクシーな肉体、そして崇高な精神を併せ持つ、どこに出したって恥ずかしくないヒーロー。紆余曲折の末にこの世界に居着くことに決めたらしい彼を、せっかくならウェイドの友人達にも紹介したいと、そう言って催したのが今夜のささやかなパーティーだった。
 それで何で焦ってるかって? ローガンが予想以上に愛想無しで、開きっぱなしの冷凍庫の如く場の空気を冷やしまくっているから……ではない。癖の強い友人たちがローガンの逆鱗を撫でくり回し、いつか車の中で見たような見事な青筋が蟀谷に浮かんでいるから……でもない。むしろローガンはいつになく上機嫌で、穏やかな微笑みさえ浮かべながら賑やかなテーブルに着き、すんなりとウェイドの育んできた小さな世界のなかに受け入れられつつあった。
 これだけ見れば、成功も成功、大成功だ。これで急にウェイドがいなくなったって、ローガンには頼る先がある。要らない我慢をしてウェイドに付き合わなくとも、行く当てがいくつか出来ただろう。チクリと痛む心は別として、きっと期間限定であろうこのウェイドにとってのボーナスタイムを、ローガンはいつでも終わらせられる。
 四方八方から聞こえてくるお喋りに口角を上げ、タイミングよく頷き、時には大声で野次を飛ばしながら、ウェイドはそんなことを考えていた。それでも段々と心が重たくなってきたので、酒を注ぎ足すふりをして一度席を外し、少しだけ外の空気でも吸いに行こうかと、そう思って手元のグラスに目を落としたときだった。
 ローガンが、此方を見ている。揺らめく液面に映る光景に、ウェイドはぴたりと呼吸さえ止めて見入っていた。
 ローガンは何を言うでもなく、ただウェイドの横顔を見つめている。そっと眦を下げて、口元を綻ばせた、見たこともないような優しい顔で。視線には敏いはずのウェイドだったが、なぜか全く気付けなかったことが自分でも不思議だった。
 なので、まずは自分の脳が作り出した幻なのではないかと、ウェイドは疑った。それか、知らないうちに酒が進んだか、ピザに何かしらのドラッグがトッピングされていたかで、幻覚を見ているのかと。それで、恐る恐る隣を見て、まさしく液面に映っていたのと同じ、しかし直接見るには些か破壊力の強すぎる光景に、思っていたより至近距離でぶち当たった。
「っ、……なに、どしたの?」
 思わず息を詰めて、それから動揺を取り繕って声をかける。少し震えてしまった息が、ざわめきにかき消されることを願いながら視線を泳がせると、ローガンは「いや」と小さく呟いた。
「いいパーティーだなと思った」
「ああ、そう。そりゃ良かった。あんまりお上品なメンバーじゃないけど、アンタも人のこと言えないもんな。ええと、ピザ食ってる?」
「ああ」
 早口で言ったウェイドはローガンの答えをほとんど聞かないまま腰を浮かせると、ヤケクソのような大声で「ウルヴァリンに乾杯!」と叫んだ。調子のいい仲間たちが「乾杯!」と答えてグラスを掲げ、どっと笑い声を立てる。その賑わいから逃げるように背中を向けて、ウェイドは急ぎ足でキッチンへと駆け込んだ。
「なん、なんだよ、アレ。どういう感情? どんな気持ちになったらあんな顔で、このアボカドゾンビ顔を見つめられるわけ?」
 とても心の中には留めておけなかった言葉をブツブツと呟きながら、冷蔵庫からビールを取り出す。乱暴な手つきでグラスに注ぐと勢いよく泡が立ち、溢れた液体が手を伝い落ちた。くそ、何もかも上手くいかない。これもぜんぶローガンのせいだ。瓶とグラスを一度シンクに置いて、キッチンタオルで床に落ちた水滴を拭う。丁寧な生活をしているわけではないが、誰かが転んだり、メリーが舐めたりしたら良くないからだ。
「ウェイド?」
 少しべたつきの残った床を確かめていると、頭上から鈴を転がすような声がした。顔にかかった細身のシルエットを辿って見上げれば、其処には天使が立っている。
