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やまだ
2026-06-05 12:47:25
3448文字
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無双オリジンズ
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惇紫 仲がいいわねという話
一瞬、水榭の陰で二頭のおおとりが休んでいるのかと思った。
だが夏侯惇が改めて隻眼を凝らせば、長椅子に身を寄せあう影のひとつは紫鸞だった。昨夕に涼州から許都へ戻ってきた彼は随分くたびれており、そのまま城に泊まったのだ。手配をしたのは夏侯惇で、そのとき紫鸞は間違いなくひとりだった。
あのような白髪の、互いの肩や額を密着させて親しげに何やら囁きあう男など、間違いなくいなかった。
「紫鸞」
早朝の、霧がうっすら流れるような水辺だ。夏侯惇の声もよく通る。呼んだのは紫鸞のみのつもりだったが、彼と寄り添っていた男も同じ動きでこちらを振り返った。武器に手をかけて近寄る夏侯惇へ蓬髪の隙間から突き刺さる視線はするどく、険しく、暗い敵意と警戒心に満ちている。
次の瞬間、白髪の男はひらりと立ち上がった。
「では私は行く。紫鸞よ、そこな男はおまえが抑えよ」
「まだ時間はあると
……
」
「あの男が来た時点でそのようなものはなくなっている」
名残を惜しんでいるのは紫鸞のほうらしかった。表情を殺した白髪の男は夏侯惇が水榭へ歩み寄るごとに気配を薄く、今にも空へ飛び立とうとしているのに、紫鸞が男の袖を額に押し当てて離れようとしない。しまいには男が溜め息と共に袖を引き抜いた。
「放せ。
……
再びまみえることがないよう、願っている」
「白鸞殿」
「紫鸞。その男は何者だ。なぜ城内にいる」
不審者の存在と、珍しくおろおろとうろたえる紫鸞の様子が、夏侯惇の口調をきつく尖らせたらしい。自覚よりもかなり強い声が出た。
「惇兄」
と、紫鸞が肩を強張らせたときには、知らぬ香りだけを残して男は池に囲まれた水榭から消え失せている。
ほんの一瞬だけ、夏侯惇の視界の隅を銀の帯留めと赤い帯がよぎったような気もする。それらを目で追っているような紫鸞の横にどかりと腰かけた。肩が当たり、その衝撃で紫鸞が夢から醒めたように夏侯惇を捕らえる。ばつが悪そうに顎を引こうとする男の鼻をつまみ上げ、強制的に顔を上げてやった。
「おまえの説明如何では孟徳へ報告せねばならん。それを十分理解した上で答えろ。あれは何者だ」
味方とはとても思えなかった。鸞の帯留めを腰から下げた白髪の若い男を、かつて戦場で見かけた覚えがある。曹操の喉元まで迫ってきたこともあったはずだ。凶刃の向こうでぎらぎらと輝く瞳も、先ほどのような暗い敵意で燃えていた。
「鼻がもげる」
夏侯惇の手を払いのける紫鸞の指先が冷えきっている。いったいいつから水榭で風に当たっていたのか。
聞きたいことが山ほどある気がする。そして、そのすべてに口にする価値などないような気持ちにもなっている。夏侯惇が唇を引き結んでじっと窺う紫鸞は、ひとの気も知らずのんきに鼻などさすり始める。
「殿への報告は、むしろ望むところだった。惇兄が話を通してくれるならありがたい」
「どういうことだ」
紫鸞は今の空と同じ色をした瞳を眇め、霧にすら話を聞かせたくないと言わんばかりに声を低くした。
「あの人は涼州に立った煙について報せてくれたんだ。
……
衛尉殿の嫡子が、実父を切り捨ててまで火を起こそうとしている」
「馬騰の息子
……
」
「馬超」
「そんな名だったか」
せめて赤壁の戦と同時でなくてよかったと言うべきだろうか。だが先の大戦で削られた兵力を思うと、あまり正面きって戦いたくはない相手だ。北の騎兵は精強だ。
「時期はわからんのか。もう少し情報が揃わんと動きようがないぞ」
顎髭を撫でつつ紫鸞の瞳と同じ色の空を見上げる。もしも馬超の熾した火が曹操の袖を焦がすようなことになれば、馬騰も刑されるのだろう。北の空は遠く、彼の地でくすぶる策謀を垣間見ることもかなわない。
「
……
信じてくれるのか」
紫鸞のおっかなびっくりの声がする。風が吹き、周囲の霧をゆるりと揺らした。
「紫鸞、まだ俺の問いに答えきっておらんな。あの男はいったいなんなのだ」
「あの人は
……
」