「ああ、やあ。……お代わりしに来た?」
 曖昧に微笑んで問いかければ、綺麗に口角を上げたヴァネッサが頷く。それを見て、ウェイドは大分中身の残ったままだったビールの瓶を取り上げた。先程とは打って変わった丁寧な手付きで瓶を傾けると、シュワシュワと音を立てながら小麦色の液体が注がれていく。狭いキッチンに満ちた沈黙に、さて、次に何を言ったものか、と考えていると、彼女の方が先に「ねえ」と口火を切った。
「あの色男さんとは何処で出会ったの?」
「ん、まぁ色々あってさ。ここじゃない、別な世界で出会ったんだ。それで、組んず解れつの大冒険をして……、あ、エッチな意味じゃなくてだけど」
「そうなの? もうとっくに一線は越えてるのかと思ったわ」
 ウェイドが無言で顔を上げる。傾けすぎている瓶をウェイドの手から引き取ったヴァネッサは、チャーミングな微笑みを口元に浮かべて小首を傾げた。
「皆に新しい彼氏を紹介しようと思ったんじゃないの?」
……違うよ!」
 たとえそうだったとしたら、直近の元カノであるヴァネッサに一度お伺いを立てている。それくらいの気遣いはウェイドにだってできるし、そうじゃなくて、なんだって!?
「違う、ロ、彼は、そんなんじゃなくて。なぁ、からかうにしたって度がすぎるって!」
「あら、本当に違うのね。それなら、彼のあの眼差しはどういうことかしら?」
 顔が熱い。ドクドクと心臓が大きな音を立てている。小声で叫びながら肩で息をしているウェイドとは対照的に、いたく涼しい顔をしているヴァネッサは、細く長い指を伸ばしてツン、とウェイドの鼻を突いた。
「気付いてるのなら、ちゃんと応えてあげなきゃ。私は二人のこと、応援してるわ」
 言うだけ言ってくるりと踵を返し、艷やかな黒髪を揺らして去っていった背中を呆然と見つめ、ウェイドは「なんなんだよ……」と呟いた。そのままヘナヘナと床の上に座り込み、両手に顔を埋める。
 いつから。いったいいつから、彼はあんな眼差しで自分のことを見つめていたのだろう。ウェイドが気付いたのはつい先程のことだったけれど、きっと、もっと前からだ。あんな瞳で此方を見ている男を、隣に侍らせて、ご近所中を連れ歩いて、旧友に引き合わせて――何よりマズいのは、ウェイドが「そう」思われること自体に忌避感は全くないのだけれど。ローガンが「そう」でなかった場合には、とてもこの辺りに住み続けることは出来ないだろうこと。ウェイドがしたつもりの気遣いが軒並み裏目に出て、作ってやりたかったローガンにとっての居心地のいい環境が、この世界にすら無くなってしまうことだった。
 真意を聞きたい。聞けない。聞きたくない。相反する感情が胸の中で暴れ回っていて、呼吸をするのも苦しいほどだった。このまま全てを無かったことに出来ないだろうかと考えて、ぎゅっと強く目を閉じる。瞼が熱い。だって、ウェイドの方はとっくにローガンを手放せなくなっていて、今の日常が少しでも長く続いてほしいと願っているのに。
 キッチンの床に蹲ったまま、どれくらいの時間が経ったのか。不意にチャカチャカと軽い足音が耳に届いた。ゆっくりと顔を上げると、目の前で仁王立ちをしている子犬がフスンと鼻を鳴らす。
「メリーたん。どしたの? あんまり遅いから様子を見てこいって、誰かに言われた?」
 小さな口から盛大にはみ出している舌を撫でると、チャカチャカと音を立てて歩み寄ってきたメリーは器用に後ろ足で立ち上がり、両の前足でウェイドの脛を掻いた。思わずため息のように笑みを漏らして、ふと足首を捕まえていた絶望の波が引いていることに気が付く。
 ――まぁ、いいか。今すぐに世界が終わるってわけでもないんだし。