「おまえと同郷の者であることくらいは知っている。だが、かつて敵だった者のはずだ。城内に招き入れる判断をした由と、おまえとの関係を述べてみよ」
霧の中に赤い帯がたなびく。その先端から視線を下ろしていくと紫鸞の腹があり、肩があり、声なく苦笑する顔がある。いたずらを隠しきれずに叱られる子のような面だ。
「あの人は白鸞という。俺との関係は
……
あなたにとっての殿のような存在である
……
はず、だった」
「だった?」
「俺が過去を忘れさえしなければ、きっと今はあの人の近くにいただろう」
首を竦めながら、口調は軽いものの、白鸞なる男の袖をとって頭を垂れていた姿を目にしている夏侯惇にはどうにも落ちつかない話だ。自由にしてよいと言ったのはこちらで、それによる益も十分に受け取ってはいるのだが、あれほどの忠心が曹操に向けられるところを見たことがない身としては少々複雑な部分がある。
「なぜ城へ入れた。孟徳に何かあればどうするつもりだったのだ」
「外で話していい内容ではなかったからだ。それに、あの人が殿に危害を加えることは、今はない」
「断言するのか」
しっかりと頷く姿にも白鸞への信頼が滲む。知らず夏侯惇は眉を寄せており、勘違いした紫鸞が慌てたような早口で言い添えた。
「もし白鸞殿の気が変わることがあったとしても、俺にはあの人の気配が視える。止める。必ず」
それが虚言ではないことくらいは夏侯惇にもわかるのだ。だが、だからこそ困惑する。心の底から信頼しているらしい相手へ同じ口が討伐を断言するのだ。何物にも縛られない自由さは紫鸞の長所だが、同時に複雑すぎる精神のありように理解が及ばない。
「
……
それでよいのか、おまえは」
「
……
惇兄。俺は太平の要なのだろうが、それ以前に今は曹孟徳の臣だ」
朝日が紫鸞の頬を温めている。霧が薄まり、周囲も明るくなってきた。
紫鸞はよく眠れたのだろうか。こちらを見上げる彼の目の下に、色濃い影を落とす隈がある。ふと夏侯惇はその影が気になった。
「あの人は今回、本当にたまたま俺に情けをかけてくれたんだ。おそらくもう
……
会うことも、ないのだろう」
伏し目になると隈がいっそう目立つので、夏侯惇はついそこへ手を伸ばす。薄い皮膚を親指でぬぐってみても、無論それで隈が取れるわけもない。紫鸞がもの問いたげに瞼を上げたが、嫌がりはしないのでそのまま親指を往復させる。
「寂しがりが。どうせならば白鸞とやらもこちらへ引き込めばよかったではないか」
「断られた。数年前に」
「なんだ、そうなのか」
うん、と頷いた紫鸞の体が傾く。額を夏侯惇の肩に押し当てて、丸くなった背中が静かに上下した。
「寂しがりか
……
惇兄は俺のことをそんなふうに思っていたのか」
「違うと言ってみるか? おまえほど他人の気配を好んで近寄る男もそうないと思うが」
「そうする相手は選んでいる」
「どうだかな」
丸い背中を数回叩く。自分がそうしてやると紫鸞の呼吸が深くなり、瞼が重くなるのを夏侯惇は知っている。
「少し寝ておけ。どうせ昼までは孟徳も忙しい。報告はおまえが起きてからでよかろう」
「白鸞殿のことは
……
」
「おまえの好きにしろ」
ふっ、と夏侯惇の肩の下から笑声がして、もたれかかってくる重さが増した。眠そうな声でもごもごと礼を言われる。
「では、好きにする
……
」
一瞬、水榭の陰で二頭のおおとりが休んでいるのかと思った。出仕前に頭を覚醒させようと逍遥していた郭嘉の目にはそう見えたのだ。だが瞬きののち改めて目を凝らせば簡単に正体が知れ、思わず笑ってしまう。
「あっははあ」
足の止まった郭嘉を訝ったのか、隣から同じ方向に目を向けた賈詡もにやっとする。
「どうにも、剣呑ながらも微笑ましいねえ。さながら鷹の親子ってところか」
「遠回りをするべきではなかったかな。彼らの邪魔をしてしまったかもしれないね」
「邪魔にすらならんと思うがね。どうせ気づいちゃいないんだから」
そんな憎まれ口を叩きながらも、賈詡は郭嘉より素早く踵を返すのだ。それがまた郭嘉の微笑を誘う。
池を渡る風が薄い霧をかき混ぜ、水榭に憩うおおとりの赤い尾羽をたなびかせた。それを一瞥し、郭嘉も賈詡に続く。野暮をするのは郭嘉の趣味ではないのだ。
水榭の長椅子で、熟睡しているらしい紫鸞を腕の下に抱えこんだ夏侯惇がうとうとと船を漕いでいる。
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