 網膜に焼き付いたローガンの表情をどうにか頭の片隅に押しやって、ウェイドはひとつ深呼吸をした。それから片手で子犬を抱え、片手に自分のグラスを持とうとして、そういえばローガンのグラスも殆ど空になっていたことを思い出す。
 今日の主賓ということもあり、しょっちゅう誰かから話しかけられているから、席を外せなくなっているのかもしれない。そういうところ、案外律儀だもんな。そう思いながらローガンの分の瓶を冷蔵庫から取り出して、器用にグラスと一緒に掴んだウェイドが自席に戻ると、果たしてローガンは何やら質問攻めに遭っているようだった。
「ほらほら、一旦解散! ローたんは三度の飯より酒が好きなんだから、少しは飲む時間を与えてやらないと。禁断症状でバイブみたいに震えてるウルヴァリンなんて、皆も見たくないだろ?」
 ウェイドが言うと、やけに素直に群衆が散っていく。「ほら」とよく冷えた瓶を渡したウェイドを見上げ、ローガンは「ありがとう」と微笑んだ。やっぱり見たこともないような、愛おしむような眼差しで。
「なあ、ウェイド」
 片手にメリー、片手にグラスを持ったまま何の苦労もなく席に着くことが出来たのは、ローガンが紳士的に椅子を引いてくれたからだった。ウェイドがありがたく腰掛けたあとも、なぜか背もたれに腕を残したままのローガンが、声を潜めて呼びかける。
「なに?」
 すっかり油断したままで声のする方を向いたウェイドは、その場でぴしりと動きを止めた。金縛りにでも遭っているかのように動かない体の中で、バクバクと心臓の暴れ狂う音が耳鳴りのように響いて、部屋に満ちているはずのざわめきが一気に遠ざかる。シャツの下にじっとりと汗が噴き出しているような気がして、今すぐにでも腰を浮かせて逃げ出したいのに、目の前の男に吸い寄せられた視線が離せない。
 まるで、キスでも出来そうな距離だ。真っ白になった頭が絞り出した思考は、それだけだった。
「礼を言わせてくれ」
 ぐるりと髭で囲まれた、薄いサーモンピンクの唇が動く。ローガンが声を発してから、数拍遅れてその内容を理解したウェイドが大きく瞬くと、男はそっと口端を持ち上げる。目尻に寄った笑い皺がひどく優しげに見えて、胸郭がきゅうっと狭くなった。
「れい、? なんの……?」
 辛うじて絞り出した声は、どうにか相手の耳に届いたようだった。ローガンが身を乗り出すと、その尻の下で木製の椅子が軋む。耳元と頬をチクチクした髭の感触が掠めて、酒の匂いを含んだ吐息が荒れた肌を擽っていった。
「     」
 ――ふと指先に冷たさを覚えて視線を落とすと、膝の上に大人しく座っているメリーの長く垂れた舌から滴った涎が、手の甲を伝って太腿の上に散っていくところだった。遠のいていたざわめきが戻ってくる。べっとりと濡れた手をシャツの腹で拭って視線を戻すと、ローガンは非の打ち所のない精悍な顔の残像をウェイドの視界に焼き付けて、何事もなかったかのように体勢を戻した。
 隣りに座るローラにローガンが何事かを囁く声を聞きながら、ウェイドは軽く持ち上げたメリーの後頭部に鼻先を埋めた。男の表情が焼き付いたままの目を伏せて、嗅ぎ慣れた、少しべとついた獣の匂いを深々と吸い込む。そうでもしなければ、ほんの一瞬だけ鼻腔を擽った男の匂いにふらふらと引き寄せられて、甘ったるい夢の中に閉じ込められてしまいそうだった。
 まさか、キスしてるように見えたんじゃないだろうな。ふと胸の内に沸き上がった疑念を、ウェイドは出来うる限りの無表情で握り潰す。紅潮した顔で、水気の増した瞳でそう言っても、説得力はないかもしれないけれど。今はまだ、ローガンとは気の置けない友人同士であるという幻想を、誰よりもウェイド自身が――もう少しだけ、信じていたかった。




お借りした御作品↓↓↓

めかぶ様(@otamekabu)、ありがとうございました!